第10話 初めての空
夜中、翼が熱くて目を覚ました。
いや、熱いというより――身体の内側から押し広げられている。
俺は岩陰から這い出し、まだ暗い空の下で翼を開いた。
「グル……」
重い。
昨日、山から戻った時に感じた張りとは比べものにならない。
翼の付け根から胸の奥へ、脈を打つような熱が何度も走る。そのたびに青灰色の鱗の下で筋肉が引き絞られ、骨まで軋んだ。
右の後ろ脚も確かめる。
罠の傷はかなり塞がっている。
こちらは違う。
怪我ではない。
何かが起きている。
そう考えた瞬間、暗闇の中へ淡い文字が浮かんだ。
《守護領域の定着を確認しました》
俺は動きを止める。
続いて、次の文字。
《進化条件を満たしました》
《現在種族:《幼竜》》
《進化を開始します》
来る。
そう思った時には遅かった。
「グルァッ!」
翼が勝手に大きく開いた。
背中から胸へ強烈な熱が抜け、四本の脚へまで広がる。
痛い。
だが、傷を抉られるような痛みではない。
狭すぎる身体を、内側から無理やり大きく作り替えられているような圧迫感だった。
首が伸びる。
胸郭が広がる。
前脚へ力が入り、地面へ食い込んだ爪が土を抉った。
尾の付け根まで熱が走る。
翼も変わっていた。
骨が軋みながら伸び、その間を張る翼膜が一回り広がる。
俺は倒れないよう腹を低くし、左の後ろ脚を中心に踏ん張った。
右脚にも熱が通ったが、傷そのものが消えていく感覚はない。
進化したら全回復。
そんな都合のいい仕組みではなさそうだ。
どれくらい経ったのか分からない。
やがて全身を包んでいた熱が引いていく。
荒い息を吐きながら顔を上げると、また文字が浮かんだ。
《進化が完了しました》
《《幼竜》から《若竜》へ進化しました》
若竜。
俺は自分の前脚を見る。
青灰色の鱗は変わっていない。
だが、腕は明らかに太い。
爪も一回り大きくなっている。
地面から見える高さそのものが、昨日までとは違った。
さらに表示が続く。
《種族特性《飛翔》を獲得しました》
《翼と体内魔力の連動が可能になりました》
飛翔。
その二文字を見た瞬間、眠気が全部消えた。
ようやくか。
崖から落ちて滑空した。
岩棚へ飛び移る時にも翼を使った。
それでも、自分から高度を上げて飛んだことは一度もない。
翼があるのに飛べないというのは、思っていた以上にもどかしかった。
最後の文字が消える。
俺は意識を翼へ向けた。
すると、それまで曖昧だった何かが急にはっきりした。
胸の奥。
心臓とは少し違う場所から、温かな流れが左右へ伸びている。
翼の骨へ。
さらにその先の翼膜まで。
魔力。
たぶん、これがそうだ。
ブレスを吐く時にも身体の内側へ熱は集まる。
だが、それとは違う。
炎に変わるのではなく、翼と身体そのものへ流れ込んでいる。
試しに少し意識を強めた。
四本の脚へ掛かっていた重さが、わずかに減る。
「……グル?」
体重がなくなったわけではない。
それでも、確かに身体が軽い。
翼を一度、下へ振る。
枯れ葉が盛大に吹き飛んだ。
同時に、前脚が一瞬だけ浮く。
俺はすぐ翼を止めた。
前脚が地面へ戻る。
もう一度。
今度は魔力を翼へ流したまま、ゆっくり振り下ろす。
前脚だけではない。
後ろ脚に掛かる重さまで薄くなった。
なるほど。
翼の力だけで、この身体を無理やり持ち上げるわけではないらしい。
体内魔力で身体を飛べる状態へ近づけ、翼で実際に空気を掴む。
両方必要なのだろう。
そこで村の方から声がした。
「ヴァル?」
リナだった。
柵の内側から、眠そうな顔でこちらを見ている。
「さっき、すごい声がしたけど……」
途中で止まる。
俺を見上げたまま、目が大きくなった。
「大きくなってる!」
やっぱり一目で分かる程度には変わったか。
俺が身体を見下ろしていると、リナは柵のそばまで駆けてきた。
「翼も! 昨日よりずっと大きいよ。ヴァル、何があったの?」
説明できれば楽なんだけどな。
「グル」
「それじゃ分かんない」
知っている。
そこへダリオもやってきた。
片手には弓。
寝起きらしい乱れた髪のまま、俺を見るなり足を止める。
「……ずいぶん育ったな」
「ね! 一晩でだよ?」
「普通の竜もこうなのか?」
「私に聞かれても知らないよ」
「俺も知らんから聞いてるんだ」
二人とも役に立たない。
まあ、俺自身も知らないのだから人のことは言えないが。
