第80話 竜は誰の領地にも属さない
翌朝、セドルの町外れには昨日より大きな地図が広げられていた。
西にローデン領。
その東にフェルゼン領。
さらに東には国境があり、その向こうからグランツ軍が入り込んでいる。
空から見れば全部同じ地面だが、人間にとっては意味の違う線が何本もある。
フェルゼンから来たレオンも、朝から地図の前にいた。
「昨日の件で、こちらから先に確認しておきたいことがあります」
『俺が領境を越えて動くことだな』
「ええ。ただし、禁止するためではありません」
昨日、農家から食料を奪っていたグランツ兵を止めた。
その後、捕虜も奪われた物資もフェルゼン側へ引き渡した。
そこまでやってみて、俺にも何を分ければいいのかはかなり見えている。
『人が今にも殺されそうなら止める。敵兵に襲われているなら助ける。そこは許可を待たない』
「それで構いません」
『助けた後の土地や家や配給まで、俺一頭で決めない。フェルゼンの土地ならフェルゼンへ返す』
「そうしていただければ十分です」
思っていたより簡単だった。
ガレスも横から口を挟む。
「ローデン側でも同じだ。お前がセドルを守ってるからって、町の倉庫を好きに配っていいわけじゃない」
『そんなことはしない』
「なら問題ない」
レオンが地図から俺へ視線を移した。
「もう一つ。ヴァル殿自身の立場についても確認させてください」
『ローデンにもフェルゼンにも属してない』
「やはり、そうなりますか」
『俺はガレスの兵じゃない。ローデン領主の家臣でもない。フェルゼンには昨日初めて人の繋がりができたくらいだ』
ガレスも頷く。
「俺から命令を出せる相手でもない」
「では、どこかの領主から命じられて守っているわけではない?」
『違う。ルーエもセドルも、俺が守りたいと思ったから守ってる』
レオンがしばらく黙った。
「ずいぶん自由ですね」
『竜だからな』
「それで済ませられるのが羨ましいような、恐ろしいような」
エルマーが笑った。
「こいつを人間の家臣と同じ枠へ入れようとすると、たぶん余計に面倒になるぞ」
『俺もそう思う』
「本人が言うな」
ただ、自由だから何をしてもいいわけではない。
そこは俺自身も分かってきた。
『頼まれるのは構わない。必要だと思えば手を貸す。ただ、誰かが俺を所有して、「うちの竜だから戦え」と言う形にはしたくない』
レオンが真面目な顔で頷いた。
「フェルゼン側からも、そのような扱いはしません」
『その代わり、人が目の前で襲われてる時に「ここの領主から許可を取れ」とも言わないでくれ』
「言いません」
「ローデン側も同じだ」
ガレスも続ける。
「俺たちが頼む。お前が判断する。それで今までやってきた」
『なら、それでいい』
地図の上に引かれた線は、人間の責任を分けるためにある。
俺まで線の中へ所有物として入る必要はない。
それが一番分かりやすかった。
◇
話がまとまりかけたところで、北の見張りから兵が来た。
「空に魔獣です!」
全員がそちらを見る。
兵は息を整えながら続ける。
「北東。ワイバーンらしき影が三。こちらへ真っ直ぐ来ているわけではありませんが、高い位置を南へ移動しています」
俺は空を見る。
まだ肉眼では分からない。
『攻撃してきた?』
「いえ。ただ、弓兵が撃つべきか迷っています」
それなら急いだ方がいい。
『俺が見る。射るのは少し待ってもらってくれ』
「分かりました」
翼を開き、地面を蹴る。
高度を上げると、すぐ三つの影が見えた。
細長い尾。
翼。
飛び方。
ワイバーンだ。
《魔獣感応》へ意識を向ける。
遠い。
それでも、敵意らしいものは感じない。
むしろ流れ込んでくるのは警戒と移動したいという感覚。
俺の姿に気づくと、三頭とも少し北へ進路をずらした。
(あの群れの個体だな)
首に古傷のある大きな個体はいない。
別の三頭らしい。
俺は追わず、自分からも敵意がないことだけを送る。
近づかない。
戦わない。
その程度なら通じる。
三頭は俺との距離を保ったまま、西ではなく南東へ抜けていった。
人のいる場所へ降りる様子もない。
それを確認してからセドルへ戻る。
◇
『野生の群れだと思う。少なくとも、今は人間を襲う気はなかった』
「分かるんですか」
レオンが空を見る。
『《魔獣感応》で、ある程度はな。細かいことまで話せるわけじゃないけど、襲うつもりなのか、警戒してるだけなのかくらいは分かる』
ガレスはまだ空を見ていた。
「だが、地上の兵には分からん」
『それが問題だな』
遠くを飛ぶワイバーン。
俺なら感応で確かめられる。
人間からすれば、ただの黒い影だ。
敵軍はすでに魔獣を戦いへ使っている。
大型の獣へ苦痛を与えて突進させたり、対竜用の罠と組み合わせたりもしてきた。
今後、空を飛ぶ魔獣まで戦場へ持ち込まれない保証はない。
レオンが言った。
「フェルゼン側の兵にも、北に野生のワイバーン群がいることは伝えます」
『全部撃つな、とまでは言えないぞ』
「分かっています」
返事はすぐだった。
「人へ急降下している。家畜を襲っている。そういう状況なら自衛します」
『それでいい』
「問題は、今みたいに遠くを飛んでいる時ですね」
