第17話 山の境目
薪場へ続く森の上を、子を抱えた岩猿が横切っていた。
昨日見た平場より、かなり村に近い。
木の枝へ腹を寄せた成体の下で、小さな手が灰色の毛を強く掴んでいる。その後ろを二頭、さらに枝葉の奥でも別の影が動いていた。
見えているだけで六頭。
昨日と同じ群れかどうかは分からない。だが、移動している方向は同じだった。
斜面を下って村へ向かっているのではない。山肌を東から西へ横切っている。
問題は、その先だった。
このまま進めば、村人たちが薪を集める森に入る。
俺は距離を保ったまま翼を傾けた。
石を掠めた左翼に、もう痛みはない。翼膜にも異常はなく、飛ぶこと自体に支障はなかった。
だからといって、岩猿の正面を低く飛ぶつもりはない。
あいつらは空を飛ぶ俺にも石を当ててくる。
一昨日の一発で、それは十分に分かっている。
昨日より高い位置から、群れの進む先を見る。
一頭が地面へ下り、倒木の下へ長い腕を差し込んだ。何かを拾って口へ入れたものの、その場には残らない。すぐ木へ戻り、仲間を追っていく。
餌を探してはいる。
だが、餌場へ向かっている動きには見えなかった。
「ギャッ!」
一頭が俺へ気づいた。
枝の上で身体を起こし、歯を剥く。
別の一頭も声を上げた。少し離れた場所から返事があり、姿の見えない岩猿がまだ森の中にいることが分かる。
六頭で全部ではない。
だからといって、数えるために森へ近づく理由もなかった。
昨日、村長から言われている。
見るだけでいい。追うな。
俺自身も、その判断が正しいと思っていた。
今の俺は飛べる。
だが、どこまでも飛べるわけではない。
知らない山の奥まで群れを追い、帰りの力を使い果たせば、それこそ何のための偵察か分からない。
俺は岩猿の進路だけを確認し、村へ戻った。
◇
村へ降りると、山側を見張っていた男がすでに村長へ報告していた。
「薪場の手前です。折れた枝と、地面に跡がありました」
「中へ入ったのか?」
「いいえ。昨日言われた通り、見つけたところで戻りました」
村長が頷いた。
「それでいい。姿を確かめるために森へ入る必要はない」
その横で、ダリオが地面へ枝で線を引いた。
村、薪場、山腹の平場。
正確な地図ではないが、位置関係を伝えるには十分だ。
「ヴァル。どこを通ってた?」
俺は薪場を示し、その上を斜めに爪でなぞった。
「こっちから来て、村の前を横切る?」
頷く。
「村へ向かって下りてるわけじゃないんだな」
首を横へ振った。
村長が線の横へしゃがみ込んだ。
「昨日より近いのは間違いないか」
俺は頷く。
昨日までなら、岩猿が通る場所を避ければ済んだ。
山腹の平場は、まだ畑ですらない。水路を掘り、石や根を取り除いている途中だ。使えなくなれば困るが、今日明日の暮らしが止まるわけではない。
薪場は違う。
「今日から北の薪場は使わん」
村長が言った。
「南側へ回す」
「遠くなりますよ」
近くにいた村人が顔をしかめる。
「一度に運べる量も減ります」
「分かっている」
村長は山側を見た。
「だが、薪は少なければ使い方を変えられる。頭に石を受けた人間は元に戻らん」
反論する者はいなかった。
山向こうから逃げてきた男が、不安そうに口を開く。
「全部追い払うんですか」
自分たちの集落を思い出したのだろう。
あの男たちは岩猿に畑を荒らされ、最後には家の近くまで石を投げられて、住んでいた場所を捨てた。
ここでも同じことになると思うのは当然だった。
ダリオは地面の線を枝で指した。
「群れを山へ追い返すつもりはない。村側へ寄ったときだけ、向こうへ曲げる」
「子を連れてるなら、挟まない方がいい」
「どういうことだ?」
「小さいのが遅れると、周りの奴らが戻ってくる。俺たちの集落でもそうだった。子の近くへ人間が寄ると、石を投げるだけじゃ済まない」
ダリオはすぐ地面の線を引き直した。
岩猿が進んでいる西側は開けたままにする。
村へ下りる側だけを塞ぐ。
「人間は森へ入らない」
ダリオが言った。
「俺と二人、弓を持って下の開けた場所にいる。岩猿から見えないところだ。ヴァルは上から村側へ寄せないようにする」
俺は地面の線を見る。
倒す必要はない。
村から離れる方向へ進んでくれるなら、それ以上は追わない。
「ヴァル」
村長が俺を見る。
「群れが全部お前へ向かってきたら、すぐ戻れ。追い払えなくても構わん」
頷く。
「それと」
ダリオが俺の左翼を見る。
