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『ドラゴンに転生したので、人間の国を育てることにした ~黒パン半分の恩返しから始まる竜王建国記~』  作者: あちゅ和尚


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第86話 退いた軍が、残したもの

 東へ向かった荷車のあとから、歩兵の列が動き始めた。


 前へ出ていた盾兵が一度に背を向けたわけではない。弓兵を残して少しずつ下がり、荷車が進んだところで、さらに後ろの組と入れ替わる。畳まれた天幕が運び出され、大きな旗も、立てていた場所から東へ移った。


 俺は高度を保ったまま、その動きを追った。


 空になった陣へ戻る者はいない。荷を取りに引き返した兵も、仲間に急かされ、最後は抱えていた木箱を道端へ置いた。進むために集めた備えを残し、持って動ける分だけで帰ろうとしている。


 街道の先から角笛が鳴ると、後ろに残った射手たちが空を見上げた。


 俺が追ってくることも、考えているのだろう。木陰を使って移動しながら、弓だけはこちらへ向けている。その少し先では、荷車の両脇に盾が並べられていた。


 退き始めたからといって、戦えなくなったわけではない。


 それでも、セドルへ向かっていた軍が反対へ動いている。何度押し返しても戻ってきた列が、今は後ろへ下がるために、人と馬を使っていた。


 俺はそこで町へ引き返し、ガレスへ知らせた。


     ◇


「旗も動いたのなら、荷だけを退けたんじゃないな」


 ガレスは報告を聞き終えると、東の持ち場へ伝令を走らせた。退いた敵を追って列を崩さないこと、森へ入った兵を一人ずつ追い回さないことを伝えさせる。


 待っていた兵の一人が、握っていた槍を持ち直した。


「今なら、こちらから押せるのではありませんか。昨日までの分を、そのまま返す機会だと思います」


「向こうは、追ってくる相手を射つための弓を残している。俺たちまで走って疲れる必要はない」


 ガレスは兵の肩越しに、担架を運ぶ者たちを見た。


「ここを通さずに済んだ。まだ助かる味方を、追撃のために後回しにはせん。退路へ伏せてあるものを踏んで、怪我人を増やすこともない」


 兵は口を結んだが、やがて槍を地面へ立てた。その隣では、包帯を巻いた腕を吊っていた男が、ようやく盾を下ろしていた。


『俺が、列の最後を見てくる。戻ってくる部隊がいれば知らせる』


「頼む。ただし、退く者を全部止める必要はない。西へ残った敵がいないか、そちらも見てくれ」


 ガレスが指したのは、街道の両脇にある林だった。


 正面の旗が退いても、木の下へ散らした兵まで同じ速さで戻れるとは限らない。北の荷を止めた時にも、人間は林へ逃げている。俺は見えたものを見えた範囲で伝えると約束し、町を離れた。


 エルマーはすでに、戻ってきた見張りと話していた。荷を回収するための人員と、怪我人を運ぶための人員を、同じ組で数え直している。


 こちらにも、余っている手などなかった。


     ◇


 街道へ戻ると、敵の最後尾は先ほどより東へ移っていた。


 道端には折れた槍の柄と、荷を縛っていた縄が落ちている。鍋らしいものまで転がっていたが、そこへ降りる必要はない。俺は少しずつ高度を落とし、木々の切れ目から、退いた列の後ろを確かめた。


 途中で、動かなくなった荷車を見つけた。


 片側の車輪が傾き、荷台の端が地面についている。前へ繋がれた馬は立っていたものの、引こうとするたび車が斜めに軋み、進めない。その傍で、二人の人間が荷台へ手を掛けていた。


