第76話 守ると言った、その先
翌朝、俺が最初に向かったのは東の空ではなかった。
セドルの町外れ。
ここ数日、東側から逃げてきた人たちが休んでいる場所だ。
昨日より明らかに人が増えていた。
空いていた建物だけでは足りず、道沿いには布を張った簡素な寝床までできている。水桶を運ぶ者、鍋の前で食事を配る者、怪我人の包帯を替える者。その間を、事情を理解しきれていない子供たちが走り回っていた。
俺は建物から十分離れた空き地へ降りる。
守護竜になってから、以前と同じ感覚で人家のそばへ着地するのは危ない。
足元へ体重を落とすだけで土が沈む。
翼を広げれば、人間数人なら簡単によろめく風が起きる。
少し離れて立つ方がいい。
目の前の光景を見ながら、昨日までとは別の問題を考える。
敵を東へ押し返した。
補給の場所も一つ潰した。
それでも、人は西へ逃げてくる。
戦場から離れれば、それで終わりではない。
腹が減る。
水が要る。
眠る場所が要る。
傷を負っていれば手当ても必要だ。
何百人も一か所へ集めれば、今度は守る側が先に苦しくなる。
「ヴァル様……ですよね」
声を掛けてきたのは、見覚えのない男だった。
三十代くらい。
後ろには妻らしい女と、まだ小さな子供がいる。
『そうだ』
「東の兵を止めている竜だと聞きました」
『セドルの兵と一緒にやってる。俺一頭で止めてるわけじゃない』
男は一度頷いた。
「それでも、ありがとうございました。昨日、家族でここまで来られました」
子供が俺を見上げている。
俺の前脚だけでも、その子よりずっと大きい。
少し前までなら、一生会うこともなかったかもしれない人たちだ。
『無事に着けたなら、それでいい』
男は深く頭を下げた。
嬉しくないわけではない。
ただ、ここへ着いたあとに食べ物を用意したのは俺じゃない。
水を運んだのも。
寝床を作ったのも。
怪我人を診ているのも、人間たちだ。
敵を追い払うだけで「守った」と思うのは、少し違うらしい。
◇
エルマーは、町外れの一角で何枚もの紙を並べていた。
家族ごとの人数。
怪我人。
老人。
子供。
どこから来たか。
文字を読めるようになったおかげで、横から見ても何を整理しているのか分かる。
『西へ動ける人は、もう分けてるんだな』
「朝からやってる。セドルへ全員置いたら、次にまとまって来た時に動けなくなる」
『ここは休む場所にして、歩ける家族はさらに西へ流す。その分、怪我人や老人を置ける場所を空ける』
「そうしたい」
エルマーは紙を一枚めくった。
「ただし、勝手に何百人でも西へ送るわけにはいかん。受ける側にも水と食料が要る」
『館側へは伝えてある?』
「使いを出した。避難者が増えていることも、セドルだけでは抱えられなくなることもな」
『なら、動ける家族から順番に確認しておいた方がいい。家族を途中で割る形にはしない方がいいな』
「ああ。世帯ごとに聞いてる」
少し前の俺なら、空き地へ家を建てればいいと考えていたかもしれない。
今は違う。
今日だけ必要な場所と、長く住む場所は同じじゃない。
逃げてきた人間すべてをセドルへ住ませればいいわけでもない。
そこへガレスが戻ってきた。
東へ出した見張りから報告を受けていたらしい。
「ちょうどいい。二人とも見てくれ」
地図を広げる。
セドルより東。
俺たちが取り戻した小集落より、さらに人家の多い場所へ指を置いた。
「ここで、まとまった避難が始まりそうだ」
地名は読める。
俺はまだ行ったことがない。
道が何本か集まり、周囲には畑もあるらしい。
『今まで逃げてきた村より大きいな』
「ああ。正確な人数はまだ分からん。だが、昨日から家財をまとめている家が増えて、今朝になって西へ出始めた」
『敵はどこまで来てる』
「集落の東側で兵を確認した。まだ中へ入ったという報告はない」
俺は地図を見た。
『先に住民を出す。戦うなら、その時間を作るためだ』
「俺もそのつもりだ」
『道を知ってる人間を二人付けてくれ。セドルへ着いたあと、さらに西へ行ける家族を途中から分けたい』
「出す」
『敵が迫れば俺が東側を止める。集落を砦にする必要はない』
「それでいこう」
決まるのが早かった。
敵を何人倒すか。
そんな相談は一度もしなかった。
◇
大きな集落は、近づく前から騒がしかった。
家の前に箱や袋が積まれている。
荷車へ穀物を載せる家族。
山羊を引く者。
鍋まで抱えて歩く女。
複数の道から人が集まり、西へ向かうはずの荷車が何台も詰まっていた。
俺はすぐには降りない。
まず上から一周する。
東側の道。
騎兵が四。
その後ろ、森際に歩兵。
十数人。
まだ集落へ入ってはいない。
だが近い。
俺は西側の広い空き地へ降りた。
翼を畳み、人家との距離を取る。
