第58話 足りない麦を、ルーエだけで背負う必要はない
ラグ村からトーマが戻ってきたのは、水路を見に行ってから三日後だった。
今度の荷車には、薪も木桶も積まれていない。
代わりに乗っていたのは、麻袋が二つと、小さな木箱。それから細長い板が一枚だった。
荷車が村長の家の前で止まると、トーマは御者台から降り、板を抱えて入ってきた。
「村長からだ」
『何が書いてある?』
「俺に聞くな。途中で落とさないように持ってこいと言われただけだ」
文字が並んでいる。
俺にも読める。
だが、数字が多い。
横から覗き込んだミラの方が早かった。
「ラグ村に残っている食料ですね」
板を受け取ったミラが、指で一つずつ追っていく。
麦。
豆。
根菜。
干した肉。
山羊。
鶏。
その横には、冬の間に必要だと見積もった量も書かれていた。
かなり大ざっぱではある。
それでも、何も分からなかった時とは違う。
「麦が一番足りません」
ミラが言った。
『どれくらい?』
「待ってください」
彼女は自分の板も持ってきた。
ルーエの食料を記録しているものだ。
二枚を並べ、指を動かしていく。
俺は口を挟まず待った。
しばらくして、ミラが顔を上げる。
「前に渡した二袋を入れても、冬の終わりまで余裕を持たせるなら、まだ足りません」
『ルーエから出せる?』
「出せます」
答えは早かった。
ただ、続きがあった。
「でも、全部をルーエから出すのは勧めません」
村長も頷く。
「俺もそう思う」
『理由は?』
「こっちだって、来年まで何があるか分からんからだ」
村長が板を指す。
「八人増えたばかりだ。これからまた人が来ないとも限らん。それに、ルーエで不作になれば今度はこっちが困る」
その通りだった。
ラグ村を助けるためにルーエの蓄えを減らしすぎれば、何か起きた時に二つの村が一緒に困る。
『じゃあ、足りない分を買う?』
「それができるならな」
村長の視線が俺へ向いた。
商人。
少し前のルーエにはなかった選択肢だ。
トーマが持ってきた木箱を開けた。
「あと、これも見てくれって」
中に入っていたのは、小さな木製品だった。
匙。
皿。
取っ手の付いた器。
木桶ほど大きくない。
どれも派手な飾りはないが、表面はきれいに削られている。
ベルトが一つ手に取った。
「ハルムだな」
『また分かるのか?』
「これは誰でも分かる。あいつ、取っ手をこう削るんだ」
木の器を裏返す。
俺には違いがよく分からない。
「ラグ村で作れる物を集めたそうだ」
トーマが言う。
「薪と木桶だけじゃ、いつも同じ物になるからってな」
麻袋の一つには乾燥させた豆が入っていた。
もう一つは何かと思ったら、細く割った木材だった。
「これは?」
村長が尋ねる。
「桶や籠を直す時に使う材だ。乾かしてある」
ダリオが呼ばれた。
一本手に取り、曲げて確かめる。
「使えるな」
『ルーエで?』
「ああ。柵にも使えるし、細いなら籠の補修にも使える。ただ、これだけ運ぶなら薪の方が楽かもしれん」
「値が違う」
ベルトが言った。
「乾かして、太さを揃えてある。薪みたいに切っただけじゃない」
なるほど。
ラグ村にも、麦以外なら出せる物がある。
問題は、それを誰が欲しがるかだ。
『商人に見せよう』
村長が腕を組んだ。
「買うと思うか?」
『分からない』
「即答だな」
『分からないものは仕方ないだろ。だから見せる』
買うかどうかを俺たちだけで考えていても仕方がない。
商人本人に聞けばいい。
◇
ちょうどその日の午後、商人がルーエへ来た。
以前から取引している男で、今回は塩と鉄製品、それに布を少し積んでいる。
荷車が止まると、男は御者台から降りて俺へ頭を下げた。
「ヴァル様。今日は何かお求めですか」
『麦』
「量は?」
『その前に、こっちも見てほしい』
村長の家から運んできたラグ村の品を並べた。
商人は最初、木の匙を一つ手に取った。
表を見る。
裏を見る。
取っ手を指で撫でる。
次に器。
それから細く割った木材。
豆も確かめた。
俺たちは黙って待った。
「木桶は?」
『前に来た物がある』
「見せていただけますか」
持ってこさせる。
