第57話 故郷へ戻る。ただし、住むためじゃない
翌朝、まだ畑に薄い靄が残っているうちに、ベルトとヨルンは村の南側へ来ていた。
二人とも鍬を担いでいる。
昨日、水路を見に行くと手を上げた男も一緒だった。名をローデンという。これまでルーエの畑や水路で何度も働いてきた男で、今日は鍬だけでなく、長い縄と木杭を何本か荷車へ積んでいる。
食事は三人分。
昼に食べる黒パンと干し肉、それに水。
ラグ村の人間の分までルーエが持っていくわけではない。向こうから出る三人の食事は、向こうで用意してもらう。
最初から決めた通りだ。
『忘れ物はないか?』
「ない」
ベルトが荷車を確かめる。
その後ろから、エマが布に包んだものを差し出した。
「これも」
「飯はもうあるぞ」
「お父さんに」
ベルトが黙った。
父親のグスタフはルーエにいる。
だから、エマの言う「お父さん」はラグ村の誰かではない。
「ハルムに渡して。お義父さんから」
「ああ」
ベルトが包みを荷車へ入れる。
木桶を作ったハルムか。
ラグ村から届いた木桶を見て、グスタフはすぐ作り手が分かったらしい。中身まで聞くつもりはないが、村を離れても人の繋がりまで切れたわけではない。
ヨルンの妻サラも来ていた。
「暗くなる前に帰ってきてよ」
「分かってる」
「前に住んでた村だからって、酒飲んで帰るの遅くしないでね」
「水路掘りに行くんだぞ」
「終わったら飲むかもしれないでしょ」
「……飲まない」
返事が少し遅かった。
ローデンが笑う。
「帰りが遅くなったらヨルンだけ置いてくるか」
「それは困る」
「なら働け」
朝から妙に賑やかだ。
俺は少し離れたところで、そのやり取りを見ていた。
ベルトたちがルーエへ来た時とは違う。
あの時は、一家八人が荷物をまとめて新しい土地へ移ってきた。
今日は違う。
仕事へ行って、夕方には帰ってくる。
それだけのことだった。
『行こう』
三人が荷車へ乗る。
俺はその上空を進むことにした。
道の状態はもう分かっている。
今日は荷車と同じ速度で全部を見る必要はない。
それより、先にラグ村へ着いて向こうの準備を確かめた方がいい。
俺は地面を蹴り、空へ上がった。
◇
ラグ村へ着くと、村長はすでに低い畑にいた。
約束した三人もいる。
昨日とは違い、それぞれ鍬や鋤を持っていた。
『早いな』
「ルーエから人を借りるのに、こちらが後から来るわけにはいかんだろう」
村長はそう言ってから、俺の後ろを見る。
「ベルトたちは?」
『荷車で来る。もう出てる』
「そうか」
声が少し変わった。
村長にとっても、ベルトとヨルンが戻ってくるのは単なる人手ではないのだろう。
ただし、俺は先に一つ確認した。
『今日は全部掘らないからな』
「聞いている」
『まず六人でどこまでできるかを見る。それで続けるか決める』
「ああ」
村長は低い畑へ目を向けた。
「こちらも、その方がありがたい。今の時期に何日も六人を取られるのは厳しい」
ラグ村にも冬支度がある。
畑だけ直して、薪が足りなくなったら意味がない。
やがて、道の向こうから荷車の音が聞こえてきた。
ベルトたちだ。
荷車が近づくにつれ、ラグ村の人間が何人か家から出てきた。
声を掛ける者もいる。
「ベルト!」
「ヨルン!」
二人が荷車の上から手を上げる。
それだけだった。
抱き合ったり、泣いたりはしない。
昨日まで隣で暮らしていたような距離で言葉を交わしている。
「向こうはどうだ?」
「仕事はある」
「飯は?」
「食えてる」
「親父は?」
「オットーと喧嘩してる」
「なら元気だな」
それで話が通じるらしい。
ベルトは荷車から降りると、村長へ頭を下げた。
「今日は手伝いに来た」
「ああ。助かる」
「先に言っておくけど、戻ってきたわけじゃないぞ」
村長は一瞬だけ黙り、それから頷いた。
「分かっている」
「ならいい」
それ以上は何もなかった。
ベルトは荷車から鍬を下ろす。
ヨルンも続いた。
ローデンだけが周囲を見回しながら、長い縄と木杭を手に取った。
「話はあとでいいか。先に水路を見たい」
「頼む」
村長が答えた。
仕事が始まった。
◇
ローデンは、いきなり鍬を入れなかった。
まず川側の出口へ行き、そこから昨日辿った古い溝を逆に歩いていく。
ベルトとヨルンが昔の水路の位置を教え、ラグ村の三人も記憶している範囲で補う。
俺もついていった。
途中でローデンが木杭を一本打つ。
少し進んで、もう一本。
その間に縄を張った。
『それで何が分かる?』
「だいたいの高さだ」
ローデンは縄の位置へ顔を近づける。
「正確な道具があるわけじゃない。でも、水を流すなら少しずつ川側へ下がってないと困る」
