第67話 竜を落とす縄
翌朝、右の翼を広げると、昨日より痛みは引いていた。
矢で裂かれたのは翼膜の端だけだ。血も止まっているし、ゆっくり動かす分には問題ない。
それでも、守備隊長は俺の翼を見るなり顔をしかめた。
「今日は地上にいろ」
『飛べる』
「飛べるかどうかと、飛んでいいかは別だ」
『敵の動きが見えない』
「斥候を出してる」
反論しようとして、やめた。
昨日も同じことを言われた。
俺が空から全部見れば早い。
でも、俺が飛べなくなれば、その強み自体がなくなる。
『敵が動いたら知らせてくれ』
「それでいい」
俺は翼を畳んだ。
朝の空は薄く曇っている。
東から吹く風も昨日ほど強くない。
敵が火を使うなら、昨日より条件はいい。
こちらが使う場合も同じだ。
ただ、今日気になるのは火ではなかった。
縄と杭。
あれを何に使うのか。
おそらく俺だ。
それだけは分かっている。
◇
知らせが来たのは昼前だった。
「動いた!」
東を見張っていた兵が走ってくる。
「歩兵が出た。弓もいる。それと……魔獣だ!」
『どんな?』
「でかい。牛より二回りはある」
俺と守備隊長は同時に東を見る。
「飛ぶなよ」
『まだ飛ばない』
「まだ、を付けるな」
街道の向こうから敵が見え始めた。
盾兵。
槍兵。
弓兵。
その後ろに、大きな黒い魔獣がいる。
四本脚。
肩から背中にかけて太い毛が盛り上がり、頭には短い角のようなものが二本伸びている。
昨日の射手台を背負わせていた魔獣とは別だ。
今日の個体には何も載っていない。
代わりに首へ太い革帯が巻かれていた。
そこから何本かの紐が後ろへ伸びている。
その先に一人の男がいる。
武器は持っていない。
手には短い黒い棒。
『あの男が怪しい』
「何で分かる?」
『魔獣が嫌がってる』
人の言葉で説明しながら、俺は魔獣を見る。
歩き方がおかしい。
前へ進んではいる。
でも耳は後ろへ伏せ、何度も首を振っていた。
男が棒を前へ向ける。
魔獣の身体がびくりと震えた。
次の瞬間、一気に前へ出る。
『操ってる』
「魔獣を?」
『たぶん』
敵は兵だけで押してこなかった。
大型魔獣を盾列へぶつけるつもりだ。
◇
俺は街道の先を見る。
縄もあった。
敵の左右。
草の上へ、隠す気もなく太い縄が置かれている。
一組。
二組。
それぞれ何人もの兵が持っている。
縄の先は杭へ繋がっていた。
『見えてる』
「何が?」
『縄。左右に二つ』
守備隊長も目を凝らす。
「昨日言ってたやつか」
『たぶん、あれだけじゃない』
「何で?」
『見せすぎてる』
昨日、敵は林の中へ弓兵を隠した。
今日は対竜用の縄をあれだけ堂々と置いている。
俺に見つけさせるためだと考えた方が自然だった。
「じゃあ、降りるな」
『そのつもりだ』
空から攻撃できればいい。
そう思ったところで、黒い魔獣が走り始めた。
地面を蹴るたび、低い振動が伝わってくる。
「盾、構えろ!」
守備隊長の声で盾列が固まった。
槍が隙間から前へ出る。
『正面で受けるな!』
「分かってる!」
兵たちが完全に横一列にはならない。
左右へ逃げられる隙間を残す。
魔獣が近づく。
男がまた黒い棒を振った。
「グオオオオッ!」
咆哮は怒りというより悲鳴に近かった。
魔獣は首を横へ振ろうとする。
それでも身体は前へ出る。
盾列まで、もう遠くない。
このままなら人間の盾で受け止められる大きさではない。
『俺が行く』
「縄があるぞ!」
『見えてる縄には降りない』
翼を広げた。
右に少し痛みが残る。
それでも飛ぶことはできる。
俺は高く上がらず、盾列の上を越えた。
敵の弓が一斉にこちらへ向く。
だが、俺は敵陣へは入らない。
魔獣の横へ回る。
操っている男を狙う。
男も俺に気づいた。
兵の後ろへ下がる。
盾が三枚、その前へ重なった。
そこで分かった。
敵も、俺が制御役を狙うと考えていた。
◇
魔獣が盾列へ突っ込んだ。
轟音が響く。
盾が二枚、斜めに押し込まれた。
槍先が魔獣の胸へ当たる。
止まらない。
兵の一人が足を滑らせた。
その上へ魔獣の前脚が上がる。
時間がなかった。
俺は高度を捨てた。
ただし、左右に見えている縄の間へは降りない。
そこから少し外。
盾列寄りの地面へ着地する。
土が跳ねた。
魔獣の側面へ身体を入れる。
正面から受け止めない。
肩口へ前脚を当て、進行方向を横へずらした。
