第75話 戦う前を壊す
正面にいる兵を、一人ずつ倒す必要はない。
弓兵も、騎兵も、魔術師も、食べなければ動けない。
矢は使えば減る。
馬にも餌が要る。
負傷者を運ぶ荷車も、壊れた武器を直す道具も必要になる。
なら、その全部が前線へ届く前に止める。
翌朝、俺とガレスは地図の東側を見ていた。
『狙うのは、前に見た大きな集積地でいい』
「ああ。ただし、目的を間違えるな」
ガレスが指を置く。
「敵兵を何十人倒したかじゃない。ここから前へ荷を出せなくする。それができれば十分だ」
『荷車と車輪。矢。飼料。前へ出す準備が済んでる物を優先する』
「それと、長居するな」
『対竜用の縄と魔術師がいるのは分かってる』
「分かってても、また降りる時があるから言ってる」
『今日は助ける人間もいない。地面まで行く理由はない』
ガレスがようやく頷いた。
「ならいい」
人間の部隊は連れていかない。
敵地の奥へ兵を入れれば、その兵を帰す道まで守る必要が出る。
今回は、俺だけで行く。
だからこそ、できることも限られる。
物を奪って大量に持ち帰ることはできない。
占領もできない。
ただ、運べなくすることならできる。
『行ってくる』
「帰ってくるまでが仕事だ」
『分かってる』
俺は翼を広げた。
◇
真正面からは行かなかった。
敵も、俺が空から来ることはもう知っている。
前線の上を通れば、進路を知らせるようなものだ。
森の上を大きく南へ回り、高度を保ったまま東へ進む。
守護竜になってから、長く飛ぶのはかなり楽になった。
身体そのものは大きく、重くなった。
それでも翼が空気を掴む力も、身体を支える魔力も強くなっている。
以前なら疲れを感じ始めた距離でも、まだ余裕がある。
やがて、集積地が見えた。
前に見た時より、さらに整っている。
天幕。
荷車。
馬。
袋や樽を積んだ一角。
矢束ばかりをまとめた場所。
車輪や木材を置く修理場所。
東から入る荷と、西へ出す荷まで分けられていた。
大きな町ではない。
それでも軍を動かすための小さな町のようだった。
(これを前線の後ろに作るから、何日も戦えるのか)
文字が読めるようになったことで、上からでも分かることが増えている。
荷札。
矢。
乾燥食。
馬匹飼料。
医療用の布。
予備の弓弦。
前線へ送る日を書いた札まである。
兵だけ見ていた頃より、軍の形がずっとはっきり見えた。
当然、俺への備えもある。
弓兵が何か所かに分かれている。
杖を持つ魔術師も見えた。
街道側の空き地には、重りの付いた太い縄。
杭も並んでいる。
(来ると思ってるな)
だったら、その期待通りに降りる必要はない。
俺は高い位置からもう一周した。
◇
最初に狙う場所を決めた。
馬ではない。
人でもない。
前線へ向けて出す準備が終わっている荷車だ。
三台。
食料。
矢。
飼料。
馬はまだ繋がれていない。
御者も近くにいない。
今なら壊せる。
俺は風向きを確かめた。
東から西。
集積地の中へ向かって風を入れれば、その先に天幕と人がいる。
広く火を使うのはまずい。
だから最初は身体を使う。
高度を落とす。
「竜だ!」
すぐ声が上がった。
弓兵が空を見る。
魔術師も杖を上げる。
俺は真正面には入らず、荷車の外側へ回った。
弓が飛ぶ。
何本かが胸や肩へ当たった。
乾いた音だけが残り、矢は鱗の上を滑り落ちる。
胴を狙う普通の矢なら、もう大きな脅威ではない。
「翼を狙え!」
敵側から声が飛ぶ。
そちらは無視できない。
弓の向きが上がったところで、一度強く羽ばたく。
横風が射手の姿勢を崩した。
そのまま一台目の荷車へ降りる。
人のいない側。
前脚を車輪へ掛ける。
少し力を入れただけで、木が軋んだ。
もう一段。
ばき、と車輪が割れる。
車軸ごと荷台が傾いた。
袋が地面へ落ちる。
次の一台。
今度は荷台そのものではなく、反対側の車輪。
前脚を叩き込む必要すらなかった。
体重を掛ける。
木輪が沈み、軸が折れた。
「荷車から離れろ!」
誰かが叫ぶ。
御者たちが逃げる。
俺は追わない。
人を倒しに来たわけじゃない。
◇
魔術師が動いた。
赤い光。
火球が来る。
俺はその場へ留まらず、すぐ飛び上がった。
火球が壊れた荷車へ当たる。