「今日は痛くないからって、石が当たっても平気になったわけじゃないからな」
分かっている。
俺が鼻を鳴らすと、ダリオは苦笑した。
「その顔が一番信用ならん」
リナが横で笑った。
「ヴァル、怒ってる」
「怒るくらい元気なら結構だ。当てられない距離からやれ」
最初からそのつもりだ。
◇
昼前、岩猿の群れが薪場へ入った。
先頭の成体が太い枝を掴み、身体を振って隣の木へ移る。その後を二頭が追い、腹へ子を抱えた個体も続いた。
森の奥から、さらに二頭が姿を見せる。
やはり、昨日確認した六頭だけではない。
俺は数を確かめようとはしなかった。
今日必要なのは、岩猿が全部で何頭いるかではない。
村人の生活する場所へ入れないことだ。
俺は群れと村の間を横切った。
「ギャアッ!」
一頭がすぐに俺へ気づき、枝を激しく揺らした。
身体を大きく見せ、歯を剥く。
俺は近づかない。
岩猿が元の進路へ戻れば、そのまま離れる。村側へ下りようとすれば、もう一度だけ前へ出る。
二度繰り返すと、先頭の個体が進路を変えた。
斜面の上側へ寄り、薪場の奥を通ろうとする。
それでいい。
後ろの個体も続いた。
だが、一頭だけ村側へ下りた。
地面へ落ちている石を拾う。
俺はすぐ高度を上げた。
長い腕が振られる。
石は俺よりかなり下を通り抜けた。
続けて、もう一つ。
今度は違った。
俺のいる場所ではない。
少し先。
同じ速さで飛び続ければ、ちょうど俺が到達する位置だ。
翼を立てて速度を落とす。
石が目の前を横切った。
思わず息を呑んだ。
一昨日より狙いがいい。
俺の飛び方を覚えたのか、それとも投げるのが上手い個体なのか。
どちらでも構わない。
同じ場所を同じ速さで飛び続けるのは危険だ。
俺は大きく回り、別の角度から村側へ入った。
石を投げた岩猿がこちらへ向きを変える。
その間に、ほかの個体は斜面の上へ進んでいった。
腹にしがみついていた子が、枝へ小さな手を伸ばす。
成体が止まり、身体を低くした。
子が腹から背へ移るまで待ってから、再び動き出す。
後ろの個体も、その間は先へ行かなかった。
群れで移動している。
やはり、餌だけを奪いに来た連中とは動きが違う。
俺は距離を広げた。
子を背負った成体が進み、仲間も続く。
このままなら薪場の上側を抜け、村から離れていく。
うまくいった。
そう思ったときだった。
森の奥で、太い枝が折れた。
岩猿が渡った枝ではない。
もっと低い。
地面に近い場所から聞こえた。
続けて、もう一本。
「ギャッ!」
群れの後方にいた岩猿が短い声を上げた。
さっきまで俺へ石を投げていた個体まで動きを止める。
全ての顔が同じ方角へ向いた。
森の奥。
俺からは木々に遮られて見えない。
鈍い音が響いた。
硬いものが木へぶつかったような音だった。
岩猿たちが一斉に動いた。
俺への威嚇もない。
石を拾う個体もいない。
子を連れた個体を群れの中央へ入れ、斜面を横切っていく。
速い。
さっきまでとはまるで違う。
逃げている。
俺からではない。
群れの最後尾から、灰色の影が一頭飛び出した。
枝を掴み損ね、地面へ落ちる。
すぐ立とうとしたが、右の前脚が動いていなかった。肩の毛が血で濡れ、身体の片側が不自然に沈んでいる。
それでも岩猿は、残った三本の手足で木へ向かった。
幹へ左手を掛ける。
森の奥から、低い唸り声が聞こえた。
腹の奥へ響くような音だった。
負傷した岩猿が振り返る。
俺も森を見る。
木々の間で、何か大きなものが動いた。
黒褐色。
最初に見えたのは背中だった。
四本脚で進んでいるはずなのに、低い枝へ触れるほど高い。
肩の周りだけが異様に盛り上がり、毛の下へ硬い板でも重ねているように見える。
大きい。
今の俺より重いかもしれない。
黒褐色の巨体が木の横を通った。
避けなかった。
肩が幹へ当たり、木全体が大きく傾く。
岩猿を追っている。
俺は村の位置を見た。
このまま岩猿が斜面を下れば、ダリオたちが待っている場所へ近づく。
しかも、後ろにはあれがいる。
岩猿だけを逸らして終わる状況ではなくなった。
俺は高度を下げ、群れと村の間へ入った。
岩猿たちが俺を見る。
だが、止まらない。
石も投げてこない。
先頭の一頭が進路を上へ変え、ほかの個体も次々に続いた。
負傷した一頭だけが遅れている。
木へ登ろうとするたび、動かない前脚が幹から落ちた。
助けるか。
一瞬だけ迷った。