俺より小さいとはいえ、人間とは比べものにならない重量がある。
衝撃が前脚から肩まで抜けた。
魔獣の前脚が盾列を外し、地面へ突き刺さる。
「下がれ!」
兵たちが倒れた仲間を引っ張る。
これでいい。
俺もすぐ上へ戻る。
そう思った。
草の中で、何かが走った。
縄だった。
見えていた二本ではない。
俺が降りた場所のすぐ後ろ。
草の下へ伏せていた三本目。
『っ!』
跳ぶ。
前脚は越えた。
後脚も抜ける。
翼を広げた瞬間、縄が持ち上がった。
翼膜ではない。
右の翼の付け根へ掛かる。
昨日傷を負った側だ。
反対方向からも縄が引かれる。
身体が傾いた。
俺は羽ばたかなかった。
無理に持ち上げれば、翼の傷が開く。
「掛かった!」
「引け!」
敵兵の声が響く。
人間十人以上が縄へ付いている。
ただ、それだけなら俺の力の方が強い。
問題は杭だった。
縄は人間から直接俺へ伸びていない。
途中で地面の杭を回り、力の方向を変えている。
さらに別の杭へ。
俺の身体を後ろへ引くのではなく、翼だけを地面へ押さえ込む形だ。
『考えたな……』
感心している場合じゃない。
敵の槍兵が来る。
◇
一本目の槍が胸へ伸びる。
身体をずらし、穂先を外す。
二本目は翼の付け根を狙っている。
そちらは避ける。
昨日、弱い場所を狙えという命令を拾った。
今日も同じだ。
俺は翼を畳もうとした。
縄が食い込む。
痛い。
それでも骨が折れた感じはない。
問題はここで人間と力比べをすることじゃない。
縄を引く兵を何人倒しても、杭が残れば締まり続ける。
逆に、杭を壊せばいい。
俺は身体を低くした。
縄へ掛かっていた力が少し緩む。
「押さえろ!」
敵兵がさらに引く。
俺は逆に、そいつらの方向へ走った。
「なっ――!」
縄が一瞬たるむ。
兵たちが後ろへよろけた。
その隙に杭を見る。
一番近い一本へ前脚を叩き込んだ。
地面が割れる。
杭は抜けない。
深い。
もう一度。
今度は根元の土ごと抉る。
太い木杭が傾いた。
三度目。
杭が跳ねた。
縄の力が一気に抜ける。
右翼を畳む。
縄が滑り落ちた。
痛みは残る。
だが動く。
「もう一本!」
敵が叫ぶ。
見えていた縄の一つが動き始めた。
『もう遅い』
俺は地面へ爪を立て、一気に前へ出る。
縄を持った兵たちへ突っ込む必要はない。
翼を半分だけ開き、地面すれすれに風を叩きつけた。
土と草が舞う。
兵が顔を覆う。
縄を持つ手が緩む。
その間に、魔獣を見る。
◇
黒い魔獣は、また盾列へ向けられていた。
操っている男が棒を振る。
魔獣の身体が震え、嫌がりながら前へ出る。
俺が縄へ捕まっている間に、もう一度ぶつけるつもりだった。
ここで迷う理由はない。
男を止める。
俺は息を吸った。
胸の奥が熱くなる。
制御役との間に、兵が二人入った。
一人が盾を上げる。
もう一人が弓を引く。
俺は射線を少しずらす。
人間全員を焼く必要はない。
狙うのは男と、その手にある黒い棒。
敵も分かったらしい。
「伏せろ!」
叫び声。
俺は短く炎を吐いた。
長く薙がない。
林まで届かせない。
地面を低く走らせ、制御役の周囲だけを焼く。
男が横へ飛ぶ。
黒い棒が手から落ちた。
その棒へ炎が触れた。
表面が燃える。
男自身も完全には避けきれなかった。
服の袖に火が移り、地面を転がる。
近くの兵が慌てて土を掛けた。
俺は追わない。
目的は達した。
魔獣が止まった。
「グ……」
荒い息。
首を振る。
盾列を見る。
俺を見る。
それから、地面に落ちた黒い棒を見る。
もう前へ出ない。
『そいつを攻撃するな!』
守備隊へ叫ぶ。
「槍を下げろ!」
守備隊長がすぐ続ける。
人間側の槍が少しずつ下がる。
魔獣はしばらく動かなかった。
やがてゆっくり身体を東へ向ける。
俺はその進路を空けた。
魔獣は走らない。
何度も首を振りながら、敵陣とは少し違う方向へ歩き、林の中へ消えていった。
◇
魔獣を失い、隠していた縄も外れた。
それでも敵兵はすぐには退かなかった。
弓兵が前へ出る。
俺を飛ばせないまま押すつもりらしい。
矢が来た。
一本が肩へ当たる。
鱗を浅く擦る。
今の俺はまだ守護竜ではない。
普通の矢でも、当たり方次第では傷になる。
まして翼へ集中すれば無視できない。
俺は無理に飛ばなかった。
地上で戦う。
ただし、人間一人ずつと剣を合わせる気もない。
翼を大きく使わず、前脚で地面を強く叩く。