商人は木桶の中を覗き、底を叩いた。
「誰が作っています?」
『ラグ村のハルムって人だ』
「一人ですか」
トーマが答える。
「主にハルムだ。ただ、荒削りくらいなら他にもできる」
「月にいくつ作れます?」
トーマが困った顔をした。
「そこまでは聞いてない」
商人は頷いた。
「では、確認していただきたいですね」
『買えるのか?』
「物によります」
木桶を指す。
「これは売れます。少なくともルーエだけで使う必要はありません」
次に匙と皿を見る。
「こちらも値段次第です。ただ、これだけを荷車で運んでも大きな利益にはなりません」
『じゃあ駄目か』
「いえ」
商人は細く割った木材を持ち上げた。
「木桶や薪と一緒なら運べます。荷台に空いた場所があれば、小さな物を載せられる」
俺は荷車を見る。
行きと帰りで、荷物が同じとは限らない。
ルーエへ塩や鉄を持ってきた荷車が、帰りに空になるなら、そこへラグ村の品を載せればいい。
『麦を持ってきて、帰りにこれを持っていくこともできる?』
「できます」
「交換になるのか?」
村長が聞く。
商人は首を横に振った。
「直接交換するより、別々に値を付けた方がいいでしょう」
『どう違う?』
「麦一袋と木桶何個、と決めてしまうと、どちらかの値が変わった時に困ります。麦はいくら。木桶はいくら。差額だけ銭で払う。その方が後で揉めません」
なるほど。
物々交換の形にする必要はないのか。
ラグ村の物を売る。
その金で麦を買う。
足りない分だけ別に払う。
その方が何がどれだけ足りないのかも分かりやすい。
『ラグ村まで取りに行ける?』
「道次第ですね」
商人はトーマを見る。
「荷車は通れますか」
「通れる。ただ、狭いところが二か所ある。雨の後は低いところもぬかるむ」
「では、今すぐ商人を何台も入れるのは避けた方がいいですね」
『ルーエまで運ぶなら?』
「それなら問題ありません。ラグ村からここまで運んでいただき、こちらで受け取ります」
トーマが腕を組む。
「俺が運ぶことになるな」
「仕事が増えたな」
ベルトが笑う。
「荷運びが仕事だ」
トーマも笑い返した。
でも、確かに仕事は増える。
ラグ村からルーエへ。
ルーエから外へ。
道が繋がれば、物だけでなく仕事も生まれる。
◇
話はその場で決めなかった。
まず、ラグ村の品にどれくらいの値が付くのかを商人に出してもらった。
木桶。
木皿。
匙。
乾燥させた豆。
薪。
加工用の木材。
全部が同じように売れるわけではない。
薪は必要とする場所が多いが、重くてかさばる。
木桶は一つ当たりの値が高いが、作れる数に限界がある。
豆は食料として売れる。
木皿や匙は小さいので、他の荷物と一緒なら運びやすい。
商人の説明を聞きながら、ミラが板へ書き込んでいく。
『麦は?』
「今なら用意できます。ただし、一度に大量となると値が上がる可能性があります」
『なんで?』
「こちらも買い集めますから」
商人は当然のように答えた。
「一つの村から余った分を買う程度なら大きく変わりません。ですが、短い間に何袋も集めれば、売る側も強気になります」
前にもミラが言っていた。
買えるからといって、いつでも同じ値段で買えるわけではない。
『じゃあ、一度に全部買わない方がいい?』
「冬まで時間があります。必要量が分かっているなら、何度かに分ける方がいいでしょう」
村長がミラを見る。
「ルーエの分も一緒に買えるか?」
「それなら、もともと買う予定だった分があります」
「まとめた方がいいのか?」
商人が少し考える。
「荷運びは楽になります。ただ、買う時期は分けた方がいいでしょう」
俺は話を聞きながら、ようやく分かってきた。
ラグ村の麦が足りない。
だからルーエから渡す。
それだけなら簡単だった。
でも、毎年それをやれば、ラグ村はルーエの蓄えに頼るようになる。
逆に、全部を商人から買えば、今度は金が必要になる。
だから、ラグ村が持っている物を売る。
足りない分だけ買う。
来年は畑を少し戻して、買う量そのものを減らす。
全部が繋がっている。
◇
翌日、トーマはまたラグ村へ戻った。
今度は空の荷車ではない。
麦を一袋だけ積んでいる。
