第78話 残る者、逃げる者
翌朝、俺は東の大きな集落へ向かった。
昨日、北の空でワイバーンの群れと出会ったことは気になっている。首に古い傷のある大きな個体が、あれからどこへ移ったのかも知りたい。
だが今は、そちらより先に確認する場所があった。
数日前から避難を始めた集落だ。
老人や子供、すぐ西へ移ると決めた家族はすでにかなり出ている。それでも、全員が家を離れたわけではない。
畑を捨てられない者。
家畜を置いていけない者。
敵軍が本当にここまで来るのか、もう少し様子を見ると決めた者。
昨日まで自分の家だった場所を、簡単に捨てられない人間が残っている。
高度を上げたまま集落へ近づき、俺は翼の角度を変えた。
下の様子が、前に見た時と違う。
住民だけではない。
兵がいる。
東側から入ったらしい二十人ほどの一団が、中央の道と家々の前に散っていた。
盾。
槍。
弓。
荷車が二台。
大軍ではない。
だが、通り過ぎようとしているわけでもなかった。
兵が一軒ずつ家を回っている。
住民が袋や樽を持って出る。
それを受け取り、中央の荷車へ積む。
別の家の前では、住民の男が首を振っていた。
兵が何かを言う。
男はもう一度拒む。
そこへ別の兵が加わると、男は諦めたように家へ入り、小さな穀物袋を持って出てきた。
(補給か)
敵は後方から荷を運んでいる。
それでも、進んだ先で食料や飼料を手に入れられるなら、持ち込む量を減らせる。
長く戦うなら、現地で手に入る物まで使う方が楽だ。
理屈は分かる。
だからといって、取られる側が納得するとは限らない。
俺は集落の西側へ回った。
今の身体で家の間へ直接降りる気はない。
軒へ翼を引っ掛け、柵を尾で壊し、敵より先に俺が家を壊したら笑えない。
建物から十分離れた草地へ着地する。
地面が低く揺れた。
集落の中から、何人かがこちらを見た。
◇
最初に来たのは、以前にも見た白髪の男だった。
杖を使うほど弱ってはいないが、かなり年を取っている。
男は俺の前まで来ると、巨大になった身体を見上げた。
「また大きくなられましたな」
『少し事情が変わった。守護竜というものになったらしい』
「それはまた……名前からして頼もしい」
笑ってはいるが、顔には疲れが残っている。
俺は集落の中央へ視線を移した。
『兵は、食料と馬の餌を集めてるんだな』
「ええ」
『代金を払って買っている形ではなさそうだ』
男の口元が苦く歪む。
「出せ、と言われます」
『拒めば家の中まで確かめる。だから、実際には断れない』
「その通りです」
やはりそうだった。
『今すぐ飢える量まで持っていかれてはいない。でも、これが続けば冬までの蓄えが持たない。そういう状況だな』
「よくお分かりで」
『同じことを、少し前から別の場所でも見てる』
俺は周囲の家を見た。
『それでも残ったのは、ここを離れた先で暮らせる保証がないからだろ。家も畑も家畜も、全部ここにある』
白髪の男は、しばらく俺を見上げていた。
「以前なら、竜にそこまで言われるとは思いませんでした」
『俺も以前なら、危ないなら逃げればいいと思ってた』
それで終わる話ではなかった。
逃げれば家は残る。
畑も残る。
でも、その家では眠れない。
畑から食べ物を取ることもできない。
西へ着いた瞬間、新しい暮らしが勝手に始まるわけでもない。
『ここに残ること自体を止める気はない。ただ、今のままなら食料を取られ続ける。さらに兵が増えれば、残ること自体が難しくなる』
「皆も分かっています」
男は集落を振り返った。
「だから割れております。西へ行きたい者と、残りたい者で」
『なら、全員に同じ答えを出させなくていい』
俺はそう返した。
『出たい人間には道を作る。残る人間には、敵が戻った時にどう退くかだけ決めてもらう。それなら少なくとも、今ここで無理にどちらかへ揃える必要はない』
白髪の男は静かに頷いた。
◇
集落の中から、五人の兵がこちらへ歩いてきた。
先頭の男は剣を抜いていない。
だが後ろの二人は弓を持ち、いつでも射てる位置にいる。
白髪の男が少し離れた。
「竜」
『ヴァルだ』
「この集落の者ではないな」
