第70話 守護竜
夜明けより少し前、俺は身体の奥に溜まる熱で目を覚ました。
セドルの外。
昨夜は右の翼を休ませるため、町から少し離れた草地で眠っていた。
縄に締めつけられた翼の付け根は、まだ鈍く痛む。
けれど、目を覚ました理由はそこじゃない。
胸の奥が熱い。
炎を吐く前とも違う。
腹の底から湧き上がった何かが、骨や筋肉の隙間へ流れ込み、身体の内側を少しずつ押し広げている。
俺はゆっくり身体を起こした。
『これは……前にもあったな』
幼竜から成長した時。
そして、成竜になった時。
身体が大きく変わる前には、似た感覚があった。
ただし、今回は重い。
脚だけでもない。
翼だけでもない。
爪の先から尾まで、身体の全部が狭くなったような圧迫感がある。
町の近くにいるのはまずい。
今の身体でも、人間の家や柵は簡単に壊せる。
さらに大きくなるなら、なおさらだ。
俺はセドルから離れ、何もない開けた場所まで歩いた。
空はまだ青くなる前だった。
遠くで見張りの交代を知らせる声が聞こえる。
その音が小さくなったところで、胸の奥を強く打つような鼓動が走った。
視界の端に、久しぶりの表示が浮かぶ。
《条件を確認》
予想していたのに、身体が強張った。
《個体の成長および行動傾向を確認》
《進化条件を満たしました》
行動傾向。
身体が大きくなったからでも、敵を多く倒したからでもないらしい。
その意味を考える間もなく、次の文字が出た。
《《成竜》から《守護竜》への進化を開始します》
『守護竜か』
声に出す。
妙に納得できる名前だった。
その直後、全身を熱が走った。
◇
前脚を地面へつく。
骨が軋む。
爪が土へ深く沈んだ。
身体の芯から押し広げられていく。
脚が太くなる。
胴が重くなる。
背骨の一本一本が伸ばされるような感覚に、思わず歯を食いしばった。
痛い。
だが、身体が壊れている痛みではない。
古い身体を、新しい大きさへ作り直している。
そんな感覚だった。
翼の付け根にも熱が集まった。
昨日まで縄で擦れた場所が強く脈打つ。
裂けていた翼膜が引き締まり、傷の周囲へ新しい力が満ちていく。
完全に傷跡が消えたわけではない。
それでも、痛みが急速に薄れていった。
次に変わったのは鱗だった。
胸。
肩。
前脚。
腹。
重なった一枚一枚が厚みを増し、その縁まで硬く締まっていく。
前脚を少し動かしただけで、足元の土が沈んだ。
(重くなってる)
それなのに、不思議と動きにくくはない。
むしろ筋肉の奥には、これまで以上の力が溜まっている。
尾を動かす。
風が鳴った。
慌てて止める。
今までと同じつもりで振ったら、近くに人間がいれば危ない。
身体が大きくなるということは、強くなるだけではない。
自分がどこまで届くのかも、また覚え直す必要がある。
熱はしばらく続いた。
やがて突然、潮が引くように消える。
荒い呼吸だけが残った。
《進化が完了しました》
《種族:《守護竜》》
俺は身体を起こした。
目線が明らかに高い。
『一回りどころじゃないかもしれないな』
正確な大きさは分からない。
ただ、昨日まで普通に通っていた狭い場所へ、そのまま入る気にはなれなかった。
集落の中なら、翼を畳んで歩く必要がある。
尾も好きに振れない。
人間が近くにいる場所では、前脚一つ動かすにも気をつけた方がいい。
巨大になったことが、そのまま自由を意味するわけではなかった。
◇
表示はまだ消えていなかった。
《能力変化を確認》
一瞬、また人の言葉に何か起きるのかと思った。
だが、それはなかった。
俺はとっくに人間と普通に話せる。
表示されたのは、別の能力だった。
《《文字理解》を獲得しました》
思わず表示を見直す。
『……今さらそこが来るのか』
人の言葉を話せるようになってから、ずっと困っていた。
会話はできる。
数字も簡単な印なら覚えられる。
それでも、紙へ並んだ文字だけは読めなかった。
敵から奪った命令書。
地図に書かれた地名。
補給の記録。
そのたびに誰かへ読んでもらっていた。
戦場では、それだけで判断が遅れることもある。
『これは助かる』
早く何か読んでみたい。
だが、まだ続きがあった。
《新規能力《竜護》を獲得しました》
『竜護』
名前だけなら、今回の進化に一番合っている。
意識を向けると、使い方そのものが頭の中へ流れ込んできた。
自分の魔力を、守りたい対象へ薄く重ねる。
