第61話 石を入れる前に、水を逃がす
翌朝、俺はトーマと一緒に、ルーエとラグ村の間にある低い場所へ向かった。
荷車は使わない。
今日は物を運ぶためではなく、道を見るためだ。
ルーエからは、前にラグ村の水路を見た畑仕事の男が一人ついてきた。畑の水をどこへ流せばいいか、土がどこで崩れやすいかを普段から見ている男だ。
俺一人なら空から道全体を見られる。
でも、荷車の車輪がどこへ沈むかまでは分からない。
トーマは毎日のように荷車を動かしている。
畑仕事の男は土と水を見る。
俺は上から周りを見る。
三人で見れば、少なくとも俺一人よりはましだ。
問題の場所へ着くと、昨夜は雨が降っていないのに地面がまだ黒かった。
道の幅は、荷車一台なら十分ある。
両側へ避ける余裕はないが、そこが一番の問題ではない。
トーマが昨日の轍へ靴を入れる。
「まだ柔らかいな」
踵が少し沈んだ。
畑仕事の男もしゃがみ、手で土を掴む。
「下まで湿ってる」
『雨が降ってないのに?』
「ここへ水が集まってるんだろうな」
男は道ではなく、山側を見た。
緩い斜面が続いている。
森というほど木は密集していないが、草と低い木が生えていた。
反対側は少し低く、その先に小さな草地がある。
『上から見てみる』
俺は翼を広げた。
地面を蹴り、道の上へ出る。
高く上がる必要はない。
木の高さを越える程度まで上がって、斜面を見る。
すぐに一つ気づいた。
道の少し上に、浅い筋が何本かある。
雨が降った時に水が流れた跡だ。
その筋は、問題の場所へ向かって集まっている。
俺は地面へ降りた。
『上から見ると、斜面の水がここへ来てる』
「やっぱりか」
男は立ち上がった。
トーマが道を見る。
「じゃあ石を入れても駄目なのか?」
「駄目とは言わん。でも、水が入り続けるなら何度も沈むかもしれん」
『先に水を逃がす?』
「そうだな」
男が道の端を歩き始める。
「ただし、こっちへ流せばいいってものでもない」
低い側を指した。
そこには草地があり、その先に細い畑が見える。
「変なところへ流せば、今度は畑が濡れる」
ラグ村の水路でも似た話があった。
溝を掘れば水が消えるわけではない。
どこかへ流れるだけだ。
その先まで見ないと駄目らしい。
◇
三人で道の周りを歩いた。
低い側には、昔何かを掘ったような浅い窪みが残っていた。
草に埋もれている。
トーマが足で草を押し分ける。
「これ、溝じゃないか?」
「かもしれん」
畑仕事の男が土を削った。
下から小石が出てくる。
「自然にできた窪みじゃなさそうだ」
『昔は水を流してた?』
「たぶんな」
その溝を辿る。
十数歩ほど先で土に埋まり、さらにその先は草地へ向かっていた。
草地の端には、もっと浅い水の跡がある。
雨が多い時だけ流れるらしい。
俺は少し飛び上がり、その先を見る。
水の跡は畑へ入らず、さらに低い場所を通って小さな沢へ向かっていた。
『この先は沢に繋がってる』
「なら使えるかもしれん」
男が頷いた。
トーマが溝を見る。
「掘り直すだけなら、石を山ほど運ぶより早そうだな」
『どれくらいでできる?』
「先に全部掘るな」
畑仕事の男に止められた。
『なんでだ?』
「本当に水がこっちへ流れるか見てからだ」
またそれか。
ラグ村の水路でも、いきなり全部直さなかった。
まず一部だけ。
水が流れるかを見る。
今回も同じらしい。
「ここから、埋まってるところまで開ける。道の山側にも浅く水の通り道を作る。それで雨の後に見る」
『石は?』
「まだだ」
「また沈んだら?」
トーマが聞く。
「水を抜いても沈むなら、その時に入れる」
なるほど。
原因が水なら、水を逃がす。
それでも地面が弱いなら、そこで初めて石を使う。
順番の問題だった。
◇
ルーエへ戻ると、村長はちょうどオットーのところにいた。
修理を終えた荷車の車輪を見ている。
