第63話 人間が前に立つ
ラグ村との荷のやり取りが、ようやく形になり始めた翌朝だった。
ルーエの南から来るはずの荷車とは逆の方角から、一頭の馬が駆け込んできた。
蹄が乾いた道を叩く音に、村の入口にいた何人かが振り返る。
馬は泡を吹くほどではない。
だが、乗っていた男は休まず走ってきたらしく、肩で息をしていた。
「ヴァルはいるか!」
『ここだ』
俺が前へ出ると、男は馬から降りるより先に言った。
「セドルからだ。東の街道に軍が出た」
さっきまで木桶の値段を考えていた頭が、一瞬で切り替わった。
『盗賊じゃないんだな』
「違う。兵だ」
男が地面へ降りる。
「騎馬だけじゃない。歩兵がいる。荷駄もある。斥候が見た限り、東からまとまって動いてる」
『どれくらい?』
「正確な数はまだ分からん。先頭だけで百を超えている。その後ろにも続いてる」
百。
それだけなら、俺一人でも止められる。
だが男は、まだ報告を終えていなかった。
「荷車も十台以上見えた。馬だけじゃなく、荷を背負わせた獣もいる。食料らしい袋と樽、矢束、天幕まで積んでる」
俺は少し考えた。
『通りすがりじゃないな』
「ああ」
偵察や威嚇だけなら、そこまで荷を持ってこない。
少なくとも数日以上動くつもりで準備している。
『どの道を使ってる?』
「東の街道だ。セドルへ真っ直ぐ来る道」
『脇へ分かれた隊は?』
「今のところ確認できてない」
『荷駄の後ろは?』
「騎馬が何人か往復してる。さらに東にも人がいるらしい。斥候は追いすぎず戻した」
そこは正しい。
敵の後ろを見たいからと、こちらの斥候を失っては意味がない。
ただ、これで一つ分かった。
前を歩く兵だけが軍ではない。
食料。
矢。
天幕。
馬の餌。
それを運ぶ荷車。
さらに後方と行き来する人間。
全部で一つの軍だ。
前の兵を追い返しても、後ろが残ればまた来る。
『今、どこまで来てる?』
「境の手前だ。セドルの守備隊は東の街道を塞いでる」
『戦った?』
「まだだ」
それを聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。
まだなら、選べる。
◇
俺はすぐにセドルへ向かった。
ルーエから離れる前に、村長へ事情だけ伝える。
「こっちはどうする?」
『普通にしててくれ』
「兵を出すか?」
『まだいらない』
「攻めてきてるんだろ」
『まだ境を越えてない』
村長が俺を見る。
言いたいことは分かる。
前までの俺なら、「まだ攻めてないなら話せる」とだけ考えていたかもしれない。
今は違う。
『話す準備と、戦う準備を両方する』
「それならいい」
村長はそれ以上止めなかった。
ミラが家から出てくる。
「ラグ村への荷は?」
『予定通り動かしてくれ。道を止める必要が出たら知らせる』
「分かりました」
戦いが起きるかもしれないからと、全部を止める必要はない。
食料も薪も動かなければ、人は暮らせない。
俺が空へ上がると、眼下でトーマの荷車がいつも通り準備を続けていた。
それを見てから東へ向かう。
◇
セドルの東側には、街道を横切るように簡単な遮断線が作られていた。
砦と呼べるほど立派なものではない。
街道の両側へ太い杭を打ち、その間へ長い横木を渡す。
横木の後ろには土を詰めた籠と木盾。
さらに後方へ弓兵を置く。
以前より守り方がまともになっている。
敵が来る方向だけを見ているのではない。
左右の林へも人を出していた。
俺が降りると、守備隊の男が駆け寄ってくる。
「来てくれたか」
『敵は?』
「まだ向こうだ」
男が街道の先を指す。