物を持ち上げる力ではない。
敵を吹き飛ばす力でもない。
外から受ける衝撃や攻撃を、一時的に和らげるための魔力の膜。
強い攻撃を何でも防げるわけではない。
広い範囲へ使えば、その分だけ魔力も要る。
それでも、人間へ直接攻撃が届く前に一枚挟める。
俺は昨日の光景を思い出した。
森を逃げていた子供。
杖を使う老人。
怪我をして歩けない人間。
俺の前脚なら敵を倒せる。
翼なら矢を逸らせる。
でも、それだけでは間に合わない時もある。
そのための力なのかもしれない。
すぐ誰かで試す気にはならなかった。
まずは、自分が何に変わったのかを確かめる方が先だ。
◇
セドルへ戻る前に、飛んでみた。
翼を広げる。
以前より明らかに大きい。
右の付け根を慎重に動かす。
痛みはほとんどない。
地面を蹴った。
『……軽いな』
身体は重くなっている。
それなのに、一度の羽ばたきで以前より強く浮いた。
翼が空気を掴む力も違う。
身体を支える魔力の流れも、以前よりはっきり分かる。
一気に高度を上げる。
下の草地が小さくなる。
急旋回はしない。
身体が変わった直後に昔と同じ感覚で飛べば、自分から事故を起こしかねない。
大きく円を描きながら、少しずつ傾き方を確かめる。
速度も上がっている。
羽ばたく回数を減らしても高度が落ちにくい。
これは戦いだけじゃない。
偵察で飛べる範囲も広くなる。
もっと長く空にいられるなら、敵の補給線も集落も同時に見られる。
進化して強くなったというより、できることそのものが増えた。
◇
セドルへ戻ると、門の見張りが俺を見上げたまま固まった。
「……ヴァル、だよな?」
『昨日までと顔は変わってないはずだ』
「いや、大きさが違いすぎるだろ」
『俺もそう思う』
声を聞いて、ようやく本人だと納得したらしい。
「何があった」
『進化した。《成竜》から《守護竜》になった』
「また進化したのか」
『俺も予定していたわけじゃない』
門の内側から何人かが出てくる。
その中に、守備隊長もいた。
俺を見ると、まず身体全体へ視線を走らせる。
次に右の翼。
「傷は?」
『ほとんど痛まない。進化した時にかなり戻った』
「飛んだのか」
『軽く確認した。無理はしていない』
「ならいい」
この男は大きくなったことより、昨日の傷を先に見るらしい。
その方がありがたい。
『それと、紙を一枚見せてくれ』
「報告書か?」
『何でもいい。読めるようになったらしい』
守備隊長の眉が上がった。
「それは大きくなったことより助かるかもしれんな」
『そこまで言うか』
「今まで敵の紙を拾うたび、誰かに持ってきてただろ」
否定できない。
すぐに昨日の報告書が持ってこられた。
地面へ置いてもらう。
今までは形にしか見えなかった文字へ視線を落とす。
意味が、そのまま頭へ入った。
『……東側の監視地点。敵後方に荷集積を確認。街道南側に避難民――』
途中で顔を上げた。
『読めるな』
「本当に読めるのか」
『普通に意味が分かる』
嬉しかった。
だが、それ以上に使い道がすぐ浮かんだ。
『これなら、敵から取った命令書をその場で確認できる。荷札も読める。地図に書いてある地名も分かる』
「判断が一段早くなるな」
『ああ』
今まで人間へ頼っていたことを、自分でできる。
だからといって、全部自分でやるつもりはない。
ただ、空から見たものと紙の情報を、自分の中で直接繋げられる。
それはかなり大きかった。
◇
身体の確認が終わると、守備隊長が地図を広げた。
「東が少し動いている」
『敵か』
「朝の斥候によると、前へ出していた兵の一部が後退している。昨日見つけた中継場所も荷を減らし始めたらしい」
俺は地図を見る。
読める。
これまで線だけだったものに、地名や位置の意味まで加わった。
頭の中で昨日の空からの景色と重ねる。
『この位置なら、昨日の小さい補給地点だな』
「そうだ」
『大きい集積地まで引くつもりかもしれない。ただ、全部が退いてるとは限らない』
「確認できるか?」
『行く。ただし低くは飛ばない。進化したばかりだし、敵もまだ対竜装備を持っている可能性がある』
守備隊長が頷いた。
「それでいい」
会話が早い。
以前より俺が流暢になったからではない。
それはもう前からだ。
今は、自分で地図を読み、自分で場所を特定できるからだった。
◇
東へ上がる。
