第16話 三頭ではなかった
左の翼に痛みがないことを確かめてから、俺は地面を蹴った。
昨日、石が掠めた部分に傷は残っていない。翼膜も裂けず、動かした時の引っかかりもなかった。
村の入口では、ダリオと村長がこちらを見上げている。
「見つけても近づくなよ」
ダリオが声を張った。
「数と場所を見たら戻ってこい。今日は逃がす人間もいないんだからな」
分かっている。
俺は一度頷き、山腹へ向かった。
朝日が山の向こうから差し始めたばかりで、木々の間にはまだ濃い影が残っている。昨日まで人が働いていた平場へ近づいても、岩猿の鳴き声は聞こえなかった。
作りかけの水路から水が溢れ、起こした土の一部が泥になっている。
その中央には、置いてきた鍬が一本残っていた。
鍬のすぐ近くに、昨日投げ込まれた石がある。柄は折れていない。取りに行くだけなら、それほど時間は掛からないだろう。
だが、俺は降りなかった。
上側の森から何も出てこないまま、平場の周囲を大きく回る。
一周目では動くものを見つけられなかった。
二周目に入ったところで、一本の枝が大きく沈んだ。
葉の隙間から灰色の腕が現れ、幹を掴む。続いて人間より少し小さな身体が見えた。
一頭。
その後ろで別の枝が揺れ、さらに二頭が姿を見せる。
昨日確認したのと同じ三頭かもしれない。
だが、森の動きは止まらなかった。
太い幹の裏から一頭が出てきた。その個体が隣の木へ移ると、下の枝にも灰色の影が現れる。
五頭。
さらに奥で、別の岩猿が身体を起こした。
六頭までは同時に見えた。
枝葉に隠れているものまで含めれば、それ以上いる可能性もある。
俺は高度を上げ、岩猿が投げられる石の届かない位置まで離れた。
六頭のうち一頭は、他より明らかに小さかった。
腕は長いが身体は細く、成体と同じ距離を一度には渡れない。枝の途中で止まるたび、前を進む大きな岩猿が振り返っている。
別の成体の腹にも、何かがしがみついていた。
毛の間から小さな手が出て、灰色の身体を強く掴んでいる。
子供は一頭ではない。
自分で枝を渡る個体と、成体へしがみついて運ばれている個体。少なくとも二頭の小さな岩猿が群れに混じっていた。
餌を探しに出た数頭だけではなさそうだ。
俺は森へ近づかず、横へ回り込んだ。
岩猿たちは平場へ下りてこない。
先頭の一頭が斜面に沿って西へ進み、次の個体が同じ枝を渡る。小さな岩猿も遅れながら後を追った。
移動している。
平場へ集まっているのではない。その上にある森を横切り、さらに西側へ向かっている。
一頭が上空の俺に気づいた。
「ギャアッ!」
警戒する鳴き声が森へ響く。
少し離れた場所から返事があった。
見えている六頭とは違う位置だ。
さらに上の斜面でも枝が揺れた。
何頭いる。
確かめるために高度を下げれば、昨日と同じように石を投げられる。数を知ることは必要だが、見えない相手を探して森へ近づく必要はない。
確実に見たのは六頭。
見えない場所にも、少なくとも一頭はいる。
それで十分だった。
俺は岩猿たちの進む先へ回った。
平場の西には、木の密集した緩い斜面が続いている。その先は尾根に遮られ、空からでも地面を見通せなかった。
先頭の岩猿が地面へ下りる。
木の根元で何かを拾い、口へ運んだ。木の実か、虫か、それとも根なのかは分からない。
後ろの個体も地面へ下りたが、その場所に居座ることはなかった。
子供が追いつくと、また斜面を進み始める。
食べながら移動している。
あの平場に餌を求めて集まったのなら、今日は人間がいないのだから、好きなだけ探せるはずだ。それなのに、一頭も平場へ戻ろうとしない。
俺は尾根の先まで追わなかった。
村から見えない山へ入り、帰るための魔力まで使えば、偵察に来た意味がない。
岩猿たちとの距離を広げ、木の少ない場所へ降りる。
昨日の平場より西側だ。
地面へ鼻先を近づけると、獣の強い匂いが残っていた。岩猿のものかどうかまでは分からないが、柔らかい土には人間とも獣とも違う跡がある。