『違う。ただ、ここで暮らしている人間が食べる物を、武装した兵が断れない形で持っていくなら、無関係とも言えない』
兵の男の顔が険しくなる。
「軍務に必要な徴発だ。必要な分だけを受け取っている」
『必要かどうかを決めてるのは、お前たちだけだろ』
「軍が動くには物資が要る」
『それは知ってる。だからこそ、後方に荷を集めて前へ運んでるんだろ。それで足りない分を、ここの冬支度から埋める理由にはならない』
男の目が細くなった。
「軍務を妨害するなら敵対と見なす」
『先に住民へ出させた物を戻して、東へ退けば戦う理由はない』
「拒否する」
『なら、荷車だけ置いていけ。人間まで追うつもりはない』
男の右手が上がった。
後ろの弓兵が弦を引く。
一射。
胸へ向かってくる。
俺は動かなかった。
矢は胸の鱗に当たり、甲高い音を残して弾かれた。
折れた軸が土へ落ちる。
兵たちの視線が揺れる。
『そこへ普通の矢を何本撃っても、もう簡単には通らない』
二人目の射手は狙いを変えた。
翼。
そちらは別だ。
さらに後ろには家がある。
避けるだけなら簡単でも、抜けた矢が住民へ飛べば意味がない。
俺は片翼を開く代わりに、地面すれすれへ風を走らせた。
射手の身体が揺れ、矢は人のいない畑へ逸れる。
『目や翼を狙う判断は正しい。でも、ここで続ければ住民まで巻き込む』
俺は前へ一歩出た。
ただそれだけで、兵たちが後ろへ下がる。
前脚一つが人間の身体より大きい。
今の俺と、人間一人が剣や槍で同じ距離から殴り合う必要はなかった。
槍兵が一人、勇気を振り絞るように踏み込んだ。
狙いは胸ではない。
前脚の関節。
そこまで考えている。
俺は脚を引いて避けるのではなく、槍の届く前へ爪先を置いた。
地面が沈む。
男の目前に巨大な爪が並ぶ。
槍が止まった。
『それ以上来れば、止め方を選べなくなる。退いてくれ』
男は歯を食いしばる。
それでも踏み込まなかった。
◇
後ろで馬が鳴いた。
荷車を出すつもりらしい。
御者が手綱を取り、住民から集めた袋や樽を積んだまま東へ向けようとしている。
俺は集落の中へ踏み込まない。
代わりに東側へ飛び、家並みから十分離れた道へ先回りした。
着地する。
荷車二台が止まった。
馬も動かない。
俺を避けて横へ抜けられる道幅はない。
『人間と馬は通してもいい。荷は置いていけ』
「どけ!」
『それは住民の食べ物だ』
御者の横にいた兵が弓を向ける。
今度は目。
矢が飛ぶ前に、俺は頭を少し上げた。
射線から外す。
同時に短い風を前へ送る。
馬を倒すほど強くはしない。
兵が顔を庇う程度。
その間に白髪の男たちが道の反対側へ出てきた。
「その袋はうちの麦だ!」
「樽は南の家から出したものだ!」
「干し草も返してくれ!」
住民の声が増える。
敵兵が周囲を見る。
俺一頭だけなら、戦う選択もあったかもしれない。
だが今は、住民自身が返せと言っている。
先頭の兵が舌打ちした。
「荷を下ろせ」
御者が振り返る。
「しかし――」
「ここで全部失うよりましだ!」
袋が下ろされる。
樽。
干し草。
飼料。
住民が自分たちの物を確認していく。
全部が元通りかどうかは、あとで調べるしかない。
俺は荷下ろしの間、道を塞いだまま動かなかった。
兵を捕まえる気はない。
戦って死者を増やす理由もない。
荷が空になると、俺は身体を横へずらした。
『東へ戻るなら追わない』
兵たちは答えなかった。
ただ、二台の荷車と一緒に東へ去っていった。
俺も追わなかった。
◇
敵が見えなくなってから、ガレスとエルマーが兵を連れて到着した。
「終わってるじゃないか」
ガレスが空になった東の道を見る。
『兵は帰した。住民から集めた物は置いていかせた』
「捕虜は?」
『いない』
「それでいい」
返事は早かった。
「二十人捕まえたら、二十人食わせて見張る仕事が増えるだけだ」
エルマーは住民の方へ向かった。
「西へ出たい人は、今日のうちに人数を分けましょう。全員一度に動く必要はありません」
白髪の男が集まっていた住民へ声を掛ける。
話し合いが始まった。
若い夫婦は出たい。
老人は残りたい。
家畜を連れていけるなら動くという家。
今日返ってきた麦があれば、しばらく様子を見るという者。