地面が低く揺れた。
「竜だ!」
悲鳴が上がる。
逃げようとした者もいた。
「待て! セドルにいる竜だ!」
誰かが叫び、騒ぎが少しずつ収まる。
『俺はヴァルだ。東の軍とは戦ってる。ここを襲いに来たんじゃない』
人々が俺を遠巻きに見る。
年配の男が一人、前へ出てきた。
「セドルへ行けば入れてもらえるんですか」
『休む場所はある。ただ、全員がそこへ留まれるわけじゃない。歩ける家族は、そのまま西へ行ってもらうこともある』
男の顔が曇る。
「家財は?」
『持てる分だけにした方がいい』
「家を捨てろと?」
『違う』
俺は止まっている荷車を見る。
大きな箱。
棚。
袋。
家具まで積んでいる車がある。
『今必要なのは、家そのものを運ぶことじゃない。人を先に出すことだ。荷が多すぎて道が止まれば、後ろの家族まで逃げられなくなる』
年配の男は振り返った。
荷車の列は、ほとんど動いていない。
セドルから来た二人の兵も、すぐに人々へ声を掛け始めた。
「老人と子供を先に!」
「歩ける人は荷車から降りてくれ!」
「家畜は荷車の間へ入れるな! 別にまとめる!」
俺が細かいことを指示する必要はなかった。
地上のことは人間同士の方が早い。
◇
問題になったのは、一台の荷車だった。
道の真ん中で止まっている。
家具と箱が山ほど積まれ、馬が重さに負けてほとんど進めていない。
その後ろで、老人を乗せた荷車が待っていた。
セドルの兵が話している。
「これでは動けません。荷を減らしてください」
「全部うちの物だ!」
「分かっています。でも、後ろが詰まっています」
「置いていけと言うのか!」
男の声が大きくなる。
俺は少し離れたところから聞いていた。
兵がこちらを見る。
助けを求めているわけではない。
ただ、どうするか迷っている。
俺は男へ声を掛けた。
『その荷を全部守る約束はできない』
男が俺を見上げる。
『でも、ここに止まったままなら、後ろの人まで逃げる時間を失う』
「何年もかけて揃えた物なんだ」
『分かる。だから、俺から捨てろとは言わない』
一度、後ろの荷車を見る。
『ただ、何を残して何を持つかは今決めた方がいい。敵が来てから選ぶ時間はない』
男は黙った。
後ろでは、老人を荷車へ乗せようとしている家族が待っている。
しばらくして男が荷台へ上がった。
「……大きい箱を下ろせ」
家族が動いた。
棚。
箱。
重い家具。
少しずつ道端へ下ろす。
荷車が軽くなる。
馬が前へ出た。
それだけで、後ろの列も一緒に動き始めた。
俺は何も言わなかった。
決めたのは、あの男自身だ。
◇
避難の列が形になっていく。
老人。
怪我人。
幼い子供は荷車へ。
歩ける者は荷を減らして歩く。
家畜は別の列。
セドルで休む家族と、さらに西へ進める家族も、分かる範囲で最初から分ける。
俺はその作業へ口を挟まず、空へ上がった。
東を見る。
騎兵が動いた。
四騎のうち二騎が集落へ。
歩兵も続く。
距離はもう遠くない。
俺は集落へ戻る。
『東の兵が動いた。避難は止めず、そのまま西へ出してくれ』
年配の男の表情が強張る。
「ここへ来ますか」
『来る。ただ、集落へ入る前に俺が止める』
セドルの兵がすぐ反応した。
「列は動かせ! 振り返るな!」
俺は東へ飛んだ。
◇
騎兵は俺を見るなり速度を落とした。
「竜だ!」
俺は集落へ続く道の正面へ降りる。
家々からは十分離れている。
今の身体なら、翼を少し広げるだけで道の大半を塞げる。
『ここから先へ来るな。住民は西へ移動している』
「退け!」
一騎が弓を引いた。
矢は胸へ来た。
そのまま受ける。
鏃が鱗を滑り、折れた軸が前脚のそばへ落ちた。
痛みというほどでもない。
俺は足を引かなかった。
『普通の矢で、ここは抜けない』
見せるだけで十分だった。
もう一人の騎兵が狙いを上げる。
胸ではない。
顔。
目だ。
そこは別だ。
矢が放たれる瞬間、横から風を当てる。
射線が逸れ、人のいない道端へ落ちた。
背後には住民がいる。
俺が避けた矢を、そのまま集落へ通すわけにはいかない。
歩兵も到着した。
「翼を狙え!」
「脚の曲がるところへ回れ!」
敵も、鱗の厚い場所へ武器を当てても意味が薄いと知っている。
弓兵が森際へ散る。
槍兵が左右へ広がる。
俺は炎を使わない。
森が近い。
背後には人がいる。
まず弓兵へ風を送った。
枝が鳴り、枯れ葉と土が舞う。
射手が目を庇う。
その隙に歩兵が左右から入る。
一人の槍が前脚へ届いた。
穂先が鱗へ当たり、弾かれる。
男の両腕が跳ねた。
もう一人は関節の内側を狙う。
そこへ入られる前に足を置き直す。
俺が一歩動くだけで、地面が沈む。
目の前へ降りた爪を見て、兵が反射的に止まった。
俺は前脚を振らない。
