第18話 岩猿を追うもの
山へ入る場所を制限したことで、ルーエ村の朝は昨日までより忙しくなった。
北の薪場を使えなくなった者たちは南側の林まで遠回りし、山腹の平場へ持ち出すはずだった鍬や籠も別の仕事へ回されている。
水を引き始めた溝も、そのままだ。
せっかく流した水が土を削っているかもしれない。
それでも、村長は誰も戻そうとしなかった。
「畑にもなっていない土地のために、人を危険な山へ入れる必要はない」
昨日のうちに、そう決めている。
岩猿だけなら、まだ対処の仕方を考えられた。
あいつらは石を投げるし、人間より木の上を速く移動する。だが、村そのものを襲おうとしている様子はなく、子供まで連れて山肌を東から西へ移動していた。
問題は、その後ろにいたものだ。
黒褐色の巨体。
熊に似た姿。
木の幹へ肩をぶつけても、そのまま押し進むほどの大きさ。
昨日、俺はそいつが岩猿を追うところを見た。
負傷した一頭へ近づこうとしていたことも。
ただ、それ以上は分からない。
何を食べるのか。
どこに棲んでいるのか。
岩猿をどこまで追うのか。
そして、人間まで襲うのか。
分からない以上、村人を山へ入れない。
単純だが、一番確実な判断だった。
俺も朝の見回りでは山の奥へ入らず、村と森の間を短く往復するだけに留めた。
若竜になってから、翼と身体の動きはかなり馴染んできた。
村の周囲を回る程度なら、飛び立つたびに胸の奥から翼へ流す魔力を意識しなくても身体が動く。
それでも、どこまでも飛べるわけではない。
長く飛べば胸の奥が重くなり、翼も思うように動かなくなる。
知らない山の上で力を使い果たせば、休める場所を探す前に落ちるかもしれない。
行ける距離ではなく、帰ってこられる距離まで。
それが今の俺にとっての行動範囲だった。
◇
昼を過ぎるまでは、山に目立った動きはなかった。
俺は柵の外で翼を休めていた。
村の中からは、運び込まれた薪を積み直す音が聞こえる。
南側の林は遠い。そのため一度に運べる量が減り、何人かが荷車へ薪を積み直していた。
リナも空になった籠を抱え、ほかの女たちと井戸の方へ歩いている。
平場へ人を出せなくても、村の一日は止まらない。
そんな静けさを破ったのは、山から響いた甲高い声だった。
「ギャアッ!」
俺は顔を上げた。
岩猿だ。
だが、昨日まで聞いていた威嚇とは違う。
「ギャッ! ギャアッ!」
短い。
途切れている。
一頭ではなかった。
いくつもの声が重なり、その直後、太い枝が折れる音まで続いた。
しかも近づいている。
「ダリオ!」
山側を見ていた男が叫んだ。
家からダリオが弓を持って出てくる。
ほかの村人も作業を止めたが、山へ向かう者はいなかった。
昨日の取り決めが効いている。
「岩猿か」
ダリオが山を見る。
俺も立ち上がった。
森の梢が不自然に揺れていた。
風なら枝先から動く。
今は違う。
太い幹まで順番に傾き、その動きが山肌を横切りながらこちらへ近づいている。
村長が俺のそばまで来た。
「ヴァル。様子を見るだけでいい」
俺を見る。
「村から離れすぎるな」
頷く。
翼を広げ、地面を蹴った。
屋根を越え、森の揺れている場所へ向かう。
すぐに灰色の影が枝の間から飛び出した。
岩猿だ。
一頭。
続けて二頭。
さらに別の場所では、枝へ上がる余裕すらないのか、四肢を使って斜面を走っている個体もいる。
腹へ子を抱えた岩猿まで姿を見せた。
昨日とは動きがまるで違った。
俺を見ても石を拾わない。
歯を剥いて威嚇することもしない。
前だけを見て逃げるものと、何度も後ろを振り返るもの。
群れ全体が急いでいる。
その後方で、また太い枝が折れた。
低い。
岩猿のいる枝より、ずっと低い場所を何かが進んでいる。
