第85話 荷車の通れない道
尾根の向こうを抜ける馬の列は、俺が回り込む間にも西へ進んでいた。
背に人を乗せているのは先頭と最後尾だけで、その間の馬には袋や木枠が括りつけられている。枝が荷へ触れるたび、傍を歩く兵が手で押し退けた。車輪の通る幅はなくても、馬を一頭ずつ引けば抜けられる道だった。
荷車では通れない先へ、運び方を変えて進もうとしている。
捕獲用の網を運んでいた時より、荷の姿が低い。上から隠れるように林へ寄り、木々の切れたところだけを急いで渡っている。先ほど見えた煙も、彼らが休んだ場所に残したものらしかった。
俺の横で、ガルが翼を傾けた。
首から胸へ走る古傷と、欠けた翼の端が光を受ける。名を呼んだところで、俺の考えまで伝わるわけではない。《魔獣感応》に触れるのも警戒と苛立ちが中心で、その目は馬よりも、荷の上から突き出た棒へ向いていた。
棒の先に、束ねた網が見える。
戦う兵の食料と一緒に、まだ魔獣を捕らえる道具まで運んでいるのだろう。ガルが喉を鳴らして高度を落としかけたので、俺はその進路へ入らないよう横へ離れた。
『俺は人間に知らせてくる。あの荷は、西へ通したくない』
声とともに、西への警戒を意識する。だが、ガルは俺を見たあと、すぐ林へ顔を戻した。分かったと受け取るには、あまりに曖昧な反応だった。
俺は山の見張り所へ向かい、ガルは馬の列が見える尾根の上へ残った。
◇
フェルゼン側の見張り所では、網を切るのを手伝ってくれた年嵩の兵が、俺の示した方角へ目を向けた。
「その道なら、先に沢の狭いところを渡ります。馬は通れても、荷を積んだまま二頭並べる幅はありません」
『先頭はまだ、その東側だ。人間は二十人ほど見えたが、木の下までは数えられない』
「こちらだけで正面からぶつかる人数ではないな」
兵は仲間を呼び、沢の渡りから下りてくる道を確かめた。逃げる村人や薪を運ぶ者がいないか聞いてから、二人を先へ走らせる。
「道を使っている者がいたら、先に退かせろ。敵を見ても仕掛けるな」
『俺が列を止める。逃げて武器を捨てた者まで追うつもりはないから、こちらへ来たら捕らえてほしい』
「承知しました。ただ、森の中まで散られたら全部は拾えません」
『それでいい。兵を一人残らず捕まえるより、荷を西へ出さない方を優先する』
年嵩の兵は頷き、別の一人にガレスへの伝言を託した。沢を塞ぐための兵まで、セドルから今すぐ呼ぶ必要はない。近くにいる者が道を押さえ、俺は馬の列へ戻る。
地面を蹴って上がると、尾根の向こうでガルが大きく旋回していた。先ほどより高く飛んでいるのは、地上から弓を向けられたためらしい。木々の切れ目にいた射手が、次の矢を取り出すのが見えた。
ガルは離れなかったが、木の下へも降りなかった。
網へ近づけば何が起こるか、その身体で覚えているのかもしれない。
◇
俺は馬の列を越え、沢の西側へ回った。
水は浅いが、渡れる場所は石の間に限られている。上流は岩が重なり、下流は岸が高くなっていた。馬を引く兵は、袋を濡らさず通せる場所を選んだのだろう。
その先の道に人がいないことを確かめ、俺は木々の外へ降りた。
足が地面を受けると、湿った土が沈み、小石が沢へ転がった。翼を畳んでも、道の幅から肩がはみ出す。前へ伸ばした首だけで、渡りの出口を塞げるほどだった。
先頭の馬が足を止めた。騎手が手綱を引き、後ろへ大きく腕を振る。
「戻せ! 荷を詰めるな!」
前を止められた列が、木々の下で縮む。後方へ知らせる声が続き、兵たちは馬を寄せ、荷の紐を押さえながら場所を空けようとしていた。
山の細道では、向きを変えることにも時間がかかる。
『馬から手を離して、武器を置け。荷は、ここから西へ通さない』
正面にいた兵が俺を見上げ、弓へ手を伸ばしかけた。隣の男がその腕を押し下げる。
