第59話 木桶一つにも、値段がついた
トーマがラグ村から戻ってきたのは、麦を一袋持たせてから二日後だった。
朝から空は薄く曇っていた。
雨になるほどではないが、山から吹き下ろす風には冷たさが混じり始めている。
冬はまだ先だ。
それでも、待ってはくれない。
荷車の音に気づいて村の南側へ出ると、トーマはいつもよりゆっくり馬を進ませていた。
理由はすぐ分かった。
荷台が埋まっている。
木桶が六つ。
木皿や匙を詰めた籠が二つ。
乾燥させた豆が一袋。
細く割って束ねた木材。
さらに荷台の後ろには、薪まで積まれていた。
『ずいぶん持ってきたな』
「持ってこられる物を全部持ってこようとしたんだ」
トーマが御者台から降りる。
『全部?』
「止めた」
『誰を?』
「村長とハルムを」
少し疲れた顔をしている。
「商人が買うかもしれないって話をしたら、家から色々出てきた。木桶、皿、匙、薪、豆、乾かした草、古い革までな」
『古い革?』
「それは置いてきた。俺には売れるか分からんし、荷車にも載らない」
正しいと思う。
売れるかもしれないからと、何でも運んでくればいいわけではない。
荷車にも積める量がある。
『ハルムは?』
「木桶なら無理せず作って、十日で四つか五つだそうだ」
『今ある分は?』
「六つ。ただし全部売るなら、村で使う分をまた作らないといけない」
『じゃあ全部売れないな』
「ああ」
前なら、六つあるなら六つ売れると思っていたかもしれない。
でも、それではラグ村が困る。
商人へ出せるのは、村で必要な分を残した後だ。
村長の家へ向かう途中、ベルトが荷車に気づいて駆けてきた。
「来たのか」
「来たぞ」
「親父!」
ベルトがオットーの作業場へ向かって叫ぶ。
しばらくして、グスタフが杖も使わず歩いてきた。
年齢の割には足が速い。
荷台の木桶を見るなり、一つを指差した。
「それはハルムのだ」
トーマが呆れる。
「全部ハルムのだ」
「違う。手前の一つは最後に作った」
「そこまで分かるのか?」
「縁を見ろ」
俺も見る。
分からない。
ベルトも覗き込んだ。
「俺にも分からん」
「お前は昔から木を見ない」
「畑仕事だったからな」
グスタフは木桶を一つ持ち上げ、底を指で叩いた。
「悪くない。急いで作ったわけじゃなさそうだ」
「売れると思うか?」
トーマが聞く。
「俺に聞くな。使える桶かどうかなら分かる。いくらで売れるかは商人に聞け」
その通りだった。
◇
ちょうど商人が来る日だった。
昼前、南の道から荷車が一台上がってきた。
これまで何度もルーエへ来ている商人だ。
塩と布、それに鉄製の釘や刃物を積んでいる。
荷車を止めた男は、ラグ村から届いた品を見るとすぐに近づいてきた。
「これが先日のお話ですか」
『ああ。ラグ村から来た』
「見ても?」
『そのために持ってきた』
商人は最初に木桶を見た。
取っ手を持つ。
内側を覗く。
底を指で押す。
水を入れたわけでもないのに、かなり長く確かめていた。
グスタフが横で黙って見ている。
「作りはいいですね」
商人が言った。
「ただ、大きさが少しずつ違います」
「手で作ってるからな」
グスタフが答える。
「それは分かります。ただ、売るなら大きさを二つか三つに揃えた方が値を付けやすい」
グスタフの眉が動いた。
「同じ物を作れということか?」
「まったく同じでなくても構いません。水を運ぶ大きな桶、家の中で使う小さな桶、と分かれているだけでも違います」
グスタフは木桶を見た。
怒ったわけではない。
考えている。
「ハルムならできる」
「なら、次に伝えてください」
商人は木桶を三つ選んだ。
「この三つは買えます」
『残りは?』
「悪い物ではありません。ただ、村で使う分も必要なのでしょう?」
『そうだ』
「でしたら、無理に全部売らない方がいい」
商人は木桶を戻した。
「売るために作って、自分たちが使う桶を買うことになれば何をしているか分かりませんから」
村長が笑った。
「確かにな」
次は木皿と匙だった。
こちらは全部を一つずつ見る必要もないらしい。
数個を手に取り、割れや歪みがないか確かめる。
「これはまとめて買えます」
トーマが少し驚いた。
「桶より簡単に?」
「小さいですから」
『小さい方がいいのか?』
