第71話 前進拠点を潰す
翌朝、俺はセドルの東側を高く飛んでいた。
《守護竜》へ進化してから、長く飛び続けても以前ほど身体が重くならない。
翼だけで浮いている感覚とも少し違う。
羽ばたくたび、身体の内側を巡る魔力が翼と胴を支え、重くなったはずの巨体を空へ押し上げている。
だからといって低く飛ぶ気はなかった。
身体が強くなっても、目や翼膜まで鱗で覆われたわけではない。
敵はすでに、そこを狙えば俺を飛べなくできると知っている。
街道の上を大きく回りながら、昨日まで敵が使っていた場所を見る。
小さな中継地点は、ほとんど空になっていた。
荷車はいない。
馬を繋いでいた杭が数本。
踏み固められた地面と、解体途中の簡単な棚だけが残っている。
敵は一段下がった。
だが、それで軍そのものが消えたわけではない。
さらに東。
街道と森に挟まれた開けた土地に、もっと大きな拠点が残っていた。
二重の木柵。
いくつもの天幕。
荷車。
馬。
人の数も多い。
槍や弓を持った兵だけではなく、袋を運ぶ者、馬へ水をやる者、車輪を直している者までいる。
前に見た大きな集積地ほどではない。
それでも、ここが残れば西へ兵と物資を送り直すことはできる。
俺は高度を保ったまま、一周した。
文字が読めるようになったおかげで、見えるものまで変わった。
荷車の横に付いた札。
――矢束。
――乾燥食。
――馬匹飼料。
別の木箱には、予備弓弦。
革袋。
治療用の布。
中身を開けなくても、何を運んでいるか分かる。
『やっぱり、ただの陣じゃないな』
ここは兵が休む場所であると同時に、前へ送り出す物を集める場所だ。
もう一度位置を確認する。
柵の内側。
街道寄り。
太い縄が二組あった。
先に重りが付いている。
近くには杭。
見覚えがある。
俺を地面へ落とすための道具だ。
進化したからといって、無視していいものではない。
むしろ身体が大きくなった分、縄を掛けられる場所も増えた。
俺は森側の弓兵と、縄の位置まで頭へ入れてから西へ戻った。
◇
守備隊長は地図の前で待っていた。
『東側の大きい拠点はまだ残ってる。二重柵、荷車は十台以上。食料と矢、飼料もある。あそこを残せば、また西へ兵を出せる』
俺は爪先で位置を示した。
『森側にも見張りがいる。弓兵もいる。それと、街道側の内側に対竜用の縄が二組残ってる』
守備隊長は地図へ指を置いたまま考える。
「兵の数は?」
『戦える兵だけなら、こっちより多く見える。ただ、半分近くは荷や馬を扱ってる人間だ』
「なら、全部を兵として数える必要はないな」
『俺一頭で突っ込むつもりもない』
守備隊長が俺を見る。
「進化すると慎重になるのか?」
『何回怒られたと思ってる』
周囲から小さく笑いが漏れた。
守備隊長も口元だけ少し緩めたが、すぐ地図へ視線を戻した。
「潰す」
『取るんじゃなくて?』
「欲しいのは土地じゃない」
返事は早かった。
「俺たちがあそこへ居座れば、今度はセドルから守る場所まで伸びる。兵を置く。食料を運ぶ。交代させる。その分だけ、こっちが疲れる」
指が東から西へ戻る。
「敵が西へ出るために使えない状態へすれば十分だ」
俺もそれでいいと思う。
守る場所を広げることと、土地を奪うことは同じじゃない。
『食料や矢は持って帰る?』
「使えるものはな。敵が置いていった食料を全部焼いて、こっちで食う物が足りなくなったら馬鹿らしい」
『天幕や棚は?』
「持てる物は外す。すぐ使い直せる設備は壊す。ただし火は必要なところだけだ。森へ燃え移らせるな」
『分かった』
「お前には上から見てもらう」
守備隊長は俺の顔を見上げた。
進化前より、その角度が大きくなっている。
「弓兵。迂回しようとする兵。それと縄だ。見つけても、無理に地面へ降りるな」
『空にいた方が相手の人数を使わせられる』
「そういうことだ」
少し前なら、自分が前へ出ないことを物足りなく感じたかもしれない。
今は違う。
俺を見るために十人が空を警戒するなら、その十人は地上の兵へ向けられない。
それも戦い方だ。
◇
昼前、人間側の兵が東へ動いた。
盾兵。
弓兵。
槍兵。
大人数ではない。
拠点を占領して残るためではなく、壊して戻るための数だ。
俺はその上を飛ぶ。
敵の拠点が見える距離まで来ると、角笛が鳴った。
柵の内側で人が動く。
弓兵が前へ。
盾兵がその前へ。
街道側では、対竜用の縄を扱う兵が四人ずつ配置についた。
『縄は右側! 二組! 柵の内側だ!』
「聞いた!」
守備隊長の声が返る。
「正面は急ぐな! 弓を上げろ!」
敵の矢が先に飛んだ。
俺は味方の位置を見る。