低い丘の向こうから、細い煙が上がっている。
炊事の煙だろう。
『止まってる?』
「先頭は止まってる。だが、後ろから次々来てる」
『荷駄は見えた?』
「斥候の報告通りだ。兵より後ろにまとまってる」
俺は空へ上がった。
今度は高く行かない。
こちらの位置を隠す必要もなかった。
むしろ、見せた方がいい。
丘を一つ越えたところに、人の列があった。
槍。
盾。
騎馬。
その後ろに荷車。
兵の列は一つの塊ではなく、間隔を空けて続いている。
さらに後方では、馬に乗った人間が東へ戻っていくのが見えた。
荷駄の近くには干し草らしい束もある。
積み方を見る限り、数日分の食料だけ持って無理やり深く入ってきた軍ではない。
後ろから物を送るつもりだ。
街道を使って補給を続けるつもりなのだろう。
逆に言えば、その道を使えなくすれば進めない。
俺は旋回しながら考える。
兵へ直接吐息を当てる必要はない。
荷車を壊す。
車輪だけ潰す。
馬具を切る。
橋や狭い道を塞ぐ。
できることはいくらでもある。
火を使うなら、もっと簡単だ。
荷駄には木と布と干し草が多い。
ただし、今の風は東から西へ吹いている。
火を広げれば、煙も火の粉もこちら側へ来る。
街道脇は林だ。
何も考えず荷駄へ火を放てば、敵だけではなく道そのものが使えなくなる可能性がある。
火を使わないのではない。
使うなら、場所と風を選ぶ。
それだけだ。
俺は遮断線へ戻った。
◇
『荷駄はある。後ろとも繋がってる』
「長く居座るつもりか」
守備隊の男が顔をしかめる。
『たぶんな』
「なら、ここで追い返さないとまずいな」
『ああ』
返事をすると、男が少し意外そうな顔をした。
「止めるんだな」
『何だと思ってた?』
「もっと話したがるかと」
否定はできない。
俺は人を殺したいわけじゃない。
できるなら殺さずに終わらせたい。
それは今も変わっていない。
でも、殺したくないことと、守る側を危険に晒すことは同じじゃない。
『先に警告はする』
「それで進んできたら?」
『止める』
「どうやって?」
『一番先に兵を焼くとは限らない』
俺は街道の向こうを見る。
『荷駄を潰せば、軍は進めない。馬を逃がしてもいい。街道を塞いでもいい。それでも武器を向けてくるなら、その時は兵も止める』
男は黙って聞いている。
『こっちの誰かが死ぬまで手加減するつもりはない』
自分で口にして、胸の奥が少し重くなった。
それでも言い直さなかった。
前に人を殺した時の感触を忘れたわけじゃない。
できれば、もう味わいたくない。
だからこそ、敵が武器を振るう前に止めたい。
それでも止まらないなら。
守る側へ死ねとは言えない。
「分かった」
男は短く答えた。
◇
昼を少し過ぎた頃、敵の先頭が動き始めた。
最初に来たのは騎馬だった。
三騎。
その後ろへ歩兵が続く。
横木の前に立つこちら側の兵たちが盾を構える。
弓兵はまだ矢をつがえただけだ。
俺は遮断線の少し後ろにいた。
空には上がらない。
ここにいることは、向こうにも見えている。
三騎のうち一人が前へ出た。
「道を開けろ!」
声が響く。
こちらの守備隊の男が、俺を見る。
『行け』
「ヴァルが言わないのか?」
『ここは人間同士の話から始めろ』
俺が出れば、話の最初から「竜に従え」になる。
それでは、相手が何を考えているのか分からない。
この土地に住む人間が、自分たちの言葉で拒む。
その後ろに俺がいる。
その方がいい。
守備隊の男が盾を置き、横木の手前まで歩いた。
武器は腰に残している。
だが抜かない。
「ここから先へ軍勢を入れることは認めない!」