昨日より高い高度へ、少ない羽ばたきで届く。
守護竜になった身体は大きい。
地上からもよく見えるはずだ。
だからこそ低くは入らない。
胴や脚の鱗は、進化前よりはっきり厚くなっている。
普通の矢や槍なら、簡単に貫かれるとは思えない。
それでも、目まで鱗に覆われたわけではない。
翼膜も同じだ。
大きくなった分、縄を掛けられる場所も増える。
強くなったから、罠を無視していいわけではない。
敵の前線を見る。
確かに下がっている。
昨日まで兵がいた場所から、人が減っていた。
荷車も東へ向かっている。
小さな中継場所では、杭を抜き始めている者までいた。
俺が進化したことを知って逃げているわけではない。
俺は今朝まで別の姿だった。
なら、昨日までの積み重ねだ。
荷駄を狙われた。
射手台を壊された。
縄と魔獣を使った罠も失敗した。
後方の集積地まで見つかった。
さらに、中継場所の位置も把握された。
こちらは斥候を東へ出し始めている。
軍を前へ出し続ける方が危険だと判断したのだろう。
俺は深追いしなかった。
代わりに、退いた場所を順番に確認する。
昨日逃げてきた人たちの集落へ繋がる方向も見る。
敵兵は減っていた。
完全に安全ではない。
それでも、昨日より人間が動ける範囲は確実に広がっている。
◇
セドルへ戻り、見たものを地図へ落とす。
『前へ出ていた部隊は一段東へ下がってる。この二か所は、もう大きな兵力を置いていない。荷も減ってる』
守備隊長が地図を見る。
「追う必要はなさそうだな」
『逃げている兵を追っても意味が薄い。ただ、空いた場所は見張った方がいい。また戻ってこられる』
「同感だ」
『それと、昨日の避難民がいた集落へ人を送れる距離になった』
そこは大きい。
町を守るために敵を押し戻す。
それだけではない。
敵が退けば、逃げる必要のある場所も減る。
「斥候と一緒に、住民の確認を出そう」
『残っている人間へ状況を伝えてくれ。戻るか逃げるかは本人たちが決めればいい』
「分かった」
俺は地図を見た。
昨日まで、守るという言葉をもっと狭く考えていた。
敵の前へ立つ。
矢を防ぐ。
魔獣を止める。
それも守ることだ。
でも、それだけではない。
敵を遠ざける。
道を使えるようにする。
食料を運べる距離を守る。
逃げる時間を作る。
住民が自分の家へ戻る選択肢を残す。
そういうものまで含むのだろう。
《守護竜》。
今朝見た名前が、少しだけ身体に馴染んだ。
◇
夕方。
俺はセドルの外で、昨日の報告を一人で読み直していた。
敵の数。
中継場所。
荷の種類。
避難してきた人間の出身地。
今までなら誰かが横に必要だった。
今日は違う。
文字を追えば、自分で分かる。
それでも、一人で全部決める気にはならなかった。
情報を読めることと、正しい判断ができることは別だ。
地上の道は人間の斥候の方が詳しい。
食料の量は町の人間の方が分かる。
兵をどう置くかは守備隊長が考える。
俺は空から見えるものを持ち帰る。
必要なら、竜の身体でしかできないことをする。
それでいい。
紙を閉じる。
東を見る。
敵はまだいる。
大きな集積地も残っている。
追加の兵が来る可能性もある。
身体が大きくなった。
鱗も厚くなった。
飛べる距離も増えた。
新しい力まで手に入った。
だからといって、明日から何もかも簡単になるわけではない。
むしろ、この身体で守れるものが増えた分だけ、考えることも増える。
俺は大きくなった前脚を地面へ置いた。
爪の周囲で土が沈む。
以前なら、この力で何を壊せるかを先に考えていたかもしれない。
今は少し違う。
この力があれば、どこまで守れるか。
そちらを先に考える。
『守護竜、か』
もう一度だけ呟く。
大げさな名前だと思う。
俺は王でも英雄でもない。
始まりは、腹を空かせた小さな竜だった。
黒パンを半分もらった。
その恩を返したかった。
ただ、それだけだった。
それが村になり、町へ広がり、今では名前も知らなかった人間まで守ろうとしている。
進化の表示にあった「行動傾向」という言葉を思い出す。
身体だけが勝手に守護竜になったわけではないのかもしれない。
俺が先に、そういう竜になろうとしていた。
夕日の向こうに、東の空が広がっている。
明日も飛ぶ。
敵を倒す数を増やすためではない。
人が安心して暮らせる場所を、少しでも東へ戻すために。




