第84話 傷のある翼に、名前を
翌朝、ガレスは俺の顔を見るなり、顎の傷へ目を止めた。
夜のうちに血は止まっていたが、口を大きく開けると少し痛む。町外れで前脚を折り、低くした顔を朝の光へ向けると、ガレスは傷の周りを覗き込んだ。
「普通の矢を弾いていても、魔術まで同じにはいかんか。腫れているようなら、今日は無理をするな」
『喋る分には困らない。ただ、次に石を飛ばしてくる奴を見つけたら、もう少し早く頭を引く』
「避け方を考えられるうちはいい。効かないと思い込んで、受け続けるのが一番まずい」
昨日、レオンたちと押さえた荷と捕虜は、フェルゼン側で引き受けることになっていた。こちらへ届いた使いによれば、麦袋の印を確かめるため、奪われた集落の者へも連絡を出しているらしい。
俺が運び直す必要はない。
それなら今日は、街道から少し離れた北側を見ておこうと思った。敵の捕獲隊が一度入った以上、森の中まで静かだとは限らない。
『北の山際を見てくる。何もなければ、昼には一度戻る』
「異変を見つけたら、近い見張りへ知らせろ。全部を片づけてから戻ろうとするなよ」
ガレスはそう言って、町へ入っていく荷車のために道を空けた。
俺も人のいる場所から離れ、翼を広げた。
◇
北の森へ近づくと、岩場の上を回る影が見えた。
細長い尾を流し、大きな翼で風を受けている。俺より先にこちらへ気づいたらしく、相手は旋回をやめ、少し低い場所へ降りていった。
左の首筋から胸へ続く古傷と、端の欠けた翼。
見覚えのあるワイバーンだった。
俺も速度を落とし、離れた位置で高度を下げた。《魔獣感応》に触れた警戒は強いが、すぐに襲いかかってくる気配はない。
ただ、何かを渡したくないという感覚が混じっていた。
視線を辿ると、岩場の下に馬が倒れている。
鞍をつけたまま、首を不自然な向きへ曲げていた。近くの土には蹄で掻いた深い跡があり、斜面の途中から、小石が崩れた筋が続いている。
ワイバーンは馬と俺の間へ降りた。
翼を半ば開き、喉を鳴らす。
獲物へ近づくなと、警戒しているのだろう。俺は少し外へ回り、馬から距離を取った。
そこで、別の音が聞こえた。
岩へ何かを擦りつけるような音に続き、人間の低い呻き声が上がる。
林の手前に、男がいた。
◇
男は片腕を胸へ抱え、岩を背にして座っていた。
外套の印はグランツ兵のものだった。足下には片方だけ外れた鐙が落ち、腰の革袋は泥に汚れている。馬から投げ出されたあと、ここまで移動したらしい。
俺の姿を見て、男の顔から血の気が引いた。
逃げようと腰を浮かせたが、腕へ痛みが走ったのか、すぐ岩へ背中を押しつける。
「馬から離れようとしただけだ。そいつの餌を、取り返そうとしたわけじゃない」
掠れた声で、男はそう言った。
ワイバーンが人間を襲い、馬から引きずり落としたのかと思ったが、それだけでは分からない。斜面には馬が滑ったような跡もある。
どちらにしても、目の前の男は武器を構えていなかった。
剣は少し離れた草の中に落ちている。俺がそれへ目を向けると、男は動く方の手を膝の上へ置いた。
『剣には触るな。ここを離れる。脚が動くなら、ゆっくり立ってくれ』
男は俺とワイバーンを交互に見た。
ワイバーンも、こちらを見ている。
俺が男へ顔を向けたところで、低い唸りが強くなった。縄を外した時とは違い、今は守りたい仲間がいるわけではない。自分の得た餌へ、大きな竜が近づいてきたと思っているのだろう。
俺は馬へ背を向けすぎないよう身体をずらし、人間のいる側へ首を寄せた。
戦わない、という意思を送る。
返ってきたのは、警戒と苛立ちだった。
馬を譲れ、人間だけ連れていく。そこまで細かく伝えられるわけではない。俺は獲物から離れる動きを見せ、相手がどうするかを待った。
男が立ち上がりかけると、ワイバーンの首が動いた。
俺はその視線と男の間へ、ゆっくり頭を入れた。