「運ぶ側には」
商人が木皿を荷車へ置いた。
「荷台の隙間へ入れられます。桶は場所を取りますが、皿や匙なら他の荷と一緒に運べる」
前にも似た話を聞いた。
売れるかどうかだけではない。
運べるかどうかも値段に関わる。
豆も売れた。
ただし、これはラグ村の冬の食料でもある。
商人が買えると言っても、一袋全部は出さなかった。
村長とミラが量を確認し、今回は三分の一だけにする。
トーマが麻袋から別の袋へ豆を移す。
ざらざらと乾いた音がした。
「もっと出せるぞ」
トーマが言う。
「向こうにはまだある」
ミラが首を横に振った。
「あることと、売っていいことは別です」
「冬までの分は残してある」
「予定より寒くなったら?」
トーマが黙った。
「麦が足りない村なんですよね。豆までぎりぎりにする必要はありません」
『ミラの言う通りだ』
麦を買うために、別の食料まで売りすぎたら意味がない。
結局、豆は少しだけ売ることになった。
◇
問題になったのは薪だった。
商人は薪の束を見たあと、首を横に振った。
「これは今回は買いません」
トーマが眉を寄せる。
「売れないのか?」
「売れます。ただ、ここから運ぶには割に合わない」
『なんで?』
「重くて、場所を取るからです」
商人は自分の荷車を指した。
「同じ場所へ木皿や匙を積めば、もっと多く運べます。薪は近くで買える場所もありますから」
トーマが薪を見る。
「ラグ村には一番あるんだがな」
「ルーエで使うなら話は別でしょう」
村長が腕を組む。
「こっちで?」
「はい。わざわざ遠くへ運ばず、近い場所で使えばいい」
俺は薪を見る。
ルーエでも薪は使う。
煮炊き。
冬の暖房。
オットーの作業でも火を使う。
『ルーエで買える?』
「買う必要があるかどうかが先だ」
村長が答えた。
「今の蓄えを見てからだな」
ミラがすぐ板を取りに行った。
しばらくして戻り、今年集めた薪の量と、去年使った量を確認する。
「少しなら買ってもいいと思います」
『余ってるのに?』
「余っているというより、冬を越せる見込みがある量です」
ミラは板を俺へ見せる。
「でも人が増えています。八人分、使う薪も増えます」
忘れていた。
食料だけではない。
人が増えれば、火を使う。
暖を取る。
湯を沸かす。
薪も必要になる。
「なら、ラグ村から買うか」
村長が決めた。
トーマが笑う。
「商人には売れなかったのに、ここでは売れるんだな」
『近いからだろ』
「そういうことだ」
商人が頷いた。
「物には、売る場所があります」
その言葉は分かりやすかった。
薪が悪いわけじゃない。
遠くへ持っていくのに向いていないだけだ。
逆に木皿や匙は、小さくて運びやすい。
同じ村で作った物でも、売る相手は同じじゃなくていい。
◇
午後になる頃には、最初の取引が終わった。
商人が買ったのは、木桶三つ。
木皿と匙。
豆を少し。
ルーエが買うことになったのは薪。
細く割った木材は、オットーが見てから決めることになった。
金額をミラが板へ書く。
ラグ村から来た物。
売れた物。
残した物。
ルーエが買う物。
商人が買う物。
それぞれ分ける。
そして最後に、買える麦の量を計算した。
俺は板を覗き込む。
『これでどれくらい買える?』
「まだ一袋には届きません」
ミラが答えた。
トーマの顔が少し曇る。
「これだけ持ってきてもか」
「最初から全部を品物だけで払えるとは考えていません」
ミラは落ち着いていた。
「それに、今日は村で必要な木桶と豆を残しています」
商人も頷く。
「無理に売れば一袋へ近づけるでしょう。ただ、それでは冬に困ります」
『じゃあ、足りない分は?』
村長が答えた。
「最初に決めただろ。こっちが一時的に出す」
ルーエが全部を贈るわけではない。
足りない分を先に出し、後からラグ村が品物や仕事で返す。
俺は板を見る。
『それなら、麦一袋は買える?』
「買えます」
ミラが答えた。
『じゃあ買おう』
「待ってください」
『どうした?』
「値段を聞いてからです」
商人が小さく笑った。
「ミラさんの方が商売に向いていますね」
『俺もそう思う』
麦の値段を聞く。
前に聞いた時と大きくは変わっていない。
それを確認してから、村長が頷いた。
