第60話 十一人は、村を出なくていい
トーマがラグ村へ戻る日、荷車には麦を一袋積んだ。
商人から買ったものだ。
ラグ村の木桶や木皿、匙、豆を売った分だけでは足りなかったので、残りはルーエが出している。
ただし、贈ったわけではない。
次に納める木桶四つ、木皿八枚、匙十二本。それでも足りなければ、薪や仕事で返してもらう。
いつ、何で、どれだけ返すのか。
そこまで厳しく決めてはいない。
冬を越す前に返済ばかり気にして、畑や薪集めがおろそかになれば本末転倒だからだ。
それでも、何を受け取って何を返したのかだけは残す。
ミラが板へ書いていた。
「これも持っていってください」
ミラがトーマへ小さな板を渡す。
「何だ?」
「今回の分です。麦一袋。ルーエが立て替えた分。次に商人が欲しいと言った品と数」
「向こうの村長に渡せばいいのか?」
「はい。ハルムさんにも見せてください。無理な数ではないか、もう一度確認してもらいたいです」
「グスタフは作れるって言ってたぞ」
「作るのはグスタフさんじゃありません」
トーマが口を閉じた。
俺は笑いそうになった。
確かにその通りだ。
グスタフはハルムならできると言った。
でも、実際に作る本人へ確認したわけではない。
『ハルムが無理だと言ったら減らしてくれ』
「分かった」
『畑を放って作るのも駄目だ』
「ああ」
トーマが御者台へ上がる。
俺も今日はラグ村へ行く。
荷車に合わせて進む必要はないが、道をもう一度見たかった。
最初に通った時、狭い場所が二か所あった。
低くて泥が残りやすい場所も一か所。
荷物が少ない時なら通れる。
だが、これからラグ村の物をルーエへ運び、麦や塩を向こうへ持っていくなら、通る回数は増える。
俺は空へ上がった。
トーマの荷車が、南へ動き始める。
荷台の麦袋は一つ。
大した量には見えない。
それでも、その一袋を待っている人間がいる。
◇
ラグ村へ着いた時、村長は畑にいた。
前に水を通した低い畑ではない。
少し高い場所で、数人と一緒に刈り取った後の畑を片づけている。
俺が降りると、村長は手を止めた。
「今日は荷車と一緒か」
『途中まではな』
「何かあったか?」
『麦を持ってきた』
村長の顔が変わった。
「もう買えたのか?」
『一袋だけ』
「一袋でも十分だ」
『十分かどうかは、まだ分からないだろ』
「……そうだったな」
前なら、麦が来たことだけで安心していたかもしれない。
今は違う。
冬の終わりまで何が必要か。
そのうち、どれだけ足りないか。
少しずつ見るようになっている。
やがてトーマの荷車が見えた。
村長だけではなく、畑にいた人たちも顔を上げる。
荷車が近づくにつれて、麦袋が見えた。
誰かが小さく息を吐いた。
歓声は上がらない。
でも、空気が緩んだのは分かった。
トーマが馬を止める。
「持ってきたぞ」
「見れば分かる」
「もっと喜べ」
「中身を見てからだ」
「疑ってるのか?」
「お前なら途中で豆に替えても驚かん」
「替えるか」
いつもの調子らしい。
村長は荷台へ上がり、麦袋を手で押した。
「これが、うちの品を売った分か?」
『全部じゃない』
俺は説明した。
木桶三つ。
木皿と匙。
豆を少し。
それらは売れた。
薪は遠くへ運ぶには割に合わないので、ルーエが買う。
売った金だけでは麦一袋に届かなかったから、足りない分はルーエが出した。
村長は黙って聞いていた。
「返す分は?」
トーマがミラから預かった板を渡す。
村長は文字を追い、途中で顔を上げた。
「木桶四つ?」
『次に商人が欲しい数だ』
「ハルムに聞かんと分からんな」
『そのために書いてある』
「木皿八枚、匙十二本……」
村長は板を見ながら呟いた。
「これで全部返せるのか?」
『まだ分からない』
「そうか」
『でも、急いで全部返さなくていい』
村長が俺を見る。
『冬を越すのが先だ。畑と薪集めを止めて木桶ばかり作るのは駄目だ』
「それは分かっている」
『返せる分だけ返してくれ。残りは後でいい』
村長はしばらく何も言わなかった。
やがて、麦袋へ視線を戻した。
「助かる」
『商人にも言ってくれ』
「もちろんだ」
『ルーエにもな』
「……分かっている」
少しだけ言いにくそうだった。
俺はそれ以上何も言わなかった。
◇
ハルムのところへ行くと、すでに木を削っていた。
家の横に簡単な作業場がある。
