第81話 翼を縛る縄
岩場へ近づくと、獣の血の匂いが風に混じった。
昨日、古傷のあるワイバーンと別れた山の東側だ。朝から北の空を見て回っていた俺は、谷へ下りかけた翼を傾け、匂いの流れてくる方へ顔を向けた。
木々の切れ目に、白っぽい獣の腹が見える。鹿にしては脚が短く、そのすぐ横には車輪の跡があった。こんな場所まで家畜を連れてくる理由を考えていると、頭上で鋭い鳴き声が響いた。
左の首筋から胸へ古傷の走る、大きなワイバーンだった。
俺へ襲いかかるつもりではないらしい。進路を横切ったあとも距離を残し、谷底を見ては岩壁の方へ回り込む。《魔獣感応》に触れる警戒は強いが、その向いている先が俺とは少し違っていた。
俺も高度を保ったまま、木々の下を見直した。
家畜の死骸の向こうで、枝葉が不自然に揺れている。そこから細い縄が何本も伸び、離れた岩の陰へ消えていた。網の中に、折り重なるような翼が見える。
ワイバーンが一頭、捕まっていた。
身体を起こそうとするたび、網に縫い込まれた重りが地面を擦る。片方の翼は途中まで開いているのに、もう片方は付け根から絡め取られ、動くほど縄が食い込んでいった。
岩陰に人がいると分かったのは、鉄の兜が光ったからだ。外套の印は、グランツ兵がつけていたものと同じだった。十人余りが散らばり、草を被せた荷車の脇で巻き上げ機を回したり、長い棒を網の下へ差し込んだりしている。手前には弓を持った者もいた。
古傷の個体が近づくと、そちらへ矢が放たれた。翼を返して岩壁の上へ逃れたものの、山の奥へは去らない。網の中から上がる鳴き声に応じ、低く喉を鳴らしていた。
餌へ降りたところを捕まえたのだろう。助けようと近づけば、そちらも射られる。
『そこで飛んでいてくれ。俺は、あいつを襲わない』
言葉がそのまま伝わるとは思っていない。敵意を抑えながら、捕まった個体へ視線を向けた。古傷の個体は俺を見たが、次の瞬間にはまた谷底へ顔を戻してしまった。
従わせるつもりで声をかけたわけではない。それでも、勝手に通じたことにはできなかった。
俺は谷の広い側へ回り、翼を畳みながら降下した。
◇
兵たちが俺に気づいた時には、荷車を覆っていた枝が風で吹き飛んでいた。
着地は網から十分に離れた場所を選んだ。それでも土が沈み、荷車につながれた馬が竿を引いて暴れだす。兵の一人が慌てて手綱を取り、弓兵たちは岩を背にしてこちらを狙った。
矢が肩と胸へ当たり、乾いた音を立てて落ちる。厚い鱗に傷はつかない。俺は顔を低くしすぎないよう気をつけ、網へ続く縄を辿った。
巻き上げ機を守ろうとした兵が、今度は槍を構える。その穂先よりも、横手の岩陰で動く太い弓の方が気になった。
木の台へ据えられた弩だった。溝に載っているのは普通の矢よりずっと太く、後ろには縄が結ばれている。逃げる獣を引き止めるためのものかもしれないが、翼へ受けて確かめる気にはなれない。
俺は翼を身体へ寄せ、岩陰の射手へ胸を向けたまま一歩進んだ。
『道具を置いて離れろ。まだ撃つなら、その台ごと壊す』
射手の手が止まった。隣の兵は弩をこちらへ回そうとしていたが、台の脚が石に引っかかり、思うように動かない。俺がもう一歩踏み込むと、二人とも武器を捨てて横へ転がるように逃げた。
足下から人影が消えたのを確かめ、前脚を下ろす。木の台は軋んだあと、弦もろとも地面へ潰れた。
その音で、槍を持っていた兵も走りだした。馬を荷車から外して逃げる者、弓を抱えたまま藪へ入る者と、逃げる先はばらばらだ。追いかければ捕まえられるだろうが、網の中の呼吸がさっきより荒くなっている。
俺は追撃をやめ、巻き上げ機へ向き直った。