「一袋頼む」
「承知しました」
これで、また一袋。
前に送った分と合わせれば、ラグ村の冬は少し楽になる。
でも今回は違う。
ルーエの倉から出した麦ではない。
ラグ村の物を売り、足りない分をルーエが補い、商人から買う麦だ。
同じ一袋でも、中身以外はまったく違っていた。
◇
商人が帰る前、グスタフが呼び止めた。
「次も桶を買うか?」
「出来次第ですね」
「どんなのが欲しい」
商人が少し考える。
「今日買った中なら、この大きさです」
一つを指す。
「水を運ぶにも使える。穀物を入れるにも使える。取っ手は今のままでいいですが、大きさを揃えていただけると助かります」
「いくつだ」
「まず四つ」
「十日後か?」
「それくらいで」
グスタフが頷いた。
「ハルムに伝える」
そこで終わるかと思ったが、グスタフは続けた。
「皿は?」
「皿も買えます」
「何枚だ」
「無理なく作れる数で構いません」
「それじゃ作る方が困る」
商人が一瞬黙った。
グスタフは真顔だった。
「四枚欲しいなら四枚と言え。十枚なら十枚だ。売れるか分からん物を作らせるな」
「……確かにそうですね」
商人は考え直した。
「では、木皿を八枚。匙を十二本」
「分かった」
注文が決まった。
トーマが横で聞いている。
次にラグ村へ戻った時、そのまま伝えられる。
『ハルム一人で全部作るのか?』
俺が聞くと、グスタフが首を振った。
「皿や匙なら他にも作れる。桶はハルムに任せた方がいい」
『なら、分けられるな』
「ああ」
ラグ村で新しい仕事が増える。
ただし、畑を放って木工ばかりするわけにはいかない。
そこはトーマから村長へ伝えてもらう。
冬を越すために始めた取引で、来年の畑を弱らせたら意味がない。
◇
商人の荷車が南へ下っていった。
荷台には、ラグ村から来た木桶と木皿が積まれている。
その後ろ姿をトーマが見送っていた。
「変な感じだな」
『何が?』
「ラグ村で使ってた物が、どこか知らない場所へ行く」
『売ったからな』
「そうなんだけどな」
トーマは頭を掻いた。
「今までは荷物を運んでも、誰かが買った物を届けるだけだった。村で作った物を外へ持っていくのは、あまりなかった」
『これから増えるかもしれない』
「そうだな」
少し嬉しそうだった。
俺たちは村長の家へ戻る。
ミラはもう板を整理していた。
ラグ村の欄が増えている。
食料だけではない。
木桶。
木皿。
匙。
薪。
豆。
次に作れる数。
売れた値段。
まるで、もう一つの村の暮らしが板の上へ少しずつ見えてきたようだった。
『十一人は、まだ残せそうか?』
俺が聞く。
ミラは板を見たまま答えた。
「今のところは」
『今のところ?』
「一回売れただけです」
やっぱり慎重だ。
「木桶が次も売れるとは限りません。麦の値段が上がるかもしれません。水路も、雨が降った時に本当に役立つかまだ分かっていません」
『そうだな』
「でも」
ミラが顔を上げる。
「前よりは、残れる理由が増えました」
それで十分だった。
最初は、食料が足りないから人を減らすという話だった。
八人がルーエへ来た。
さらに十一人も来るかもしれなかった。
でも、今日はラグ村から人ではなく、木桶が来た。
木皿が来た。
薪が来た。
そして帰りには、それが金へ変わった。
足りない物があるなら、人を減らすしかない。
そんな村だった。
今は、足りない物を外から持ってくる方法ができ始めている。
代わりに、自分たちが持っている物を外へ出す。
それだけで、同じ五十人余りでも暮らし方が変わる。
村を大きくすることばかり考えていた。
人を増やす。
畑を増やす。
家を増やす。
でも、村を残す方法は、それだけじゃないらしい。
人を減らさず、外と繋ぐ。
それも、村を強くする方法だった。
トーマは夕方にはラグ村へ戻る。
荷車には、商人へ渡す物はもうない。
代わりに持っていくものがある。
木桶四つ。
木皿八枚。
匙十二本。
次に欲しいと言われた数だ。
そして、麦一袋を買える見込みが立ったという知らせ。
ラグ村から最初に届いたのは、「八人とも働ける」という、少し困った話だった。
今度は違う。
次に届くのは、人ではなく商品になる。
俺はその方がいいと思った。
第59話━改訂版了