 鎧も武器もなく、一人は粗い上着の袖を肘まで捲っている。もう一人は小柄な男で、馬の腹の下へ手を伸ばしては引っ込めていた。兵にしては身なりも動きも違う。


 荷台には、横たわる人間が二人いた。


 俺が翼を傾けたところで、街道の先にいた弓兵たちが足を止めた。まだ近くに残っていた最後尾の組だった。十人ほどが盾の後ろへ寄り、そのうちの数人が俺へ弓を向ける。


 俺は荷車から離れた場所へ降りた。


 地面へ脚が着いた途端、馬が首を振り、車を引こうともがいた。傾いた荷台がもう一度揺れ、上から呻き声が漏れる。


『馬を引くな。車輪が倒れかけている』


 声をかけると、袖を捲った男がこちらを振り向いた。顔から血の気が引き、荷台を押さえていた手まで離しかける。


『車を倒すつもりはない。荷台にいるのは、怪我人か』


「……脚をやられた兵です。こっちの一人は、起き上がれません」


 男の声は掠れていた。俺と、東へ下がった兵たちを交互に見ている。


「俺たちは、馬を引けと言われて連れてこられただけで……村へ戻るにも、あいつらを道へ落としてはいけないと思って」


 荷台の上で、兵の一人が腕を動かした。剣を探したようにも見えたが、その手は腰へ届かず、板の上へ戻った。


 俺は東へ顔を向けた。


 弓兵はまだこちらを見ていたが、荷車の方へ戻ってはこない。盾を持った男が後ろへ声をかけると、何人かが順番に下がり始めた。


 あの二人を助けるために残ったのか、俺を警戒して止まっただけなのかは分からない。だが、このまま馬が暴れれば、荷車は先に倒れる。


 俺は翼を身体へ寄せ、荷台の低い側へ近づいた。


     ◇


 最初の矢が、肩の鱗へ当たった。


 乾いた音がして落ちたものの、身体は止まらない。俺は東側へ厚い胴を向け、翼を畳んだまま、顔を射手から遠い側へ引いた。胴の鱗なら受けられるが、頭を下げたところへ射られるのは困る。


『こいつらを運び出す。そちらへは行かないから、射つな』


 向こうから怒鳴り声が返ったが、言葉までは聞き取れなかった。もう一本が背へ当たり、その次は近くの土へ刺さる。


 俺は腹の奥へ力を込め、低く吠えた。


 馬の脚が震え、荷台の男が身を伏せる。しまったと思ったが、東側の射手も弓を下げて盾の後ろへ入った。反撃されると考えたのか、彼らは荷車からさらに距離を取る。


 炎を吐くつもりはなかった。道端には刈った草が積まれ、その先を怪我人の乗った車が通っている。今ここで焼いて得られるものより、こちらの荷台を支える方が先だった。


『驚かせた。手綱を短く持って、馬の顔を俺から逸らしてくれ』


 袖を捲った男が、震える手で手綱を取った。小柄な男もその肩へ手を添え、二人で馬の頭を反対へ向ける。


 俺は荷台の下へ前脚を差し入れた。


 板を爪先で突けば、中の人間まで傷つけかねない。車台の太い横木へ脚を当て、崩れた側の重さを受ける。少し持ち上げるだけで、傾いていた車が大きく揺れた。


 上の兵が声を上げ、もう一人が歯を食いしばる。


『この高さで止める。馬を外して、車が動かないようにしてくれ』


 小柄な男が馬の後ろへ回った。さっきは張りつめて抜けなかった留め具が、荷台を支えられたことで緩んでいる。紐を外し、竿をずらすと、ようやく馬だけを離せた。


 東側では、盾の列がまた動き始めていた。


 射手も仲間を追って下がり、最後の一人が何度かこちらを振り返った。背を向けたところへ追いかければ届く。だが、前脚を外せば、今度こそ荷台が落ちる。


 俺はその場で、車の重さを受け続けた。


     ◇


 人の声が西から聞こえたのは、腕の置き方を変えたくなったころだった。


 ガレスが出した確認の兵たちが、街道をこちらへ進んでいた。俺の姿と、傾いた車の下に入っている前脚を見て、先頭の男が駆け出す。


「担架を二つ! 先に車の上を空けるぞ!」


 荷台へ手を掛ける兵が、横たわっていた男の腰を確かめた。剣帯を外して別の者へ渡し、もう一人の兵には両手を見える位置へ置かせる。


「武器は預かる。運んでいる途中で暴れるな。自分の傷が広がるだけだ」


 負傷兵は頷こうとして、眉を寄せた。唇だけが動いたが、担架を運んできた男には届かなかったらしい。


 俺にも、礼だったのか、水を求めたのかまでは分からなかった。


 最初の一人が荷台から下ろされると、車が少し軽くなった。次の一人は脚を動かしただけで息を詰め、運ぶ兵たちもそこで手を止める。布を足し、膝の下を支え直してから、少しずつ担架へ移した。


