第65話 射手台を壊す
夜が明けても、東の軍は帰らなかった。
国境の向こう、丘を一つ挟んだ場所に陣を移し、壊された荷車から荷を下ろして組み直している。昨日より距離を取った分だけ、セドル側からは直接見えにくい。
だが、俺には空がある。
朝のうちに一度上がって確かめると、敵は荷駄を後ろへ下げ、歩兵を街道の左右へ広げていた。弓兵も一か所に固めず、何組かに分けている。
俺が後方へ回ることを警戒しているらしい。
それだけなら予想の範囲だった。
気になったのは、陣の中央にいる大きな魔獣だった。
牛よりずっと大きく、肩の位置だけでも人間の背丈を越えている。太い四本脚で立つ背中に、昨日まではなかった木組みが載せられていた。
柱。
横木。
人が立てる床。
胸ほどの高さの板囲い。
射手台だ。
何人もの兵が周囲で縄を締めている。
俺が上を旋回すると、敵兵の何人かがこちらを指した。
弓が上がる前に高度を取る。
まだ完成していない。
だが、何をするつもりなのかは分かった。
地上から撃てば、セドル側の盾列が邪魔になる。
なら、高い場所から撃つ。
昨日、前から押して駄目だったから、今日は上から越えるつもりらしい。
敵も同じやり方を続けてはいなかった。
◇
『大きい魔獣の背に、射手台を作ってる』
セドルへ戻って伝えると、守備隊を指揮している男が嫌そうに顔をしかめた。
「どれくらい高い?」
『人が地面に立って撃つより、かなり上になる。盾の後ろまで狙えると思う』
「厄介だな」
男は防衛線を見る。
横木。
木盾。
その後ろの弓兵。
昨日、正面から飛んできた矢なら守れた。
上から落とされれば事情が変わる。
「燃やせないか?」
近くにいた弓兵が言った。
「木なんだろ。火矢なら――」
『火は使える』
俺が答える。
弓兵がこちらを見た。
『でも、今は使わない』
「どうしてだ?」
『風がこっちへ吹いてる』
昨日と同じだった。
東から西。
敵のいる側から、セドル側へ向かっている。
街道の両脇には林がある。
しかも射手台は、地面に立っているわけではない。
『燃やしたら、魔獣がどう動くか分からない』
背中で火が燃える。
逃げる。
暴れる。
鎖や手綱を振り切ってこちらへ走るかもしれない。
そうなれば、燃えている木組みを背負った巨大な魔獣がセドルの防衛線へ突っ込んでくる。
火矢を撃った側へ風も吹いている。
「……燃える突撃兵になるのか」
『そうなる可能性がある』
火そのものが悪いわけではない。
乾いた射手台なら、燃やすのは難しくない。
風が逆で、周囲に林がなく、魔獣をこちらへ走らせる危険もないなら、俺だって火を選ぶ。
今は違う。
『火を使わなくても、木なら壊せる』
男が俺を見る。
「直接か?」
『ああ。ただ、俺が射手台へ行く間、地上の弓を止めてほしい』
「分かった」
返事は早かった。
「こちらの弓兵を二組に分ける。一組は地上の弓兵を牽制。もう一組は射手台の射手がこっちを狙った時だけ撃つ」
『射手台に火矢は使うな』
「普通の矢でいいんだな」
『人を落とすのが目的じゃない。撃たせにくくすればいい』
「了解した」
決めることが早くなっていた。
俺が全部説明しなくても、人間側が自分たちで続きを考える。
その方が戦いやすい。
◇
昼前、敵が動いた。
最初に盾兵が出る。
その後ろへ槍兵。
少し間を空けて、大型魔獣。
射手台は完成していた。
背中の中央に四本の太い柱が立ち、その上に床が組まれている。革帯と太い縄が魔獣の胴を回り、木組み全体を固定していた。
射手は三人。
二人が長弓。
一人が短い槍を持っている。
落ちそうになった射手を守る役だろう。
大型魔獣の周囲にも兵がいる。
正面に盾。
左右に槍。
後ろには手綱のようなものを持つ人間。
俺は空から全体を見る。
敵が射手台だけを送り込んでいるわけではない。
こちらが上へ気を取られている間に、地上の兵も押すつもりだ。
「来るぞ!」
下から声が上がる。
セドル側の盾兵が身を低くする。
大型魔獣が国境を越えた。
その瞬間、射手台の男が弓を引いた。
高い。
正面の盾列ではなく、その後ろを見ている。