葉の隙間から黒褐色の背中が見えた。
昨日の巨体だ。
やはり熊に似ている。
だが、普通の熊と呼ぶには大きすぎた。
四本脚のままでも肩の位置が高く、前半身だけが異様に太い。
特に肩から背中にかけての毛は流れが違った。
何枚もの硬い板を重ね、その上から毛を生やしたように盛り上がっている。
巨体が木の横を抜けた。
避けない。
肩が幹へぶつかり、木全体が揺れた。
そのまま進む。
地面を走っていた岩猿の一頭が、近くの木へ飛びついた。
黒褐色の魔物が加速した。
速い。
巨体から想像していた動きではなかった。
岩猿の手が幹へ掛かる。
次の瞬間、太い前脚が横から振られた。
鈍い音。
灰色の身体が木へ叩きつけられる。
岩猿は地面へ落ちた。
動かない。
首から肩にかけてが、不自然な形に沈んでいた。
俺は息を呑んだ。
一撃だった。
昨日見た負傷した岩猿も、同じ魔物にやられたのかもしれない。
だが、それは分からない。
今、俺が確実に見たのは一つだけだ。
あの巨体は岩猿を追い、追いつけば殺す。
「ギャアッ!」
残った岩猿が一斉に逃げる。
斜面を下りながら、村人たちが使っていた森の方へ流れ始めた。
村を狙っているわけではない。
逃げた先に、たまたま人間の暮らしがあるだけだ。
だから安全になるわけではなかった。
俺は群れを追わず、村と岩猿の間へ回り込んだ。
木の中ほどまで高度を下げる。
翼を広げたまま、進路を横切った。
先頭の岩猿が俺に気づく。
一瞬だけ止まった。
後ろから仲間が迫っている。
さらにその後ろには、あれがいる。
岩猿は石を探さなかった。
すぐに向きを変え、村とは反対側へ走る。
子を抱えた個体も続いた。
今日の岩猿にとって、俺は戦う相手ではないらしい。
避けられる障害なら避ける。
それだけだ。
次々に枝が揺れ、群れが斜面を横切っていく。
俺は村側だけを塞いだ。
山の奥へ逃げる方向には入らない。
追い詰める必要はない。
人間の使う場所から離れてくれれば、それでいい。
最後尾の岩猿が通り過ぎる。
そのとき、黒褐色の魔物が俺を見た。
足が止まる。
岩猿へ向いていた顔が、ゆっくり持ち上がった。
「ヴォォ……」
低い。
腹へ響く声だった。
岩猿の群れは、まだ俺の後ろを移動している。
ここで俺だけ上へ逃げれば、あいつはそのまま岩猿を追って村側の森へ入るかもしれない。
俺は斜面側へ身体を寄せた。
魔物の小さな目が動く。
俺を追った。
前脚が一歩出る。
もう一歩。
岩猿より大きな獲物を見つけたと思ったのか。
狩りを邪魔した俺を排除するつもりなのか。
そんなことは分からない。
分かるのは、視線が岩猿から俺へ移ったことだけだ。
最後尾の岩猿が村から離れた。
俺は斜面の上へ飛んだ。
黒褐色の魔物が走り出す。
速い。
前脚が地面を掴むたび、土が大きく弾ける。
俺は翼を打ち、高度を上げた。
魔物は真下まで来ると、後ろ脚で立ち上がった。
でかい。
振り上げられた前脚が空を切った。
太い爪が、尾のすぐ後ろを通り過ぎる。
思っていたより高く届く。
俺は身体を傾け、斜面の上側へ進路を変えた。
魔物は四本脚へ戻ると、すぐ向きを変えて追ってくる。
動きが鈍くない。
細い木なら避けもしない。
肩で押し退け、そのまま走る。
村から離すだけなら、もっと奥まで誘えばいい。
一瞬そう考えた。
やめた。
相手は地上を走っている。
俺は飛んでいる。
どちらが先に疲れるのか分からない。
俺の魔力が先に尽きれば、地面へ降りるしかなくなる。
その状態で、あれと向き合いたくはない。
帰る力は残す。
俺は斜面の上へ大きく弧を描いた。
魔物が前脚で地面を強く蹴った。
土と小石が跳ね上がる。
何個かが腹側の鱗へ当たった。
傷になるほどではない。