俺たちが来ると、村長が顔を上げた。
「どうだった?」
『石はまだいらない』
「昨日は入れる話じゃなかったか?」
『水が集まってた』
畑仕事の男が代わりに説明する。
斜面から来る雨水。
道の低い場所。
埋もれた古い溝。
その先の沢。
一度、短い範囲だけ水の道を戻し、雨の後に確認したい。
村長は最後まで聞いた。
「何人いる?」
「三人で半日あれば試せると思う」
「ルーエから?」
「一人か二人でいい。向こうにも声をかければいい」
トーマが腕を組む。
「ラグ村は今、冬支度だぞ」
『だから大勢は出さない』
俺は言った。
『向こうから一人。ルーエから二人。それで試す』
「それなら何とかなるか」
村長が考える。
「ベルトかヨルンを出すか?」
すぐ近くで車輪を磨いていたベルトが顔を上げた。
「俺は行けます」
「お前、こっちの仕事は?」
「今日の分は終わります」
オットーが横から口を挟んだ。
「終わらせてから言え」
「終わらせるよ」
「なら一人だけ貸す」
ベルトが笑った。
「貸されるらしい」
『ラグ村側からも一人出してもらう。残り一人は?』
畑仕事の男が自分を指した。
「俺が行く。見た場所を別の奴に説明する方が面倒だ」
これで三人。
俺は作業する人数には入らない。
俺が溝を掘れば早いかもしれないが、俺がいないと維持できない道になれば意味がない。
空から水の行き先を見る。
必要なら倒木や大きな石を動かす。
それくらいにしておく。
◇
トーマはその日のうちにラグ村へ向かった。
荷車には、ルーエが買うことになった薪を積む予定だ。
ついでに道の話も持っていく。
翌朝には戻ってきた。
荷台には薪が積まれている。
そして御者台の横には、ヨルンが座っていた。
『ヨルン?』
「向こうから一人出せって言っただろ」
『ベルトも行くぞ』
「知ってる」
ヨルンが荷車から降りる。
「兄貴がルーエ側で、俺がラグ側。分かりやすいだろ」
ベルトが家から出てきた。
「お前が来たのか」
「悪いか?」
「別に」
「なら言うな」
兄弟は相変わらずだった。
ラグ村の村長が誰を出すか考えた結果、道を知っているヨルンが選ばれたらしい。
今はルーエで暮らしている。
それでもラグ村の仕事として来た。
少し変な形だ。
でも、二つの村の間にある道を直すなら、それくらい曖昧でもいいのかもしれない。
◇
作業は、道を掘るところから始まらなかった。
最初に草を刈った。
埋もれていた溝がどこへ続いているか見えるようにする。
ベルトとヨルンが鎌で草を倒し、畑仕事の男が土の高さを見る。
俺は上から確認する。
『もう少し右だ。その先の方が低い』
「こっちか?」
『そこ』
俺が地面へ降りる。
男が杭を一本立てた。
そこから沢へ向かって、浅い溝を繋ぐ。
深くは掘らない。
膝どころか足首より浅い。
「これでいいのか?」
ヨルンが聞く。
「最初はな」
「水が溢れないか?」
「溢れるくらい降ったら、その時に広げる」
「最初から広げた方が早くないか?」
「使えるか分からんものを広げる方が遅い」
ヨルンが口を閉じた。
俺も同じことを何度か言われた。
やっぱり、人間は大きく直したくなるらしい。
道の山側にも浅く筋を作る。
斜面から落ちてきた水を、その筋へ拾わせる。
ただし、全部を一か所へ集めない。
途中で二つに分け、古い溝へ流す。
『一つにまとめないのか?』
「水が多すぎると、今度は溝そのものが削れる」
畑仕事の男が答えた。
水を逃がすための溝が、水で壊れることもあるらしい。
俺は地面へ爪を立てようとして、やめた。
人間が鍬で作れる大きさにしておいた方がいい。
昼前には、試す分だけ終わった。
◇
問題は、すぐに水が流れないことだった。
雨が降っていないから当然だ。
ヨルンが空を見る。
「待つのか?」
『雨を?』
「そう」
「いつ降るか分からんぞ」