俺は村から離れる方向へ歩いた。
「ヴァル?」
リナが呼ぶ。
開けた草地まで来て振り返る。
家も柵も十分遠い。
失敗して転がっても、誰かを巻き込む心配はない。
ダリオが嫌そうな顔をした。
「まさか、飛ぶつもりか?」
俺は翼を広げる。
「やっぱりか」
「飛べるようになったの?」
「たぶんな。ただし、そこに『上手く』って言葉は付かないと思うぞ」
失礼な。
まだやってもいない。
「先に言っとく。村の上へは行くなよ。屋根に突っ込まれたら修理するのは俺たちなんだからな」
俺もそんな着地は嫌だ。
まずは歩く。
一歩。
二歩。
そこから速度を上げる。
まだ右脚は完全ではないので、全力疾走まではしない。
胸の奥へ意識を向ける。
魔力が翼へ流れた。
身体が軽くなる。
そこで羽ばたいた。
一度。
地面を蹴る。
足の裏から感触が消えた。
浮いた。
ほんの一瞬だけ。
次の瞬間、身体が大きく右へ傾いた。
「グルァッ!?」
左の翼へ力を入れすぎた。
慌てて前脚を伸ばす。
地面へ着く。
二歩、三歩とよろめき、翼の先端で草を薙ぎ倒しながら何とか止まった。
「ヴァル!」
「大丈夫だ。転んではない」
ダリオが笑いを噛み殺している。
覚えてろよ。
「最初から鳥みたいに飛べるわけないだろ。左右の翼があるんだから、片方だけ強く動かしたら傾くに決まってる」
言われればその通りだ。
俺は出発地点へ戻る。
「まだやるの?」
リナが聞く。
当然だ。
一度は浮いた。
失敗の原因も分かっている。
今度は先に魔力を通す。
身体が軽くなるところまで待った。
そこで走る。
左右の翼へ同じ程度の力を入れる。
一度。
二度。
地面が離れた。
今度は傾かない。
三度目の羽ばたき。
高度が少し上がった。
「飛んだ!」
リナの声が下から聞こえる。
前脚。
後ろ脚。
どこにも地面へ触れていない。
滑空でもない。
落ちながら進んでいるわけでもない。
俺は自分で空へ上がっている。
胸の奥から、思わず声が出た。
「グルァァッ!」
――そして身体が沈んだ。
「わっ!」
まずい。
喜んだせいで意識が乱れ、翼へ送っていた魔力が弱くなった。
すぐ集中し直す。
魔力が戻る。
翼を振る。
落下が止まった。
なるほど。
かなり繊細だ。
ただ翼をばたつかせればいいわけではない。
魔力だけ流せば浮くわけでもない。
翼と魔力を同時に使う。
少しでも意識が外れると、高度が落ちる。
俺は無理に上へ行くのをやめた。
まずは草地の上を低く飛ぶ。
数回羽ばたくごとに、少し滑る。
その方が楽だ。
次は曲がる。
尾を左へ振り、左翼の角度を少し変えた。
身体が向きを変える。
思った以上に大きく。
「グルッ!」
森へ突っ込みそうになり、慌てて右翼を強く打った。
今度は反対へ振れすぎた。
「ヴァル、そっちじゃない!」
分かってる。
「声掛けても余計混乱するだけだろ」
「でも危ないじゃん!」
「だから村の上でやるなって言ったんだ」
下は好き放題言っている。
こっちは必死だ。
もう一度。
今度は尾だけに頼らず、左右の翼を少しずつ調整する。
ゆっくり。
大きく。
弧を描く。
できた。
急旋回は無理だが、方向転換くらいならできる。
そこで初めて、少し高度を上げた。
柵を越える高さ。
木の梢に近い高さ。
さらに一度、強く羽ばたく。
視界が開いた。
ルーエが見えた。
俺は翼を動かしながら、思わず息を呑む。
村全体を上から見るのは初めてだった。
屋根が集まっている。
その周囲へ畑。
家畜囲い。
修理された柵。
八人が寝泊まりしている物置も見えた。
さらに外側には森が広がり、その先へ山腹が続いている。
昨日見つけた泉があるのは、あの辺りだろう。
地上を歩いていた時には、一つ一つ別の場所として覚えていた。
上から見れば全部つながっている。
村は小さかった。
思っていた以上に。
森と山の中へ、わずかな土地を切り開いて人間が暮らしている。
牙猪一頭に畑を荒らされれば困る。
角狼に家畜を奪われれば困る。
八人増えただけで、この先食わせられるか皆で頭を抱える。
盗賊が十人ほど来れば、村中の大人が武器を持たなければならない。
上から見ると、ルーエがどれほど小さな場所なのかよく分かった。
同時に、村の外も見える。
北西から盗賊が来た森。
南へ続く道。
山腹の開けた場所。
地上では木々に遮られて見えなかったものが、一度に視界へ入る。
飛べる。
それだけじゃない。