ガレスが腕を組む。
「敵が使ってるのか、野生なのか。近づいて首輪でも見えりゃ別だが、遠目じゃ無理だ」
『首輪があるとも限らない』
「そこもある」
弓の射程へ入ってから考えるのでは遅い。
だから人間は早めに判断したがる。
ワイバーン側からすれば、自分の縄張りを飛んでいただけなのに突然矢を射られる。
一度そうなれば、人間を敵だと覚える可能性もある。
『あいつらへ「人間の領地の上は飛ぶな」と伝えるのも難しい』
「《魔獣感応》でも?」
『道や領境までは説明できない。そもそも空に線なんか見えないだろ』
レオンが苦笑する。
「昨日のあなたと同じですね」
『俺は地図を読める』
「ワイバーンは読みません」
『だから困ってる』
ガレスが低く唸った。
「見分ける印でもあれば楽なんだがな」
俺は空を見た。
印。
遠くからでも、人間側が一度手を止める理由になるもの。
敵か味方かを決める印でなくていい。
少なくとも「野生の群れかもしれない」と分かるだけでも違う。
『ただの目印を付けるために捕まえるのは嫌だな』
「俺も勧めない」
ガレスが答える。
「捕まえて縛った時点で、敵軍のやってることと大差なくなる」
『あいつらは俺の配下でもない』
「そこも同じだ」
誰の領地にも属さない俺。
誰の軍にも属さないワイバーン。
少し似ている。
だからこそ、人間側の都合だけで印を付け、勝手に味方扱いするのは違うと思った。
◇
レオンは今日中にフェルゼンへ戻ることになった。
捕虜の処理。
略奪された農家への確認。
見張りの追加。
やることが増えている。
出発前、地図の横で今後の連絡方法だけ決めた。
フェルゼン側からセドルへ使者を出す。
ローデン側からも、東の異変があれば返す。
緊急の場合は、途中の見張り所を繋いで伝える。
俺が空から異変を見つけた時も、近い側へ先に知らせる。
『これなら、俺が毎回全部の場所を回らなくても済むな』
「最初からそれが狙いです」
レオンが言う。
『俺を楽にするためだったのか』
「結果としては」
「人間同士で連絡する方が普通なんだよ」
エルマーが笑う。
『最近、何でも俺が飛んで運んでたからな』
「便利だからな」
『堂々と言うな』
それでも、悪い変化ではない。
俺が空にいない時でも情報が動く。
人間が人間へ伝える。
俺が見つけたものも、その流れへ乗せられる。
一頭で飛び回るより、その方が遠くまで守れる。
◇
レオンたちを途中まで見送った。
領境を越える。
昨日までは、どこからがフェルゼンなのか考えもしなかった場所だ。
今日は大体の位置が分かる。
地面は何も変わらない。
道もそのまま。
畑の土も同じ色。
林も続いている。
『この辺からだよな』
低く飛ぶ俺へ、馬上のレオンが答えた。
「おおよそは。街道沿いなら目印になる石があります」
見る。
小さな石が道端に立っている。
『空からじゃ分からないな』
「空を飛ぶ者を基準に作っていませんから」
『今後は考えてくれてもいい』
「巨大な竜から見える境界標識ですか」
『山くらいの大きさなら分かる』
「誰が作るんです」
『言ってみただけだ』
レオンがため息をついた。
昨日より少し話しやすくなった気がする。
◇
そこで別れ、俺は北へ進路を変えた。
朝の三頭が気になっていた。
追いかけるつもりはない。
ただ、以前会った群れがまだ同じ山際にいるのかを見ておきたい。
高く上がる。
森。
岩場。
さらに北。
しばらく探したが、群れは見えない。
(移動したか)
野生なのだから当然だ。
俺の都合のいい場所へ、いつもいるわけではない。
戻ろうと翼を傾けたところで、遠くの岩場から一頭だけ影が上がった。
大きい。
他のワイバーンより明らかに身体が一回り大きい。
左の首筋から胸へ続く古い傷。
翼の端も少し欠けている。
(あいつだ)
群れの前へ出てきた個体。
俺が人間を守ろうとした時、最後には攻撃をやめてくれたワイバーンだ。
向こうも俺に気づいた。
警戒が流れ込んでくる。
ただし、以前ほど強くない。
見覚えがある。
敵ではなかった。
そんな感覚まで混ざっているように思えた。
俺は距離を詰めない。
(戦わない)
意思を送る。
相手からも強い敵意は返ってこない。
それだけでいい。
俺は少し高度を下げ、相手を改めて見る。
群れの中でも、こいつだけはもう見分けられる。
古い傷があるからだけではない。
前へ出て群れを守った。
俺と一度向き合った。
一頭の個体として覚えている。
(いつまでも「あの大きいやつ」じゃ不便だな)
ふと、そんなことを考えた。
相手がこちらを見ている。
俺も見る。
名前。
人間なら当たり前に使っているもの。
魔獣に同じものが必要なのかは分からない。
そもそも勝手に付けていいのかも分からない。
ただ、こいつを他のワイバーンと同じ「一頭」で片づける気には、もうなれなかった。
俺はしばらくその個体を見たあと、今日は何もせず離れた。
急ぐ必要はない。
印のことも。
名前のことも。
次にもう一度会えた時に考えればいい。
誰かのものにしなくても、区別する方法はあるのかもしれない。
俺は翼を広げ、西へ向きを変えた。