五本の長い指。
木の根元にも、同じ形の泥が付いていた。
新しい跡だけではない。乾いて縁が崩れた跡の上へ、まだ湿った跡が重なっている。数日前なのか、それより前なのかは判断できないが、昨日初めて通った場所ではなかった。
跡の多くは、東から西へ向いている。
平場へ入ったものもある。しかし、途中で終わらず、その先の斜面まで続く跡の方が多い。
人間が平場を使い始めたから、岩猿が急に集まったわけではない。
俺たちが気づく前から、何度かここを通っていた。
昨日はそこへ人間がいたため、石を投げて追い払ったのだろうか。
まだ決めつけられない。
ただ、岩猿が平場そのものを奪おうとしているわけではなさそうだった。
俺は地面を蹴り、村へ戻った。
◇
村の入口へ降りると、ダリオが最初に左翼を見た。
「石は飛んでこなかったか?」
俺は頷く。
「近づかなかったんだな」
もう一度頷いた。
「今日は言うことを聞いたか」
昨日も必要以上に近づいたつもりはない。
鼻先でダリオの肩を押すと、横にいたリナが笑った。
「ヴァル、怒ってる」
「石を掠めたまま飛び続けた奴が怒るな」
ダリオはそう言いながらも、昨日より表情を緩めていた。
村長と、山向こうの集落から逃げてきた男も待っている。ほかの村人は山へ行かず、家や畑の仕事を続けていた。
「岩猿はいたのか」
村長が尋ねる。
俺は前脚で地面へ線を引いた。
その横へ、一つずつ爪の跡を付ける。
一、二、三、四、五、六。
六つで止めた。
「六頭いたのか?」
頷く。
ダリオが跡を見てから俺へ顔を上げた。
「六頭だけか?」
俺は首を動かさない。
確実に姿を見たのは六頭だ。それ以上いたかもしれないが、見ていないものまで数へ入れることはできない。
ダリオは少し考え、問い方を変えた。
「見えたのが六頭。それ以外は分からない?」
それなら正しい。
俺は頷いた。
「三頭どころじゃなかったか」
村長の声が低くなる。
俺は六つの跡から少し離れた場所へ、もう一つ印を付けた。その印を前脚で隠し、木々の向こうにいるように示す。
「姿の見えない場所からも鳴き声がした?」
頷く。
「なら、最低でも七頭か」
ダリオが言ったが、俺は首を横へ振った。
「違うのか?」
鳴き声が六頭のうちの一頭ではなかったと、完全に証明できるわけではない。森の中では音の方向もずれる。
俺は六つの跡を示し、その外側へ大きな円を描いた。
「六頭は見た。ほかにもいるかもしれない、か」
今度は頷いた。
次に、爪で付けた六つの跡のうち二つを小さく描き直す。
片方は成体の近くへ置き、もう片方は少し離した。
山向こうから来た男が先に気づいた。
「子供がいたのか?」
頷く。
「二頭?」
また頷いた。
一頭は自分で動いていた。もう一頭は成体へしがみついていた。
男の顔が曇る。
「子まで、ここへ……」
「お前たちの集落に来た時もいたのか」
村長が尋ねた。
「最初はいませんでした。畑へ来ていたのは大きい奴ばかりです」
男は土に付けた二つの小さな跡を見る。
「子供を見るようになったのは、畑を荒らされ始めてからしばらく後でした。その頃には、家の近くの木にも岩猿がいました」
「数が増えたから、子供まで餌を探しに来たのか?」
「それは分かりません。でも、何頭かが畑の食い物を盗みに来ただけなら、今の平場へ子を連れていく理由がないと思います」
昨日、その疑問は出ている。
今朝見た動きで、もう少し先まで分かった。
俺は地面へ山腹を示す線を描いた。途中に平場を表す四角を置き、岩猿が現れた上側の森から線を伸ばす。
線は四角へ向けず、その横を通して西へ続けた。
「平場へ来たんじゃない?」
リナがしゃがみ込んだ。
俺は頷く。
「横を通って、その先へ行ったの?」
もう一度頷いた。
ダリオも隣へしゃがみ、俺が描いた線を見る。
