第77話 空の群れ
翌朝、俺は東ではなく、少し北寄りの空を飛んでいた。
敵軍の位置だけを見ていればいい状況ではなくなっている。
東から西へ逃げる人々が使う道。
森を抜ける細い道。
荷車が詰まりそうな場所。
敵兵が迂回できそうな経路。
昨日のように大きな集落から一斉に人が動けば、正面の街道だけ見ていても足りない。
地上にはガレスたちの見張りがいる。
俺は、その外側を広く見る。
守護竜になって飛べる範囲が広がったのは、こういう時に助かる。
北へ大きく回り、森と山の境目を見ていた時だった。
視界の端に、黒い影が入った。
一つではない。
数を確認しようとして、俺は進路を止めた。
『鳥じゃないな』
翼が大きい。
細長い首。
長い尾。
後脚には鋭い爪。
前脚に見えるものはなく、翼そのものが身体の前側を支えている。
ワイバーン。
しかも群れだった。
かなり距離があるのに、向こうも俺に気づいた。
先頭近くの一頭が大きく方向を変える。
それにつられるように、群れ全体が散った。
左右。
上。
下。
逃げる動きではない。
俺を囲むための動きだ。
(縄張りか)
俺は高度を変えなかった。
炎も溜めない。
翼を大きく広げて威嚇することもしない。
代わりに《魔獣感応》へ意識を向ける。
流れ込んできた感情は、予想通りだった。
警戒。
緊張。
拒絶。
そして、はっきりした縄張り意識。
ここから先へ来るな。
以前なら、そこまでだったと思う。
怖がっている。
怒っている。
嫌がっている。
感情の種類だけが分かった。
今は少し違う。
感情の中に、方向がある。
群れ。
空。
場所。
守る。
言葉ではない。
文章でもない。
それでも、何を嫌がっているのかが以前より明確に分かった。
(《魔獣感応》も進化の影響を受けてるのか)
確信はない。
使い続けて慣れただけかもしれない。
ただ、今は試せる。
俺は自分の感情を落ち着かせ、その中に一つだけ意図を混ぜた。
(戦わない)
群れの動きがわずかに変わった。
完全には止まらない。
ただ、囲むために広がっていた何頭かが、少し距離を取った。
伝わっている。
少なくとも、こちらが今すぐ襲う気ではないことは。
◇
群れの奥から、一頭が前へ出た。
他の個体より一回り大きい。
首の左側から胸へ、古い傷が一本走っている。翼の端にも欠けた部分があり、かなり長く生きてきた個体に見えた。
周囲のワイバーンが、その一頭より前へは出ない。
群れの中心だろう。
大きな個体が、俺を正面から見る。
流れ込んでくる感情も、他の個体より強かった。
警戒。
敵か。
群れを守る。
近づくな。
単純だ。
だから、こちらも単純に返す。
(群れを襲わない)
大きな個体が首を少し傾けた。
もう一度。
(戦わない。近づきすぎない)
返ってくる緊張が、ほんの少しだけ薄れる。
命令しているわけではない。
従わせているわけでもない。
ただ、互いに「今すぐ戦う必要はない」と確認している。
俺はそれ以上距離を詰めなかった。
相手の縄張りへ入りたいわけではない。
避難路に近いから、どの辺りを飛んでいるのか知りたいだけだ。
問題は、人間だった。
俺は頭の中でイメージする。
西へ向かう人間。
子供。
荷車。
それを襲わないでほしい。
(人間を襲わない)
さっきより反応が鈍い。
返ってきたのは、警戒と空腹。
人間。
小さい。
獲物。
近づく。
面倒。
人間という括りが広すぎるらしい。
俺にとっては「避難している人間」と「敵兵」は別だ。
ワイバーンには、そんな事情は分からない。
なら、もっと簡単にする。
(俺の近くにいる人間は襲わない)
今度は少し伝わった気がした。
大きな個体から返ってきたのは、不満。
ただし拒絶ではない。
(近づけば追う)
そんな感じだ。
それなら十分だった。
