第11話 竜がいる村
若竜になった翌朝、最初に困ったのは力でも飛び方でもなかった。
寝床が狭い。
これまで使っていた岩陰へ入ろうとすると、翼をきっちり畳んでも岩壁へ擦れる。身体を丸めれば尾の置き場がなくなり、少し向きを変えるだけで青灰色の鱗が岩肌へごりごりと当たった。
昨日までなら、雨風を避けて眠るには十分だった場所だ。
進化した身体には、もう小さい。
結局、夜明け前には外へ這い出し、岩陰の前にある草地で身体を伸ばした。
翼をいっぱいまで開く。
朝の冷たい空気を受けた翼膜が、大きく張った。
「……確かに、これは狭くなるな」
声に振り返る。
ダリオが村の方から歩いてきていた。
その後ろにはリナもいる。
「ヴァル、立ってみて」
言われた通り四本脚で立つ。
リナがすぐ横まで来ようとして、途中で足を止めた。
進化前から俺はリナより明らかに大きかった。
黒パンをもらった頃でさえ、少女からすれば見上げる相手だった。
若竜となった今は、さらに一回り以上違う。
四本脚で立った肩の位置だけでも、リナの背丈に迫る。
首を持ち上げれば、視線はダリオよりずっと高い。
鼻先から胴、そこから長い尾まで含めれば全長は数メートルに及び、翼を左右へ広げれば、小さな村の家一軒と並んでも窮屈に感じるほど場所を取る。
「昨日も大きくなったと思ったけど、こうして近くで見ると全然違うね」
リナが俺を見上げながら言う。
「前よりずっとドラゴンっぽい」
前もドラゴンだったぞ。
俺が顔を寄せると、リナは笑いながら一歩下がった。
「怒った?」
「グル」
「怒ってるね」
「そこは分かるのか」
ダリオが俺の横を歩き、翼を眺める。
「こっちの方が問題だな。全部広げたら、村の中じゃ相当邪魔になる」
言い方。
だが否定はできない。
人間が暮らす狭い道へこの翼で入れば、屋根や柵を引っかけかねない。
村の守り手になったからといって、気軽に家々の間を歩き回らない方がよさそうだ。
「それに食う量も増えるんじゃないか?」
ダリオの言葉に、俺は自分の腹を見る。
そこは俺も気になっていた。
進化した直後だからか、以前より空腹になるのが早い。
とはいえ、村に食わせてもらう気はない。
守る相手の食料を俺が食い潰してどうする。
狩りが必要なら、自分で森へ入る。
「ヴァルに毎日ご飯あげたら、村の食べ物なくなるかな」
リナが真剣に考えている。
「お前、自分の黒パンまた半分にするつもりじゃないだろうな」
「毎日じゃ足りないと思う」
「そういう問題じゃない」
俺も同意する。
今の身体では、黒パン半分など一口だ。
それでも、あの日の半分が小さくなったわけじゃない。
俺にとっての価値は、食べられる量とは別のところにある。
「朝から何をしておる」
村長がやってきた。
「ヴァルの大きさ確認」
リナが答える。
「見れば分かるだろう」
「近くで見た方が分かるもん」
村長は俺を見上げ、それから岩陰を見る。
「そこはもう無理そうだな」
やっぱりそう見えるか。
「寝床は別に探した方がよさそうだ。それは後でも構わんが、今日は山腹の方を見に行く予定だったな」
そうだった。
昨日見つけた泉と、その下にある平場。
逃げてきた八人がこの村で暮らせるか考えるなら、使える土地は多い方がいい。
今のところ分かっているのは、昔誰かが使っていた可能性があるというだけ。
水も、泉から平場まで自然には届いていない。
まずは少しだけ試す。
その話になっていた。
◇
山へ向かったのは、俺を含めて五人だった。
ダリオ。
ルーエで畑を見ている男が二人。
山向こうから逃げてきた八人のうち、斜面の畑で働いていた男が一人。
そして俺。
人間たちは鍬や手斧、縄を背負っている。
俺は何も持っていない。
今の大きな口で鍬一本をくわえて運ぶこともできるだろうが、細い道具を傷つけず扱うなら人間に任せた方がいい。
「ヴァル、通れるか?」
先を歩くダリオが振り返る。
問題は俺の身体だった。
人間一人が通れるよう枝を払った道でも、今の俺には狭い場所がある。
以前なら脇をすり抜けられた木と木の間で、翼の付け根が当たりそうになる。
俺は一度止まり、身体を斜めにした。