『伏せろ!』
矢が放たれた。
盾の上を越える。
後ろにいた弓兵たちが身体を沈め、一矢目が地面へ刺さった。
二人目も放つ。
今度は少し横。
矢を運んでいた兵が跳び退き、背後の土へ突き立った。
命中していない。
だが、防衛線の奥まで届く。
放置はできなかった。
◇
俺は高度を上げた。
正面から行かない。
敵も俺が来ると分かっている。
射手台の二人が弓を上へ向け、地上の弓兵もこちらを見る。
そこで、セドル側から矢が飛んだ。
「盾!」
敵の地上兵が反応する。
空を見るか。
前を見るか。
一度に両方は難しい。
俺は大きく左へ回り、魔獣の斜め後ろへ入った。
射手台が追ってくる。
矢が一本。
翼を傾けて外す。
二本目が来る前に、一気に高度を落とした。
狙うのは射手ではない。
床でもない。
射手台を背中へ固定している縄と革帯だ。
俺が爪で木枠を少し削ったところで、何本も支えがあればすぐには落ちない。
なら、支えているものを外す。
翼を強く打つ。
横から風を受け、射手の身体が揺れた。
一人が板囲いへしがみつく。
もう一人の矢が大きく逸れる。
その隙に魔獣の横へ入った。
太い革帯が見える。
爪を引っかけ、身体ごと引く。
ぎしり、と木組みが鳴った。
革は切れない。
丈夫だ。
敵も簡単に外れないよう作っている。
「竜を離せ!」
下から槍が伸びる。
一本が腹の鱗へ当たり、滑った。
もう一本が翼へ届きそうになる。
長く留まる必要はない。
俺は手を離し、すぐ上へ逃れた。
矢が追ってくる。
だが、今ので分かった。
革帯一本ではない。
前と後ろ。
さらに腹の下を通した縄。
三か所以上で固定している。
全部を切ろうとすれば時間が掛かる。
別の場所を見る。
木の柱と床を繋ぐ部分。
そこだけは細い。
高さを出すために、太い柱の上へ横木を組んでいる。
壊すなら、あそこだ。
◇
大型魔獣が前へ進む。
地面が揺れる。
セドル側の盾列が少しずつ下がる。
人間の盾で受け止められる大きさではない。
「道を空けろ!」
守備隊を指揮する男が叫んだ。
盾兵が左右へ分かれる。
正面を空ける。
昨日決めた動きだ。
魔獣がそのまま突っ込めば、俺が使える空間ができる。
敵も気づいた。
魔獣を止めようとする。
後ろの男が手綱を引いた。
止まりきらない。
大きな身体が二歩、三歩と進む。
射手台が激しく揺れる。
その瞬間だった。
『今だ!』
セドル側の弓が一斉に上がる。
狙いは射手台の人間ではない。
周囲の地上弓兵。
盾兵がそちらへ寄る。
俺は反対から入った。
真上から落ちれば、射手に狙われる。
だから低く。
魔獣の肩をかすめる高さで飛び、射手台の横木へ前脚を掛けた。
今度は引かない。
体重をそのまま横へ預ける。
ばき、と一本目が折れた。
床が傾く。
「うわっ!」
射手が一人、板囲いへしがみついた。
もう一人が弓を捨てる。
短槍の男が俺へ突く。
穂先が首の鱗へ当たる。
構わない。
前脚をもう一度掛ける。
二本目。
木が裂けた。
床がさらに傾く。
射手台全体を落とす必要はない。
人間が立って弓を引けなくなれば、それで終わりだ。
俺はすぐ離れた。
壊れた側へ三人が集まり、必死に落ちないよう身体を支えている。
弓を撃つ余裕はなくなった。
◇
敵が射手台を下げようとした。
大型魔獣の向きを変える。
ここで追えば、もっと壊せる。
でも、俺はすぐには行かなかった。
射手台が傾いたまま魔獣が暴れれば、上の人間だけでなく周囲の兵まで巻き込む。
敵が自分たちで後退させるなら、その方がいい。
ところが、後ろから命令が飛んだ。
「止めるな! 前へ出せ!」
手綱を持つ男が何かを魔獣の首元へ当てた。
魔獣の身体が跳ねた。
俺にも分かる。
痛みだ。
恐怖。
嫌がっているのに、前へ出されている。
『そいつを止めろ!』
地上へ声を落とす。
守備隊の男が視線を走らせた。
「手綱の男か!」
『そうだ! 魔獣を無理に動かしてる!』
「弓、後ろの御者を狙え! 殺せなくても手を止めさせろ!」
矢が飛ぶ。
男の前に盾兵が入る。
一射目は盾。
二射目も弾かれる。
それで十分だった。