「胸を射っても無駄だ。木の下へ入れ。荷を外して、東へ返せ!」
声を聞いて動いた者たちが、馬の腹の下へ手を回す。戦うための荷を守るより、馬だけでも連れ帰る判断だった。
俺は沢へ踏み込まず、道の出口を塞いだまま待った。人馬が固まったところへ翼を振れば、袋だけでなく馬の脚まで折りかねない。
敵は俺が動かないのを見ると、岩陰へ射手を寄せ始めた。弓の先が胸から顔へ移る。俺は顎を引いて額の鱗を射手へ向けたが、横手から飛んだ一本が口の近くを抜けた。
次の数本は肩へ当たり、鱗の上で弾けた。
痛みより、硬いものをぶつけられた感触が残る。だが、同じ矢でも目に受ければ違う。俺は頭を上げ、正面の射手へ息を吸い込む動きを見せた。
男たちが木の陰へ身を伏せる。その間に、馬の傍にいた兵が縄を引いた。
荷の上から、網が滑り落ちた。
俺の頭へ投げる距離ではない。沢の手前へ広げ、進んできた脚へ絡めるつもりらしかった。もう一人が、縄の端を太い木へ回している。
降りてきた竜を捕らえる道具を、道を塞いだ竜への足止めに変えたのだ。
俺は足を止めたまま、その手元を見た。網を張って守ろうとしているのは荷ではない。東へ引き返すまでの時間だった。
◇
上からガルの鳴き声が落ちてきた。
兵が空を見上げた隙に、欠けた翼が木々の上を横切る。ガルは馬の列へ突っ込まず、少し離れた切り株の脇へ降りた。そこには荷から外された網と、長い棒がまとめて置かれていた。
棒へ手を伸ばしかけた兵が、身体を投げ出すように逃げた。ガルの脚が木枠へ落ち、縄を巻いた横木が折れる。
俺を助けようとしたのか、自分を捕らえる道具を壊したかったのかは分からない。ただ、《魔獣感応》へ伝わる強い警戒は、逃げた男と、その手元の棒へ向いたままだった。
後ろの馬が驚き、荷を木へ擦りつけた。紐が切れて袋が落ち、白っぽい粒が土へ散る。兵たちは馬を宥めようと手綱を掴んだが、前と後ろから大きな獣に挟まれ、列を保てなくなっていた。
「馬を放せ! 林へ入れ!」
先頭にいた男が叫んだ。
何人かは荷を諦めて木々の間へ走り、別の者は弓を持ったまま沢を渡ろうとした。俺は渡りの西へ前脚を置き、彼らの行く先を塞ぐ。
『武器を捨てるなら、そこで止まれ。川へ入っても、西には抜けられない』
一人が弓を投げた。後ろの男も剣帯を外し、両手を上げる。
槍を握ったままの兵が、その二人を押し退けて進もうとしたが、俺が鼻先を向けると足を止めた。槍の穂先は俺の胸にも届かない。その先へ進めば、立っている場所ごと押し潰されると分かったらしい。
槍が水際へ倒れると、後方から笛が鳴った。
見張り所の兵たちだった。木の陰から姿を現した年嵩の兵が、武器の落ちている場所を確かめ、仲間へ声をかける。
「手を見えるところへ置け。一人ずつ、こちらへ渡れ。まだ武器を持っている者を混ぜるな」
俺は頭を上げ、降伏した兵が動けるだけの場所を空けた。人間が手を縛り、捨てられた弓や剣を離していく間も、東側の林からは枝の折れる音が聞こえていた。
逃げる全員を止めることはできない。だが、馬の背から落ちた荷を持ち直す者は、もういなかった。
◇
残った馬を確保するのは、兵たちの仕事になった。
俺が近づけば、せっかく落ち着きかけた馬がまた暴れる。沢から離れた場所へ下がると、ガルも壊した木枠の脇から首を持ち上げた。
兵が縄を持って歩き出した途端、ガルの翼が少し開く。
『馬を繋ぐための縄だ。お前へは使わせない』
そう声をかけても、ガルの目は縄を追っていた。俺は兵に手を止めてもらい、ガルがいる場所から離れた馬から連れていくよう頼んだ。
捕らえる道具と、逃げないよう繋ぐ道具は、人間には別でも、ガルから見ればよく似ている。安全だと言い聞かせるより、今は近づけない方がよかった。
