第55話 人を減らすより、食べ物を増やせないか
トーマの荷車を見送ってから三日が過ぎた。
その間にも、ルーエでは新しく来た八人の暮らしが始まっていた。
ベルトとヨルンは朝からオットーのところへ入り、荷車の修理を手伝っている。二人とも木工職人ではないと言っていたが、農具や荷車を自分たちで直してきただけあって、少なくとも壊れた箇所を見つけるのは早かった。
父親のグスタフはもっと露骨だった。
「そこは削りすぎだ」
「まだ触ってないぞ」
「触る前に分かる」
オットーが顔をしかめる。
グスタフは作業台の横に腰掛けたまま、木材の端を指で叩いた。
「木目を見ろ。そっちから削ったら割れが広がる」
「だったら最初からそう言え」
「今言った」
少し離れたところで聞いていたベルトが、慣れた様子で頭を下げる。
「悪い。昔からこうなんだ」
「腕があるなら構わん。口まで大人しかったら気味が悪い」
オットーも負けていない。
俺は作業場の入口からそのやり取りを眺めていた。
八人を受け入れた判断は、今のところ間違っていなかったと思う。
エマとサラも畑へ出ている。
三人の子供は、村の子供たちと一緒に鶏へ餌をやったり、畑から小石を拾ったりしていた。もちろん大人と同じ働き手として数えるつもりはないが、何もしないで食べさせてもらおうという家族でもないらしい。
問題は、この八人ではなかった。
ラグ村だ。
俺は村長の家へ向かった。
中ではミラが板を並べていた。
穀物の残量、次の収穫までに必要な量、商人から買った量。
最近は人が増えるたびに数字を書き直している。
「小麦二袋を出した分は?」
「もう引いてあります」
ミラが一枚の板を示した。
「八人増えた分も入れています。このままなら足ります。ただ、余裕があるとは言えません」
「追加で買うなら?」
「買えます。でも、値段が上がったら同じ量は難しいです」
それでいい。
買えるから安心、ではない。
以前決めた通り、ルーエの畑を減らすつもりはない。商人から穀物を買えるようになったからこそ、村で作る分は村で作り続ける。
俺は板に並んだ数字を見ながら考えた。
「ラグ村は、どれくらい足りないんだろうな」
村長が椅子の背にもたれた。
「そこが分からん。トーマの話じゃ、今年の収穫が悪かったことしか分からんからな」
「八人を出したくらいだから、少し足りないって程度じゃないだろ」
「だろうな」
ラグ村がやったことは乱暴だった。
八人とも働ける者だと伝え、実際には老人と子供を含む一家を送り出した。
しかも、戻っても使う畑がないところまで話を進めていた。
ただ、食料が足りない村で冬を迎えるとなれば、そういう判断をする人間が出ても不思議ではない。
問題は、そのやり方を続けて何とかなるのかということだった。
「仮に八人減らして、今年の冬を越せたとしても」
俺は板から目を上げた。
「来年また不作だったら、また誰かを出すのか?」
村長が黙る。
ミラも手を止めた。
「畑が減ったわけじゃないなら、来年は戻るかもしれん」
「逆もある」
「もっと悪くなることもある、か」
「ああ」
雨が降りすぎる年もあれば、降らない年もある。
病気や虫が出ることだってあるだろう。
ラグ村の詳しい事情も知らないまま、ここで考えていても答えは出ない。
俺は立ち上がった。
「一度、見に行った方がいいな」
「ラグ村へか?」
「トーマが戻ってきたら話を聞いて、それから決める」
勝手に乗り込んで、畑を見せろと言うつもりはない。
向こうには向こうの村長がいる。
ルーエが大きくなってきたからといって、他の村のやり方へ好き勝手に口を出していいわけじゃない。
だが、ルーエに人を送ることでしか冬を越せないなら、この先も同じ話が来る。
それはこっちにも関係がある。
◇
トーマが戻ってきたのは、その日の午後だった。
荷車の音が村の入口から聞こえ、俺が向かった時には、村長とベルトが先に出迎えていた。
行きに積んでいた小麦二袋はない。
代わりに荷台には、薪の束がいくつも積まれていた。
その隣には木桶が三つと、麻袋が二つ。
「ずいぶん積んできたな」
村長が荷台を見る。
トーマは馬から降りると、疲れた顔で笑った。
「ラグ村の村長からです。小麦の代わりに、今出せる物を持ってきました」
「中身は?」
「薪と干した豆、それから木桶です。豆は多くありません。木桶は村に作れる者がいます」
俺は荷台へ近づいた。
木桶は新品ではない。
だが、壊れてもいない。
板の合わせ目もしっかりしている。
「小麦二袋と釣り合うのか?」
「今のラグ村では、これ以上出すと生活に響きます」
トーマが正直に答えた。
俺は村長を見る。
村長も少し考えてから頷いた。
「最初はこれでいい。次から何と何をどれだけ交換するか決めよう」
「助かります」
