第106話 蜂蜜を採るには、大きすぎる
朝、屋根から頭を抜こうとして、俺は途中で動きを止めた。
鼻先に、子供が立っている。
リュストの子だった。両手を後ろへ回し、俺の顔を下から覗き込んでいる。目が合うと、家の方を振り返った。
「お父さん、起きたよ」
戸口から出てきたリュストは、手に持っていた木片で自分の額を軽く叩いた。
「先に呼んでくれと言っただろう。寝ている顔を覗き込まなくても、声は届くぞ」
『大丈夫だ。俺も、そろそろ起きようと思っていた』
子供が父親のそばへ戻るのを待ち、首を低くしたまま屋根から抜く。外へ出て身体を伸ばすと、畳んでいた翼から雨粒が落ちた。背中は濡れていても、顔の周りにはまだ乾いた草の匂いが残っていた。
昨夜、雫の落ちたところを教えると、リュストは屋根の端を見上げた。
「ここなら、板を一枚足せば済みそうだな。今日のうちにやっておく」
『助かる。あの草も、よかったよ。朝まで、ほとんど起きなかった』
「それなら作った甲斐があった。今度トーヴェンが来たら、そう言ってやってくれ」
彼は笑って、木片を屋根へ当てている。俺はその仕事を邪魔しない方へ歩き、水を飲むために森の縁へ向かった。
イーゼに呼び止められたのは、小川から戻ったときだった。
彼女は籠へ小さな桶を入れていた。そばには布と縄、短い刃物も置いてある。畑へ行く支度とは、少し違って見えた。
「今日は、森へ出るのかい。食べるものを探しに行くなら、その前に少し付き合ってほしいんだが」
『遠くへは行かないつもりだ。何か見つけたのか』
「蜂だよ。昨日から、花の咲いているところへ来ていてね。蜜を溜めている巣が見つかるかもしれない」
桶を持ち上げた彼女を見て、俺は思わず口元を緩めた。
『蜂蜜か。それなら、俺も食べてみたいな』
「先に言っておくが、お前が腹いっぱいになるほどは採れないよ」
『味が分かればいい。朝の飯は、自分で探してくる』
彼女は俺の口と桶を見比べ、少し考えてから、空いていたもう一つの器を籠へ足した。
◇
雨雲は去っていたが、森の中にはまだ水が残っていた。
葉の先から雫が落ち、陽の当たる草の上で小さく光る。人間の家へ戻る分かれ道を通り過ぎ、俺とイーゼは、花の咲いた斜面へ向かった。
出掛ける前に行き先を伝えると、リュストは屋根の上から手を振った。ほかの者たちも、それぞれの仕事へ戻っている。
イーゼは斜面で足を止め、白い花の前へ屈み込んだ。
「ほら。あれが帰るところを見ていておくれ」
花の中から、毛の生えた小さな蜂が出てきた。しばらく隣の花を回ったあと、俺の鼻先よりずっと低いところを飛んでいく。
思わず首を寄せると、イーゼが俺の方へ片手を向けた。
「ヴァル、そこで待っていてくれるかい。お前の影が落ちると、花も蜂も見えなくなる」
『ああ、悪かった。向こうの木の方へ飛んだぞ』
「それを見失わなければ、十分助かるよ」
俺は身体を退け、彼女の少し後ろを歩いた。
追うと言っても、蜂一匹をずっと見ていられるわけではない。花の多いところで待ち、帰っていく向きを確かめてから、少し先へ進む。イーゼは何度も足を止めたが、急いでいる様子はなかった。
「父について、よく採りに行ったんだ。小さい頃は、待っている間が長くてね。先に歩いては連れ戻されたよ」
『俺も、似たことをしているな。さっきから、覗き込みたくて仕方ない』
「お前を連れ戻す方は大変だろうね。鼻先だけで、私より長い」
彼女が笑い、俺も首を引いたまま笑った。
畑や家のそばでは、イーゼはいつも何かを運んでいる。今も籠は背負っているが、足取りは随分軽く見えた。
巣は、小さな沢の脇にあった。
古い木の根元に洞があり、蜂が次々と出入りしている。根を抱くように石が重なり、その間から、薄い羽音が漏れてきた。