翼をできるだけ細く畳み、ゆっくり抜ける。
「こっちの道も、そのうちヴァルに合わせないと駄目か?」
畑の男が言う。
俺は首を横に振った。
「分かってるのか?」
「たぶんな」
ダリオが答える。
「全部ヴァルが通れる幅にしたら、山中の道を広げる羽目になる。必要な時は空から行けばいいだろ」
その方がいい。
飛行が安定すればだが。
昨日はようやく飛んで、曲がって、着地したところだ。
森の木々の間を抜けられるような腕前ではない。
泉へ到着すると、岩の割れ目から今日も変わらず水が流れていた。
「量は昨日と大きく変わってないな」
ダリオがしゃがみ込む。
「二、三日じゃ分からん」
畑の男が答える。
「これを当てにして畑を増やすなら、乾く時期にも出るか見ておきたい」
「今日はそこまで決めないんだろ?」
「もちろんだ。少し水を引いてみるだけだ」
その言葉通り、誰もいきなり平場全体を耕そうとはしなかった。
木の少ない一角。
まずそこだけ。
泉から水を運べるか試すため、男たちは地形を見ながら浅い溝の位置を決めていく。
「ここから下げる」
「真っ直ぐだと岩へぶつかるぞ」
「なら右へ逃がす。ただし回しすぎると低くなる」
「この辺りか」
鍬が土へ入る。
俺は少し離れて見ていた。
若竜になった前脚は、人間の胴より太い木材でも押せそうな力がある。
だが、細い溝を掘るには向いていない。
一掻きしただけで、必要な幅以上に土を崩してしまう。
「ヴァル、こっちは頼む」
呼ばれて顔を向ける。
溝を通したい場所に、大きな石が半分ほど埋まっていた。
人間たちは先に鍬で周囲の土を掘る。
「左へ出したい」
ダリオが位置を示す。
俺は石へ前脚を当てた。
押す。
少し動く。
さらに力を入れると、土の中から鈍い音がした。
「そのまま!」
石が持ち上がり、穴から外れる。
ごろりと横へ転がった。
「そこまで!」
止める。
避難してきた男が石のあった場所を覗き込んだ。
「助かるな。この大きさだと人間だけなら縄を掛けるところから始めないと駄目だった」
俺は鼻を鳴らす。
全部自分でやる必要はない。
細かい作業は人間。
重い物は俺。
向いている方がやればいい。
それからしばらくは、人間たちの仕事を見ていた。
土を掘る。
石を拾う。
高さを確かめる。
水が流れるよう、少しずつ地面を整えていく。
「一度やるぞ」
泉の近くを土で止めていた男が、堰の一部を崩した。
水が流れる。
浅い溝へ入り、少しずつ進んでいく。
途中で止まった。
「ここが高い」
「削ろう」
直す。
もう一度。
今度は横から水が溢れた。
「低いな。土を足す」
また直す。
地味な作業だった。
それでも、魔獣を殴って終わるのとは違う面白さがある。
失敗しても、何が悪いかを見て直せる。
三度。
四度。
試すたび、水が先へ伸びた。
そして細い流れが、平場まで届く。
「来た」
避難してきた男がしゃがみ込んだ。
掌へ水を受ける。
「少ないけど、ここを試すには使える」
「まだ畑になるとは決まってないぞ」
村人が言う。
「分かってる。石もある。根もある。水がずっと出るかも分からない」
男は湿った土を指で揉む。
「だから小さくやる。芋か豆を植えてみる。それで駄目なら、広げない」
俺は水が黒い土へ染み込んでいく様子を眺めた。
派手な変化ではない。
でも昨日までは、ここへ水を流すことすらできなかった。
少なくとも一つ、試せるようになった。
◇
村へ戻ると、八人を残すかどうかの話が続いていた。
「水が届いたからって、食料が増えたわけじゃない」
年配の男が言う。
「分かっている」
村長は静かに答えた。
「八人増えれば、八人分減るんだぞ」
「それも分かっている。だから永遠に面倒を見るとは約束せん」
「なら、どうする」
「当面は残ってもらう」
村長はそこで避難してきた者たちを見る。
「働ける者には仕事へ入ってもらう。平場は小さく試す。駄目なら別の方法を考える。それでも食えんとなれば、その時は本人たちも含めて次を決める」
「今追い出さない理由は?」
「子どもと怪我人を連れて山へ出したところで、次の村まで無事に着く保証がないからだ」
反対していた男は黙った。