それでも予想していなかった衝撃で身体がぶれた。
魔物が真下へ回り込む。
近い。
俺は翼を強く打った。
今度こそ、前脚の届かない高さまで上がる。
地上であの一撃を受ければ、鱗だけでは済まない。
確かめるつもりもない。
距離を保ったまま向き直った。
胸の奥へ力を集める。
熱が喉へ上がってくる。
ブレスは何度でも吐けるものではない。
倒し切れるか分からない相手へ使い続ければ、飛ぶための力まで足りなくなる。
それでも、一度止める必要はあった。
黒褐色の魔物が顔を上げる。
俺はその鼻先の前へ、短く炎を吐いた。
炎が広がった。
「ヴォッ!」
巨体が初めて足を止める。
首を激しく振り、前脚で地面を掻いた。
鼻先の毛が焦げている。
だが、肩から背中を覆う硬そうな部分には、目立った傷が見えない。
炎そのものを恐れたのか。
熱に驚いただけなのか。
それも分からない。
少なくとも、一発で倒せる相手ではなかった。
「ヴォオオオッ!」
怒ったような咆哮が山へ響いた。
俺はさらに高度を上げる。
もう追わせる必要はない。
岩猿は村とは違う方角へ逃げた。
俺も村から十分離れている。
ここからは、あいつがどちらへ行くかを見るだけでいい。
村へ真っすぐ戻らず、斜面の上空を大きく回る。
黒褐色の魔物はしばらく俺を見上げていた。
やがて四本脚へ戻る。
鼻先を地面へ近づけた。
岩猿の臭いでも残っているのか。
顔を上げる。
群れが逃げた方向へ向き直った。
そのまま木々の間へ入っていく。
黒褐色の背中が見えなくなった。
俺はまだ動かない。
上空から枝の揺れを追った。
村とは重ならない。
岩猿を追うように、山肌を横へ進んでいる。
そこでようやく村へ身体を向けた。
戻り始めてから、自分が思っていた以上に疲れていることに気づいた。
胸の奥が重い。
翼を打つたび、身体が少しずつ沈む。
もう一度あの魔物を山の奥まで誘っていたら、帰る途中で降りることになっていたかもしれない。
村の柵が見えた。
俺は速度を落とし、柵の外へ着地した。
「ヴァル!」
リナが走ってくる。
「待て」
ダリオが腕を出して止めた。
「まず息を整えさせろ」
助かった。
俺は翼を畳み、その場で何度か呼吸した。
少ししてダリオが近づいてくる。
「怪我は?」
首を横へ振る。
翼を少し開き、腹も見せる。
小石が当たった跡はある。
鱗は割れていない。
「岩猿は?」
前脚で斜面を横切る動きを見せた。
「村側から逸れた?」
頷く。
周囲にいた村人たちの肩から、少しだけ力が抜けた。
だが、まだ伝えることがある。
俺は四本脚で重く歩いた。
肩を大きく持ち上げ、前脚で地面を叩く。
ダリオの表情が変わる。
「昨日の大きな獣か」
頷く。
「熊に似てたやつ」
もう一度頷いた。
次に、岩猿を示す小さな印を地面へ付ける。
その横へ大きな印。
大きな方から前脚を振り、小さな印を潰した。
ダリオの眉が寄る。
「殺したのか」
頷く。
「一撃で?」
それにも頷いた。
村長が前へ出た。
「ヴァルより大きかったか」
俺は首を上へ向け、前脚で肩の高さを示した。
「地上で戦ったら危ない?」
迷わず頷く。
空へ逃げられたから無事だった。
あの前脚が身体へ直撃したら、どうなるか分からない。
俺は口を開き、短く息を吐く。
そのあと前脚で炎が広がるような動きをした。
「火を吐いたのか?」
頷く。
「倒した?」
首を横へ振る。
「効かなかった?」
それにもすぐには頷かなかった。
鼻先の毛は焦げた。
足も止まった。
まったく効かなかったわけではない。
俺は少し考え、鼻先を前脚で押さえたあと、肩から背中を示して首を横へ振った。
ダリオが腕を組む。
「顔のあたりには効いた。でも、背中は傷ついてない?」