屋根だけを張り出させた場所に木材が積まれ、足元には薄い削り屑が散っている。
乾いた木の匂いがした。
トーマが板を渡す。
「注文だ」
「誰からだ」
「商人」
ハルムの手が止まった。
「俺に?」
「桶四つ。木皿八枚。匙十二本」
「全部俺じゃないだろ」
「グスタフもそう言ってた」
「当たり前だ」
ハルムは板を見る。
「桶四つなら作れる。ただ、十日では三つだ」
『四つは無理か?』
「無理じゃない」
ハルムは俺を見る。
「だが、四つ作ろうとすれば他の仕事を減らすことになる。家の柵も直したいし、薪も割らないといけない」
『じゃあ三つでいい』
「商人は四つ欲しいんだろ?」
『欲しいのと、作れるのは別だ』
ハルムが一瞬黙った。
それから口元を少し緩めた。
「グスタフに何か言われたか?」
『言われてない』
「そうか」
なぜか少し残念そうだった。
木皿と匙は別の家でも作れるらしい。
ハルムが二人の名前を挙げ、村長が呼びに行かせる。
しばらくして来たのは、一人の男と一人の女だった。
木皿は男。
匙は女。
二人とも普段から家で使う物を作っているという。
「八枚なら作れる」
男が言った。
「ただ、同じ大きさにするのか?」
『商人は揃ってる方が売りやすいって言ってた』
「どれくらいだ?」
そこまでは決めていない。
俺が困っていると、ハルムが今日作っていた木桶の横から皿を一枚持ってきた。
「これくらいでいいだろ」
男が受け取る。
「これを見本にするか」
「そうしろ」
匙も同じだった。
大きさの近いものを一本選び、それを見本にする。
俺はそのやり取りを見ていた。
前までは、それぞれの家で必要な物を、それぞれが使いやすい大きさに作っていた。
今は、知らない誰かへ売るために大きさを揃えようとしている。
ほんの少しだ。
でも、作り方まで変わり始めている。
◇
昼前、村長が三家の代表を呼んだ。
十一人が暮らす三家だ。
全員を集めたわけではない。
それぞれから一人ずつ。
男が二人、女が一人。
俺も村長の家にいた。
三人は何の話か分かっているようで、少し硬い顔をしている。
村長が麦袋の方を示した。
「今朝、麦が一袋届いた」
一人の男が頷く。
「見ました」
「前に来た二袋と合わせても、冬の分が全部足りるわけじゃない」
三人の表情は変わらない。
分かっていたのだろう。
「だが、ルーエと取引を続けられることになった。木桶や木皿、匙が売れた。薪はルーエが買う」
女が村長を見る。
「それで?」
「お前たち三家に、今すぐ村を出てもらう話はやめる」
誰もすぐには返事をしなかった。
静かだった。
外から、鶏の鳴き声が聞こえる。
やがて男の一人が口を開いた。
「残っていいんですか」
「少なくとも、この冬はな」
村長は続けた。
「ただし、何もしなくていいという意味じゃない。低い畑を戻す。水路も見る。木工を手伝える者は手伝う。薪も今まで以上に必要になる」
「やります」
返事は早かった。
「畑もやります。水路も」
もう一人の男も頷く。
「うちは息子が木を削れます。ハルムほどじゃないですが」
「なら、ハルムに聞け。勝手に売り物を作るな」
「分かりました」
女はしばらく黙っていた。
それから村長へ聞く。
「来年、また足りなくなったら?」
村長はすぐには答えなかった。
俺も口を挟まない。
「その時は、その時に考える」
村長が言った。
「今年と同じように人を出すのが一番いいとは、もう思っていない」
女が目を伏せた。
「分かりました」
声が少し震えていた。
でも泣かなかった。
三人が家を出たあと、村長は大きく息を吐いた。
「これでよかったのか?」
『俺に聞くな』
「お前が始めた話だろ」
『決めたのは村長だ』
「逃げるな」
『逃げてない。ラグ村の人を残すか決めるのは、ラグ村だろ』
村長は俺を見たあと、苦笑した。
「そういうことを言うようになったか」
『何が?』
「いや、いい」
よく分からない。
でも、十一人は残る。
少なくとも、この冬は。
◇
午後、俺はトーマと一緒にルーエへ戻った。
途中で例の低い場所に差しかかる。
前に来た時も湿っていた。
今日は雨が降っていないのに、荷車の車輪が少し沈んだ。
馬が力を入れる。
車輪が泥を押し出し、ゆっくり抜けた。
トーマが手綱を緩める。
「これ、荷が増えたら厳しいな」
『麦一袋でこれか』
「今は軽い方だ。薪を積んでルーエへ行く時はもっと重い」