ベルトも空を見る。
薄い雲はある。
でも、今日降るとは限らない。
畑仕事の男がトーマの荷車に積んであった空の桶を見た。
「少し流してみるか」
沢から水を汲むほどではない。
近くに小さな流れがある。
桶で何度か運び、斜面側の浅い筋へ水を流す。
最初の一杯は、途中で土へ吸われた。
二杯目も同じ。
三杯目で、ようやく水が細く動き始める。
浅い筋を通る。
分かれた片方が古い溝へ入る。
草地へ抜ける。
その先へ。
『流れた』
「流れるだけならな」
畑仕事の男は喜ばなかった。
「雨は桶よりずっと多い」
確かにそうだ。
これで完成ではない。
ただ、水の行き先は間違っていないらしい。
男は道の柔らかい部分を踏む。
「次に雨が降った後、ここを見る。それで前より乾くなら意味がある」
『乾かなかったら?』
「石だな」
トーマが笑った。
「結局、石を運ぶかもしれんのか」
「必要ならな」
無駄ではない。
先に水を逃がした上で石を入れるなら、前より長く持つかもしれない。
◇
帰る前、トーマが荷車を問題の場所へ入れた。
今日は薪を積んでいる。
麦一袋より重い。
「止まったら押せよ」
ベルトが言う。
「言われなくても押す」
ヨルンが答える。
馬が歩く。
前輪が低いところへ入った。
少し沈む。
後輪も通る。
昨日ほど深くはないように見えた。
だが、水を抜いたばかりだ。
これだけで良くなったとは言えない。
トーマが荷車を止めず、そのまま通り抜けた。
「通れる」
『前も通れただろ』
「そうだった」
「喜ぶのが早い」
ベルトが笑った。
俺も同じことを思っていた。
最近、すぐ結果を欲しがると止められることが多い。
でも、その方がいい。
村を作る仕事は、一度直したら終わりじゃない。
使ってみる。
雨が降る。
壊れる。
また見る。
必要なら直す。
その繰り返しだ。
◇
ルーエへ戻ると、ミラが薪の量を確認していた。
ラグ村から買った分だ。
冬に向けて、ルーエの蓄えへ加える。
「道はどうでした?」
『水の逃げ道だけ作った』
「石は?」
『まだ』
「じゃあ、お金も人手もあまり使わずに済んだんですね」
『上手くいけばな』
「上手くいかなかったら?」
『石を運ぶ』
ミラは頷いた。
「その時は必要な量を先に教えてください」
『何で?』
「誰が何回運ぶか決めるので」
道を直すと言っても、石は勝手にそこへ来ない。
採る人。
運ぶ荷車。
馬。
その間に止まる仕事。
全部が必要になる。
石を入れるだけでも、村全体から見れば別の仕事を減らすことになる。
『分かった。雨の後に見てから決める』
「お願いします」
ミラは薪の板へ数字を書き足した。
俺はその横で、今朝までの話を思い返す。
ラグ村の食料が足りなかった。
人を減らそうとした。
それを止めるため、水路を見た。
商品を売った。
麦を買った。
薪をルーエへ運ぶようになった。
そうしたら今度は、道の弱い場所が問題になった。
一つ直せば、次の問題が出る。
でも、前とは少し違う。
問題が増えているだけではない。
人も物も動くようになったから、今まで見えなかった場所が見えるようになっている。
使わない道なら、泥に沈んでいても誰も困らない。
荷車が何度も通るから、直す意味が生まれる。
俺は村の外へ目を向けた。
トーマの荷車から、ベルトとヨルンが薪を下ろしている。
ルーエの人間が使う薪を、ラグ村から来た荷車で、ラグ村出身の兄弟が下ろしている。
どちらの村の仕事なのか、もう少し分かりにくくなっていた。
それでいい。
二つの村が繋がるというのは、境目をなくすことではない。
別々に暮らしたまま、必要な時に人と物が行き来できることだ。
そのための道なら、片方だけに直させる必要もない。
次に雨が降ったら、また見に行く。
水が抜けていれば、そのまま使う。
駄目なら石を入れる。
今は、それで十分だった。