土が跳ね、最前列の兵が足を止める。
そこへ守備隊の弓が飛ぶ。
敵の盾が上がる。
俺は一歩前へ出た。
それだけで、槍兵の列が反射的に下がる。
俺の爪が届く距離へ入りたい兵はいない。
そこへもう一度、地面へ風を打つ。
弓兵の姿勢が崩れた。
「下がれ!」
敵側から声が飛ぶ。
今度は迷いがなかった。
弓兵から下がる。
槍兵が盾を向けたまま続く。
縄を持っていた兵も、杭を捨てて後ろへ走った。
俺たちは追わない。
国境を越えてまで倒す理由はない。
◇
敵が十分に離れてから、右の翼を広げた。
痛みが走る。
昨日の裂けた場所とは少し違う。
縄が食い込んだ付け根の周りが赤くなっていた。
「見せろ」
守備隊長が来る。
『飛べる』
「聞いてない」
『骨は大丈夫だと思う』
「思う、で飛ぶな」
言われると思った。
近くの兵が、敵の残した縄を持ち上げる。
「重いな……」
人の腕ほどではないが、かなり太い。
何本もの繊維を編み込み、ところどころ革で補強している。
「これ、普通の荷縄じゃないぞ」
「大型魔獣を捕らえるやつかもしれない」
別の兵が言った。
守備隊長は縄の先を見る。
輪になっている部分。
杭へ回す部分。
人間が直接引っ張るだけではなく、地面へ力を逃がす作り。
「竜と力比べするつもりじゃなかったんだな」
『翼だけ止めればいい』
「そういうことだろうな」
俺は地面へ残った杭跡を見る。
見えていた縄は二つ。
隠していた縄が一つ。
俺が見つけたから避けられる。
そう思わせて、別の場所へ降ろす。
そこまで含めて罠だった。
『俺、引っかかったな』
「引っかかった」
容赦がない。
『助けに降りた』
「分かってる」
守備隊長は盾列を見る。
さっき魔獣に押し込まれた兵が、仲間に肩を借りながら立っていた。
腕を痛めた者はいる。
ただ、死者はいない。
「あそこで降りなかったら、あいつが踏まれてたかもしれん」
『だから降りた』
「そこを向こうも狙ったんだろうな」
俺は守備隊長を見る。
「お前が人間を見捨てないことまで分かったかは知らん。ただ、盾列へ危険を作れば、竜が低く来る可能性は上がる」
その通りだった。
敵は俺の心を読んだわけじゃない。
大型魔獣を正面へ出す。
こちらの防衛線を崩す。
竜が助けに降りてくれば縄を使う。
降りなければ、そのまま魔獣で押す。
どちらでも損はない。
ちゃんと考えられた戦い方だった。
◇
敵が落としていった黒い棒も回収した。
布を何重か巻いて、兵が触れないようにしている。
『壊さないのか?』
「調べてからでいい」
守備隊長が答える。
「魔獣を操れるなら、同じ物が他にもあるかもしれん」
『使える?』
「分からない」
『じゃあ――』
「分からんものを、分かったことにするな」
止められた。
最近それをよく言われる。
でも正しい。
黒い棒だけで操れるのかもしれない。
魔獣側にも何か仕込まれていたのかもしれない。
特定の魔獣にしか効かないかもしれない。
今分かるのは、男が棒を向けるたびに魔獣が苦しみ、棒を失ったら戦うのをやめたことだけだ。
それ以上は調べてからだ。
◇
帰る前、俺はもう一度縄を見た。
太い。
人間一人ではどうにもできない相手へ、人間は人数と道具を使う。
俺より力が弱いから、正面から引っ張らない。
杭を打つ。
縄の向きを変える。
翼だけを押さえる。
見える縄を置いて、別の縄を隠す。
魔獣まで使って、降りる理由を作る。
昨日は、翼へ矢を当てた。
今日は、地面へ落としかけた。
敵は確実に俺の戦い方を見ている。
それでも怖いとは思わなかった。
むしろ、分かりやすくなった。
大きいから勝てる。
飛べるから安全。
そんな単純な話じゃない。
強みが分かれば、相手はそこを潰そうとする。
なら、その潰し方まで見ればいい。
『次は同じ縄には掛からない』
「次も縄だと思うなよ」
守備隊長が言った。
俺は少し黙った。
『……それもそうだな』
「敵だって同じ失敗を続けるほど馬鹿じゃない」
東の丘の向こうでは、まだ煙が上がっている。
今日も追い返した。
でも、あれで終わりではない。
俺は翼を畳んだ。
今日は歩いて帰る。
右の翼を休ませる。
その代わり、持ち帰る物がある。
敵の縄。
杭。
黒い制御棒。
そして、敵がどうやって竜を落とそうとしたのかという情報。
戦いは、力だけで決まらない。
それを敵に教えられた一日だった。