盾列の後ろ。
弓兵。
その横に、人のいない土の部分がある。
そこへ向けて斜めに風を入れる。
矢の束が少しずれた。
大半は盾へ。
何本かは空いた地面へ突き刺さる。
俺へ向けられた矢もある。
一本が胸の鱗へ当たり、乾いた音を立てて弾かれた。
もう一本が肩を擦る。
刺さらない。
普通の矢なら、今の鱗を簡単に抜けない。
だから身体を細かく捻って一矢ずつ避ける必要はなかった。
ただし、翼を狙う射手だけは別だ。
弓の向きを見る。
二人。
最初から俺の翼膜へ狙いを付けている。
俺は高度を一段上げた。
矢が下を通る。
そのまま拠点の反対側へ回る。
「後ろだ!」
敵の声。
盾が振り向く。
縄を持つ兵まで俺を見る。
それでいい。
俺は降りない。
低く来ると思わせ、さらに上へ抜ける。
敵の視線がついてくる。
その間に、地上では守備隊長の兵が柵へ近づいた。
◇
縄の兵が配置を変え始めた。
俺が反対側へ回ったので、投げられる方向を変えたいらしい。
重りを引く。
太い縄を広げる。
人間四人でも扱いにくそうだ。
その横には、予備の縄を載せた木枠があった。
周りに兵が少ない。
俺は一度、風向きを見る。
東から西。
木枠の周囲は土が出ていて、すぐ横に森はない。
燃やすなら、ここだけなら広がりにくい。
俺は高度を下げすぎず、短く炎を吐いた。
長く薙がない。
木枠の端だけ。
乾いた木へ火が移る。
「火だ!」
「縄を離せ!」
縄を扱っていた兵が予備を守るために動いた。
戦場の中央で、火を消すために人が割かれる。
『今だ! 縄の兵が離れた!』
「押せ!」
守備隊長の声。
人間側の盾列が前へ出た。
敵の正面が一歩下がる。
俺は炎を重ねなかった。
対竜装備が使えなくなれば十分だ。
全部を燃やす必要はない。
◇
敵が柵の後ろへ人数を集めた。
木柵は、人間相手なら十分に高い。
俺には胸より低い。
だからといって、そのまま跨ぐ気はない。
内側には槍兵が待っている。
目や喉、翼膜を狙われれば、鱗が厚くても意味がない。
俺は外側から前脚を掛けた。
太い横木へ力を掛ける。
木が軋む。
一本目の杭が傾いた。
敵兵が槍を突き出す。
胸へ当たった穂先は鱗の表面を滑った。
別の一本は顎の下を狙っている。
そちらへは顔を下げない。
爪を横木へ掛けたまま、身体を横へ引く。
ばき、と音が鳴った。
杭が一本抜ける。
横木が落ちる。
地面が崩れ、内側の槍兵が下がった。
『ここが開く!』
守備隊長はすぐ動いた。
「右へ二組! 正面は崩すな!」
味方が柵の破れへ向かう。
敵もそこへ人を寄せる。
正面が薄くなる。
俺はさらに壊そうとはしなかった。
今、人間が戦っている場所へこの巨体で踏み込めば、敵と味方を一緒に巻き込みかねない。
飛び上がる。
空から全体を見る。
『森側へ三人回ってる! 左の斜面にも弓兵!』
「森へ一組! 左は盾を上げろ!」
俺が見つける。
人間が動く。
それで戦線が崩れない。
巨大な身体で全部押し潰すより、ずっと安全だった。
◇
敵の弓兵が位置を変えた。
柵の上ではなく、少し高い盛り土へ上がる。
そこから味方の槍兵を狙う。
数は六人。
矢が上がった。
俺は間に合わない。
風を入れるには角度が悪い。
その瞬間、新しい力を思い出した。
《竜護》。
守りたい対象へ魔力を重ねる。
俺は意識を味方の槍兵へ向けた。
『止まれ!』
自分でも、何が起きるか完全には分かっていない。
それでも魔力を放つ。
空気の中に薄い膜のような感触が広がった。
矢が落ちる。
一矢目。
槍兵の盾へ当たる。
音が鈍い。
二矢目は肩へ。
だが、突き刺さらず、勢いを失って地面へ落ちた。
「今の……?」
兵が自分の肩を見る。
俺も驚いた。
完全に止めたわけではない。
でも明らかに威力が落ちている。
さらに矢が来る。
今度は長く維持しない。
『盾を上げろ! 今のうちに下がれ!』
兵たちが盾を寄せ、盛り土の射線から外れる。
俺は《竜護》を切った。
身体の奥から魔力が抜ける感覚があった。
(広く使い続ける力じゃないな)
使える。
でも、何人も長時間守れば消耗する。
必要な瞬間だけ。
そういう力らしい。
◇
敵側の角笛が鳴った。
短い音が三度。
柵の内側で動きが変わる。
「退くぞ!」
声が上がった。
馬を外す者。
紙を集める者。
荷車へ飛び乗る者。
全部を運び出す時間はない。
敵兵は東側の出口へ集まり始める。
俺は空から、その動きを見ていた。
追えば、背中を狙える。
地上の兵も同じだ。
だが守備隊長は叫んだ。
「追うな! 拠点を押さえろ!」
俺も同意見だった。