同じ家族の中ですら意見が違う。
俺は少し離れた場所へ座った。
ここは俺が決める話ではない。
◇
「西へ行けば、今と同じ暮らしができるんですか」
若い男がエルマーへ聞いた。
エルマーは軽く頷かなかった。
「すぐ同じ家と畑を用意できるとは言えない。セドルも人が増えてる。さらに西へ移ってもらう可能性もある」
「食べ物は?」
「移動中と当面の分は手配する。ただし、ずっと何もしなくても暮らせるという約束ではない」
次に老人がガレスを見る。
「ここへ残るなら、兵を置いてくれますか」
「見張りは置ける」
ガレスは答える。
「ただ、大勢の兵を常駐させることはできない。この集落だけ守れば終わる戦いじゃない」
「敵が戻ったら?」
「まとまった部隊なら、まず知らせる。戦える人数でなければ見張りも下げる」
厳しい答えだ。
でも、嘘よりいい。
俺は集落を見た。
俺がここへ住みつき、毎日空から守ることもできない。
別の場所で敵が動けば、そちらへ行く。
北にはワイバーンの群れもいる。
セドルもある。
ルーエもある。
一つの家を守るために、全部を捨てるわけにはいかない。
◇
話は夕方まで続いた。
最後に決まったのは、全員が逃げることでも、全員が残ることでもなかった。
子供と老人を優先して西へ出す。
家族ごと移りたい者も同行する。
残る者は、荷をまとめておく。
敵がまとまって戻ったという知らせがあれば、すぐ退けるようにする。
食料も、冬まで必要な分すべてを家へ置いたままにはしない。
一部は西へ送る。
また敵が来た時、一度に全部取られないためだ。
白髪の男が決まったことを一つずつ確認する。
「明日の朝、最初の一団を出します」
ガレスが頷いた。
「護衛を付ける。セドル側にも人数を先に知らせる」
『俺は上から周囲を見る。ワイバーンの群れが北にいるから、道を外れすぎない方がいい』
「昨日の群れですか」
『野生だ。俺が話をつけたから絶対安全、とは思わないでくれ。縄張りへ入れば追われる』
「分かりました」
話を聞いていた若い男が、俺を見上げた。
「ヴァル様は、ここへ残る人も守ってくれるんですか」
俺はすぐ答えなかった。
守る。
その言葉を簡単に使うほど、できることは無限ではないと分かってきた。
『敵が来たと分かれば、助けに来る。ただ、いつでも間に合うとは約束できない』
男は少しだけ顔を伏せる。
『だから残るなら、逃げる準備まで含めて残ってほしい。俺が来るまで動かない、にはしないでくれ』
「……分かりました」
俺の力を信じてもらえるのは嬉しい。
でも、信じられすぎて逃げる判断を遅らせたら逆に危ない。
◇
夕方、西へ先に送る食料をまとめていると、東の見張りが馬で駆け込んできた。
「兵じゃない!」
ガレスが振り返る。
「何が来た」
「使者です。東側の領主からの使いだと言ってます」
俺も顔を上げた。
「この集落の件と、ローデン側の兵が東へ出ている件で話をしたいそうです」
ガレスの表情が変わる。
「ようやく来たか」
『この辺りを治めてる側の人間か』
「ああ。ここから先は、俺たちの領地じゃない」
その言葉で、今まで空から見ていた地面へ、初めて別の線が引かれた気がした。
道は同じ。
森も同じ。
畑も続いている。
空から見れば境目なんてない。
それでも、人間側ではここから先を治める者が違う。
敵を追い返すだけなら、気にしなくても済んだ。
住民を逃がす。
兵を出す。
食料を動かす。
見張りを置く。
そこまで始めれば、無視できなくなる。
『話した方がいいな』
「もちろんだ」
ガレスは地図を広げた。
「こっちも好きで他所の土地へ兵を出してるわけじゃない。連絡できるなら、その方が早い」
俺は東を見る。
戦っている相手だけを見ていた時より、また一つ考えることが増えた。
でも、悪い話ではない。
ここを本来守る人間と話ができるなら、全部をセドル側だけで抱え込む必要はなくなる。
残る者。
逃げる者。
守る者。
それぞれが自分だけで決めて動くより、繋がった方がいい。
俺は翼を畳み、ガレスたちが使者を迎える準備をするのを見ていた。
戦場の線とは別に、人間が引いた線の話が始まろうとしていた。




