第62話 荷車が、空で帰らなくなった
三日後、夜から朝にかけて雨が降った。
激しい雨ではなかったが、屋根を叩く音が夜中まで続き、朝になるとルーエの道には浅い水溜まりがいくつも残っていた。
俺は食事のあと、トーマと畑仕事の男を連れて、ラグ村へ向かう道の低い場所を見に行った。
前に掘り直した浅い溝には、水が流れた跡が残っている。
斜面から落ちてきた水が道へ直接広がらず、二つに分けた溝へ入り、そのまま草地の向こうへ抜けていた。
トーマが轍へ靴を入れる。
「前より硬いな」
完全に乾いてはいない。
それでも、踵が深く沈むほどではなかった。
畑仕事の男は溝の出口まで歩き、崩れた場所がないか確かめてから戻ってきた。
「しばらくこれで使えると思う」
『石はいらない?』
「今はな。もっと強い雨が降ったら分からんが、先に水を逃がしたのは正解だった」
「石を運ばずに済んだな」
トーマが笑う。
『残念そうだな』
「誰が好き好んで石なんか運ぶんだ」
もっともだった。
俺たちは道を直すために道を使っているわけではない。
荷物を運ぶために道が必要なのだ。
使えるなら、それ以上手を掛ける必要はない。
その日の昼前、トーマはその道を荷車で通ってラグ村から戻ってきた。
車輪は沈まなかった。
荷台には木桶が三つ、木皿が八枚、匙が十二本。それから、ルーエが買う薪が何束も積まれている。
約束していた品が、初めてまとめて届いた。
◇
村長の家の前へ荷物を下ろすと、ミラが板を持って出てきた。
「木桶は三つですね」
「四つじゃないぞ」
トーマが先に言う。
「分かっています。ハルムさんが無理なく作れるのは三つでしたから」
「ならいい」
木皿を数える。
八枚。
匙は十二本。
そこまでは注文通りだった。
薪は、最初からルーエが買う分なので商人へ見せる必要はない。
村長が一本手に取り、乾き具合を確かめる。
「悪くない」
「向こうじゃ、もっと持ってこいって言ってたぞ」
「一度に持ってこられても置く場所がない」
「売る方は売りたいんだ」
「買う方にも都合がある」
トーマが肩をすくめる。
「二つの村の間に立つと面倒だな」
『荷運びの仕事だろ』
「荷は文句を言わない」
「人は言うな」
村長が返す。
トーマは反論しなかった。
少しして、南から商人の荷車が来た。
前に木桶や木皿を買った男だ。
今日来ることは分かっていた。
だが、ラグ村の品が同じ日に届くようにしたのは初めてだった。
商人は荷車を止めると、並べられた木工品を見て目を細めた。
「揃いましたか」
『桶は三つだけだ』
「四つお願いしたはずですが」
『ハルムが無理なく作れるのが三つだった』
商人は少し考え、それ以上は言わなかった。
「では三つで」
グスタフが作った見本のおかげで、三つとも大きさはかなり近い。
商人は一つずつ持ち上げ、底と縁を確かめた。
「前より揃っていますね」
「見本を送った」
ベルトが言った。
「親父が作ったやつだ」
「作ったのは桶じゃないぞ」
近くにいたグスタフが口を挟む。
「寸法を見るための板だ」
「分かってるよ」
「お前は言い方が雑だ」
「親父は細かすぎる」
「木を扱うなら細かい方がいい」
商人が二人を見比べ、少し笑った。
「この形なら次も買えます」
グスタフの顔が少しだけ得意そうになった。
「ハルムに伝えておく」
「次も三つでお願いします」
「四つと言わないのか?」
「三つなら無理なく作れるのでしょう?」
「そうだ」
「なら三つです」
今度は最初から作れる数に注文が合った。
木皿と匙も確認され、そのまま全部買われた。
ミラが受け取った金額を板へ記す。
売った物。
数。
値段。
ルーエが一時的に出している分から、どれだけ返せたか。
まだ全部ではない。
でも、少し減った。
◇
商人が持ってきた荷物の中には、ラグ村が欲しがっている物もあった。
塩。
鉄の釘。
小さな刃物。
前にトーマが持ち帰った話を聞き、ラグ村の村長が必要な物を書かせていたらしい。
トーマが懐から木の板を出した。
「これだ」