村長は続ける。
「助けると言って全員で飢えるのも馬鹿だ。だから、できることとできないことは分ける。だが、今日追い出す必要もない」
きれい事だけではない。
そこがいい。
八人を受け入れた瞬間、村が豊かになるわけではない。
むしろ食料は苦しくなる。
住む場所も足りない。
それでも、働ける者が増える。
使えるかもしれない土地も見つかった。
明日までに答えを出す必要はない。
「世話になる」
避難してきた男が頭を下げた。
「何でもするとは言わん。できないことまで請け負えば迷惑になる。だが畑と山仕事なら手伝える」
「それで十分だ」
村長が答えた。
話がまとまる。
俺は草地へ向かった。
朝より胸と翼の張りが軽い。
少し飛んでおきたい。
「また練習?」
リナがついてくる。
俺は頷いた。
「今日は落ちないでね」
善処する。
ダリオまで後ろから来た。
「飛ぶなら低くしろよ。今の身体で落ちたら、地面の方が心配になる」
言い過ぎだ。
ただ、以前より重くなっているのは確かなので反論しづらい。
翼へ魔力を通す。
身体が軽くなる。
数歩走る。
羽ばたく。
地面が離れた。
昨日よりずっと安定している。
身体が大きくなったぶん翼も大きいが、飛翔の感覚が分かれば扱いにくいだけではない。
翼一打ちで受ける空気が多い。
少し高く上がる。
右へ。
緩く曲がる。
左へ戻す。
「昨日より上手!」
リナの声が地上から届く。
まだまだだ。
森の中へ飛び込めるほど小回りは利かない。
着地も完全ではない。
それでも、飛んでいる最中に周囲を見る余裕くらいは出てきた。
俺は村から外れないよう、大きな円を描く。
南の道へ目を向けた時だった。
人影が見えた。
一人。
大きな背負子。
杖。
こちらへ歩いている。
俺が気づいたのと、男が俺を見つけたのはほぼ同時だった。
男の足が止まった。
そりゃ止まる。
山の村へ向かっていたら、数メートルある青灰色のドラゴンが空を飛んでいる。
知らない人間なら、襲われると思って当然だ。
俺は男へ近づかなかった。
高度を下げる。
草地へ向けて翼の角度を変え、速度を落とす。
前脚が地面へ触れた。
そのまま数歩走る。
最後に尾で身体を支え、止まった。
腹は擦らない。
よし。
「今のは上手かった!」
リナが喜んでいる。
「ようやく普通に着地したな」
ダリオは一言多い。
俺は南の道を見る。
「誰か来た?」
リナも気づいた。
村人の一人が目を凝らす。
「あの荷なら、行商じゃないか?」
行商。
俺は男の背負子を見る。
布袋。
木箱。
細長い包み。
確かに旅の荷というより、売り物をまとめて背負っているように見える。
男はしばらく俺と村を交互に見ていた。
そして、慎重に歩き始める。
「そこで止まれ!」
ダリオが声を張る。
「分かってる!」
男も遠くから返す。
「その前に聞かせろ! あの竜は何だ!」
もっともだ。
村長も出てきた。
「ヴァルだ」
「名前を聞いてるんじゃない!」
「この村の守り手だ」
男が黙った。
数秒して、
「……竜が?」
「ああ」
「人間の村を?」
「ああ」
「飼ってるのか?」
「飼っておらん」
「じゃあ、何でいるんだよ!」
「話せば長い」
村長。
雑だぞ。
男は俺を見る。
俺はその場から動かない。
今の身体で一歩近づくだけでも、相手にはかなりの圧になる。
「襲わん」
村長が言った。
「武器を向けたり、無理に触ろうとしたりしなければな」
「本当に?」
「少なくとも、お前よりあいつの方が言うことはよく聞く」
「俺はまだ何もしてないだろ!」
ダリオが吹き出した。
男が睨む。
「笑うな!」
「悪い。でも大丈夫だ。ヴァルはこっちの言葉も分かってる」
「……は?」
男が俺を見る。
「言葉?」
「試してみろよ」
「簡単に言うな」
しばらく迷った末、男がこちらへ声をかけた。
「ヴァル」
俺は顔を向ける。
男の肩が跳ねる。
「……本当に名前を分かってるのか」
頷く。
今度は一歩下がった。
「今、頷いたぞ」
「ああ」
「竜が?」
「ああ」
「何でお前らそんな普通なんだよ!」
「慣れた」
ダリオが答えた。
その一言が一番ひどい気がする。
◇
