第56話 十一人を残すために、人を貸す
古い排水路を川まで辿ってみると、俺が最初に考えていたほど単純な話ではないことが分かった。
低い畑の間には何本もの細い溝が走っていて、それが途中で太い溝へ合流し、最後は川へ落ちるようになっている。形がきれいに残っている場所もあれば、土に埋まり、草に覆われて畑との境すら分からなくなっている場所もあった。
ラグ村の村長が鍬の先で草をかき分ける。
「この辺りまでは、五年ほど前にも泥を上げた」
『こっちは?』
「もっと前だ。十年……いや、それ以上になるかもしれん」
後ろを歩いていたトーマも溝を覗き込んだ。
「俺が荷運びを始めた頃には、こっちはもう使ってなかったと思う」
全部を一度に放棄したわけではないらしい。
人手が足りなくなるにつれて、手入れする場所を減らしていった。その分を水害に遭いにくい上の畑へ回し、低い畑は少しずつ使わなくなった。
やがて木立が途切れ、川へ出た。
川そのものは畑より低い位置を流れている。
だが、排水路の出口は水面からそれほど高くない。岸には枯れ草や細い枝が引っ掛かった跡が残っていた。
『雨が多い時、川はどこまで上がる?』
村長は岸辺へ下り、今の水面よりかなり上にある土を指した。
「今年の春は、ここまで来た」
『かなり上がるな』
「ああ。だから溝を掘り直せば全部元通り、という話でもない。川から水が入ることもある」
そこまで分かっていて、それでも手を入れられなかったのか。
理由は聞くまでもない。
人が足りなかった。
低い畑を守るために何人も使うより、水害の少ない上の畑へ人を回す。その判断自体は間違っていない。
ただ、それを何年も続けた結果、使える畑そのものが減っている。
『全部戻したいのか?』
俺が聞くと、村長は首を横に振った。
「いや。上の畑を捨てる気はない。あそこは雨が多い年でも使えるからな。ただ、低い畑の半分でも安定して使えれば違う」
『今年みたいな年でも?』
「今年失った麦の全部を取り戻す必要はない」
村長は鍬を肩へ担ぎ直した。
「村から人を出さずに済むだけ取れればいい」
それなら、考えるべきことが少し変わる。
ラグ村を一気に豊かにする必要はない。
三家十一人が残ったまま暮らせるだけの食料を確保する。
まずはそこだ。
『今年の分は、もう増やせない』
「そうだな」
『なら今年は交換で補う。来年は、今より少し多く作れるようにする』
「それができれば苦労はないんだがな」
『できるかどうかは、まだ分からない』
俺は埋まりかけた溝を見る。
『でも、十一人を先に出してしまったら、ここを直す人間まで減るだろ』
「……その通りだ」
村長の返事は重かった。
分かっている。
分かっているから、三家をすぐ村から出すとは決められなかったのだろう。
少し先で、トーマがしゃがみ込んだ。
「村長。ここ、石が残ってるぞ」
俺たちも近づく。
草と土の下から、拳より大きな石が何個も並んでいた。自然に転がってきたものではない。川へ向かって、ある程度きれいに列を作っている。
『これも排水路か?』
「そうだ」
村長が鍬で土をどける。
「川へ落とす最後のところは何度も崩れたらしい。それで昔の連中が石を入れた」
『じゃあ、最初から全部作り直すわけじゃないんだな』
「残っていればな」
石の列は途中から土へ潜っていた。
どこまで使えるかは掘ってみなければ分からない。
それでも、何もないところから水路を作るのとは違う。
『何人いれば掘り直せる?』
「分からん」
村長はあっさり答えた。
「全部なら相当いる。だが、使えそうな場所だけなら話は変わる」
『ラグ村から何人出せる?』
「今なら三人だ。それ以上は冬支度に響く」
三人。
俺は溝を見ながら考えた。
『じゃあ、ルーエからも三人出せるか聞いてみる』
村長がこちらを向いた。
「ルーエから?」
『六人なら、三人より早いだろ』
「それはそうだが……こっちの畑だぞ」
『だからラグ村からも三人出してくれ』
「それは当然だ」
『ならいい』
村長はまだ何か言いたそうだった。
『小麦を渡し続けるのは無理だ。でも、人を何日か貸すならできるかもしれない。こっちから来た人間だけで全部やるつもりもない』
「……貸す、か」
『そう。あげるんじゃない。終わったらルーエへ帰る』
トーマが吹き出した。
「人を小麦みたいに言うなよ」
『分かりやすいだろ』
「まあ、分かりやすいけどな」