さらに先へ進む。
また杭を打つ。
今度はローデンが首を傾げた。
「ここ、おかしいな」
ベルトが近づいた。
「何が?」
「向こうより高い」
「昔からか?」
「分からん。掘ってみる」
ようやく鍬が入った。
草の根を切り、表面の土を除く。
ベルトとヨルンも手伝う。
しばらくすると、土の下から別の色が出てきた。
柔らかい泥ではない。
周りより固く締まっている。
「これだな」
ローデンが鍬を止めた。
「水路そのものが浅くなったんじゃない。上から土が流れ込んで固まってる」
『ここを取れば流れる?』
「ここだけならな」
ローデンはすぐに続けた。
「でも、この先にも同じ場所があるかもしれん。先に全部見る」
俺は頷いた。
昨日の俺なら、ここを見つけた時点で掘ろうとしていたかもしれない。
だから現場を知っている人間を連れてきて正解だった。
六人はさらに先へ進む。
結局、川までの間に水を止めそうな場所が三か所見つかった。
一つは今見つけた土。
二つ目は崩れた畦。
三つ目は木の根だった。
全部の溝を掘り直す必要はない。
まず、この三か所を開ける。
ローデンがそう決めた。
「よし。ここからやるぞ」
六人が分かれた。
二人ずつ三か所。
鍬が土へ入る音が、畑のあちこちから聞こえ始めた。
◇
作業は、見ているよりずっと遅かった。
柔らかい土なら鍬で上げられる。
だが、根が絡んでいるところはそうはいかない。
ローデンが根の周囲を掘り、ヨルンが斧を入れる。
一度では切れない。
乾いた音が何度も響いた。
別の場所では、ベルトとラグ村の男が固まった土を崩している。
鍬を振るたび、湿った土の匂いが強くなった。
俺も手伝おうとしたが、ローデンに止められた。
「ヴァルは上から見てくれ」
『上から?』
「水路がどっちへ伸びてるか、俺たちより見えるだろ」
なるほど。
『分かった』
俺は空へ上がった。
高く上がる必要はない。
畑全体が見渡せる程度でいい。
地上では草に隠れて分かりにくかった溝も、少し上から見ると色の違いで繋がりが見える。
ただ、完全には分からない。
使われなくなった場所は畑と同じ色になっている。
『ローデン!』
下へ声を掛ける。
『そっちの溝、もう少し右へ続いてる!』
ローデンが顔を上げた。
「どの辺だ?」
『ベルトから五歩くらい右! 草が濃いところ!』
ベルトが移動し、鍬を入れる。
少し掘ると、黒っぽい土が出てきた。
「あった!」
役に立った。
俺はそのまま上から水路を追った。
全部を俺が見つけるわけではない。
地上から見た方が分かるところもある。
上からの方が見えるところもある。
それでいい。
昼前には、一つ目の詰まりが取れた。
だが、水は流れない。
そもそも今は畑に溜まった水がほとんどないからだ。
『これ、直ったかどうか分からないんじゃないか?』
「水を入れる」
ローデンが答えた。
桶で少量の水を運び、上流側の溝へ流す。
茶色い水がゆっくり進んだ。
途中で止まりかける。
ベルトがしゃがむ。
「ここも少し高い」
「削れ」
鍬で底を薄く削る。
もう一度、水を流す。
今度は進んだ。
速くはない。
それでも、確実に川側へ動いていく。
誰も声を上げなかった。
六人とも水の行方を黙って追っている。
細い流れは二つ目の場所を越え、三つ目へ向かった。
木の根を切った場所で少し溜まり、それから先へ抜ける。
最後に、石の残る出口から川へ落ちた。
小さな音だった。
ほんの桶一杯の水だ。
それでもラグ村の村長は、しばらく川面を見ていた。
「流れたな」
『流れた』
ローデンは喜ぶより先に、水路の底を見ていた。
「今日はここまででもいいな」
村長が振り返る。
「もうやめるのか?」
「水が流れる道はある。それが分かった」
ローデンは鍬についた泥を落とす。
「全部掘り返すより、次は雨の後に見る方がいい。どこに水が溜まるか分かる」
『今、全部直す必要はない?』
「ない。むしろ触りすぎて崩したら余計な仕事が増える」
そういうものか。
俺はまた一つ覚えた。
◇
昼になり、六人は畑の端へ座った。
ルーエから来た三人は持ってきた黒パンと干し肉を出す。
ラグ村の三人も自分たちの食事を広げた。
俺は少し離れた木陰へ腰を下ろした。
そこへ村長が来る。
「ヴァル」
『どうした?』
「一つ、謝っておきたい」
『何を?』
「ベルトたちのことだ」
俺は村長を見る。
「八人とも働ける、と伝えた」
『ああ』
「嘘だった」
『知ってる』
「分かっている」
村長は苦い顔をした。
「だが、あの時は、そうでも言わなければ一家で受け入れてもらえないと思った」
俺はすぐには答えなかった。
