第21話 二つの跡を追う
夜明け前、俺は村の北側にいた。
昨夜、鳥が二度飛んだ。
一度目は北の山裾。
二度目は、そこからかなり離れた東側。
だからといって、鎧熊が二頭いると決まったわけじゃない。一頭が移動した可能性もあるし、東で鳥を飛ばしたのが別の獣だった可能性だってある。
分からないなら、明るくなってから跡を見る。
それだけだ。
空が白み始めるころ、背後から足音が聞こえた。
「ヴァル」
ダリオだった。
その後ろから村長とエルマー、それに昨日エルマーと一緒に来た二人も歩いてくる。
弓を背負った大柄な男は森の方を見たまま足を止めた。
「風は山からだ。悪くない」
もう一人は昨日と同じ板を持っている。
地図を書き足すためのものらしい。
村長が全員を見回した。
「今日は倒しに行くんじゃない。跡を見つけても、深追いはしない。それでいいな」
「ああ」
エルマーが頷いた。
大柄な男も異論はないらしい。
「鎧熊なら、巣まで追う人数じゃない。足跡と向きが分かれば十分だ」
俺も頷いた。
それでいい。
村へ近づくものを止める必要はある。
だが、わざわざ山の奥へ入って戦う理由はない。
地上の五人は村の東側から大きく回る。
俺は空から北側を見る。
何か見つけたら、低く飛んで知らせる。
昨日決めた通りだ。
俺は地面を蹴った。
翼を大きく広げる。
朝の冷たい空気を掴み、村の屋根より高く上がった。
そのまま北へ向かう。
山へ近づきすぎない。
木の上すれすれを飛べば下は見やすいが、枝の中から何か飛び出したときに避けにくい。今日は戦いに来たわけじゃない。
少し高いところから、森の縁を見る。
昨日、鎧熊を誘導した場所。
倒れた草が残っている。
土の色が変わっているところもあった。
そこから西へ。
大きな跡が続いていた。
鎧熊が歩いた跡だ。
空からでも分かる。
低木が押し倒され、細い木の幹には擦れた跡が残っている。
俺は少しだけ高度を落とした。
跡は村へ向かっていない。
西だ。
昨日、俺が追いやった方向へそのまま進んでいる。
途中で一度止まったらしく、土が広く荒れていたが、そこからさらに西へ続いている。
まず一つ。
昨日の鎧熊は、少なくとも今のところ村へ戻っていない。
俺は旋回して東へ向かった。
地上では、ダリオたちが森の外縁を進んでいる。
俺より遅い。
当然だ。
そのぶん、地面の細かい跡は向こうの方が見つけやすい。
東へ進むにつれ、昨夜鳥が飛んだ辺りが近づいてきた。
森は静かだった。
何もいないようにも見える。
だが、そこで決めつけるのは早い。
俺は円を描くように飛んだ。
一周。
二周目で、妙な場所を見つけた。
木が一本、傾いている。
折れてはいない。
根元近くの樹皮が剥がれていた。
俺は高度を落とす。
爪の跡ではない。
何か大きなものが身体を擦りつけたような跡だ。
その下の草も潰れている。
降りるか。
少し迷って、やめた。
一人で地面へ降りて確認する必要はない。
俺は翼を傾け、ダリオたちの方へ戻った。
上空を一度回る。
ダリオが気づいた。
「何かあったか?」
俺は東へ首を向ける。
「東か」
もう一度頷く。
エルマーが周囲を確認した。
「行こう。ただし森には入らない。ヴァルが見つけた場所までだ」
俺は先へ飛んだ。
速く行きすぎない。
地上の連中が見失わない程度に進み、例の木の上で旋回する。
やがて五人が追いついた。
大柄な男が最初に潰れた草へしゃがみ込んだ。
「昨日見た跡より新しい」
ダリオが木の剥げた部分を見る。
「鎧熊か?」
「まだ分からん」
男は即答した。
「これだけじゃ決められない。足跡を探す」
全員が散らばるわけではなかった。
互いが見える範囲で地面を探す。
しばらくして、エルマーが手を上げた。
「こっちだ」
湿った土に窪みがあった。