頷く。
「肩から背中が硬そうだったのか」
もう一度頷いた。
ダリオが山を見た。
「似た話なら聞いたことがある」
村長が振り向く。
「知っているのか?」
「見たことはない。猟師から名前を聞いただけだ」
ダリオは自分の肩を叩いた。
「熊に似ていて、肩から背中に硬い皮を持つ魔物がいるらしい。鎧熊と呼ぶ猟師もいる」
「鎧熊……」
「今のやつが本当にそれかは分からんぞ。俺は実物を見てない」
それでいい。
似た特徴の魔物に名前がある。
今分かったのはそこまでだ。
名前を知っただけで、強さも習性も分かったことにはならない。
村長も同じ考えらしい。
「山側へ出る仕事は、全部止める」
その場で言った。
村人の一人が、山腹の方を見る。
「水路もですか?」
「当然だ」
村長は即答した。
「畑にもなっていない場所のために命を懸ける必要はない。残した道具があるなら、そのままにしておけ」
「薪は南から集めます」
「ああ。足りなくなったら、そのとき別の場所を探す」
岩猿だけなら、近づいてきた個体を村側から逸らす方法も使えた。
だが、あの魔物は違う。
森の中で人間が出会えば、逃げ切れる保証がない。
俺が一緒なら安全とも言えなかった。
村長は山側の見張りの役目も変えた。
「森へ入って調べるな。姿を見る必要もない」
見張りの男たちが頷く。
「枝が折れる音、岩猿の鳴き声、何でもいい。異変に気づいたら村へ戻って知らせろ」
危険を調べるための見張りではない。
危険が近づいたことを知らせるための見張りだ。
平場へ出る予定だった人手は、畑と柵の補修へ回された。
◇
午後になると、リナが水を入れた木椀を持ってきた。
「もう大丈夫?」
俺は頷く。
「本当に怪我してない?」
身体を横へ向ける。
翼にも胴にも傷はない。
リナは鱗の表面まで確かめ、ようやく息を吐いた。
「よかった」
木椀を置いてくれる。
俺は水を飲んだ。
冷たい。
飛び続けた後だからか、いつもよりうまく感じた。
リナは俺が飲み終えるのを待ってから山を見る。
「その大きな熊、ヴァルより強いの?」
すぐには答えられなかった。
勝てないと決まったわけではない。
空から何度も炎を吐けば、倒せるかもしれない。
逆に、俺の力が先に尽きるかもしれない。
硬そうな背中へ炎がどこまで効くのかも分からない。
そもそも、相手が他に何をできるのかすら知らない。
俺は首を傾けた。
「分からないんだ」
頷く。
リナは少し考えた。
「じゃあ、村へ来てないなら戦わなくていいね」
今度は迷わず頷いた。
強さを確かめるためだけに戦う必要はない。
俺が守りたいのは、どちらが強いかという答えではない。
この村だ。
夕方までに、山腹へ続く作業予定はすべて外された。
見つけた泉も、水を引いた溝も、掘り起こした土も消えたわけではない。
安全に近づけるようになれば、また使えばいい。
村長は平場へ向かう道の入口へ、新しい杭を二本打たせた。
杭の間へ縄を渡し、古い布を結ぶ。
大人だけではない。
子供にも、ここから先へ入ってはいけないと分かるようにするためだ。
俺は柵の外から山を見た。
岩猿の姿はない。
黒褐色の巨体も見えない。
森は静かだった。
だが、あの魔物が後ろ脚で立ち上がった瞬間だけは、まだ鮮明に覚えている。
振り上げられた前脚。
尾のすぐ後ろを通った爪。
あと少し高度を上げるのが遅ければ、当たっていた。
若竜になり、飛べるようになった。
火も吐ける。
盗賊なら倒せた。
それでも、この山で俺より危険なものがいなくなったわけではない。
俺は山へ背を向け、村へ戻った。
知らないものを恐れるだけでは、暮らしは広がらない。
だが、知らないものへ無理に近づく必要もない。
今はまだ、ここまででいい。