村長まで少しだけ口元を緩めた。
それでいい。
助ける、助けられるだけの関係にする必要はない。
ラグ村からは薪や木桶や豆が来る。
ルーエからは小麦を出せる。
必要なら人手も出す。
お互いに足りないものを補えばいい。
◇
ルーエへ戻ったのは夕方だった。
行きと同じくトーマの荷車に合わせて戻ったので、村へ着く頃には西の空が赤くなっている。
村長の家へ行く前に、俺は畑へ寄った。
人を貸せるか聞くなら、今のルーエにどれだけ余裕があるのか見ておきたかった。
収穫を終えた畑では、何人かが枯れた茎を束ねている。
少し離れた水路では、崩れた土を二人の男が鍬で戻していた。
そのうち一人が俺に気づく。
「ヴァル、帰ったのか」
『今戻った。聞きたいことがある』
「何だ?」
『古い水路を掘り直すなら、何人くらいいる?』
男は鍬を肩へ乗せたまま、呆れた顔をした。
「それだけで分かるわけないだろ。どれくらい長いんだ」
『そこそこ長い』
「一番困る答えだな」
隣の男が笑った。
「深さは?」
『場所によって違う』
「土は?」
『柔らかいところもある。石を入れてあるところもあった』
「余計に分からん」
『やっぱりそうか』
「当たり前だ」
俺はラグ村で見たことを説明した。
春の雨で低い麦畑が駄目になったこと。
昔使っていた排水路が埋まりかけていること。
川へ落とす場所には石組みが残っていること。
そして、食料が足りなければ三家十一人が村を出る可能性があること。
二人とも、すぐには答えなかった。
一人が水路の底へ鍬を入れ、崩れた土を持ち上げる。
「今すぐ大勢は出せないぞ」
『こっちも冬支度があるから?』
「それもある。畑の片づけも終わってない」
分かっていたことだ。
ラグ村を助けるためにルーエの仕事が止まれば意味がない。
『二、三人なら?』
「日を決めれば何とかなるかもしれん」
もう一人が口を挟む。
「向こうからも人を出すんだろ?」
『三人出せるって言ってた』
「だったら、まずそれでやればいい」
『六人か』
「最初から全部掘ろうとするなよ」
男は鍬の柄についた土を手で払った。
「一日やれば、どれくらい進むか分かる。土が悪けりゃ人数を増やせばいいし、六人で足りるならそのまま続ければいい」
『なるほど』
「それと、掘る前に水路を端から端まで見た方がいい」
『それは今日見た』
「見ただけだろ?」
『……見ただけだな』
「水は低い方へしか流れん。途中に高いところが残ってたら、そこを掘らなきゃ止まる。昔の溝だからって、そのまま同じ深さにすればいいとは限らんぞ」
そこまでは考えていなかった。
俺は溝が残っているかどうかばかり見ていた。
『一緒に来てくれるか?』
「こっちの仕事が片づけばな」
『村長と相談する』
「ああ。それから飯もだ」
『飯?』
「向こうで一日働くなら食うだろ。ルーエから持っていくのか、ラグ村に出してもらうのか。何日も行くなら、その分も考えろ」
人が動けば、その人間が食べる。
道具もいる。
ルーエでやるはずだった仕事も止まる。
単に「三人出す」で終わる話ではなかった。
『分かった。そこも決める』
男は満足そうに頷き、また水路へ鍬を入れた。
こういう話は、実際に働いている人間へ聞いた方が早い。
◇
翌朝。
村長の家には、俺と村長、ミラのほかに、畑仕事をしている男が三人集まった。
ベルトとヨルンにも来てもらっている。
二人はラグ村で生まれ育った。
俺よりずっと向こうの畑を知っている。
『低い畑の排水路、昔はどれくらい使ってた?』
ベルトが腕を組んだ。
「俺が子供の頃は、ほとんど使ってたな。春と秋に泥を上げてた」
ヨルンも頷く。
「上の畑を増やしてから減った。あっちまで手が回らなくなったんだ」
「川に近いところだけなら、何人くらい必要だ?」
村長が尋ねる。
ベルトとヨルンが顔を見合わせた。
「六人いれば、かなり進むと思う」
「ただし一日じゃ全部は無理だぞ」
『全部やる必要はない』
俺は昨日聞いた話を思い出す。
『まず一日やって、どれくらい進むか見る』
「それがいい」
畑の男が頷いた。
「その前に水路の高さを見る。掘るのはそれからだ」
村長が俺を見る。
「ルーエから三人出す話だったな」
『ラグ村から三人。こっちから三人なら六人になる』
「待て」
村長はすぐに止めた。
「向こうが三人出すから、こっちも三人出せるとは限らん」
『そうだった』