「昨日は人がいたから石を投げた。でも、今日は平場へ下りず、そのまま移動したのか」
俺は頷いた。
「どちらへ向かってる?」
地面の線を西へ伸ばす。
村とは違う方向だ。
ダリオが山腹へ顔を向けた。
「今のところ、村へ下りてくる動きではないんだな」
頷く。
村人たちの間にあった緊張が、少しだけ弱まった。
安心できる状況ではない。それでも、岩猿の群れが村を目指しているのと、山腹を横切っているのとでは対応が変わる。
俺はさらに地面へ、五本の長い指跡を付けた。
同じ位置へ何度も重ねる。
一度だけではない。
ダリオが指跡へ手を近づけた。
「前にも通っていた?」
頷く。
「昨日初めて来たわけじゃないのか」
その可能性が高い。
乾いた跡へ新しい跡が重なっていたことまで伝える方法はないが、今はこれで十分だった。
村長はしばらく地面の線を見ていた。
「平場を明け渡せば終わる話ではなさそうだな」
「そうだな。あそこを欲しがってるわけじゃないなら、作業を止めても岩猿は山を通る」
ダリオが答える。
「村へ向かってないなら、追い払う必要もない。でも、どこまで西へ動くのかは見ておいた方がいい」
「人は出さん」
村長の返事は早かった。
「岩猿がいる森へ入って確かめる必要はない。山腹の平場には近づかず、薪は南の林から取る。家畜も山側へ出さない」
「ヴァルには?」
「朝に上から見てもらう。ただし、村から戻れる範囲だけだ」
ダリオが俺を見る。
「聞いたな。山向こうまで追うなよ」
俺は頷いた。
飛べるようになったからといって、どこへでも行けるわけではない。今の俺が安全に往復できる距離は、それほど長くなかった。
「岩猿が、どこまで来たら動く?」
ダリオが村長へ尋ねた。
村長は山側と、村の南にある林を見比べた。
「村の者が普段使う場所へ入った時だ。薪を取る林や家畜の囲いまで来るなら、こちらの暮らしとぶつかる」
「それまでは見るだけか」
「ああ。数も理由も分からないまま山へ入れば、こちらから群れを刺激することになる」
岩猿を倒す話は出なかった。
危険だから何もしないのではない。何を守るために戦うのかが、まだ決まっていないからだ。
◇
昼を過ぎた頃、山側の見張りから声が上がった。
「枝が揺れてる!」
俺とダリオは村の西端へ向かった。
平場からは離れている。村を囲む柵の外へ出なくても、山の中腹が見える場所だ。
見張りの男が指した先で、枝が順番に揺れていた。
一か所ではない。
東側の木が沈み、少し遅れて西側の枝が動く。それが途切れず、尾根へ向かって続いている。
灰色の身体が一瞬だけ木々の間から出た。
背中には小さな岩猿がしがみついている。
朝見た群れだ。
岩猿は平場から離れたあとも、同じ方向へ進み続けていた。
「こっちへ下りてくるか?」
見張りの男が尋ねる。
俺は首を横へ振った。
群れは斜面の高さをほとんど変えず、西へ向かっている。
やがて最後の枝が揺れ、尾根の向こうへ消えた。
村長は追跡を命じなかった。代わりに、地面へ描いた山の線へ、朝と昼の位置を木炭で記した。
二つの印は、東から西へ並んでいる。
岩猿は餌のない平場へ居着いたのではない。
子供まで連れた群れが、山腹を通って西へ移動している。
なぜ元の場所を離れたのかは、まだ分からない。
それでも、三頭を追い払えば終わる問題ではないことだけは、もうはっきりしていた。
夕方になっても、平場へ残した鍬を取りに行く者はいなかった。
そして日が山へ隠れる直前、西の尾根の向こうから、多くの岩猿が一斉に鳴いた。
六頭分では数えきれない声だった。
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https://youtube.com/shorts/p0RE2njsFbs?si=luaigXMNwFodefPD
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