俺は道を見る。
両側は草地だが、片側は少し低い。
反対側には木が生えている。
『避けて通れない?』
「荷車ならここが一番ましだ」
『石を入れれば?』
「量がいるぞ」
『ラグ村だけでできる?』
トーマは少し考えた。
「できなくはない。でも今は畑と薪が先だな」
同じ話だった。
人手がない。
食料が足りない。
だから人を減らす。
でも、人を減らせばさらに仕事ができなくなる。
その繰り返しから抜けようとしているところだ。
『ルーエ側からも人を出せるか聞こう』
「またか?」
『この道はルーエも使う』
薪はラグ村からルーエへ来る。
木桶や皿も、商人へ渡すなら一度ルーエを通る。
逆に麦や塩はラグ村へ向かう。
もうラグ村だけの道ではない。
「前の水路と同じだな」
トーマが言った。
『そうだな』
「次は道か」
『全部直すわけじゃない』
「分かってる。まずここだけだろ」
トーマの方が先に言った。
少し笑ってしまった。
◇
ルーエへ戻ると、俺は村長とミラにラグ村のことを伝えた。
十一人は、この冬は残る。
ハルムの木桶は四つではなく三つ。
木皿と匙は別の二人も作る。
薪も運べる。
そして最後に、道の低い場所の話をした。
「どれくらい悪い?」
村長が聞く。
『麦一袋で少し沈んだ』
「空荷なら?」
『たぶん大丈夫だ』
「雨の後は?」
『もっと悪くなると思う』
村長がミラを見る。
ミラはすぐ板を見なかった。
「何人必要なんですか?」
『まだ分からない』
「なら、先に見た方がいいですね」
『そうする』
以前なら、ここで三人出せるか、何日掛かるかまで決めようとしていたかもしれない。
でも、水路で覚えた。
先に見る。
必要な場所を決める。
それから人を出す。
村長も同じことを考えていたらしい。
「ケインに見てもらえ」
『ケイン?』
「あいつ、こっちの水路や畑の道を見てるだろ。土が沈む場所も分かるはずだ」
『分かった』
これなら、またラグ村へ大勢連れていく必要はない。
まず俺とケインで見る。
必要ならトーマにも来てもらう。
その後だ。
◇
夕方、ベルトたちの家の前を通ると、グスタフが木片を削っていた。
『何作ってる?』
「見本だ」
『何の?』
「ハルムに送る桶の大きさ」
『もう決まってるぞ』
「聞いた」
グスタフは手を止めない。
「だから、次から同じ大きさで作れるようにする」
『ハルムならできるんじゃないのか?』
「できる。だが、目で見る方が早い」
木片には、いくつか印が刻まれていた。
桶の高さ。
口の広さ。
底の広さ。
それを見れば、毎回同じくらいの大きさにできるらしい。
『それもトーマに持っていかせる?』
「ああ」
グスタフは木片を削りながら言った。
「どうせあいつは行ったり来たりするんだろ」
『たぶんな』
「忙しくなるな」
その声は、少し楽しそうだった。
ラグ村から八人が減った。
最初は、それで食べる人間を減らしたつもりだった。
でも、ベルトとヨルンは水路を直しに戻った。
グスタフはルーエにいながら、ハルムの仕事を手伝っている。
トーマは二つの村の間を何度も往復するようになった。
離れたはずなのに、前より行き来が増えている。
人が移ったから、関係が切れるわけではない。
むしろ道があれば、別の形で繋がれる。
俺は南の方角を見た。
ラグ村では今頃、三家の十一人が家族へ話しているはずだ。
この冬は、村を出なくていい。
それだけで全部解決したわけじゃない。
麦はまだ足りない。
低い畑が来年どこまで使えるかも分からない。
木桶がずっと売れる保証もない。
道には、荷車が沈む場所まである。
でも、最初にラグ村の話を聞いた時とは違う。
問題が起きるたびに、人を減らす必要はない。
水を流す。
人手を貸す。
物を売る。
足りない物を買う。
道を直す。
一つで駄目なら、いくつかを組み合わせればいい。
ルーエだけを大きくすれば国になると思っていた。
そうじゃないのかもしれない。
一つの村が全部を持つ必要はない。
畑が強い村がある。
木工ができる村がある。
人手に余裕がある村もあれば、薪を多く出せる村もある。
それを道で繋げば、足りないものを補い合える。
ラグ村の十一人は残る。
そのために必要だったのは、十一人分の新しい土地ではなかった。
二つの村の間を行き来できる道と、その道を使って助け合う方法だった。