昨日、鎧熊が残したものより小さい。
ただし、人間や普通の獣よりはずっと大きい。
大柄な男が自分の手を横へ置いた。
「昨日、川沿いで見つけたものと近いな」
地図を持った男が板へ位置を書き込む。
ダリオが俺を見た。
「ヴァル。昨日のやつとは違うと思うか?」
俺は足跡と西の山を交互に見る。
答えられない。
そもそも喋れない。
それに、昨日の鎧熊と同じ種類だからといって、同じ個体とは限らない。
俺は首を横へ振った。
「分からん、か」
ダリオが勝手に言葉を補ってくれた。
俺は頷く。
それでいい。
大柄な男は足跡の前後を探した。
「東から来てる」
足跡は一つではなかった。
森の奥から外縁へ向かって続いている。
そして、木のところで向きを変えていた。
村の方角へ。
エルマーの顔が険しくなった。
「村へ向かったのか」
「途中まではな」
大柄な男が先を見る。
「その先を確かめる」
今度は俺が先へ出た。
空から見る。
草の倒れ方。
枝の揺れ。
土が見えている場所。
地上では見つけやすい足跡でも、空から全部見えるわけじゃない。
それでも、大きな獣が通った跡なら拾える。
東から西へ。
少しずつ村へ近づいている。
俺は高度を上げた。
このまま進めば、村の東側へ出る。
嫌な向きだ。
だが、その先で跡が曲がった。
南ではない。
北へ。
村から離れる方向だ。
何があった?
旋回する。
下を見る。
そこで気づいた。
地面に別の跡がある。
細い筋。
一本ではない。
何本も。
森から村の方へ伸びている。
俺はさらに一周した。
獣道かと思った。
違う。
細すぎる。
それに、草が途中だけ削れている。
俺は少し離れた場所へ降りた。
周囲を見る。
大きな獣の気配はない。
近づいて地面を見ると、理由が分かった。
紐だ。
古い縄のようなものが草の間に引っかかっている。
切れていた。
俺は触らず、その場で待った。
しばらくしてダリオたちが追いつく。
「どうした?」
俺は前脚で縄を示した。
エルマーが拾おうとしたが、大柄な男が止めた。
「待て」
男はしゃがみ込む。
縄そのものではなく、周囲を見る。
「人のものだ」
「猟師か?」
「かもしれん」
男が縄の先を追った。
草の中へ入っている。
数歩先に、折れた枝が立てられていた。
その根元には小さな輪が残っている。
「罠だな」
ダリオが眉を寄せる。
「こんなところに?」
「小物用だ。兎か、それくらいだろう」
壊れている。
大きな獣が踏んだのかもしれない。
俺は周囲を見回した。
足跡はここで向きを変えている。
罠を嫌がった?
いや、それだけで決めるのは早い。
大柄な男も同じことを考えたらしい。
「罠に驚いたとは限らん。だが、ここで向きを変えたのは確かだ」
エルマーが縄を見る。
「誰が仕掛けた?」
「村の者じゃない」
村長が答えた。
「少なくとも、今はここまで山へ入らせていない」
その言葉で空気が変わった。
鎧熊だけを探していた。
だが、人の痕跡まで出てきた。
大柄な男は立ち上がった。
「これ以上、森へ入るのはやめよう」
エルマーが少し驚いた顔をした。
「罠を仕掛けたやつを探さなくていいのか?」
「今日の目的はそこじゃない。それに、罠が一つなら猟師かもしれん。何個あるかも、いつ仕掛けたかも分からない。獣の跡と人の跡を同時に追って、森の中でばらける方がまずい」
まともな判断だ。
俺もそう思う。
だが、村へ戻る前に確かめたいことがある。
俺は飛び上がった。
「ヴァル?」
ダリオの声が下から聞こえた。
村へ向かう。
一直線に。
高く上がると、森と村の位置がよく分かる。
罠があった場所。
大きな足跡が曲がった場所。
昨夜、鳥が飛んだ場所。
その三つを頭の中で重ねる。
東側の大きな獣は、村へ向かっていた。
