第69話 守る場所の外
セドルへ戻ると、俺は東で見たものをそのまま伝えた。
敵の大きな荷集積地。
その手前で作り始めている中継場所。
そして、そのさらに南を西へ歩いていた人間の一団。
子供と老人が混じっていたことまで話すと、守備隊長の表情が変わった。
「兵じゃないんだな」
『装備を見る限り違う。荷を背負ったまま西へ向かっていた。軍から離れようとしているように見えた』
「どの辺りだ」
地図の上で位置を示す。
文字は読めないが、街道と森、沢の位置は覚えている。
守備隊長が指を置いた。
「境の東側だな。この辺りには小さい集落がいくつかある」
『敵軍の補給路にも近い』
「ああ」
だから逃げている可能性が高い。
軍が通る。
荷を集める。
兵が泊まる。
その近くで暮らしている人間にとって、それだけで十分な脅威になる。
実際に家を焼かれなくても、兵士が何百人も近くに来れば、食料を取られるかもしれない。馬を奪われるかもしれない。戦いに巻き込まれるかもしれない。
『迎えを出した方がいい』
「俺もそう思う。ただし、兵を大勢動かすのはまずい」
『敵から見れば、境を越えて部隊を送り込んだことになる』
「そういうことだ」
俺一頭だけなら、まだ偵察と言い張れる。
武装した兵をまとまって東へ進めれば意味が変わる。
「荷車を一台。兵は護衛に必要な分だけ出す」
『怪我人がいる可能性も考えて、布と水も積んでくれ』
「そうする」
俺は翼を広げようとして、止めた。
右の付け根に鈍い痛みが残っている。
飛べる。
だが、急降下や激しい旋回を繰り返せる状態ではない。
それなら今日は、俺が全部やる必要はない。
『俺は上から場所を案内する。敵が近づいたら知らせる。ただ、低くは降りない』
「ようやく自分の傷を計算に入れたか」
『昨日までよりは賢くなった』
「昨日より、なら大した自慢にならんな」
周囲の兵から笑いが漏れた。
そのくらいの空気でいい。
誰も死んでいない間は。
◇
空の荷車一台と護衛がセドルを出た。
俺は少し高い位置を飛ぶ。
右の翼へ負担を掛けないよう、急がず大きく羽ばたいた。
途中まで来ると、昨日見た敵の中継場所が遠くに見える。
まだ人がいる。
荷車も増えていた。
だが、こちらへ動く気配はない。
その南。
森の縁を探す。
昨日の一団はすぐ見つかった。
ほとんど進んでいない。
理由も見えた。
人が一人、地面へ横たわっている。
その周りに何人かが集まり、他の者は木陰で休んでいた。
子供を抱いた女。
杖を使う老人。
荷物を背負った男たち。
兵士ではない。
俺は高度を落とさず、荷車を導いた。
こちらの兵も一団に気づいたらしい。
街道から細道へ入り、慎重に近づいていく。
俺は周囲を見る。
東側に騎馬。
二騎。
まだ遠い。
こちらを見つけたかどうかは分からない。
俺は地上へ声を落とした。
『東に騎馬が二騎いる。先に人を荷車へ乗せてくれ』
護衛が顔を上げ、すぐ動いた。
◇
人々はセドル側の兵を見ても、最初は近づかなかった。
境のどちら側の軍か分からなかったのだろう。
兵の一人が武器を下げたまま声を掛ける。
「セドルから来た! 西へ行きたいなら案内する!」
それでようやく空気が動いた。
「セドル?」
「入れてもらえるのか?」
「まず安全なところまで行く。話は向こうで聞く!」
人々の中から年配の男が出てきた。
「この人を先に」
地面に横たわっていたのは若い男だった。
脚に布が巻かれている。
血が染みていた。
「兵にやられたのか?」
護衛が聞く。
「違う」
年配の男が首を振った。
「森を急いで抜けて、斜面で足を滑らせた。昨日からまともに歩けない」
軍に追われているから怪我をした。
そういう意味では、戦とは無関係でもない。
兵たちが荷車から布と棒を出し、簡単な担架を作り始める。
その時、東の騎馬が動いた。
二騎とも、こちらへ向かってくる。
『急いだ方がいい。二騎が近づいてる』
「敵か?」
『装備は同じだ』
護衛たちが武器を構える。
民間人は荷車の陰へ移された。
俺はまだ降りない。
相手がこちらを見て引くなら、それで済む。
二騎は少し手前で止まった。
俺を見上げている。
一人が弓へ手を伸ばした。
もう一人が何か叫ぶ。
距離がある。
聞き取れない。
弓が上がる。
狙っているのは俺ではなかった。
荷車だ。
『伏せろ!』
矢が飛んだ。
俺は翼を一度だけ強く打った。
横風が矢の軌道をずらす。
荷車の少し手前へ落ちた。
もう一射。
今度は兵の盾が受ける。
乾いた音が響いた。
これで判断は終わった。
話をするために近づいてきたわけではない。
『ここから先へ来るなら止める!』
俺の声は二騎まで届いた。
一人が弓をつがえ直す。
もう一人は迷っている。
俺は高度を少し下げた。
ただし地上へは降りない。
翼を狙われる距離にも入らない。
『民間人を連れて西へ戻るだけだ。追うなら敵として扱う』
次の矢は飛ばなかった。
