第64話 国境を越えた軍
最初の矢が盾へ刺さった時点で、話し合いは終わった。
俺は街道の上へ舞い上がる。
下では、セドルの守備兵が横木の後ろから左右へ散っていた。
敵の弓兵が二射目を放つ。
矢が上を向く。
俺を狙ったものも混じっていた。
高度を少し上げる。
何本かが鱗へ当たり、乾いた音を立てて落ちた。
痛くないわけではない。
でも、止まるほどではない。
前を見る。
敵の歩兵。
その後ろに騎馬。
さらに後方に荷車。
俺が狙うのは、そこだ。
兵を何十人倒しても、後ろから食料と矢が届けば軍は動く。
逆に、前にいる兵が無傷でも、食べ物も矢も馬の餌も届かなければ長くは進めない。
俺は街道の上を飛び越え、敵の頭上を通過した。
「竜だ!」
「上だ!」
叫び声が上がる。
弓兵が向きを変える。
それでいい。
俺を狙えば、セドルの兵へ飛ぶ矢が減る。
地上から弦の音が続いた。
俺は翼を傾け、矢の筋から外れる。
そのまま後方へ。
荷駄が見えた。
十台以上。
荷車だけではない。
背に袋を載せた獣。
干し草。
樽。
矢束。
天幕。
鍋や道具まである。
数日だけ歩いて帰る隊ではない。
ここから先へ進み、そのまま留まる準備をしている。
荷駄の横には護衛がいた。
俺を見るなり槍を構える。
弓を持つ者もいる。
だが、俺は人を狙わなかった。
先頭の荷車へ向かって高度を落とす。
御者が馬を引いた。
人が逃げる。
それを待ってから、俺は荷車の横へ降りた。
爪を前輪へ叩きつける。
木が割れた。
車軸まで折れる。
荷台が傾き、袋が二つ地面へ落ちた。
中からこぼれたのは麦だった。
兵糧だ。
次の荷車。
今度は車輪ではなく、馬と荷車を繋ぐ部分を爪で断つ。
馬が驚いて暴れそうになる。
『離せ! 馬を逃がせ!』
敵へ向かって叫んだ。
意味は通じる。
御者が慌てて残った綱を外した。
馬が街道脇へ走る。
荷車だけが残った。
護衛の一人が槍を持って突っ込んでくる。
俺は翼で風をぶつけた。
男の身体が地面を転がる。
槍が離れた。
立ち上がろうとした男へ顔を向ける。
『来るな』
今度は止まった。
殺す必要はない。
止まるなら、それでいい。
◇
敵の後方が騒ぎ始めた。
前へ進んでいた兵の一部が戻ってくる。
騎馬も来る。
荷駄を守るためだ。
その動きを上から見て、俺は狙いが間違っていなかったと分かった。
前線へ送るはずだった兵が後ろへ回る。
それだけで、セドル側への圧力が弱くなる。
俺は再び飛び上がった。
東を見る。
街道が続いている。
さらに向こうから、小さな一団がこちらへ向かっていた。
新しい荷駄ではない。
騎馬だ。
四騎。
何かを運んでいるようには見えない。
命令か報告を持って往復する者だろう。
俺はその上へ回り込む。
こちらに気づいた四騎が止まった。
馬が怯える。
俺は降りない。
ただ上を旋回する。
四騎は前へ進めなくなった。
そのうち一騎が向きを変えた。
東へ戻る。
残りも続いた。
追わない。
戻ればいい。
むしろ、後ろへ伝えてもらう。
この先へ進めば、荷駄を狙う竜がいる。
前の兵だけでは守れない。
その情報だけで、次に送る物の量も、護衛の数も変えなければならなくなる。
軍を止める方法は、兵を倒すだけじゃない。
◇
前線へ戻る。
セドル側の遮断線はまだ持っていた。
横木の一本に矢が刺さっている。
盾にも何本か。
だが、倒れている者はいない。
敵の歩兵は、最初より後ろへ下がっていた。
荷駄へ兵を戻したからだ。
俺が降りると、守備隊の男が寄ってきた。
「何をした?」
『荷車を二台止めた』
「燃やしたのか?」
『燃やしてない』
男が街道の向こうを見る。
「燃やした方が早くないか?」
『風を見ろ』
東から西。
こっちへ吹いている。
街道の両側には林がある。
『今火を付けたら、煙も火の粉もこっちへ来る。林まで燃えたら、敵だけじゃなく俺たちも道を使えなくなる』
「なるほど」
『火を使わないんじゃない。使う場所じゃない』
乾いた平地で、周りに燃えるものがなければ別だ。
火は早い。
荷駄にも効く。
でも、一度広がれば俺でも全部をすぐ消せるとは限らない。
敵を止めるために、自分たちの土地まで焼く必要はない。
「それで二台か」
『今はそれで十分だ』
「もっと壊せるだろ」
『壊せる』
「なら――」
『全部壊したら、逃げる荷車までなくなる』
男が黙る。
『退く道は残す』
敵を囲んで逃げ道まで潰せば、戦うしかなくなる。
追い返したいなら、帰れる道は必要だ。
「殺さないためか?」
『それもある』
俺は前を見る。
『でも、一番はこっちの被害を増やさないためだ。追い詰められた兵は死ぬまで戦う』
前の俺なら、そこまで考えなかったかもしれない。
殺したくない。
それだけで止まっていた。
今は違う。
殺さずに済ませるためにも、相手が退ける形を作る。
◇
敵の動きが止まった。
正確には、前へ出なくなった。
歩兵は遮断線から距離を取り、後方では兵が荷車を囲んでいる。
壊した二台の荷を、別の荷車へ移そうとしていた。