今の身体で人間へまともに当てれば、殺すつもりがなくても潰しかねない。
代わりに地面を強く踏む。
土が跳ねる。
盾兵が姿勢を崩す。
その横から、集落へ抜けようとした男がいた。
俺は身体そのものをずらし、道を塞ぐ。
巨体の横幅だけで、人間が通れる隙間がなくなる。
『西へ行かせないために来たなら、ここで終わりだ』
「押せ!」
敵の指揮役が兵を前へ出す。
盾が重なる。
俺は真正面から身体をぶつけなかった。
爪を立てず、前脚の側面を盾列へ当てて押す。
人間側がどれだけ力を込めても、この体重は支えきれない。
盾がずれ、人が重なって倒れる。
俺はそこで止める。
倒れた者へ体重を掛けない。
その向こうで、敵兵の穂先が揺れた。
誰かが一歩下がる。
それを見て、別の男も下がった。
指揮役が叫ぶ。
「退くな!」
だが、道は俺の身体で塞がれている。
弓もまともに翼を狙える位置を取れていない。
前へ出る意味がなくなった。
やがて敵側から別の声が上がった。
「下がれ!」
今度は兵たちが東へ動いた。
武器を捨てた者には手を出さない。
退く者も追わない。
欲しいのは敵兵の死体ではなかった。
時間だった。
◇
集落へ戻ると、荷車の列は半分以下になっていた。
『敵は一度下がった。今のうちに出てくれ』
年配の男が頷き、周囲へ声を掛ける。
さっき荷物を減らした男も、もう列の中にいた。
荷車に載っているのは家具ではない。
老人と子供だった。
俺を見ると、男が少しだけ視線を逸らす。
「……残した物、戻って取れると思うか」
『約束はできない』
「そうか」
『ただ、生きていれば取り戻す方法は考えられる。今は人を先に出す方がいい』
男はしばらく黙ったあと、手綱を握り直した。
「分かった」
荷車が西へ動く。
俺はその列を見ながら、集落の外へ立った。
夕方までに、大きな一団はほとんど西へ出た。
最後まで残るのは、見張りと火の始末をする者、それに動けない家族を手伝う者だけだ。
『敵が戻ったら、戦わず知らせてくれ。ここを守るために死ぬ必要はない』
「分かりました」
それを確認してから、俺は避難者の列を追って西へ飛んだ。
◇
セドルへ着いた時には、朝とは人の流れが変わっていた。
「ここで休む家族は右!」
「さらに西へ進める人は左へ!」
「老人と怪我人を先に!」
町外れですべてを止めていない。
先に西へ動ける家族を出した分だけ、新しく来た人間が休める場所も空いている。
紙を持った者が、家族ごとの人数と行き先を確認していた。
荷車も分けられている。
エルマーが列の端から戻ってきた。
「東は?」
『兵が二十人弱。集落へ来たから道を塞いで下げた。住民もほとんど出せた』
「こっちも、今のところ詰まってない」
俺は流れていく人々を見る。
『セドルへ全部抱え込まない形に変えたのが効いてるな。このまま人数と行き先を残しておけば、次に誰がどこへ行ったか分からなくなることも減る』
「ああ。その辺は人間側でやる」
『任せる』
それでいい。
人を敵から守ることはできる。
でも、その人たちが次にどこで眠り、どこへ移り、何を受け取るかまで、俺一頭で決める必要はない。
そのために、人間側の役目がある。
俺には俺の役目がある。
◇
日が傾く前、俺はもう一度東へ上がった。
避難した大きな集落。
昨日壊した補給拠点。
そのさらに東。
大きな旗。
今までとは違う兵が集まっていた場所。
全部を高い位置から見る。
敵はまだいる。
前線を捨てたわけではない。
ただ、昨日までのように押し続けてはいなかった。
補給場所を下げた。
住民の避難も進んだ。
こちらが守るべき線も、少しずつ形を変えている。
空から見ると、軍だけではなく人の流れまで一本の道に見えた。
東から西へ逃げる家族。
西から東へ出る斥候。
途中で物を運ぶ荷車。
戦う者。
逃げる者。
支える者。
守るという言葉は、敵の前へ立つことだけでは足りないらしい。
人を逃がす。
途中で詰まらせない。
怪我人を休ませる。
次へ進める人は、さらに安全な場所へ送る。
町一つに全部を抱え込まない。
俺が空から敵を止めても、その先が動かなければ守ったことにはならない。
朝、俺へ頭を下げた家族を思い出す。
あの人たちが今日食べる物を用意したのは俺じゃない。
でも、俺が敵を止めた時間で、人間たちが次の場所まで繋いだ。
それでいい。
俺一頭ですべて守る必要はない。
むしろ、それをやろうとすれば守れない場所が増える。
東の空へ目を向ける。
大きな旗はまだ消えていなかった。
敵も、こちらの動きを見ている。
次に何をしてくるかは分からない。
ただ、もしまた人の暮らす場所へ兵を出すなら、その時も同じだ。
戦うだけでは終わらせない。
守ると言った、その先まで繋げる。