これは、かなり使える。
危険を早く見つけられる。
道も探せる。
使えそうな土地や水の流れだって、上からなら今までとは違う探し方ができる。
もう少し高く。
そう思い、翼へ魔力を強く流した。
その瞬間。
胸の奥が重くなった。
「……グル」
魔力が出ない。
完全にではない。
だが、さっきまでのように流れない。
翼まで急に重くなった。
まずい。
使いすぎた。
俺は高度を下げる。
無理に羽ばたくのをやめ、翼を大きく広げた。
滑空なら、これまでにもやっている。
魔力を最低限だけ残し、草地へ向かって緩く降りる。
地面が近づく。
問題はここからだ。
速度がかなり残っている。
翼を少し立て、空気を受ける。
身体が押し戻される。
速度が落ちた。
前脚を伸ばす。
着地。
一歩。
二歩。
三歩。
止まらない。
「グルッ!」
最後は腹を草の上へ擦りつけながら滑った。
ようやく止まる。
しばらくそのまま伏せた。
翼が重い。
全身運動をした後とも違う。
身体の内側から力が抜けている。
魔力をかなり使ったのだろう。
「ヴァル!」
リナが柵のところまで走ってきた。
「大丈夫!?」
俺は顔だけ上げて頷く。
「飛んだね! ちゃんと飛んでた!」
「最後は腹で止まったけどな」
ダリオ。
聞こえてるぞ。
睨む。
「そんな顔する元気があるなら大丈夫だろ」
腹が立つ。
でも正しい。
リナは空を見上げた。
「どうだった?」
それは鳴き声だけでは答えにくい。
俺は少し考えてから、ルーエへ顔を向けた。
「村?」
頷く。
「上から見えたの?」
もう一度。
「全部?」
頷く。
リナが目を輝かせた。
「いいなあ。私も見てみたい」
俺は一瞬、リナの身体と自分の背中を見比べた。
無理だな。
今の操縦で誰かを乗せるなんて、自殺行為に近い。
「その顔は絶対駄目って言ってる」
ダリオが言う。
今回は正解だ。
「いつかなら?」
リナが聞く。
いつか。
もっと身体が大きくなって、飛ぶのにも慣れたら。
可能性はあるかもしれない。
俺がすぐ首を横へ振らなかったせいか、リナは勝手に期待した顔になった。
「約束ね」
してない。
「今のは約束じゃないだろ」
ダリオが助け舟を出してくれた。
珍しい。
しばらく草地で休んでいると、村長もやってきた。
「飛べたそうだな」
俺は頷く。
村長は空を見上げ、それから俺の翼へ視線を戻した。
「なら、できることが増えるな。森の奥へ入らずに様子を見たり、道の先を確かめたりもできるようになるかもしれん」
やはり、考えることは同じか。
「ただし」
村長は疲れて地面へ伏せている俺を見る。
「今日のところは、遠出などできそうにないな」
強く頷いた。
無理だ。
「なら練習してからでいい。村の守り手だからといって、飛べるようになったその日に山越えまで頼む気はない。落ちて動けなくなったら、守るどころではなくなる」
まともな判断で助かる。
ダリオも腕を組んだ。
「それと、練習場所はここでいい。村の上は禁止。森の中もなし。落ちるなら草の上へ落ちろ」
そこまで落ちる前提で話すな。
「今日の着地見たら言いたくもなるだろ」
言い返せない。
俺はもう一度翼を持ち上げようとした。
半分ほど上がったところで、重さに負けて戻る。
今日は終わりだ。
無理をして二度目を飛べば、着地どころか途中で落ちる可能性がある。
昨日見つけた山腹の土地も気になる。
逃げてきた八人のこともある。
だが、今日の俺には一つ大きな変化があった。
《若竜》。
《飛翔》。
これで、今まで人間と同じように地面からしか見られなかった世界を、上から見られる。
俺は草地に伏せたまま、空を見上げる。
高い。
さっき俺が上がった場所など、その入口にも届いていない。
それでも一度、自分の力で地面を離れた。
次はもっと長く。
もっと安定して。
いずれは山の向こうまで。
そこまで考えたところで、翼の重さが現実を思い出させる。
まずは着地だな。
空を飛べる竜になった初日に、腹から草地へ突っ込んでいるようでは格好がつかない。
俺は鼻を鳴らし、遠くの山を見る。
昨日まで、あの山へ行くには自分の脚で登るしかなかった。
今日からは違う。
ルーエを守るために使えるものが、また一つ増えた。
牙でも、爪でも、炎でもない。
空だ。
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