俺が近づけば、岩猿は抵抗するかもしれない。
それ以上に、後ろから来るものが何なのか分からない。
森の揺れが近づいた。
負傷した岩猿がもう一度、木へ手を掛ける。
俺はそいつの上を低く横切った。
「ギャッ!」
岩猿が驚いて身を伏せる。
俺はそのまま巨体の前へ回り込んだ。
戦うためではない。
一瞬でいい。
岩猿から注意を外せれば、それでいい。
胸を膨らませ、これまで出した中で一番大きな声を上げた。
「グルァァァッ!」
黒褐色の巨体が止まった。
木々の間から顔が上がる。
熊に似ていた。
だが、俺が知っている熊とは大きさが違う。
頭も前脚も太く、特に肩から背中にかけての毛が異様に厚い。泥で固まった毛なのか、その下に何かあるのか、離れた場所からでは分からなかった。
小さな目が俺を捉える。
まずい。
俺は翼を強く打ち、高度を上げた。
巨体が一歩踏み出す。
その隙に、負傷した岩猿が木へ登った。
三本の手足だけで枝へ上がり、仲間の消えた方角へ逃げていく。
黒褐色の魔物が顔を動かす。
岩猿を追うかと思った。
だが、一度こちらを見た。
「ヴォォ……」
低い声。
俺は村とは反対側へ旋回した。
来るなら、こっちへ来い。
巨体は数歩、俺の下へ進んだ。
そこで止まる。
鼻先を地面へ近づけた。
岩猿の残した匂いを拾ったのか、顔を上げると群れの逃げた方角へ向き直る。
そのまま木々の間へ入っていった。
黒褐色の背中が見えなくなる。
俺はすぐには村へ戻らなかった。
上空から森を見る。
枝の揺れは、村から離れる方向へ続いていた。
岩猿も。
あの巨体も。
少なくとも今は、村へ向かっていない。
それを確認してから、俺は向きを変えた。
◇
村へ戻ると、ダリオたちもすでに引き上げていた。
岩猿の鳴き声と木の折れる音を聞き、俺が戻る前に人間を下げたらしい。
「怪我は?」
着地した俺へ、ダリオが真っ先に尋ねた。
首を横へ振る。
「岩猿は?」
前脚を使い、斜面を横切る動きを見せた。
「村側からは逸れた?」
頷く。
周囲にいた村人たちの表情が少し緩んだ。
だが、まだ終わっていない。
俺は四本脚で重く歩いてみせた。
肩を大きく持ち上げ、前脚で地面を強く叩く。
ダリオの顔から笑みが消えた。
「大きな獣がいたのか」
頷く。
「岩猿を追ってた?」
もう一度頷いた。
山向こうから来た男の顔が青くなる。
「俺たちが逃げたときには、そんなものはいなかった」
「見なかっただけかもしれん」
村長がすぐに言った。
「決めつけるな。だが、岩猿以外の危険が山にいることは確かだ」
俺は地面へ二つの印を付けた。
小さい方を岩猿。
その後ろに、大きな印。
二つを同じ方向へ動かす。
「岩猿の群れを、そいつが追っている」
ダリオが理解した。
「だから子まで連れて移動してるのか?」
俺は頷かなかった。
今日、追われているところは見た。
だが、それだけだ。
あの魔物が原因で岩猿の群れ全体が元の場所を捨てたのかは分からない。
ダリオは俺の反応を見て、自分で言い直した。
「そこまでは分からないか」
今度は頷いた。
「十分だ」
村長が山を見る。
「今日から山側へは誰も入れるな。薪場だけではない。平場も、その周りの森もだ」
「見張りは?」
「村の外から見える場所だけでいい。枝が折れる音でも、岩猿の鳴き声でも、何かあれば戻れ。正体を確かめるために近づくな」
ダリオが頷いた。
「南側の薪だけで、どれくらい持つ?」
「今の使い方なら十日くらいです」
「なら、その間に別の場所を探す。山へ戻るかどうかは、それから決める」
村長の判断に、反対する者はいなかった。
岩猿を追い払えば済む話ではなくなった。
あいつらもまた、何かに追われている。
夕方。
山腹の向こうから、何頭もの岩猿の声が聞こえた。
声は少しずつ村から離れていく。
その後ろで、太い木の折れる音がした。
少し遅れて、低い咆哮が山を震わせる。
俺は柵の外から、その方角を見続けた。
今朝まで考えていたのは、村と岩猿の境目をどこに置くかだった。
だが、山の奥から出てきたものは、人間が決めた境目など知るはずもない。
なら、こちらが見極めるしかない。
どこまでなら暮らせるのか。
どこから先へは、まだ踏み込むべきではないのか。
山は、俺たちの都合だけで使える場所ではなかった。
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