それ以上近づかせないという意思を、今度ははっきり送る。だが、牙は剥かず、前へも出なかった。
しばらく、どちらも動かなかった。
やがてワイバーンが、馬へ顔を戻した。
開きかけていた翼が、身体の横へ収まる。
『今なら動ける。馬から離れる方へ歩け。急に走らなければ、俺が間に入れる』
男は岩へ手をつき、足場を確かめてから一歩を踏み出した。
俺はその歩幅に合わせ、首の位置を少しずつ変えた。身体ごと寄せれば男を追い詰めてしまうので、前脚は離れた場所に置いたままだ。
男が馬から十分に離れたところで、ワイバーンはまた喉を鳴らした。
だが、追ってはこなかった。
俺もそちらへ踏み込まず、男の進む先へ身体の向きを変えた。
◇
森の中の狭い道を、俺が一緒に歩くわけにはいかなかった。
男には木々の間を進んでもらい、俺は外側の開けた場所を辿った。時々首を伸ばして姿を確かめ、見失いそうな場所では足を止めて声をかける。
男は途中で二度休んだ。
二度目には、岩へ座ったまま俺を見上げた。
「橋にいた竜だろう。昨日、荷車を止めた……」
『そうだ。あの近くにいたのか』
「本隊にいた。今朝は、北の道を見に行けと言われたんだ。馬が斜面で脚を滑らせて、俺も落ちた」
男は顔を歪め、抱えている腕の位置を変えた。
それから、俺の後ろへ視線を向ける。
「目が覚めた時には、あいつが馬の傍にいた。剣を拾おうとしたら威嚇されて、それ以上動けなかった」
ワイバーンにしてみれば、見つけた餌の傍で、人間が刃物を取ろうとしたことになる。
俺たちが来るまで、男を追い詰めて遊んでいたわけではなさそうだ。
『もう少し先に、フェルゼンの見張りがいる。そこへ行けば、腕も診てもらえるはずだ』
男は口を閉じた。
敵の見張りへ連れていかれると分かって、気が重くなったのだろう。腰の革袋へ手を触れかけ、俺を見てから、その手を戻した。
俺は袋を取り上げず、立ち上がるのを待った。
見張り所へ近づく頃には、こちらへ気づいた兵が道へ出てきていた。
俺が男の素性と、見つけた時の様子を伝えると、兵たちは武器を持っていないか確かめてから肩を貸した。革袋も、その場で預かる。
「この男は、こちらで引き受けます。北へ一人で入っていたとなると、レオン殿にも早く知らせた方がよさそうです」
『本人は道を見に行けと言われたそうだ。俺も、見つけた場所を伝えておく』
兵が持ち出した地図へ、俺は岩場と斜面の位置を示した。
男が探していたのが、荷車の通れる道なのか、兵だけが進める道なのかは分からない。だが、橋で止められた翌朝に北へ人を出したのなら、無関係ではないだろう。
兵の一人が馬へ向かい、もう一人が男を建物の陰へ連れていった。
俺はその背を見送ってから、北へ顔を戻した。
◇
岩場へ戻ると、ワイバーンはまだ馬の傍にいた。
俺が降りると顔を上げたが、翼を広げて前へ出ることはなかった。鞍の革帯へ牙を掛け、邪魔そうに首を振っている。
近づく前に足を止める。
相手はこちらを見たあと、また革帯へ顔を戻した。
『それは食うところじゃないぞ。外したいなら、少し離れてくれ』
言葉が通じたわけではないだろう。
俺が鞍へ視線を向け、首を伸ばしかけると、ワイバーンは馬の反対側へ回った。逃げたのではなく、こちらの動きを見られる位置へ移ったらしい。
その距離で、もう一度待った。
唸り声が上がらないのを確かめ、俺は鞍の端へ牙を掛けた。馬の身体を引きずらないようにしながら持ち上げると、張った革帯が切れ、鐙が石へ当たった。
金属音に、相手の首が跳ねた。
俺はすぐ動きを止め、鞍を地面へ置いた。
ワイバーンが革帯の切れた部分へ鼻先を寄せる。それから馬へ牙を立て、少し離れた草地へ引きずっていった。
俺に残していくつもりはないらしい。
その方が分かりやすかった。
餌を譲ったからといって、すぐ仲間になるわけではない。こちらも、肉をもらうために戻ってきたのではなかった。
俺は外した鞍を脇へ寄せ、岩場を見回した。