「助けるために受け取るんじゃない。取引にするってヴァルが言ったからな」
村長が俺を見る。
「だろ?」
「ああ」
薪ならルーエでも使う。
木桶も使う。
豆だって食料になる。
必要な物と必要な物を交換できるなら、ただ小麦を渡すより長く続く。
ベルトは荷台の木桶を見ていた。
「これ、ハルムの仕事だ」
「分かるのか?」
「縁の留め方に癖がある」
トーマが頷く。
「ハルムが作った。お前たちが無事に着いたと聞いて安心してたぞ」
「そうか」
ベルトの声が少しだけ柔らかくなる。
故郷を追い出されたと思っているわけではないらしい。
それでも戻れない。
その距離が、木桶一つで少し見えた気がした。
「それで」
俺はトーマへ尋ねる。
「聞いてきてくれたか。他にも冬を越すのが厳しい家があるって話」
「はい」
トーマの顔が変わった。
「三家あります」
「人数は?」
「全部で十一人です」
村長の眉が動いた。
「十一人……」
「ただ、すぐルーエへ移りたいという話ではありません」
トーマは急いで付け加えた。
「ラグ村の村長も、これ以上人を出せば来年の畑を維持できないと言っています」
「やっぱりそうなるか」
俺は小さく息を吐いた。
人を減らせば、食べる量は減る。
でも、畑を耕す人間も減る。
今年を越すために人を減らしすぎれば、来年作れる食料まで減ってしまう。
「ラグ村は、何人いる?」
「今は五十人少しです。ベルトたちが出る前は六十人ほどいました」
正確な数を言わなかったのは、トーマ自身が帳面を管理しているわけではないからだろう。
それで十分だった。
六十人ほどの村から八人が抜けた。
さらに十一人抜けば、元の三分の一近くがいなくなる。
そんなことをすれば、村そのものが弱る。
「今年、何がどれだけ取れなかった?」
「麦です。特に川沿いの畑が駄目でした。春の雨で水が引かず、種をまき直した場所もあります」
「他は?」
「豆と根菜は、麦ほど悪くありません」
「家畜は?」
「山羊がいます。鶏も少し。ただ、冬に潰せるほど多くはありません」
俺は荷台の豆を見る。
ラグ村には麦しかないわけじゃない。
それでも主に食べている穀物が足りないから、人を減らそうとしている。
「畑を見せてもらうことはできるか?」
トーマが目を瞬いた。
「ラグ村の畑をですか?」
「ああ」
「何をするんです?」
「まだ何も決めてない。だから見たい」
俺は続けた。
「水が溜まった畑がどこにあるのか。来年も同じことが起きそうなのか。麦以外に作れる場所があるのか。それを知らないまま、十一人をこっちへ移すかどうかだけ考えても仕方ないだろ」
トーマはしばらく考えていた。
「村長に聞いてみます」
「俺が行く」
「ヴァルが?」
「話を聞きたいのは俺だからな」
村長が腕を組む。
「俺も行った方がいいか?」
「最初は俺だけでいい。向こうが嫌がるなら、無理に見るつもりもない」
「なら、勝手に決めてくるなよ」
「決めないよ」
「お前はたまに、見た瞬間に動くから言ってるんだ」
否定しきれない。
「分かった。見るだけにする」
トーマが少し笑った。
「では、明日の朝なら一緒に戻れます」
「それで頼む」
◇
翌朝、俺はトーマの荷車に合わせてラグ村へ向かった。
飛べばもっと早い。
だが、今回は道も見たかった。
ルーエからどれくらいかかるのか。
荷車が通れる場所はどこまでか。
小麦を運ぶなら、一度にどれくらい積めそうか。
それも全部、取引を続けるなら必要になる。
道は思っていたより悪くなかった。
ただし、途中に二か所、荷車同士がすれ違えないほど狭い場所がある。雨が降ればぬかるみそうな低い場所もあった。
トーマは慣れているらしく、馬の速度を落とす場所を知っていた。
「ここは雨の後、車輪が取られます」
「直さないのか?」
「ラグ村だけで直すには人手が足りません。ルーエ側の人間も使う道なので、前から話は出ています」
「なるほど」
それなら、ラグ村だけの問題でもない。
道を直せば、小麦を運びやすくなる。
ラグ村から薪や木桶を運ぶのも楽になる。
また一つ、考えることが増えた。
昼前。
木々の向こうに畑が見えた。
ルーエより平らな土地が広い。
最初に目に入った畑には、短い麦の茎が残っている。
だが、その先へ進むにつれて様子が変わった。
土の色が濃い。
低い場所にはまだ湿り気が残り、畝の形も崩れていた。
「ここです」
トーマが荷車を止める。
俺は降りて、畑の端へ立った。
春の雨から何か月も経っている。
それなのに、場所によっては靴の底がわずかに沈む。
「毎年こうなるのか?」
「雨が多い年は。ただ、今年ほど酷かったのは久しぶりです」
「水はどこへ流れる?」
トーマが畑の端を指す。
「向こうの川です」
俺は視線を追った。
川は畑より低い。
なら、水そのものが流れる先を失っているわけじゃない。
問題は、畑から川までの間だ。