野生の魔獣へ、人間の道徳を押しつけるつもりはない。
人間が巣へ近づけば、追われる。
群れが腹を空かせれば、獲物を狩る。
そこまで俺が決める話ではなかった。
◇
その時、下の森で枝が折れた。
俺だけではない。
ワイバーンの群れも、一斉に下を見る。
木々の間から人間が出てきた。
五人。
男が二人。
女が二人。
子供が一人。
背中には荷物。
武器らしいものはない。
避難者だ。
昨日の大きな集落から出た人間か、別の小集落から来たのかは分からない。
おそらく街道を避けて森へ入ったのだろう。
問題は、その姿を見たワイバーン側だった。
群れの三頭が、明らかに飛び方を変えた。
翼を畳み気味にする。
首を下げる。
地上へ向かう角度。
狩る動きだ。
(まずい)
俺は炎を溜めなかった。
風もぶつけない。
群れと人間の間へ、自分の身体を滑り込ませる。
守護竜へ進化した今の俺は、ワイバーンよりかなり大きい。
翼を広げれば、それだけで三頭の進路を塞げる。
群れの中心から鋭い声が上がった。
警戒。
怒り。
獲物。
邪魔。
全部が一気に流れ込んでくる。
俺は同じ強さで返した。
(この人間は守る)
人間。
俺の側。
襲うな。
ここから先へ来るなら、戦う。
ただし、群れそのものを攻撃する気はない。
その線だけを強く押し出す。
大きな個体の感情が変わった。
怒りはある。
不満もある。
それでも、群れを守る意思の方が強い。
俺と正面から争えば、自分たちも傷つく。
その判断まで言葉として読めるわけではない。
ただ、動きで分かった。
先頭に出ていた三頭が、急降下をやめた。
大きな個体が一度だけ強く鳴く。
群れが広がったまま、距離を取る。
俺は人間側へ声を落とした。
『走らないでくれ! 急に逃げると追うかもしれない!』
五人が空を見上げた。
一人の男が俺に気づく。
「ヴァル様!?」
『俺の後ろ側へ、ゆっくり西へ動いてくれ! 森の道へ戻るまで付いていく!』
人々が互いを見る。
子供を真ん中へ。
荷物を持ち直す。
それから、一歩ずつ西へ動いた。
ワイバーンの何頭かが反応する。
俺は動かない。
(襲うな)
大きな個体を見続ける。
返ってくるのは、強い不満。
それでも、飛び込んではこない。
人間たちが俺の後方へ移る。
森の中へ。
さらに西。
十分な距離ができたところで、大きなワイバーンが長く鳴いた。
群れが高度を上げる。
俺は追わない。
向こうも、俺を追わない。
最後に伝わってきたのは、警戒だった。
敵ではない。
仲間でもない。
距離を保つ。
それでいい。
◇
森の道まで避難者を送ると、男の一人が何度も北の空を振り返った。
「今の、ヴァル様が止めたんですか」
『止めたというより、襲わないでくれと伝えた』
「話せるんですか」
『人間みたいには無理だ』
俺は歩く速度へ合わせ、低すぎない位置を飛ぶ。
『感情と、かなり単純な意味なら分かる。こっちからも少し伝わるみたいだ』
「命令できるんです?」
『できないし、する気もない』
男がこちらを見る。
『あいつらは野生だ。俺の兵じゃない。嫌なら聞かないし、縄張りへ入れば追われる』
そこは間違えたくなかった。
敵軍が魔獣へ使った制御棒を思い出す。
苦痛を与える。
従わせる。
目的の方向へ無理やり走らせる。
俺がやりたいのは、あれではない。
自分の意思を伝える。
向こうの意思も受け取る。
それで折り合えないなら、その時は距離を取る。
「でも、助かりました」
『今回はな。次に同じ群れへ会っても、絶対安全とは言えない』
「それでも十分です」
人々は森を抜け、街道へ戻った。
セドルへ向かう道は分かるらしい。
『このまま西へ。道を外れない方がいい。北側にはワイバーンがいる』
「分かりました」
そこまで確認してから、俺は再び空へ上がった。
◇
セドルへ戻ると、ガレスには先に報告した。
