第20話 鎧熊は一頭ではない
エルマーが連れてきた二人は、村へ入る前から山を見ていた。
一人は四十代くらいの大柄な男で、肩に長い革袋を掛けている。もう一人はそれより若く、背負っていた大きな巻物を地面へ下ろすと、村長へ頭を下げた。
「領主様の命で来ました。山側の確認をします」
巻物を広げる。
中から出てきたのは地図だった。
村と、その周囲の森。さらに山へ続く道まで描かれている。
細かい地図ではない。けれど、俺が空から見て覚えている地形とはだいたい合っていた。
村長がエルマーを見る。
「ずいぶん早かったな」
「途中で戻ってきたんです」
エルマーは荷物を下ろしながら答えた。
「屋敷まで行って、岩猿のことと、山向こうから八人来たことは報告しました。領主様から山側を調べるよう、この二人を付けてもらったんですが……帰り道で妙な跡を見つけまして」
大柄な男が革袋を開いた。
中には弓が入っていた。
普通の狩人が持つものより大きい。
弦も太い。
男はそれを組み立てながら、村の外へ目を向けた。
「まず、その大きな魔物を見た場所を教えてくれ」
ダリオが俺を見る。
「ヴァルが一番よく見てる」
俺は山側へ顔を向けた。
昨日、岩猿を倒した黒褐色の魔物。
太い前脚。
厚い肩。
岩猿の石を受けても止まらなかった身体。
ダリオたちは《鎧熊》かもしれないと言っていた。
今日になって、そいつは村の近くまで下りてきた。
俺は地面へ爪を立てた。
村を示す丸を一つ。
山側へ線を引き、昨日見た場所を削る。
さらに今日、姿を確認した場所にも印をつけた。
若い男が地図と俺の印を見比べた。
「昨日がここで、今日はここか」
俺は頷く。
「かなり下りてきているな」
「それだけじゃない」
ダリオが言った。
「ヴァルを追って、いったん村から離れる方向へ動いた」
「追わせたのか?」
「逆だ。こいつが空から誘導した」
大柄な男が俺を見る。
値踏みするような目ではなかった。
俺の翼と脚、それから体格を順に確認している。
「どれくらい近づいた?」
俺では答えられない。
ダリオが代わりに、今日の様子を説明した。
俺は届かない高さを保った。
鎧熊らしい魔物は何度かこちらを追った。
村へ真っすぐ戻らず、離れた場所まで誘ってから大きく回って帰った。
男は最後まで聞いてから頷いた。
「それなら、今は追わない方がいい」
「倒さなくていいのか?」
村人の一人が聞いた。
「倒せるならな」
男は淡々と返した。
「だが、鎧熊なら岩猿とは違う。弓を持った人間が二、三人増えたくらいで、森の中まで追って仕留められる相手じゃない」
村人たちの顔が硬くなる。
男は続けた。
「俺たちは狩りに来たんじゃない。何が山から下りてきているのか確かめるために来た」
俺は少し安心した。
人が増えたから討伐。
そんな話になったら止めるつもりだった。
強い相手と戦う必要があるなら戦う。
けれど、居場所も数も分からない相手を森まで追いかける理由はない。
「それで」
村長がエルマーを見る。
「さっき言った妙な跡というのは?」
エルマーの表情が変わった。
「ここから東へ半日もかからない場所です。街道から少し外れたところに、沢がありますよね」
「ああ」
「そこで大きな足跡を見つけました」
若い男が地図の一点を指した。
「ここです」
俺が今日、鎧熊を誘導した方向とは違う。
離れている。
大柄な男がしゃがみ込み、地面へ手を広げた。
「これくらいあった」
俺の前脚よりは小さい。
だが、人間の足とは比べものにならない。
「熊の跡だったんですか?」
「似ている」
男は答えた。
「ただし、一つおかしい」
革袋から細い木の板を取り出した。
そこに炭で線が引かれている。
足跡の幅を写してきたらしい。
「さっき聞いた魔物より小さい」
村長が眉を寄せる。
「子どもか?」
「分からん。鎧熊かどうかも、まだ決められない」
そこで断定しないのは助かる。
大きな足跡を見つけた。
だから鎧熊が二頭いる。
そんなに簡単な話ではない。
けれど、無視もできない。
若い男が地図へ印をつけた。
「村の北西で一頭らしきものを確認。別の大きな獣の足跡が東側。少なくとも、同じ場所を移動した跡ではありません」
「一頭とは限らないってのは、そういう意味か」