やがてガルは前脚で折れた横木を押し、岩のある斜面へ歩いた。翼を広げられる場所まで上がると、自分の意思で飛び立った。
追いかけて呼び戻すことはしなかった。
残った兵たちが荷を集め終えるまで、ガルの影は尾根の上を二度通った。それから北の山へ向きを変え、木々の向こうへ消えていった。
「名を付けても、言うことを聞かせられるわけではないのですね」
年嵩の兵が、馬の手綱を仲間へ渡しながら言った。
『俺が呼びやすくなっただけだ。今日は、あいつが壊したかったものと、俺が止めたかった荷が、同じ場所にあった』
「おかげで、後ろへ戻す時間を与えずに済みました。こちらも、あれを追って山へ入ることはしません」
兵はガルの消えた方へ一度だけ頭を向け、荷のある場所へ戻った。
捕らえた兵は六人で、確保できた馬は九頭だった。逃げた者が何頭か連れ出しているが、荷を積んだままではない。残された袋には麦と塩があり、木枠の中には矢束と、弩に使う金具が収まっていた。
馬が九頭いても、全てが食料を運んでいたわけではない。人間の武器と魔獣を捕らえる道具にも、運ぶ背を使っている。食料の袋も一つは裂け、拾いきれない麦が泥へ混ざっていた。
それを見ていた捕虜の一人が、唇を噛んだ。
「それを失えば、東へ戻っても……」
途中で口を閉じたが、年嵩の兵はすぐに問い詰めなかった。まず水を飲ませ、怪我のある者を別に座らせている。
俺は泥の中の麦から顔を上げた。燃やさずに止められた荷の大半は、今ならこちらで使える。兵を押し返しただけでは残らなかったものが、馬の背と、人間の手の中にあった。
◇
ガレスへ知らせに戻るころには、日が山の西側へ傾き始めていた。
報告を聞いたガレスは、地図の北側を指でなぞった。エルマーが書き留める横で、俺は沢の渡りと、そこまでの道幅を伝える。
「荷車を諦めて、必要な分だけ馬へ移したのか。正面で待たせている間に、西へ抜くつもりだったんだな」
『麦だけじゃない。矢と弩の金具、それに網もあった。見張り所の兵が、使える分をまとめている』
「こちらへ運ぶ人間を出す。フェルゼン側で押さえた荷まで、勝手に引き取るつもりはない。受け渡す場所を決めてから動かそう」
エルマーはそう言い、近くの兵へ伝言を書いた紙を渡した。
ガレスは北の道に小石を置いたが、そこへ大勢を送り込もうとはしなかった。荷を取り返すために敵が戻るなら、荷の傍より先に、沢の東側を見張る必要がある。
「馬を返そうとした兵までいたんだな」
『荷を外していた。道具も捨てて、とにかく東へ戻そうとしていた』
「次の攻めに使う備えが、そう簡単には届かんということだろう。人を失っても馬を残せば運び直せる。逆に、馬まで減れば残った荷も動かせなくなる」
ガレスは、正面の街道へ視線を向けた。
「西へ抜ける荷を止めたなら、今日はここで十分だ。お前が北にいる間、東の旗の周りでも動きがあった」
近くにいた見張りが、ガレスへ向き直った。
「まだ兵は残っています。ただ、前へ出していた荷車を下げ、東へ向けて並べ直していました。天幕も幾つか畳んでいます」
俺は東を見た。
大きな旗のある部隊は、まだ退いていない。だが、焼かれた荷が元に戻るわけでも、壊れた弩がすぐ使えるわけでもなかった。北へ回した備えまで失えば、同じ場所で待つことにも代償がある。
『俺が行って見てくる。今度は降りずに、車がどちらへ動いているかだけ確かめる』
「頼む。北の荷は、人間が運ぶ。もうお前が戻って持ち上げる必要はない」
ガレスの声を背に受け、俺は町から離れて翼を開いた。
高く上がると、東の陣が夕日の中へ見えた。兵の列の向こうで、馬を付け直された荷車が一台動き出す。
西へ向かっていた時とは、馬の頭が反対を向いている。
俺は高度を落とさず、その車が東へ続く街道へ入るところまで見届けた。