張った縄をいきなり引けば、向こうの翼まで傷める。爪を土へ差し込み、機械を固定していた杭の周りを掘り崩してから、土台ごと網の方へ押した。
縄が緩み、捕まったワイバーンの首が少し上がった。その口が俺へ向き、牙の間から威嚇の息が漏れてくる。
助かったと思うより先に、もっと大きな獣が来たと怯えているのだろう。俺は手を止め、首を引いて距離を作った。
上から古傷の個体が降りてきた。俺と網の間へ割って入るように着地したため、もう片方の警戒もいくらか静まる。それでも俺が近づくと、大きな顎を開いて低く唸った。
『縄を外したいだけだ。嫌なら、今はそこから見ていてくれ』
声を抑え、身体に絡んでいない縄の一本を爪で地面へ押さえた。ゆっくり引き裂くと、締めつけが緩み、翼がわずかに動く。
それを見ても、古傷の個体は道を空けなかった。ただ、唸りながら踏み込んでくることもなくなった。
厄介なのは、翼の内側だった。
暴れてできた結び目に網が寄り、薄い膜まで巻き込んでいる。俺の爪なら縄は切れるが、下にある翼まで裂きかねない。牙で噛み切るにも、相手が身を捩れば危なかった。
地面へ顔を近づけたところで捕まった個体が暴れ、俺はまた首を引いた。血の匂いが強くなる前に、細かい作業のできる手が要る。
尾根を一つ越えた先には、フェルゼン側の見張り所があった。
◇
『敵の捕獲用の網に、野生のワイバーンがかかっている。大元の縄は緩めたが、翼に絡んだ分を外せない。刃物を扱える者に手を貸してほしい』
見張り所の前へ降りた俺を、兵たちは戸惑った顔で見上げた。
昨日、レオンから野生の群れについて連絡が来ていたらしい。先頭に立つ年嵩の兵は北の山へ目をやり、腰の小刀を鞘ごと抜いてから言った。
「網を切ることはできます。ですが、近づいた途端に噛みつかれては、縄を切るどころではありません」
『危なくなったら下がってくれ。俺も無理には近づかせない。もう一頭、近くにいるが、そちらも敵兵に使われている個体ではない』
絶対に安全だとは言えなかった。俺へさえ牙を見せたばかりなのだから、人間ならなおさらだ。
兵はしばらく考えたあと、仲間へ顔を向けた。
「三人は周囲を見ろ。逃げた敵兵が戻るかもしれん。縄を切るのは俺ともう一人でやる。見張り所へも一人残しておけ」
俺が先に岩場へ戻ると、古傷の個体はまだ網の傍にいた。離れた間に少しは噛み切ろうとしたらしく、縄の端が湿って毛羽立っている。
俺は残った固定杭を抜きながら、人間たちが来るのを待った。
藪を分けて兵の姿が現れた途端、古傷の個体が翼を開いた。地面を叩くほどの唸りに、後ろの兵が思わず槍を持ち上げる。
「穂先を下げろ。ここで突きつけたら、俺たちまで追い払われるぞ」
年嵩の兵が足を止め、小刀を持っていない方の手を広げた。俺も二頭へ近づかず、敵意がないことだけを繰り返し伝える。
助けに来た、刃物で網を切る、だから襲うな。そんな説明が通じれば楽だろうが、《魔獣感応》ではそこまで複雑な意味を伝えられない。俺にできるのは、自分が襲わない意思を示すことだけだった。
兵が半歩進むたびに、古傷の個体の喉が鳴った。俺はそのたびに兵を止め、翼が少し下がるまで待つ。焦れて縄を引きたくなったが、それをやれば捕まった個体の傷が増えるだけだ。
やがて兵の手が、地面へ垂れた網の端に届いた。
刃が縄へ入り、ひと筋ずつ繊維を切っていく。小刀の動きに合わせ、俺は絡まった網の重みを爪で支えた。翼を押さえつけずに済むよう、切れた縄だけを外側へずらす。
捕まった方が身を起こしかけた時には、兵はすぐに手を引いた。古傷のある方がその首筋へ鼻先を寄せ、低く鳴く。次に小刀が入るまで、俺たちはもう一度待った。