浅い溝がある。
だが、途中で土に埋まり、草も生えている。
「これ、排水用か?」
「昔はそうだったと聞いています」
「今は使ってない?」
「全部は。人手が減ってから、上の畑を優先しています」
俺は溝に沿って歩いた。
十歩。
二十歩。
その先で、完全に土に埋まっている。
ここだけ見て「直せば解決する」と言うつもりはない。
畑は広い。
高低差もある。
川が増水すれば、逆に水が入ってくる可能性だってある。
それでも、確認する価値はあった。
「ヴァル様ですか」
後ろから声がした。
振り返る。
四十代くらいの男が立っていた。
服も靴も泥で汚れ、手には鍬を持っている。
その後ろには、何人か村人が集まっていた。
トーマが頭を下げる。
「村長。連れてきました」
この男がラグ村の村長か。
「突然すみません」
「いえ。こちらこそ、ベルトたちを受け入れていただいたそうで」
「それについて話したくて来ました」
男は俺の足元を見た。
埋まりかけた溝だ。
「畑をご覧になったのですね」
「はい。ただ、見ただけで何か分かったつもりはありません」
先にそう伝えた。
「聞きたいんです。この溝は、どこまで続いていました?」
村長は少し驚いたようだった。
「川までです。私が子供の頃は、春になると村中で泥を上げていました」
「今は?」
「何年も、全部はやっていません」
「人手が足りないから?」
「それもあります」
村長は畑を見渡した。
「上の畑を広げたんです。そちらの方が水害が少ない。人手をそちらへ回すうちに、低い畑の手入れが後回しになりました」
俺はようやく一つ繋がった。
低い畑が水に弱い。
だから高い場所へ畑を増やした。
その結果、古い排水路を手入れする人手が減った。
そして今年、大雨が続いた。
「十一人を村から出す話があると聞きました」
村長の表情が硬くなる。
「トーマからですか」
「責めに来たわけじゃありません。でも、十一人を出したら、この溝を直す人間はもっと減りませんか?」
返事はなかった。
代わりに、鍬を握る手へ力が入る。
分かっているのだ。
食べる人間を減らせば、この冬は楽になる。
でも同時に、来年の畑を守る人間も減る。
「ルーエから小麦をずっと渡すことはできません」
「承知しています」
「でも、交換なら続けられるかもしれない」
村長が顔を上げた。
「交換?」
「薪も木桶も、ルーエでは使います。豆もです。ラグ村で余る物と、ルーエで余る物を交換する。足りなければ商人から買う分も含めて考える」
「ですが、こちらから出せる物にも限りがあります」
「だから、もう一つ考えたいんです」
俺は足元の溝を指した。
「来年、食べ物を増やせないか」
村長は何も言わなかった。
「今年の不足を埋めるだけなら、小麦を運べばいい。でも、それだけだと来年また同じことになるかもしれない。この排水路が使えるようになれば、低い畑をもう少し守れる可能性があるんじゃないですか?」
「可能性はあります。ただ……」
村長が苦い顔をする。
「今、それに人を出せないのです。冬支度があります。薪も集めなければならない。上の畑も片づけなければならない」
やっぱりそこか。
食料が足りないから、人を出そうとする。
人を出すから、畑を直す人間が減る。
畑を直せないから、次も食料が足りなくなる。
なら、その輪をどこかで切る必要がある。
「ルーエから人を出せるか、聞いてみます」
「そこまでしていただく理由がありません」
「あります」
俺は来た道を振り返った。
「ルーエもこの道を使う。ラグ村から薪や木桶を運ぶなら、なおさらです。それに、ルーエへ十一人来れば、こっちも家と食料を用意しなきゃならない」
それなら、その人手の一部をラグ村の畑へ回した方がいい場合もある。
もちろん、まだ決定じゃない。
排水路を直せば本当に低い畑が使えるのか。
何人いれば作業できるのか。
冬までにどこまでやれるのか。
調べることはいくらでもある。
「まず、この溝を全部見せてもらえますか?」
村長はしばらく俺を見ていた。
やがて鍬を肩へ担ぐ。
「分かりました。川まで案内します」
「お願いします」
歩き始めた村長の後を追う。
少し離れたところで、トーマもついてきた。
ラグ村から十一人をルーエへ移す。
それが一番簡単な答えかもしれない。
でも、簡単な答えが一番いいとは限らない。
人を減らさなければ冬を越せない村なら、人をどこへ移すかだけを考えても終わらない。
人を減らす前に、食べ物を増やせないか。
そのために必要なのが小麦ではなく、人手なら。
ルーエが今まで増やしてきたものを、少しくらい隣の村へ回せるかもしれない。
川へ向かって伸びる古い排水路は、ところどころ土と草に埋もれていた。
だが、消えてはいない。
掘り直せば、もう一度水を流せる場所は残っていた。