商人から買った物だ。
残りは後で運ぶ。
代わりに、ラグ村の村長へ渡す板を持たせた。
そこには商人が示した値が書いてある。
木桶ならいくら。
木皿ならいくら。
豆ならいくら。
薪ならいくら。
そして、冬までに必要な麦を買うなら、どれくらいの品を用意すればいいか。
もちろん、全部をラグ村の品だけで払えるとは限らない。
足りない分はルーエが一時的に出すこともできる。
ただし、それも無料ではない。
来年、ラグ村から別の物や仕事で返してもらえばいい。
村長もそれで納得した。
「最初から全部決めるなよ」
出発前、村長がトーマに言った。
「向こうの村長に、まずこの値を見せろ。出せる量を向こうで決めてもらえ」
「分かってる」
「ハルムにも聞け。木桶をいくつ作れるか」
「ああ」
「無理に増やすなとも言っとけ」
ベルトが横から口を挟んだ。
「爺さん一人に二十も三十も作らせたら倒れるぞ」
「ハルムはまだ爺さんじゃない」
トーマが言い返す。
「親父と同じくらいだろ」
「グスタフの前で言ってみろ」
「言わない」
少し笑いが起きた。
その横で、ミラは荷車に積まれた麦袋を確認している。
「一袋だけなんですね」
『一度に全部運ばない方がいいって言われたからな』
「それもありますけど」
ミラが俺を見る。
「ラグ村が何をどれだけ出せるか、まだ分かっていません」
『ああ』
「先に全部渡したら、また前と同じです」
その通りだった。
困っているから渡す。
それだけでは、助ける側と助けられる側に分かれてしまう。
今回は違う。
最初の一袋は、次の取引を始めるためのものだ。
『トーマ』
「何だ?」
『向こうで、これをもらったから安心だって話にはするなよ』
「しない」
『これから何を売るか決めるための麦だ』
「村長にもそう言う」
トーマが手綱を握る。
馬が歩き出した。
荷車の後ろで麦袋が揺れる。
以前も、同じ道を小麦二袋が通った。
でも、今度は意味が違う。
あの二袋は、ラグ村の事情を聞くために送った。
今日の一袋は、ラグ村が村を縮めずに冬を越すための取引を始める。
同じ麦でも、役割が変わっていた。
◇
荷車を見送ったあと、俺は村長の家へ戻った。
ミラが板を片づけている。
そこにはルーエの食料だけでなく、ラグ村の食料まで並ぶようになった。
『増えたな』
「何がですか?」
『見るもの』
ミラが板を見る。
「そうですね」
以前はルーエの人間が冬を越せるかだけ考えればよかった。
今はラグ村の麦まで考えている。
ただ、俺たちがラグ村を養うわけではない。
そこを間違えたら駄目だ。
『十一人、残れそうか?』
俺が聞くと、ミラはすぐには答えなかった。
「今年だけなら、たぶん」
『来年は?』
「水路がどれくらい役に立つか次第です。それと、ラグ村が畑へどれだけ人を戻せるか」
『まだ決まらないか』
「決まらない方が普通だと思います」
ミラは淡々と言った。
「でも、三日前よりは選べる方法が増えました」
俺は笑った。
『それならいい』
十一人をルーエへ移す。
最初に見えた答えは、それだった。
今は違う。
水路を直す。
麦を買う。
豆を売る。
木桶を売る。
足りない人手は借りる。
荷物はトーマが運ぶ。
一つで全部を解決する方法はない。
その代わり、小さな方法がいくつもある。
村が一つしかなければ、できることにも限りがあった。
でも、ルーエとラグ村が繋がり、その外に商人までいるなら、足りないものを全部自分たちだけで作る必要はない。
俺は外へ出た。
遠くでトーマの荷車が小さくなっていく。
あの道を、これから麦が通る。
反対からは木桶や豆が来る。
そして、そのどちらにも値段が付く。
ラグ村から十一人を減らさずに済むかもしれない。
水路を一本直しただけでは、そこまでできなかった。
道と、人と、物が繋がったからできる。
国を育てるというのは、何でも自分たちで作れるようにすることだと思っていた。
少し違ったらしい。
作れないものがあってもいい。
足りないものがあってもいい。
それを持っている相手と繋がっていれば、村は生きていける。
ルーエの外に、初めてそんな相手ができようとしていた。