「先にルーエの仕事を確認する」
畑の男たちが、それぞれ残っている仕事を挙げていく。
収穫後の片づけ。
水路の補修。
家畜の冬支度。
薪運び。
すぐ終わるものもあれば、数日かかるものもある。
ミラは横で板へ印を付けながら聞いていた。
「一週間ずっと三人抜けるのは厳しいです」
やがてミラが顔を上げた。
「でも、一日なら大丈夫です。二日目以降は、最初の日にどれだけ進むかを見てから決めた方がいいと思います」
『じゃあ、最初は一日だな』
「誰を出す?」
村長が尋ねる。
そこでベルトが手を上げた。
「俺が行く」
ヨルンもすぐ続いた。
「俺も」
『二人とも?』
「俺たちが一番あの畑を知ってる」
ベルトの声に迷いはなかった。
「どこに昔の溝があったかも分かる。知らない人間だけで行くより早い」
『でも、オットーのところは?』
「一日くらいなら――」
「勝手に決めるな」
入口から声が飛んできた。
振り向くと、オットーが立っていた。
ベルトが口を閉じる。
「聞いてたのか」
「朝から二人とも来ないからな」
オットーは家の中へ入り、ベルトとヨルンを見る。
「一日なら行ってこい」
「いいのか?」
「その代わり、帰ってきたら荷車の続きだ。途中で放り出すなよ」
「分かってる」
「ヨルンもだ」
「俺も分かってるよ」
オットーはそれだけ確認すると、俺へ視線を移した。
「あと一人だろ?」
『ああ』
「水路を見るなら、畑の人間を連れていけ。ベルトたちが昔を知ってても、今どう掘るかは別だ」
「俺が行く」
昨日、水路で話した男が手を上げた。
「最初に全部歩いて、それから掘る。鍬を入れるのはその後だ」
『頼む』
「飯は?」
村長が聞いた。
『ルーエから持っていく』
昨日聞かれたので考えていた。
『ラグ村から出る三人の分は向こうで用意してもらう。こっちの三人の分まで向こうに出させたら、その分また食料が減る』
「それでいいだろう」
村長が頷く。
「道具もこっちから持っていくのか?」
「鍬は持っていく」
畑の男が答えた。
「向こうにもあるだろうが、使い慣れた物の方がいい。あと縄が欲しい」
『縄?』
「まっすぐ見るのに使う。長いのを一本用意してくれ」
『分かった』
必要なものが一つずつ具体的になっていく。
三人。
一日。
食料。
鍬。
縄。
そして、最初から全部直そうとしない。
これならルーエの仕事を大きく止めずに試せる。
そこで俺は、ベルトが黙っていることに気づいた。
『どうした?』
「いや」
ベルトは少し迷ってから口を開いた。
「俺たちは、ラグ村へ戻るわけじゃないからな」
『分かってる』
「エマも子供たちも、こっちで暮らすつもりだ。親父もだ」
『それでいいだろ』
俺がそう返すと、ベルトの肩から少し力が抜けた。
『畑を直しに行くのと、ラグ村へ戻って暮らすのは別の話だ』
「ああ」
ベルトは頷いた。
「でも、あそこが駄目になるのを見たいわけでもない」
それも当然だと思う。
住む場所を変えたからといって、生まれ育った村がどうなってもいいわけではない。
『なら、一日だけ手伝いに戻ればいい』
「一日で終わらなかったら?」
『その時は、その時に考える』
ベルトが少し笑った。
「そうするか」
話は決まった。
ラグ村から八人が来た時、俺たちは家と食料と仕事を用意した。
それで八人はルーエで暮らせるようになった。
だが、次の十一人まで同じように受け入れるだけでは、ラグ村から人が減り続ける。
今度は、人を受け入れるんじゃない。
人手を貸す。
今年足りない食料は、薪や木桶や豆との交換で補う。
来年の食料は、ラグ村自身が作れる量を増やす。
そのために数日だけ人手が足りないなら、ルーエから貸せばいい。
逆に、いつかルーエで人手が足りなくなった時、ラグ村から借りることだってできるかもしれない。
村と村の間を行き来するのは、物だけじゃない。
俺はミラの前に置かれた板を見る。
そこには、ラグ村へ渡した小麦と、代わりに届いた薪、豆、木桶が記されていた。
今度そこへ加わるのは、人手だ。
人を減らして食べる量を減らすんじゃない。
残る人間で作れる食べ物を増やす。
そのために、足りない手だけを隣の村から借りる。
ルーエが以前より大きくなったからこそ選べる方法だった。
明日、ベルトとヨルンはラグ村へ戻る。
住み直すためじゃない。
そこに残る十一人が、村を出なくても済むようにするためだ。