行商人は俺から十分に距離を取ったまま、村へ入った。
背負子から商品が出てくる。
塩。
針。
糸。
布。
小さな刃物。
油。
村人たちがすぐ集まった。
「塩はあるか?」
「いつもの分なら」
「針を二本欲しい」
「糸も要るなら一緒に出すぞ」
俺は柵の外から眺める。
物珍しい品に集まっているわけではない。
必要だから買う。
ルーエだけですべてを作って暮らしているわけではなかった。
自分たちで作れないものは外から持ってきてもらう。
代わりに、村から出せるものを渡す。
炭や乾かした山の物を持ち寄る村人もいた。
「それで」
村長が行商人へ声をかける。
「次に来る時、穀物を少し増やせんか」
「いきなりだな」
「八人増えた」
「もっといきなりじゃねえか」
行商人は顔をしかめる。
「金はあるのか?」
「全部金でなくても、交換できる物があれば持っていけるだろう」
「物による」
「何が要る」
「それを今から見せてもらう」
話が早い。
行商人は村が出した炭を見る。
一本手に取り、割れ方や硬さを確かめる。
「これは持って帰ってもいい」
「穀物になるか?」
「売れればな」
「どれくらい?」
「まだ分からん。俺が値を決めるわけじゃない」
村長は少し考える。
「では、売れる分だけ持っていってくれ。次に値を聞かせてもらえばいい」
「その方がいい。一度に山ほど焼いて、売れませんでしたじゃ困るだろ」
昨日の平場と同じだ。
まず小さく試す。
できると分かってから増やす。
そういう考え方の方が、この村には合っているらしい。
「ただな」
行商人が背負子を叩く。
「穀物は重い。今より量を増やせって言われても、俺が背負える量には限界がある」
村人の一人が尋ねた。
「荷馬は使えんのか?」
「山の下までは使える」
「ここまでは?」
「連れてきたことがない。道が細い」
男は南へ続く道を指した。
「俺一人なら通れる。でも荷を積んだ馬には嫌な場所がある。岩の脇と、ぬかるんでるところ。それから枝が低すぎる場所」
「そこを直せば来られるのか?」
ダリオが聞いた。
「実際に見ないと約束はできない」
村長が頷く。
「なら、帰る時に見てもらおう。直せる程度なら直す」
「荷車まで通すとか言うなよ?」
「誰も言っておらん」
「ならいい」
そこで行商人の視線が俺へ移った。
「もう一つある」
「何だ」
「荷馬を連れてきたら、そいつは?」
俺か。
「いる」
村長が即答する。
「だよな……」
男が額へ手を当てた。
「人間なら『襲うな』って話せる。馬に『あの竜は村の守り手だから安心しろ』って説明しても分からんぞ」
それは正しい。
今の俺は人間よりはるかに大きい。
肉食獣かどうか以前に、馬から見れば怖くない方がおかしい。
「なら、馬が来る時にはヴァルを道から離しておけばいい」
ダリオが言う。
「風下にいた方がいいな」
俺が思っていたことを先に言われた。
行商人がダリオと俺を交互に見る。
「そこまでできるのか?」
「できる」
ダリオが勝手に答えた。
俺も頷く。
「……本当に話が通じるんだな」
ようやく納得したらしい。
村の商いは続く。
俺はその光景を見ながら、山腹へ流した細い水を思い出した。
土地を探す。
水を引く。
作物を試す。
道を通す。
外から必要な物を運ぶ。
敵を倒す以外にも、村を守る方法はいくらでもある。
それに今日、もう一つ分かった。
飛べるようになった俺は、以前よりずっと目立つ。
数メートルある青灰色の若竜が空を飛んでいれば、森の陰へ隠れて暮らすのは無理だ。
行商人も、村を下りれば誰かに話すだろう。
ルーエという山間の村には、ドラゴンがいる。
しかもそのドラゴンは、人を襲わず、村のそばで暮らし、名前まである。
噂がどう伝わるかまでは選べない。
なら、できることは一つだ。
俺が何者なのかを、行動で見せ続けるしかない。
俺は翼を畳み、柵の向こうで始まった商いを眺めた。
ルーエはもう、森の中だけで完結する村ではない。
人も、品物も、噂も。
これからは同じ道を通って、外の世界とつながっていく。
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