炎が上がる。
(それはそっちの火だぞ)
敵兵が慌てて水を運び始めた。
こちらが火を付けなくても、敵自身の攻撃で仕事が増えている。
別の魔術師が風を使う。
下から突き上げる力。
翼が煽られる。
俺は逆らって無理に姿勢を固定せず、風へ乗るように高度を上げた。
敵の狙いから外れる。
そのまま集積地の上を大きく回る。
次は予備の車輪。
十個以上が、修理場所の横へ並べられている。
あれを壊せば、今壊した荷車だけでは済まない。
俺は少し考えた。
車輪を全部爪で潰す時間はない。
火なら早い。
周囲は土の広場。
近くに人はいるが、車輪の山からは離れ始めている。
森も遠い。
風は西へ向かっているが、その先は空いた地面だ。
(ここなら使える)
俺は一度高く上がった。
人が離れたのを確認する。
短く炎を吐く。
狙うのは車輪と、その横に積まれた乾いた補修木材だけ。
火が移る。
細い木から燃え始め、車輪の縁へ広がった。
「消せ!」
また人が集まる。
敵は俺を撃つか。
火を消すか。
荷を逃がすか。
一度に全部はできない。
◇
それでも、敵もすぐに動きを変えた。
「前へ出す荷を全部東へ回せ!」
命令が飛ぶ。
まだ無事な荷車へ馬を繋ぎ始めた。
食料。
矢。
飼料。
重要そうな箱。
集積地を守り続けるのではなく、荷だけでも逃がすつもりだ。
俺はそれを見て、少し迷った。
逃げる荷を全部追えば、さらに壊せる。
でも、それを始めれば東へ東へと入り込む。
今日の目的は、この場所から前線へ物を送り続けられなくすることだ。
荷が東へ戻るなら、それ自体が目的に近い。
(追わなくていい)
ただし、西へ出ようとしている車は別だ。
一台だけ、前線側へ向いている。
矢と太い縄が載っている。
すでに馬も繋がれていた。
御者が手綱を取る。
俺は前へ回った。
人や馬へ炎は使わない。
高い位置から強い風を、荷車の前方へ落とす。
砂と枯れ草が舞う。
馬が足を止める。
御者が目を庇う。
その間に俺は荷車の横へ降りた。
御者が飛び降りる。
『離れろ』
人語が通じる。
男は迷ったあと、馬の綱を外した。
馬を連れて逃げる。
それを待つ。
荷車だけになった。
前脚を荷台へ掛ける。
横倒しにする。
矢束と縄が地面へ散った。
乾いた縄。
木の矢。
人はいない。
今度は迷わない。
短い炎を吐く。
すぐ燃えた。
◇
敵側の対応がさらに変わる。
魔術師が一か所へ集まり始めた。
一人。
二人。
三人。
杖の向きが揃う。
(あれはまずい)
普通の矢なら、胸や背中で受けても構わない。
魔術を同時に何発も受けるのは別だ。
俺は高度を取る。
火球が一つ。
その横から風。
さらに石の塊が飛ぶ。
全部の軌道が違う。
俺は正面へ抜けず、翼を絞るように身体を傾けた。
火が下を抜ける。
風で身体が流される。
その先へ石が来る。
完全には避けられない。
肩へ当たった。
鈍い衝撃が鱗の下まで響く。
『ぐっ……!』
落ちはしない。
だが、これを何度も受ける必要はない。
さらに地上から、重りの付いた縄が放たれた。
高度があるので届かない。
それでも俺が下がる場所を狙っている。
(欲張るな)
すでに荷車を壊した。
車輪を燃やした。
矢と縄も焼いた。
敵は荷を東へ逃がし始めている。
ここで「もう少し」を狙って翼を傷めれば、何をしているのか分からない。
俺はさらに高度を上げた。
◇
上空から見ると、集積地の形が崩れ始めていた。
火を消す人間。
荷を東へ運ぶ者。
天幕を畳む者。
馬を移す者。
兵も、西側ではなく東側へ集まりつつある。
(捨てる気か)
一日で全部を撤去できるとは思わない。
それでも、このまま使い続けるつもりがないのは分かる。
俺がいつまた来るか分からない。
そう思わせただけでも、ここへ大量の物を置くのは危険になる。
補給場所が東へ下がれば、その分だけ前線まで遠くなる。
同じ量を運ぶのに時間が掛かる。
馬も使う。
護衛も増やす必要がある。
俺は壊した荷車の数を数えるのをやめた。
大事なのは、向こうが動き始めたことだ。
場所を覚える。
逃がした荷の方向も見る。
それから西へ向きを変えた。
追わない。
◇
『集積地を畳み始めてる』