イーゼは近づきすぎないところで止まった。しゃがんで石の下を覗き、桶を下ろすと、困ったように洞へ目を戻す。
「いいところへ作ったもんだね。蜂は入れても、私の手は通らないよ」
俺は横から根元を見た。洞の前へ張り出した平たい石は、木の根に挟まっているのではなく、斜めに立て掛かっていた。隙間へ細い根が何本か伸びているが、そちらは避けられそうだった。
『この石なら、退けられる。採り終わったら戻せばいいんだな』
「巣まで潰さずに動かせるなら、そうしてもらえるかい。私の手が入るくらい開けばいい」
イーゼが桶を持って離れたあと、俺は洞から遠い方の縁へ爪を掛けた。
持ち上げる力は、ほとんど要らなかった。ただ、裏側に何があるかは見えない。石を木から少しずつ離すと、隙間から蜂が溢れ、俺の前脚の周りへ集まってきた。
鱗の上へ止まったものが、脚を動かしている。
俺はそちらを見かけ、鼻先にも蜂が飛んできたので、顔だけを遠ざけた。
『これくらいなら、どうだ。中は見えるか』
「よく見えるよ。そのまま、もう少しだけ待っていておくれ」
イーゼは、持ってきた小さな火種入れを地面へ置いた。
乾いた木屑へ火を移し、湿った葉を少し重ねると、細い煙が上がった。彼女が束ねた葉で煙を洞へ送る間、俺は石を動かさずにいた。
少しずつ、入り口に集まっていた蜂が奥へ退いていく。
イーゼは頭と首へ布を巻き、袖口も結んでから近づいた。洞を覗いたその顔が、目元から緩んだ。
「溜めてるよ。これなら、少し分けてもらえそうだ」
彼女が刃物を差し入れると、甘い匂いが流れてきた。
琥珀色に濡れた巣の欠片が、桶の中へ落ちる。思っていたよりも厚く、切り口から垂れた蜜が、彼女の指へ細い糸を引いた。
俺が顔を寄せた途端、イーゼが振り向いた。
「味見はあとだよ。ここで息を吹いたら、煙が全部戻ってくる」
『匂いだけでも、と思ったんだがな』
「鼻がそこまで来たら、私が採れないだろう」
言われて初めて、自分の顔で洞を塞ぎかけていることに気づいた。
慌てて首を引くと、鼻孔の縁へ何かが触れた。
むず痒さに息を止める。蜂はすぐ飛び去ったが、痒さだけが残り、俺は顔を沢の向こうへ向けた。
堪えきれずに出たくしゃみが、対岸の低木を揺らした。
雨粒が一斉に散り、沢へ細かい波紋が広がっていく。振り返ると、イーゼは桶を抱えたまま、こちらを見ていた。
『……そっちへ向けなくてよかった』
「本当だよ。蜂蜜を採りに来て、沢の向こうまで飛ばされたんじゃたまらない」
彼女の肩が揺れ始めた。笑いを噛み殺そうとしているらしいが、うまくいっていない。
俺も鼻先を水で洗ってから、石を持つ脚へ目を戻した。こちらは、ずらさずに済んでいた。
イーゼが採ったのは、入り口に近い蜜の多い部分だけだった。
桶には重そうな欠片が幾つか入っている。それでも洞の奥には、まだ巣が連なっていた。
「このくらいにしておこう。奥には子もいるし、全部取ったら、ここで暮らせなくなる」
『戻すぞ。指を挟まないように、離れていてくれ』
彼女が道具を片づけ、火種を始末したのを確かめてから、俺は石を元の位置へ寄せた。
根を押し潰さないよう、少しずつ角度を戻す。石の重みが地面へ移り、爪を抜くと、初めにあった隙間が残った。
しばらく離れて見ていると、蜂が一匹、その隙間へ入っていった。
イーゼもそれを見届け、桶へ蓋をした。
「また来るなら、しばらく間を空けてからだね。場所は覚えたかい」
『沢と、あの曲がった木だな。次も見つけられると思う』
「じゃあ、帰ろう。今日はいいものが採れたよ」
差し出しかけた鼻先を、俺は途中で止めた。彼女はすぐ気づき、笑いながら籠を下ろした。
「そうだった。働いてもらって、味見もさせずに帰るところだったね」
◇
沢から少し離れた石の上で、俺は蜂蜜を舐めた。