ダリオが言った。
エルマーが頷く。
「はい。それで急いで戻りました」
村長はしばらく地図を見ていた。
山側。
東側。
そして村。
「明日から山へ入るのを全部止める」
村人の一人が口を開きかけたが、村長は先に続けた。
「薪は南側から取る。家畜も同じだ。水路の山側は触らない」
「でも、薪が足りなくなります」
「何日分ある」
「乾かしてある分なら、六日……いや、節約すれば七日くらいです」
「なら七日ある」
村長は地図から顔を上げた。
「七日の間に調べる。明日困るわけじゃないのに、今日人を山へ入れる必要はない」
反対する者はいなかった。
この村では、岩猿に人が襲われたばかりだ。
無理をして何が起きるかは、みんな分かっている。
「俺たちは明日の朝から跡を見る」
大柄な男が言った。
「ただし、森の奥までは追わない。まず村の周りを一周して、どこまで下りてきているか確認する」
「俺も行く」
ダリオが言った。
「道を知ってる」
「助かる」
俺も一歩前へ出た。
全員の目がこちらへ向く。
俺は翼を広げ、山を見てから空を指した。
「ヴァルも行くってさ」
リナの声だった。
いつの間にか物置の横からこちらを見ている。
ダリオが俺を見る。
「上から見るだけだぞ」
俺は頷いた。
「低く飛ぶな。今日みたいに追われても、今度は誘導しなくていい。見つけたら戻ってこい」
それにも頷く。
目的は戦うことじゃない。
数と場所を知ることだ。
それが分からないままでは、村人を山へ戻せない。
◇
その夜、俺は村の北側で寝た。
最近は物置の近くにいることが多かったが、今日は山が見える場所を選んだ。
月明かりの下では、木々は黒い塊にしか見えない。
昼間なら空から見つけられる動きも、夜は難しい。
耳を澄ませる。
虫。
風。
家畜が動く音。
遠くで何かが鳴いた。
けれど、大きなものが村へ近づく気配はない。
「ヴァル」
後ろから小さな声がした。
振り向く。
リナが毛布を抱えて立っていた。
俺は首を傾ける。
「これ」
毛布を広げ、俺の前脚の近くへ置いた。
「夜、寒くなるから」
俺の身体は人間より寒さに強い。
今くらいなら毛布はいらない。
そう伝える方法もない。
俺は毛布を鼻先で少し押し返した。
「いらない?」
頷く。
「そっか」
リナは毛布を抱え直した。
それでも帰らず、俺の横から山を見る。
「熊、来るかな」
俺はすぐには頷かなかった。
来るかもしれない。
来ないかもしれない。
分からない。
だから首を横へ振る。
「分かんないよね」
リナはそう言って、少し黙った。
「岩猿が来た時も怖かったけど、ヴァルがいるから前より怖くないよ」
それは困る。
俺がいるから大丈夫だと思われるのは、あまりよくない。
俺にだってできないことはある。
今日だって、鎧熊らしい相手を倒したわけじゃない。
俺はリナの肩を鼻先で軽く押した。
「帰れって?」
もう一度押す。
「分かったよ」
リナは笑った。
「でも、ヴァルも無茶しないでね」
そこはダリオと同じことを言うらしい。
リナが家へ戻るのを見届けてから、俺はもう一度山へ顔を向けた。
明日は上から見る。
人間たちは地面の跡を見る。
俺一頭で全部を探す必要はない。
そう考えていたときだった。
山の方角から鳥が飛び上がった。
一羽ではない。
夜の森から、まとまった数が一斉に空へ出る。
俺は立ち上がった。
鳥たちは北から南へ逃げていく。
少し遅れて、木の折れる音がした。
遠い。
村のすぐ近くではない。
だが、何か大きなものが動いている。
俺は翼を開きかけて、止めた。
夜だ。
森の中へ飛び込んでも、相手の姿は見えにくい。
それに、朝になれば地面の跡を追える人間がいる。
今やるべきなのは、場所を覚えることだ。
俺は飛び上がらず、鳥が出てきた位置を山の稜線と重ねて覚えた。
しばらくして、もう一度。
今度は最初の場所より東から鳥が上がった。
さっきの何かが移動したのか。
それとも――。
俺は二つの場所を見比べた。
距離がある。
一頭が短い時間で移動できる距離なのか、今の俺には判断できない。
決めつけるのは朝になってからでいい。
ただ、明日見る場所は増えた。
俺は村へ背を向けず、そのまま夜が明けるまで山を見張った。