俺は上から見た。
全部は載らない。
一台の荷を他へ移せば、その車も重くなる。
進軍速度は落ちる。
馬の餌も余計に減る。
そこで、別のものが見えた。
荷駄のさらに後ろ。
小さな橋。
川というより、幅のある流れを街道が越えている。
橋そのものは丈夫そうだ。
荷車が一台ずつ渡れる程度の幅しかない。
あそこを壊せば、補給は完全に止まる。
俺はしばらく見た。
だが、やらない。
橋は敵だけが使うものではない。
敵が帰る時も使う。
こちらが東へ行く時にも使う。
それに、橋を壊せば荷駄がこちら側へ取り残される。
そうなれば、敵は食料を守るために必死になる。
今欲しいのは、敵軍の全滅ではない。
撤退だ。
壊すものにも順番がある。
◇
日が少し傾き始めた頃、敵側から再び騎馬が三騎出てきた。
今度は槍を立てていない。
一人が白い布を持っている。
守備隊がざわつく。
『射るな』
「分かってる」
男が答える。
三騎は遮断線から十分離れたところで止まった。
先頭の男が声を張る。
「話をしたい!」
守備隊の男が俺を見る。
『行っていい』
「また俺か?」
『人間同士の話だろ』
「便利に使うな」
文句を言いながらも、男は前へ出た。
今度は俺も少し後ろまでついていく。
敵の騎兵は俺を警戒している。
「我々の荷駄を攻撃したな」
『そっちが先に矢を射った』
俺が答えた。
「兵は殺していない」
『殺す必要がなかったからな』
「脅しか」
『警告だ』
相手の顔が固くなる。
『軍を下げろ。兵だけじゃない。荷駄も全部だ』
「我々には進む理由がある」
『なら、使者だけで話せ』
「軍を退けてからか?」
『そうだ』
男は黙った。
俺は続ける。
『このまま進むなら、次も荷駄を止める。食料、矢、馬の餌。前へ運べなくする』
「我々を飢えさせる気か」
『帰ればいい』
言葉が短くても、意味は十分だった。
『帰る道は壊していない』
男の視線が変わった。
気づいたらしい。
橋も残っている。
後ろへ続く街道も残っている。
壊したのは、前へ進むための荷車だけ。
「……意図的か」
『そうだ』
「全部焼くこともできた?」
『できる』
嘘ではない。
『でも、やらなかった』
相手はしばらく俺を見た。
「指揮官へ伝える」
『待つ』
三騎は戻っていった。
◇
守備隊の男が、横木へ戻りながら言った。
「これで退くと思うか?」
『分からない』
「分からないのか」
『相手が決めることだ』
ただし、こちらの条件は変えない。
軍を下げる。
話すなら使者だけ。
進むなら、補給を止める。
それでも攻撃してくるなら、今度は前の兵も止める。
曖昧にはしない。
◇
夕方になる前に、敵軍が動いた。
最初は荷駄だった。
壊れた二台から荷を移したあと、残った荷車が向きを変える。
一台ずつ。
街道が狭いから時間が掛かる。
次に騎馬。
最後に歩兵。
完全な撤退ではない。
丘の向こうまで下がり、そこで陣を作るつもりらしい。
だが、少なくとも国境を越えて押し込んでいた前衛は戻った。
守備隊から小さな歓声が上がる。
『まだ終わってない』
俺が言うと、すぐ静かになった。
敵は帰国していない。
ただ下がっただけだ。
後ろから新しい兵糧が来るかもしれない。
別の道を探すかもしれない。
夜のうちに動くかもしれない。
「追うか?」
守備隊の男が聞いた。
『追わない』
「今なら背中を狙えるぞ」
『だから狙わない』
逃げる敵を追って、こちらまで国境の外へ出れば立場が変わる。
『こっちは守る側だ。境を越えて追わない』
男は頷いた。
「斥候は?」
『出す。距離を取って見てくれ。荷駄がどこまで戻るか、東から新しい荷が来るか。それだけでいい』
「分かった」
斥候が二人、馬で出る。
追撃ではない。
見るためだ。
◇
日が沈み始めた。
街道の向こうには、まだ敵の煙が見える。
国境の外側。
丘の向こう。
そこで止まっている。
セドルの兵は横木を直し、矢を拾っていた。
誰も死んでいない。
けが人も、盾越しに腕を痛めた者が一人いる程度だった。
俺は壊れた荷車のことを考える。
二台。
それだけだった。
でも、軍は止まった。
前にいる百人を倒すより、後ろの十台を動かせなくする方が効くこともある。
兵士は腹が減る。
矢は使えばなくなる。
馬も食べる。
天幕も鍋も薬も、勝手には前へ進まない。
軍が大きくなればなるほど、それを支える荷物も増える。
そして荷物は、道がなければ動けない。
人間の軍は、兵士だけで出来ているわけじゃない。
それを今日、はっきり見た。
敵が明日どう動くかは分からない。
もっと大きな軍を連れてくるかもしれない。
別の手を使うかもしれない。
でも、こちらも同じやり方だけで待つ必要はない。
空から見れば、兵の数だけでは分からないものが見える。
どこから来たのか。
何を運んでいるのか。
どこへ戻るのか。
どこが切れれば止まるのか。
俺は東の空を見た。
戦うなら、前の敵だけを見ない。
守るべきなのは、この線の内側だ。
そのためなら、次も軍そのものを止める。