男が身を隠す。
手綱を引く動きが止まる。
大型魔獣も足を止めた。
俺は空から降りる。
男ではなく、手綱へ向かう。
前脚で地面を叩いた。
土が弾け、盾兵がよろめく。
俺が人間そのものへ爪を振れば、簡単に殺してしまう。
それをする必要はない。
空いた隙間へ爪を伸ばし、魔獣へ繋がっている革紐を断つ。
一本。
もう一本。
全部を切らない。
向きを強制している側だけだ。
魔獣が首を振った。
自分から東へ向く。
帰りたいらしい。
俺はその進路を塞がなかった。
『下がらせろ!』
敵兵へ叫ぶ。
『前へ出すな。下がるなら追わない!』
周囲の兵が迷う。
だが、傾いた射手台。
扱いにくくなった魔獣。
セドル側の弓。
その上に俺がいる。
続ける意味は薄い。
「下げろ!」
敵側からようやく命令が飛んだ。
魔獣が東へ向かう。
今度は手綱を強く引かなくても歩いた。
◇
射手台が下がると、敵の攻撃も弱くなった。
高い位置から矢を落とせなくなり、正面だけでは昨日と同じになる。
敵の盾兵が距離を取る。
弓兵も下がる。
こちらは追わない。
国境の線を越えて追撃しないという決め事は変えていない。
守備隊の男が隣へ来た。
「燃やさなくても止まったな」
『ああ』
「火の方が早かったかもしれんが」
『早く燃えることと、早く終わることは同じじゃない』
「燃えた魔獣がこっちへ走ったら面倒か」
『林まで燃えたら、もっと面倒だ』
男は苦笑した。
「戦ってる最中に、後で使う道まで考えるのか」
『昨日、橋を壊さなかったのと同じだ』
壊せるから壊す。
燃やせるから燃やす。
それで勝てる時もある。
でも、自分たちも使うものまで全部なくせば、あとで困る。
「なら、火を使う時もあるんだな」
『ある』
俺は東を見る。
『あっちの陣が乾いた平地にあって、風が逆なら、荷駄を燃やす方が早いかもしれない』
「なるほど」
『手段じゃなくて、場所で決める』
俺自身にも言い聞かせるように答えた。
◇
午後になっても、敵は丘の向こうへ完全には消えなかった。
射手台を失った大型魔獣だけが、かなり後ろへ下げられている。
人間たちは壊れた木組みを外し始めていた。
もう今日中に同じものを載せるのは難しそうだ。
その代わり、別の動きが見える。
騎馬が何組か、陣から離れていく。
正面ではない。
北。
南。
街道から外れた方向へ散っていく。
俺は少し高度を上げた。
守備隊の男も気づいたらしい。
「何してる?」
『道を探してるかもしれない』
「また迂回か?」
『たぶん。それか、村や水場を探してる』
正面で勝てない。
荷駄を狙われる。
射手台も壊された。
なら、同じ場所へ何度もぶつからない。
敵も考える。
それは当然だ。
『斥候を出してくれ。ただし追いすぎない』
「北と南、両方か」
『ああ。どこへ向かうかだけ見る』
「分かった」
すぐ二組が準備を始める。
俺も上から追える。
でも、全部を俺一人で見ればいいわけではない。
敵が広がれば、こちらも広く見る必要がある。
◇
夕方。
射手台の矢で負傷した者はいなかった。
盾の内側へ落ちた矢も何本かあったが、早く伏せたおかげで避けられている。
こちらの矢で敵がどれだけ負傷したかは分からない。
死者が出たかもしれない。
戦いになれば、そこまで全部を選ぶことはできない。
ただ、少なくとも今日はこちら側の誰かを犠牲にしてまで「殺したくない」と言い続けることはしなかった。
射手台を壊す。
魔獣を下げる。
敵の前進を止める。
必要なことを、必要な順番でやった。
それでいい。
俺は壊れた横木の一部が残る東側を見た。
木で作ったものなら、火を付ければいい。
それだけなら簡単だ。
でも戦場では、簡単な方法が一番いいとは限らない。
風。
地形。
周囲の兵。
逃げ道。
その後に自分たちが使う土地。
全部を見て決める。
昨日は荷駄。
今日は射手台。
敵が次に何を持ってくるかは分からない。
でも、もう正面にいる兵だけを見るつもりはなかった。
北と南へ散った騎馬が、夕日の下で小さくなる。
敵はまた別の手を探している。
なら、こっちも先に見つければいい。