風が畑を抜け、掘り返した土の匂いを運んでくる。
『次はやめてくれ』
「ああ」
『子供も老人も、食べる。でも、それを隠して送られたら、こっちは用意できない』
「その通りだ」
『今回は受け入れられた。でも、いつもできるとは限らない』
「分かっている」
村長は素直に頭を下げた。
俺は責め続ける気はなかった。
今日ここへ来たのは、そのためじゃない。
『三家十一人の話は?』
「まだ何も伝えていない。冬が厳しくなる可能性があるとは言ってあるが、村を出ろとは言っていない」
『なら、そのまま待ってくれ』
「どれくらいだ?」
『まず、今年足りない量を出してくれ』
「麦のか?」
『麦だけじゃない。豆と根菜があるなら、それも含めてだ。冬までに何をどれくらい食べるのか、足りないのが何なのか知りたい』
ルーエでもやっていることだ。
何人いる。
どれだけ食べる。
何が残っている。
それが分からなければ、交換でどれだけ補えばいいのか決められない。
『小麦二袋を何度も運ぶだけじゃ駄目だ。ラグ村が出せる物も知りたい』
「薪と木桶以外も、ということか」
『ああ。ルーエで使える物なら交換できる。商人が欲しがる物があれば、別の物にも換えられるかもしれない』
まだ商人との取引は大きくない。
何でも売れるわけでもない。
だが、ルーエだけで食料を抱えていた頃とは違う。
村の外から買うという方法がある。
その入口くらいはできている。
「分かった。調べよう」
『それと、十一人は今のところ残す』
村長が俺を見る。
『食べ物が足りないから人を減らすのは、最後にしよう』
「……ああ」
今度の返事は、少し長い間を置いてからだった。
◇
午後は、掘った場所の周囲を固める作業だけにした。
広げすぎたところへ土を戻し、崩れそうな部分へ石を入れる。
作業を終える頃には、六人とも腕や脚に泥が付いていた。
だが、朝に比べて水路の見た目が大きく変わったわけではない。
少し草がなくなった。
三か所の詰まりが消えた。
それだけだ。
それでも桶の水は川まで流れた。
それが今日の結果だった。
帰り支度を始めると、ハルムという男がやってきた。
ベルトが荷車から朝の包みを取り出す。
「親父から」
「グスタフから?」
「ああ」
ハルムが布を開く。
中に入っていたのは、小さな木製の道具だった。
何に使うのか俺には分からない。
ハルムには分かったらしい。
「まだ持ってやがったのか」
「何だ、それ」
「桶の縁を削る道具だ。昔、あの爺さんに貸したら、そのまま持っていきやがった」
「五十年も?」
「五十年じゃない。二十年くらいだ」
「十分長いだろ」
周囲から笑いが起きた。
ハルムは道具を握ったまま、ベルトを見る。
「グスタフはどうしてる」
「オットーの仕事に口出してる」
「変わらんな」
「向こうでも嫌がられてる」
「それでいい」
ハルムは笑った。
「黙ったら死ぬ前だ」
ベルトも笑う。
村を離れた人間と、残った人間。
それでも、こうして物は戻ってくる。
言葉も戻ってくる。
全部を切って新しくする必要はないのかもしれない。
◇
夕方、ルーエへ戻った。
村の入口にはエマとサラがいた。
三人の子供もいる。
荷車が見えると、一番小さな子が駆け出しかけ、エマに服の後ろを掴まれた。
「荷車が止まってから!」
子供がその場で足踏みする。
ベルトが笑った。
「ただいま」
「どうだった?」
エマが聞く。
「水は流れた」
「それだけ?」
「それだけで十分だ」
ベルトの返事に、ローデンが頷いた。
「今日はな」
荷車から道具を下ろす。
朝持っていった鍬。
縄。
木杭。
食事を包んでいた布。
全部戻ってきた。
そして三人も戻ってきた。
人を貸すというのは、こういうことらしい。
いなくなるんじゃない。
必要な場所へ行って、仕事をして、帰ってくる。
たった一日で、ラグ村の食料が増えたわけじゃない。
来年の麦が実ったわけでもない。
次の大雨で、あの水路が本当に役に立つかもまだ分からない。
それでも、十一人を村から出す以外の方法が一つ見えた。
水を流す道は残っていた。
ラグ村には、それを直す人間も残っている。
足りなかったのは、あと何人かの手と、その手を一日だけ借りる相手だった。
昔のルーエには、それができなかった。
自分たちが食べるだけで精いっぱいだったからだ。
今は違う。
八人を受け入れた。
その八人のうち二人が、今度は元いた村を助けに行った。
人が増えるというのは、食べる口が増えるだけじゃない。
できることも増える。
俺は泥の付いた鍬を担いで歩くベルトとヨルンを見送った。
二人が帰っていく先は、もうラグ村ではない。
ルーエだった。