 空になった荷台へ、俺はようやく目を向けた。


 残っているのは薄い敷物と、水の入った小さな革袋だけだった。二人を置いていった者も、何もかも取り上げて去ったわけではないらしい。


 それでも、壊れた車と村人の腕だけでは、ここから動かせなかった。


『下ろすぞ。車の下には入らないでくれ』


 車輪から離れるよう声をかけ、横木をゆっくり地面へ戻す。傾いた車が土へ落ち着くと、前脚に残っていた重さが消えた。


 袖を捲った男が、その場へ座り込んだ。


「置いて逃げればよかったのかもしれませんが、呼ばれると……どうにも、足が動かなくなって」


『逃げられなかったことを、今責めるつもりはない。歩けるなら、馬を連れて西へ戻ろう』


 男は顔を上げ、連れの方を見た。小柄な男も荷台ではなく、馬の手綱を握り直している。


「村へ帰る道を、あとで教えてもらえますか。ここまで来る間、何度も違う道を通されて、自分たちでも……」


「その話は、休んでから聞く。帰る先を確かめる者はいるから、まず一緒に戻ってくれ」


 兵の一人が答え、水筒を差し出した。


 二人の村人と、敵の負傷兵を乗せた担架が西へ向かう。俺は壊れた車の傍へ残り、東へ退く最後の盾が見えなくなるまで、その背中を見送った。


     ◇


 日が落ちる前に、グランツ軍はセドルを望める場所から離れた。


 前へ出ていた兵がいなくなり、大きな旗も見えない。林へ残った小部隊については地上の見張りが確かめ、フェルゼン側へ続く道には、撤退する兵と荷の動きを伝える使いが走った。


 俺が見た範囲を伝えると、ガレスは長く息を吐いた。


「町の前からは、退かせたな」


 その声で、近くにいた兵の一人が槍の石突を地面へ下ろした。別の男は座ろうとして、膝から力が抜けたように腰を落とす。


 ガレスは立たせなかった。水を持ってくるよう言い、残す見張りと休ませる者を分けていく。


 その横を、担架が運ばれていった。


 寝ているのがグランツ兵だと分かり、味方の男が顔を強張らせる。包帯の下から血の染みた腕を押さえながら、担架の行く先を目で追っていた。


「こちらにも、まだ手当てを待っている者がいるでしょう。あいつらまで、同じところへ入れるのですか」


「先に武器を取り上げて、見張りを付ける。手当ては傷の重さを見て決める。立てなくなった相手を、道端へ戻すことはせん」


 ガレスは男の腕を見て、近くの兵を呼んだ。


「こいつの布も取り替えろ。外へ出す仕事は回すな」


 男は何か言いかけたが、自分の腕から落ちかけた布を見て口を閉じた。担架の後ろからついてきた村人たちは、壁際で足を止め、誰へ話せばいいのか分からない顔をしていた。


 エルマーが二人を呼び、座れる場所を指した。


「村の名と、連れてこられた道を教えてくれ。話せるところだけでいい。帰り道がまだ危ないなら、今夜はここで休んでもらう」


 小柄な男が、座る前に何度も頭を下げた。その手から馬の手綱を受け取った兵が、飼葉の置いてある方へ歩いていく。


 俺は邪魔にならない場所まで下がり、前脚を曲げた。


 荷車を支えていた方へ、土と木屑が張りついている。爪の間に挟まった欠片を地面へ擦りつけていると、ガレスがこちらへ来た。


「追わずに残ってくれて、助かった。あの車まで引かせたら、運び出す前に夜になっていた」


『俺が持っている間に、人を下ろしてもらえたからな。ああいう仕事は、俺だけじゃ終わらない』


 ガレスは俺の前脚を見て、口元を緩めた。


「今日はもう、東へ飛ばなくていい。遠い道はフェルゼン側へ知らせた。町の近くは人間が見る」


 俺は翼を畳み直し、町の方へ顔を向けた。


 水桶を運ぶ者と、空になった担架を持って戻る者が、門の傍ですれ違う。その間を、鍋を抱えた女が足早に歩いていた。


 遅れて、煮炊きの匂いが風に混じった。


 ガレスの腹が鳴り、本人が少しだけ目を伏せたので、俺は笑った。


『先に食ってこい。見張りを替える時に、お前が立てなくなったら困る』


「お前に言われると、言い返しにくいな」


 立ち去りかけたガレスを、エルマーが呼び止めた。片手には椀を二つ持っている。


「話の続きをするなら、食べながらにしてくれ。冷めてから文句を言われても、温め直す手がない」


 ガレスは素直に片方を受け取った。


 俺も身体を伏せ、首を楽な位置へ下ろす。東の空へ向き直ろうとしたところで、門の内側から、別の兵に呼ばれた。


 大きな鍋の傍に、俺の分らしい肉と骨が置かれていた。



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