二騎はしばらく動かなかった。
やがて一人が馬首を返す。
もう一人も続いた。
追わない。
今必要なのは二人を捕まえることではない。
人々を安全な場所へ移すことだ。
◇
担架が荷車へ載せられた。
歩くのが難しい老人と、幼い子供も荷台へ乗る。
残りは歩く。
荷物を全部持っていこうとする者もいたが、兵が止めた。
「命より重い荷なら持っていけ。そうじゃないなら置いていけ」
迷った末に、鍋や農具を地面へ置く者がいた。
家を離れるつもりで持ってきたのだろう。
簡単に捨てられる物ではない。
それでも、人の足を遅くするなら置いていくしかない。
俺は空からそれを見ていた。
戦場では、兵だけが何かを失うわけじゃない。
◇
西へ進み始めてから、俺は一団の年配の男と話した。
俺は低空へ降りず、荷車の近くをゆっくり飛ぶ。
『どこから来た?』
男が東側を指した。
「森を越えたところにある小さな集落だ。家は二十もない」
『軍に襲われたのか?』
「まだ襲われてはいない」
答えは意外だった。
「だが、三日前から兵が道を通るようになった。昨日は馬が何頭も水場へ来た。夜には知らない兵が食べ物を売れと言ってきた」
『奪われた?』
「銭は置いていった」
男は苦い顔をする。
「だが、断れる雰囲気じゃなかった」
買ったと言えば買った。
けれど、武装した兵が大勢いる前で、村人が本当に拒めるかは別の話だ。
「今朝、さらに荷車が増えた。それで皆を連れて出た」
『残った人間は?』
「いる」
俺は男を見る。
「家畜を置いていけない者。畑が気になる者。軍が本当に危険だと決まったわけじゃないと言う者もいる」
『逃げるよう強制はしなかったんだな』
「できんよ」
男は静かに答えた。
「自分の家だ」
それもそうだ。
俺たちが安全だと思う場所へ、全員を無理に移せばいいわけじゃない。
残りたい者には残る理由がある。
問題は、何が起きているか知らないまま残ることだ。
『他の集落にも知らせた方がいい』
「できるなら頼む」
俺は頷いた。
敵兵を見つける。
補給路を見つける。
それだけでは足りない。
軍の進む先に暮らしている人間へ、軍が来ていると伝える必要がある。
◇
セドルへ戻ると、門前が少し騒がしくなった。
いきなり人が増えたからだ。
それでも、今日来た人数なら受け入れられる。
負傷した男はすぐ手当てへ回された。
子供には水と食べ物。
老人には座る場所。
残った大人たちは、どこから来たのか一人ずつ確認されていく。
俺は守備隊長へ状況を伝えた。
『軍に直接襲われたわけじゃない。ただ、兵が集落の水場を使い、食料を半ば強制的に買っている。残っている住民もいる』
「他の集落も同じ目に遭うな」
『明日から斥候の役目を一つ増やしたい』
「住民への警告か」
『ああ。戦える兵がいるかどうかじゃない。人が暮らしている場所を先に確認する』
守備隊長は地図を見る。
「敵の前進拠点を探すついでに回れる場所は回る。ただし、逃げろとは命令しない」
『情報だけ渡す。残るかどうかは本人たちが決めればいい』
「それでいこう」
敵の位置を示す印。
補給所。
水場。
そこへ、人の暮らす集落が加わる。
地図の意味が少し変わった。
◇
夕方、俺はセドルの外で翼を休ませていた。
町の中では、逃げてきた人たちへ今夜の寝場所を用意している。
一組だけなら何とかなる。
だが、同じような人間が明日も来るかもしれない。
十人。
二十人。
もっと増えれば、食べ物も水も足りなくなる。
寝る場所も必要だ。
守るという言葉だけでは何も解決しない。
受け入れる側にも限界はある。
だからこそ、軍を止めなければならない。
人が家を捨て続ける状況そのものを終わらせる必要がある。
俺は東を見る。
これまで俺が守りたいと思った場所には、名前があった。
ルーエ。
セドル。
そこには、顔を知っている人間がいる。
助けてもらった人。
一緒に働いた人。
守りたい理由が分かりやすかった。
今日連れてきた人たちの名前は、ほとんど知らない。
どんな暮らしをしてきたのかも知らない。
それでも、武装した兵に追われて森を歩く姿を見て、関係ないとは思えなかった。
国境の向こう側だから。
知らない集落だから。
俺の村ではないから。
そんな理由で、子供や老人が戦の中へ取り残されるのを見過ごす気にはならない。
守る場所が広がったわけじゃない。
たぶん、守る相手を選ぶ線が変わったのだ。
俺は傷の残る右翼をゆっくり畳んだ。
痛みはまだある。
それでも、胸の奥には別の熱が残っていた。
戦いたいわけではない。
土地が欲しいわけでもない。
ただ、人が暮らしている場所へ勝手に軍が入り込み、そこで生きていた人間が追い出される。
それを、もう他人事とは思えなかった。
明日も東を見る。
敵の兵だけではない。
荷車だけでもない。
その間で暮らしている人間まで含めて。
俺が守りたいものは、いつの間にか村の柵よりずっと外まで広がっていた。