網に捕まっていた、もう一頭の姿はない。
無事に移動したのか、それとも近くの岩陰へ残っているのか。傷ついた翼まで、今ここから確かめることはできなかった。
それでも、この大きな個体が餌を食べに出てきていることに、少し安心した。
◇
食べ終えるまで待つつもりはなかったが、すぐ立ち去る気にもなれなかった。
離れた岩場へ腰を落とすと、相手は何度かこちらを見た。獲物へ戻り、また顔を上げる。その繰り返しの中で、最初ほど強い警戒は伝わってこなくなった。
近くで改めて見ると、首の古傷は深かった。
鱗の並びが途中で歪み、胸まで白っぽい筋が残っている。翼の欠けた端も滑らかではなく、風を受けるたび、周囲の膜とは少し違う動きをした。
それでも、群れの前へ出る。
捕まった仲間の傍にも残り、今も自分で餌を探している。
もう俺の中では、北にいるワイバーンの一頭ではなかった。
『お前を呼ぶ時に、名前があった方がいいと思ってたんだ』
相手が顔を上げた。
声に反応しただけかもしれない。それでも、その目はこちらを向いている。
『ガル、というのはどうだ。俺が呼びやすい音なんだが』
当然、返事はなかった。
俺も笑ってしまった。人間に名前を尋ねるように話して、答えを待っても仕方がない。
ただ、俺がこの個体へ向けて出す声を、一つ決めたかった。
『ガル』
もう一度、呼んだ。
大きな頭が少し動き、片方の目でこちらを見た。俺は立ち上がらず、そのまま待った。
やがて相手は低く喉を鳴らし、馬へ顔を戻した。
嫌だと言われたのか、食べているところへ声をかけるなと言われたのか、その区別まではつかない。
名前を理解したことにするには、早すぎる。
それでも俺には、次に会った時に出せる声ができた。
風が変わり、遠くから木の軋む音が聞こえた。
ガルが首を起こす。
俺も同じ方を見た。尾根の向こうなので、何が音を立てたのかは見えない。ただ、昨日までより低い位置に、細い煙が上がっていた。
ガルは馬の傍から離れず、しばらくそちらを見ていた。
あの辺りは、男が見に行こうとしていた方角だった。
◇
見張り所へ戻ると、兵が道端で待っていた。
男の革袋には、道順を書いた紙が入っていたという。見せられた紙には、街道と川、それに北側の尾根が簡単に描かれていた。
《文字理解》で読めたのは、橋が使えない時の道を確かめる、という指示だった。
「レオン殿へは人を出しました。ただ、紙にある道が全部今も通れるとは限りません。捕らえた男も、途中までしか行っていないそうです」
『俺が戻る前に、尾根の向こうから煙が見えた。今度は一人じゃなく、人を出しているのかもしれないな』
兵は紙と、俺が示した方角を見比べた。
街道の荷を止めても、敵がそのまま座って待つわけではない。兵だけで通れる道を探し、荷馬が使えそうなら、そちらへ荷を分けるつもりなのだろう。
北には、野生の群れもいる。
縄を使う兵たちが、またそこへ入るかもしれなかった。
『俺は上から確かめる。地上を調べに行くなら、少人数だけで奥へ入らない方がいい。見えるものがあれば、ここへ先に知らせる』
「お願いします。こちらも尾根の手前まで見張りを出します。敵を見つけても追わせず、戻って報告させます」
俺は地図から顔を上げた。
岩場の上に、翼が一つ見えた。
ガルだった。
こちらへ真っ直ぐ来るのではなく、高い位置を横切って北へ向かっている。人間のいる場所へ降りようとはせず、尾根へ近づいたところで、一度だけ大きく回った。
俺は兵たちから離れ、空へ上がった。
ガルの後ろへつくのではなく、少し西側へ距離を取る。向こうも進路を寄せず、同じ尾根へ向かって飛び続けた。
『ガル。俺も、向こうを見る』
風の中で呼ぶと、相手は首だけをこちらへ向けた。
次の瞬間には、もう前を見ていた。
俺も翼を傾け、煙の上がる谷を遠くから覗き込んだ。木々の切れ目を、荷を背負った馬が一頭ずつ進んでいた。