だが途中で北へ曲がった。
今すぐ村へ来る跡ではない。
それなら、村の東側で先にやることがある。
俺は村へ降りた。
村長たちが戻るより早い。
作業をしていた男たちが俺を見る。
「ヴァル?」
俺は東を示した。
それから地面へ爪で線を引く。
村。
森。
その間。
一本。
さらに少し離して、もう一本。
男の一人が首を傾げた。
「柵か?」
俺は頷いた。
立派な柵を今すぐ造る必要はない。
獣を止める壁でもない。
森と村の間に、人が越えたと分かる線を作ればいい。
枝を立てる。
縄を張る。
鈴でも木片でもいい。
夜に何かが通れば、朝に分かる。
山へ入って追いかけるより、村へ近づいたものを先に見つける。
男たちにも意図が伝わったらしい。
「見張り線を作るのか」
俺はもう一度頷いた。
村長たちが戻ってきたころには、東側に何本か杭が立ち始めていた。
「これは?」
村長が尋ねる。
男が代わりに説明した。
「ヴァルが、東に線を作れって。獣が来たら分かるようにするんじゃないかと」
大柄な男が杭を見る。
「悪くない」
すぐに近づき、位置を変えた。
「ただ、ここだと獣道から外れてる。張るなら、さっきの足跡の延長だ」
俺はその位置を見る。
確かに、そっちの方がいい。
頷く。
村長も迷わなかった。
「山仕事を止めてる間なら、手はある。東と北に作ろう」
エルマーが地図を広げた。
「北は昨日の鎧熊が戻る可能性がある。東は別の跡だな」
「別の鎧熊とはまだ決めない方がいい」
大柄な男が釘を刺した。
「大きな獣がいる。それだけ覚えておけばいい」
その日のうちに、村の北と東へ簡単な見張り線が作られた。
腰ほどの高さの杭。
その間を渡す縄。
何かが触れれば落ちるよう、小さな木片を何枚も掛ける。
大きな獣を止めるものではない。
止めなくていい。
近づいたことさえ分かれば、先に人を逃がせる。
俺は空から位置を確認した。
北。
東。
畑。
家。
逃げるなら南。
村長も同じ順番で見ていた。
「これなら、山を見張る人数を増やしすぎずに済むな」
ダリオが杭を揺らした。
木片が乾いた音を立てる。
「夜なら、近くにいれば聞こえる」
完璧じゃない。
風でも鳴るだろう。
小さな獣が触ることもある。
それでも、何もないよりずっといい。
日が傾き始めたころ、俺はもう一度空へ上がった。
西を見る。
昨日の鎧熊が戻ってくる様子はない。
東を見る。
今朝見つけた大きな獣も見えない。
森は静かだった。
静かだから安全とは限らない。
それはもう分かっている。
だから、追いかけるだけじゃなく、近づいたときに分かるようにした。
地上へ戻る。
ダリオが俺の近くに立った。
「今日は戦わずに済んだな」
俺は頷いた。
その方がいい。
毎日何かと戦いたいわけじゃない。
村を守れれば、それでいい。
ダリオが北側の杭を見る。
「これで今夜は少し楽になるか」
どうだろう。
俺は首を傾けた。
ダリオが笑う。
「そこは頷いてくれてもいいだろ」
無理なものは無理だ。
俺は鼻を鳴らした。
そのときだった。
東から、乾いた音がした。
カラン。
誰も動かなかった。
もう一度。
カラン、カラン。
風はない。
俺とダリオが同時に東を見る。
村の端に立てた見張り線。
その一番森に近い場所で、木片が揺れていた。
直後、縄が一本、強く引かれた。
切れた。
俺は翼を広げる。
村長の声が飛んだ。
「東だ! 子供を家へ! 畑の者は戻れ!」
俺は地面を蹴った。
今朝見つけた足跡の主が戻ってきたのか。
それとも別の何かなのか。
まだ分からない。
分からないまま、森へ飛び込むつもりもない。
まず上から見る。
翼で空気を掴み、東側の家々を越える。
切れた縄の向こう。
木々の間で、太い枝が一本揺れた。
その下を、何か大きなものが動いた。