商人へ渡す。
板には、欲しい物と数が刻まれている。
ミラが横から確認した。
「塩はこの量。釘はこれだけ。刃物は一つですね」
「塩はあります。釘も用意できます」
商人が荷台を見る。
「刃物は、この大きさでいいか分かりません」
トーマが困った顔をした。
「俺に聞くな」
『誰が欲しいんだ?』
「ハルムだ」
グスタフが反応した。
「何に使う」
「桶の縁を削るやつが減ってきたらしい」
「見せろ」
商人が荷台から刃物を持ってくる。
グスタフは刃の幅と柄を見て、首を振った。
「違う。これだと広すぎる」
「では、次に探してきます」
「こういう形だ」
グスタフが指で形を示す。
商人はミラから板を借り、簡単に印を付けた。
俺はその様子を見ながら思った。
以前なら、商人が来てから何を買うか考えていた。
今は違う。
ラグ村で必要な物を先に決める。
トーマがその情報をルーエへ運ぶ。
商人が持ってくる。
なければ次に探す。
荷物が届く前に、話が先に動いている。
◇
問題が一つあった。
商人の荷車へラグ村の木工品を積み終え、ルーエで売る塩や釘を下ろしたところで、トーマの荷車が空いたままだった。
正確には薪を下ろしたので空いた。
トーマが荷台を見て言う。
「これでラグ村へ戻るのか」
『塩と釘を積めばいいだろ』
「それだけじゃ、ほとんど空だ」
「空なら馬が楽でいいじゃないか」
村長が言う。
「毎回それじゃもったいない」
トーマは荷運びを仕事にしている。
行きに荷を運び、帰りはほとんど空。
それでも仕事はできる。
だが、同じ道を走るなら、帰りにも何か運べた方がいい。
商人が話を聞いていた。
「ラグ村では、ほかに何が必要です?」
「麦」
トーマが即答した。
「それはまだ買ってる途中だ」
「なら、こちらから持ってきた麦をここで積み替えることもできます」
商人の言葉に、村長が眉を上げた。
「ここで?」
「はい。私がルーエまで運ぶ。トーマさんがここからラグ村へ運ぶ」
『商人が直接ラグ村まで行かないのか?』
「行けますが、今のところその必要はないでしょう」
商人は道の北側ではなく、トーマの荷車を見た。
「私はほかの場所にも回ります。ラグ村一か所のために往復するより、ここで受け渡した方が早い」
トーマも考えている。
「俺はどうせラグ村へ戻る」
「そういうことです」
物を運ぶ人間が、全部の道を最初から最後まで走る必要はないらしい。
商人は外からルーエまで。
トーマはルーエからラグ村まで。
荷物だけが途中で乗り換える。
『それなら、今度から麦もここで渡せる?』
「事前に量が分かっていれば」
ミラがすぐに口を開いた。
「なら、ラグ村から必要な量を先に知らせてもらいましょう」
トーマが嫌そうな顔をする。
「また板が増えるのか」
「覚えて運べますか?」
「板でいい」
決まるのが早かった。
◇
そこから話が少し変わった。
ラグ村の商品を商人がいつ買いに来るのか。
商人が持ってきた品を、いつラグ村へ運ぶのか。
毎回ばらばらでは、トーマが何度も往復することになる。
村長が商人へ聞いた。
「次はいつ来る?」
「今の予定なら七日後です」
「その次は?」
「同じ頃に来られると思います。ただ、天気や道によって一日二日はずれるかもしれません」
「なら、トーマもその頃にラグ村の品を持ってくればいいんじゃないか?」
トーマが腕を組む。
「朝に向こうを出れば、昼前には着く」
「商人が遅れたら?」
「その日は持って帰る」
俺が口を挟む。
『それじゃ無駄じゃないか』
「じゃあどうする」
ミラが板を見ながら言った。
「商人が来る前の日に、トーマさんが一度ルーエへ来ればいいのでは?」
「荷物を置いて帰るのか?」
「全部は困ります」
村長が即座に止める。
ルーエを倉庫にするつもりはない。
話が少し行き詰まった。
俺は二台の荷車を見る。
商人の荷車。
トーマの荷車。
『商人が来る日を、トーマに先に知らせられないのか?』
「毎回ぴったりとはいきません」
「じゃあ、近くまで来た時に知らせるのは?」