セドルへ戻って報告すると、ガレスはすぐ地図を広げた。
「荷はどこへ動かした?」
『東。前線側へ出そうとしてた一台は止めた。残りは奥へ逃がしてる』
「追ったか?」
『追ってない』
ガレスが一瞬だけこちらを見る。
「成長したな」
『その言い方、前にも聞いた』
「前は言っても追ってた」
『今日は追ってないだろ』
「だから褒めてる」
エルマーが横で笑う。
俺は無視して地図を見る。
『車輪もかなり燃やした。前へ出す矢と縄も一部壊した。ただ、全部じゃない』
「全部である必要はない」
ガレスが東側へ指を滑らせる。
「集積地をさらに後ろへ下げたなら、前線との距離が伸びる。それだけで効く」
『兵の数は減ってない』
「兵は飯を食う」
『矢も勝手には増えない』
「馬も腹が減る」
ガレスが頷く。
「百人の兵を一人ずつ倒すより、その百人を動かす荷が届かない方が効く時もある」
今日それを目で見た。
人間の軍は、人間だけで動いているわけではない。
荷車。
馬。
道。
食料。
矢。
修理する人。
それが揃って初めて、兵は前へ進める。
◇
午後、地上の斥候も東へ出た。
俺が壊した集積地へ入るためではない。
敵がどの程度後退したかを見るためだ。
夕方前に戻ってきた。
「前に出ていた兵も一部下がっています」
「全部か?」
ガレスが聞く。
「いえ。見張りや小さい部隊は残ってます。ただ、大人数を前へ集める動きは止まってます」
『荷は?』
「もっと東へ。追いませんでした」
「それでいい」
ガレスが地図へ印を移す。
敵の線が、少し東へ下がる。
わずかだ。
それでも、昨日までよりセドルから遠い。
避難した人間が暮らしていた集落からも離れる。
『こっちも前へ出す?』
口にしてから、自分で続けた。
『……いや、急いで追う必要はないな。見張りだけ少し前へ動かせば足りる』
ガレスが頷く。
「そうする。敵が下がった分を、そのまま全部取りに行く必要はない」
土地を取る戦いではない。
人の暮らす場所から、敵を離したいだけだ。
なら、相手が自分から離れるなら追撃する理由は薄い。
◇
日が傾く前に、俺はもう一度だけ東へ上がった。
朝の集積地は、同じ場所とは思えないほど散らかっていた。
焼けた車輪。
倒れた荷車。
置いていかれた天幕の骨組み。
拾い切れなかった道具。
人の数も減っている。
(本当に下げたな)
さらに東を見る。
逃がした荷車が向かった方角。
そこにはまだ土煙がある。
兵もいる。
戦いそのものが終わったわけではない。
その中で、一つ見慣れないものが目に入った。
旗。
今まで前線で見てきたものより大きい。
高い竿へ掲げられ、その周囲にも別の旗が集まっている。
近くには騎兵。
装備の揃った兵。
魔術師らしい姿も複数見えた。
俺は高度を保ったまま大きく旋回した。
(今までの部隊と違う)
何者かまでは分からない。
旗だけで決めつける気もない。
ただ、荷を逃がしただけの場所にしては、人の集まり方が整いすぎている。
俺が近づいたことに地上も気づいた。
弓兵が動く。
杖も上がる。
これ以上見るために降りる必要はなかった。
位置。
旗。
周囲の兵。
それだけ覚えて帰る。
◇
『東に、今までと違う旗が出てる』
戻ると、ガレスの顔がすぐ変わった。
「どんな旗だ」
見えた形を説明する。
大きさ。
模様。
周囲にいた兵。
位置。
ガレスとエルマーが地図を見る。
「今まで前に出ていた隊の旗じゃないな」
『上の指揮官が来た可能性はある。ただ、まだ旗だけじゃ断定できない』
「その通りだ」
ガレスが答える。
「明日、地上からも確認する。無理には近づかせない」
『俺も高いところから見る』
「今日と同じだ。見ることと、攻撃することは分けろ」
『分かってる』
今度は本当に分かっている。
今日、兵を何十人も倒したわけではない。
魔術師を捕まえたわけでもない。
それでも、敵は大きな集積地を一つ捨てた。
荷を東へ戻した。
前線の兵まで少し下がった。
爪で敵を倒さなくても、軍全体を動かすことはできる。
そして、その結果として、今まで前へ姿を見せなかった誰かが動いたのかもしれない。
俺は東を見る。
次に相手をするのは、前へ送られてきた兵だけではなさそうだった。