イーゼが巣の欠片を小さな器へ取り分けてくれたのだが、口を寄せると器ごと舌へ載せてしまいそうだった。結局、彼女が平たい木片へ蜜を垂らし、俺はそこへ舌の先を触れさせた。
甘さが、じわりと広がった。
肉の脂とも、熟した木の実とも違う。花の匂いを含んだ濃い甘さに、俺はもう一度、ゆっくり舌を動かした。
『……うまいな。蜂蜜を食べたのは、随分久しぶりだ』
「前にも、誰かが採ってくれたのかい」
『昔、食べたことがあるんだ。こんなところで、また味わえるとは思わなかった』
イーゼは深く尋ねず、自分の指先についた蜜を舐めた。
「私も、しばらく食べてなかったよ。向こうにいたときは、採れたら煮た豆にも少し入れていたんだがね」
木々の間から陽が差し、彼女の手に残った蜜が光った。
戦争のあと、持ち出せた豆を守っていた人だ。その豆が畑で芽を出していることは知っていたが、どんな味にして食べていたのかまでは、考えたことがなかった。
『それも、食べてみたいな。ここで豆が採れたら、俺にも少し分けてくれ』
「豆の方は、まだ先だよ。まずは、芽を食べられないようにしないとね」
『鹿なら、俺の方で食べておく』
「それは頼もしい。畑へ来る前に、お願いしたいもんだ」
彼女は声を立てて笑い、器を布へ包んだ。
俺は沢で口の周りを洗い、彼女が籠を背負うのを待った。甘い匂いをつけたまま歩くと、また蜂が寄ってきそうだった。
帰り道では、彼女を道の近くまで送り、俺だけ狩りへ回った。
蜂蜜はうまかったが、腹にはほとんど溜まっていない。森の奥で獲った鹿を食べ、水を飲んでからドラゴニアへ戻ると、家々の間にいつもとは違う匂いが漂っていた。
イーゼが、蜜を温かい湯へ溶いていた。
子供が椀を両手で抱え、口の端を舐めている。そばではリュストも、受け取った椀を覗いていた。
「お前たち、これを採ってきたのか。随分、いいものを見つけたな」
『イーゼが見つけた。俺は、石を持っていただけだよ』
「その石が、私には動かせなかったんだ。あとで見るといいよ。両腕で抱えても、手が回らないくらいの大きさだ」
彼女はそう言いながら、巣の欠片を布へ移していた。ゆっくり垂れる蜜を器で受け、残った巣も別のところへ取ってある。
リュストの子が空になった椀を差し出すと、父親が腰へ手を掛けた。
「まずは、まだ飲んでない人が先だ。お前、さっきからそこにいただろう」
子供は名残惜しそうに椀を見下ろしたが、イーゼが木匙の先へ蜜を少しつけてやると、顔を明るくした。
俺が首を下げると、その木匙をこちらへ向けてくる。
『俺の分は、森で貰った。今度は、お前が食べてくれ』
木匙が、小さな口へ戻っていった。
その顔を見ているだけで、俺の口にも、さっきの甘さが戻ってくる気がした。
夕方、寝床へ戻ると、屋根の端に新しい板が足されていた。
リュストに礼を言い、俺はその下へ頭を入れた。昨日より少し外まで顔を出しても、上にはちゃんと板がある。
片づけを終えたイーゼが通りかかり、足を止めた。
「今日は、付き合ってくれてありがとう。おかげで、子供たちにも食べさせられたよ」
『俺も楽しかった。また採りに行くときは、声を掛けてくれ』
「しばらく待ってからだよ。明日行っても、増えちゃいない」
『分かっている。あの匂いを嗅ぐと、早く行きたくはなるがな』
イーゼは桶を抱え直して笑った。
「次は顔に巻く布も、持っていこうかね」
俺は少し考え、自分の鼻先へ目を向けた。
『それなら、かなり大きいものが要るぞ』
「そうだった。今日のお前のくしゃみを思い出したら、家の布じゃ足りそうにないね」
彼女は笑いながら、家の方へ歩いていった。
俺は乾いた草へ顎を載せたが、しばらくは眠れなかった。舌で口元に触れるたび、もう残っていない蜂蜜の味を、つい探してしまった。