今日の目的は一人でも多く倒すことじゃない。
ここを使えなくすることだ。
ただ、一台の荷車が逃げ遅れていた。
車輪が土へ嵌まっている。
兵が何人か押している。
俺が近づくと、一人の男が盾と剣を持って前へ出た。
「来るな!」
俺は止まる。
男は俺の脚から胸まで視線を上げた。
進化前より大きくなった身体を、すぐ近くで見ればそうなる。
『退けば追わない』
「黙れ!」
男が踏み込む。
俺は前脚を振らなかった。
あの身体へまともに当てれば、盾ごと潰しかねない。
一歩だけ前へ出る。
爪が地面へ沈む。
身体の重さで土が揺れた。
男の足が止まる。
それでも盾を上げる。
俺は翼を短く振った。
土を巻いた風が盾へ当たり、男の身体が横へ転がった。
その後ろの槍兵も顔を庇う。
俺がもう一歩進むと、二人は自分から下がった。
追わない。
荷車へ顔を寄せる。
札が読める。
『矢。乾燥食。こっちは飼料だ』
近くへ来た味方兵が荷台を見る。
「全部持ち帰れるぞ!」
『その前に紙を探してくれ。移動予定や補給の記録があるかもしれない』
「了解!」
今までなら、見つけた紙を誰かへ渡して終わっていた。
今日は違う。
自分でも読める。
◇
拠点の奥に、木箱が一つ残っていた。
紙の束が入っている。
俺は一枚ずつ見る。
食料の受け入れ記録。
矢の残数。
馬の飼料。
そして、別の紙。
『これ、東から補給が来る予定だ』
守備隊長が近づく。
「いつだ」
『日付は読める。ただ、こっちの暦の感覚がまだ完全じゃない』
紙を見せる。
守備隊長の顔が少し変わった。
「近い」
『今日明日ではない?』
「そこまでじゃない。だが、ゆっくりしていられるほど先でもない」
別の記録も開く。
『こっちは部隊の移動予定だ。東側へ一度まとめるらしい』
「その通りに動くとは限らん」
『でも、情報があるのとないのでは違う』
「そうだ」
紙をまとめる。
敵の兵を一人捕まえるより、こっちの方が使えるかもしれない。
◇
戦いが終わると、守備隊長は負傷者の手当てを優先した。
味方だけではない。
逃げ切れず、その場で動けなくなった敵兵からも武器を外し、一か所へ集める。
次に物資。
食料。
矢。
飼料。
使える荷車。
記録。
運べるものを選ぶ。
「ここには残らない」
守備隊長が二重柵を見る。
「天幕は外せ。棚も壊す。柵は全部じゃなくていい。荷を置いてすぐ使える状態だけなくせ」
『大きい杭は俺がやる』
「頼む。ただし、人が離れてからな」
『分かってる』
今の身体で横木一本を壊そうとして、人間まで巻き込む方が怖い。
兵が下がるのを待ってから、前脚を木枠へ掛ける。
力を入れる。
太い柱が軋み、そのまま根元から倒れた。
人間が何人も掛かる仕事が、一度で終わる。
でも、それで全部を俺がやる必要もない。
外せる天幕は人間が外す。
運べる荷は荷車へ。
俺は大きくて邪魔なものだけを壊す。
それでいい。
◇
夕方までに、前進拠点は軍がすぐ使える状態ではなくなった。
占領したわけではない。
こちらの旗を立てたわけでもない。
見張りを少し残すだけだ。
敵が戻れば、また使えるようにすることはできる。
ただ、明日すぐ同じ数の兵と荷を集めることはできない。
俺は最後に一度、高く上がった。
東を見る。
退いた敵兵は、さらに後方でまとまり始めている。
戦いそのものが終わったわけではない。
補給も来る。
追加の兵がいる可能性もある。
それでも、昨日より敵は遠い。
下を見る。
空になった荷置き場。
倒した木枠。
西へ運ばれていく食料と矢。
味方が持ち帰る記録。
今日は《守護竜》になって最初の戦いだった。
大きくなった身体で、何人倒せるのか。
そういうことばかり考えるかと思っていた。
実際には違った。
普通の矢は鱗に通りにくくなった。
柵も前より簡単に壊せる。
空にも長くいられる。
《竜護》で、人間へ届く攻撃まで弱められた。
でも、一番役に立ったのは、全部を自分一頭でやろうとしなかったことかもしれない。
俺が空から見る。
人間が地上を押す。
危険な場所を伝える。
必要な瞬間だけ守る。
敵が退いたら、追うより拠点を潰す。
文字を読んで、次の動きを探す。
守るために使えるものは、爪や炎だけじゃない。
それが少し分かった。
「ヴァル!」
下から守備隊長の声が届く。
「戻るぞ! 暗くなる前に、その紙を全部整理したい!」
『分かった。すぐ行く』
翼を傾ける。
夕日に染まる東の空を一度だけ見てから、西へ向きを変えた。
守る場所は、昨日より少しだけ広くなった。
その分だけ、敵がもう一度こちらへ届くまでの距離も伸びた。