相手の騎兵が鼻で笑った。
「認めない?」
「兵を退けろ。話があるなら使者だけ寄こせ」
「我々に命令する立場か?」
「ここを守る立場だ」
声は震えていなかった。
後ろにいる兵たちも動かない。
誰も俺を見ていない。
それが少し嬉しかった。
俺がいなければ何も決められない人間たちではない。
◇
敵の騎兵はすぐに戻らなかった。
こちらの横木を見る。
弓兵を見る。
俺を見る。
特に俺を長く見た。
「その竜を使って脅すつもりか」
守備隊の男が答える。
「違う」
「なら、何のためにいる」
「お前たちが話を聞かずに進んだ時のためだ」
俺は少し笑いそうになった。
言い方がいい。
向こうは笑わなかった。
三騎が一度下がる。
相談している。
やがて一騎がさらに後ろへ走り出した。
丘の向こう。
本隊の方だ。
俺はその方向を見る。
指揮を出している人間があちらにいる。
そのさらに後ろには荷駄がある。
今なら上から回り込める。
荷車だけ壊して戻ることもできる。
でも、まだやらない。
警告した。
次は相手が選ぶ番だ。
こちらの線を越えなければ、戦わずに済む。
越えるなら。
俺たちも選ぶ。
◇
待っている間に、俺は守備隊へ指示を出した。
『横木が壊されても、そこで固まるな』
「後ろへ下がるのか?」
『左右に分かれろ。道の真ん中を空ける』
「空けていいのか?」
『俺が使う』
理解したらしい。
男が頷く。
『弓も最初から前の兵だけ狙うな。馬を止められるなら馬具か地面へ。無理なら盾を持ってない奴を牽制する』
「射てと言うまで射たない?」
『向こうが先に射ったら待つ必要はない』
そこも決める。
毎回「やめろ」と叫んでから攻撃されるのを待つつもりはない。
警告はもうした。
次に矢が飛んでくるなら、それが答えだ。
別の兵へ言う。
『左右の林も見ろ。正面だけに気を取られるな』
「分かった」
『後ろへ走る馬がいたら、どこへ向かうか見ておけ。追いかけすぎるな』
斥候も動いた。
俺は空へ飛び上がる。
風。
林。
荷駄。
敵の後ろへ続く街道。
逃げる方向。
全部を見る。
戦うなら、前にいる兵だけ見ていては駄目だ。
◇
丘の向こうから、今度は三騎ではなく兵の列が動いた。
盾が前。
槍がその後ろ。
騎馬は左右へ分かれている。
交渉する隊形ではない。
守備隊の男が横木の前で、それを見ていた。
俺は上から声を落とす。
『戻れ』
男はすぐ遮断線の内側へ入った。
盾を取る。
周囲の兵が間隔を開けた。
横木の後ろに固まりすぎない。
敵の歩兵が近づいてくる。
距離が縮む。
弓兵が矢をつがえる。
誰も放たない。
俺も吐息を溜めない。
まだだ。
先頭の兵が止まった。
十歩ほど先。
一人が横木へ近づく。
「退け!」
守備隊の男が答えた。
「話なら使者だけ来い!」
「最後に言う。道を開けろ!」
「断る!」
その瞬間。
敵の後列で弓が上がった。
俺は迷わなかった。
『盾!』
こちらの兵が一斉に身を沈める。
弦の音。
矢が飛ぶ。
木盾へ突き刺さる乾いた音が続いた。
一人も倒れない。
俺は翼を広げる。
警告は終わった。
人間が前に立ち、自分たちの土地へ入るなと言った。
それでも相手は矢を射った。
なら、次は俺の番だ。
殺さずに止められるなら、そうする。
だが、そのために守る側へ矢を受け続けさせるつもりはない。
俺は街道の上へ舞い上がった。
前の兵ではなく、その後ろを見る。
荷駄。
騎馬。
指示を運ぶ人間。
軍を動かしているものは、槍を持った兵だけじゃない。
どこを止めれば軍全体が止まるのか。
それを見極めるために、俺は空へ出た。