兵の額から汗が落ち、土に小さな染みを作った。
「この結び目を切れば、翼の内側が抜けます。暴れそうなら、すぐ声をかけてください」
『分かった。重い部分は俺が持つから、引っ張らずに切ってくれ』
呼吸に合わせて網をわずかに浮かせる。兵が刃を寝かせて縄の下へ入れ、何度か小さく動かすと、張りつめていた結び目がほどけるように崩れた。
翼が、ようやく身体の横へ戻った。
俺は網を持ったまま退き、兵たちも小刀をしまって離れる。自由になったワイバーンはよろめきながら立ち上がったが、こちらへ飛びかかってはこなかった。
片方の翼膜に細い傷があり、足にも縄の擦れた跡が残っている。すぐに飛ぶのは難しそうだ。それでも古傷の個体に寄り添うように歩き、岩陰まで自分で移動できた。
兵が水筒へ手をかけたので、俺は首を横へ振った。
『今はそっとしておこう。近づく理由を増やさない方がいい』
「……人間の怪我人なら、まだ手を貸せるんですがね」
兵は困ったように笑い、水筒を自分の口へ運んだ。小刀を握っていた手が、飲み終えてからも少し震えていた。
◇
見張りの兵が安全を確かめる間に、荷車の積み荷も調べた。
予備の網と鉄の重り、それに丸めた太い縄が載っている。小さな袋には麦と干し肉が残り、馬の飼料も積まれていた。短い間だけ山へ入り、捕まえた獣をどこかへ運ぶつもりだったのだろう。
「荷車の跡は東から続いています。枝を被せていたのは、あなたから隠すためかもしれません」
若い兵が車輪の周りを見ながら言った。
大きな荷の集まる場所を壊したら、敵は小さく分かれて動き始めた。その動きは食料を奪うだけではなく、山の魔獣へも及んでいたらしい。
ただし、この隊が誰の命令で来たのかは、道具だけを見ても分からない。東に残る大きな旗の部隊と繋がっているかどうかも、確かめる必要がある。
『この弩と網のことを、レオンにも伝えてくれ。俺はガレスに知らせる。まだ同じ道具を運んでいるなら、街道からも動きを拾えるはずだ』
「承知しました。敵兵の人数と逃げた方向も添えて、先に走らせます」
兵が一人、見張り所へ向かった。残る者たちは荷車のそばへ集まり、使える道具と壊れた道具を確かめ始める。捕獲した魔獣まで運ぶ予定だっただけに、荷台も車輪も頑丈に作られていた。
俺は岩場へ顔を戻した。
傷のある首が、こちらを向いている。兵が網を持ち上げると喉が鳴ったが、俺がその網を足下へ下ろすと、また静かになった。
人間を信じたわけではないのだろう。俺のことだって、どこまで分かっているかは知れない。
それでも傍の一頭を残し、俺たちへ向かって飛び出してくることはなかった。
『その網は持って帰る。もう、そいつにはかけさせない』
俺は爪に引っかけた縄を、荷車の方へ引きずっていった。古傷の個体はその動きを最後まで目で追い、それから傷ついた翼の持ち主へ鼻先を戻した。
背後で、年嵩の兵が長く息を吐いた。
「縄を切るだけで、こんなに喉が渇くとは思いませんでした」
『俺も、見ているだけの方が落ち着かなかった。助かったよ』
「それは、あちらにも伝わっているといいんですが」
兵が岩陰へ目をやる。古傷の個体は目を細めただけで、近づいてはこなかった。
俺は荷車の上へ網を押し上げ、丸まった縄の端まで爪で押し込んだ。こんなものがあと何組あるのか。東へ確かめに行く前に、まずガレスへ話しておきたい。
飛び立つために身体を返すと、岩の陰から、さっきより低い鳴き声が一度だけ聞こえた。
振り向いた俺へ古傷の個体が顔を向けていたが、その目の意味までは読み取れない。俺も声を返すだけにして、二頭へ風を当てない場所まで歩いてから翼を広げた。