ベルトが言った。
商人が振り返る。
「どうやってです?」
「南の村を通るんだろ?」
「通ります」
「そこから来る荷車があれば、トーマに伝えられる」
完全ではない。
でも、何もないよりはいい。
商人も少し考えた。
「それならできます。私だけでなく、こちらへ来る別の者にも伝えられます」
ミラが板に何か書く。
「では、七日ごとを目安にする。でも、知らせが届いた日を優先する」
「それなら動ける」
トーマが頷いた。
「ラグ村には、俺が戻った時に説明する」
『商品もその日に合わせて作る?』
グスタフが首を横に振った。
「桶まで日付に合わせて急がせるな。出来た分だけ運べばいい」
『そうだな』
危ないところだった。
荷車の都合に人間の仕事を全部合わせたら、また畑や冬支度がおろそかになる。
決まった日に、出来ている分だけ運ぶ。
足りなければ次。
それくらいでいい。
◇
夕方。
トーマの荷車は、ラグ村へ向けて動き出した。
今度は空ではない。
塩。
釘。
ルーエで買った小さな生活道具。
それから、商人が用意できた麦を一袋。
来た時には木桶や木皿、匙、薪を積んでいた。
帰りには、ラグ村が必要としている物を積んでいる。
トーマが御者台から振り返った。
「これなら荷運びしてる感じがするな」
『今までもしてただろ』
「片道空っぽなのは、なんとなく損した気になるんだよ」
「馬は楽だったぞ」
ベルトが言う。
「馬に聞いたのか?」
「顔を見れば分かる」
「お前の親父みたいなこと言うな」
グスタフが近くにいた。
「何か言ったか?」
「何も」
トーマがすぐ前を向いた。
馬が歩き出す。
荷車の車輪は、乾き始めた道へ入っていった。
途中の低い場所も、今なら問題なく通れるはずだ。
◇
俺は荷車を見送ってから、村長の家へ戻った。
ミラが新しい板を一枚用意している。
『また増えたな』
「必要なので」
『何を書く?』
「ラグ村から来る物。ラグ村へ持っていく物。それから商人が来る目安です」
『三つも?』
「一緒にしておかないと、何を待っているのか分からなくなります」
木桶。
木皿。
匙。
薪。
反対側には麦。
塩。
釘。
刃物。
品物の名前が両側に並んでいく。
俺はそれを見ていた。
ラグ村で食料が足りなくなった時、最初に考えたのは人だった。
何人ルーエへ移せるか。
何人なら食わせられるか。
でも、今動いているのは人ではない。
木桶が来る。
麦が行く。
薪が来る。
塩が行く。
足りない物の代わりに、人を動かさなくてもよくなった。
『十一人は、まだ残れそうだな』
ミラは板から顔を上げる。
「今のところは」
『そこは変わらないんだな』
「一度上手くいっただけで冬は終わりませんから」
やっぱり慎重だ。
でも、その方がいい。
俺も少しずつ慣れてきた。
今日、何か一つ上手くいったからといって、全部解決したことにはしない。
ただ、使える方法が一つ増えた。
それで十分だ。
◇
日が傾き始めた頃、俺は村の南側まで歩いた。
トーマの荷車はもう見えない。
道だけが残っている。
数日前までは、ラグ村へ続く道だった。
今は少し違う。
ラグ村から物が来る道であり、ルーエから物が行く道でもある。
そしてルーエには、別の場所から商人が来る。
その荷物の一部が、ここでトーマの荷車へ移る。
村と村の間に道があるだけでは、物は勝手に動かない。
誰がどこまで運ぶのか。
いつ運ぶのか。
何を持って帰るのか。
そこまで決まって、初めて道が使われ続ける。
俺は国を作りたいと思っている。
前なら、それは人を集めて、大きな村を作ることだと思っていた。
今は少し違う。
一つの場所へ全部集めなくてもいい。
離れた村が、それぞれ自分の暮らしを続けたまま繋がればいい。
七日ほど経てば、また商人が来る。
その頃には、トーマもラグ村から何かを運んでくるだろう。
それを誰かが大げさに命じたわけではない。
必要だから、そうなった。
荷車が、空で帰らなくなった。
たったそれだけのことが、二つの村を前より近くしていた。