『北に野生のワイバーン群がいる。数は十頭前後。正確には数えられなかった』
ガレスの顔が険しくなる。
「避難路へ出る位置か」
『近い。ただ、今のところ積極的に人間を追う感じじゃない。縄張りへ入った人間は別だと思う』
「お前が追い払ったのか」
『追い払ってない。話をつけた』
ガレスが黙る。
俺は言い直した。
『《魔獣感応》が前より深くなってる。単純な意味なら、ある程度やり取りできる』
「具体的には」
『近づくな、戦わない、守る、襲うな。そのくらいだ』
「人間みたいな会話ではないんだな」
『文章で返ってくるわけじゃない。感情の中に意味が混ざる感じだ』
ガレスはしばらく考えた。
「従わせられるか」
『無理だ』
俺は即答した。
『それに、できたとしても今はやらない。あいつらは敵軍の魔獣じゃない』
「分かった」
ガレスもそれ以上は言わない。
「なら見張りへ伝える。北側でワイバーンを見ても、遠距離なら即座に射るな。ただし、低く降りて人間を狙う動きをした場合は別だ」
『敵軍が使ってる個体と見分けがつかない時もある』
「そこが面倒だな」
『姿だけで決めず、俺に知らせてもらえるなら判断する』
「できる範囲でそうする。ただ、ヴァルがいない場所で住民を襲ったなら、人間側も自衛するぞ」
『それでいい』
野生だから何をしても許されるわけではない。
人間にも守る権利がある。
そこまで含めて、距離を決めればいい。
◇
エルマーが横で話を聞いていた。
「守護竜になって、魔獣まで仲間にするのかと思った」
『仲間じゃない』
「でも人間を襲わないよう話したんだろ」
『今回は聞いてくれただけだ。あいつらには、あいつらの群れがある』
「妙にそこはきっちりしてるな」
『敵軍の魔獣を見たからな』
苦痛で動かされていた大型魔獣。
縄。
制御棒。
あれを見てから、力で従わせることへの嫌悪感は前より強くなった。
『強い方が命令して、弱い方が従う。それだけにしたくない』
「人間にも同じこと言えたら立派なんだがな」
『耳が痛い』
エルマーが笑う。
俺も少しだけ笑った。
◇
その日の夕方、もう一度北の空を見に行った。
群れはいない。
山側へ移ったのかもしれない。
あるいは、もっと北に巣があるのかもしれない。
探しには行かなかった。
無理に追えば、せっかく取った距離を壊す。
空だけを見る。
長い時間、自分以外の大きな飛ぶ魔獣と並んだことはほとんどなかった。
人間と話せるようになった。
文字も読めるようになった。
人間の兵と一緒に戦っている。
それだけでも、最初の頃から考えれば十分に変な竜だ。
そこへ今度は、魔獣の意思まで少しずつ分かるようになった。
できることは増えている。
だからといって、全部を自分のものにする必要はない。
人間は人間。
野生のワイバーンは野生のワイバーン。
俺は俺。
互いに近づきすぎず、それでも必要なことだけ伝われば十分なこともある。
首に古い傷を持った大きな個体を思い出す。
群れの前へ出た。
仲間を守ろうとしていた。
あの姿には少しだけ親近感があった。
俺も、いつの間にか人間の前へ出ることが増えた。
ただし、だからといって同じ群れになるわけではない。
それでいい。
俺は北から東へ視線を移した。
大きな旗は、まだ消えていない。
その周囲には、今までより整った兵が集まっている。
戦争は続いている。
地上では人が逃げ、兵が動き、荷が運ばれる。
それでも空には、人間の戦争とは関係なく生きている群れもいる。
そのことを、少し忘れていた。
世界にいるのは、人間と俺だけじゃない。
国を守るなら、その外側にいるものまで全部敵と決めつけない方がいい。
夕日の中、遠くで小さな影が一つだけ飛んだ。
ワイバーンか、ただの鳥かまでは分からない。
俺は追わなかった。
また会うなら、その時でいい。




