3話 主戦騎手!?
二歳になった。
数字にするとそれだけだが、環境は大きく変わる。
放牧地でのんびり草を食んでいた日々は終わり、いよいよ競走馬としての生活が始まるらしい。
朝の空気が少しだけ張り詰めていた。
霜が降りているわけでも、曇っているわけでもない。晴れていた。でも空気の手触りが違う。人の動きが、いつもより少し速くて、少し緊張している。その緊張が、放牧地全体に薄く広がっていた。
「行くぞー、アンナ」
ちなみに私はアンナというらしい。
お母さんの名前にちなんで付けられたそうだ
私たちは順番にトラックへと誘導された。
ノエルは当然のように隣にいる。
というか、いないときの方が珍しい。この数ヶ月で完全に定位置になった。
「ねえ、これってどこ行くの?」
トラックの中で、ノエルが小さく声をかけてくる。
相変わらず距離が近い。ほぼ寄りかかっている。体温が常に伝わってくる。
「たぶん厩舎だね」
「きゅうしゃ?」
「レースに出るための拠点、みたいなもの」
「ふーん」
よく分かっていない顔で頷く。理解しようとしていない、というより、理解しなくていいと思っている顔だ。私がいるから大丈夫、という全幅の信頼。根拠が私だというのが、少し心配であるが。
しばらくして、トラックが動き出した。
揺れはそれなりにあるが、許容範囲だ。むしろ、この先にあるものを考えると、胸が少しだけ高鳴る。身体が思ったより正直だった。
——いよいよ、か。
競走馬としてのスタートライン。
ハーレム計画は一旦棚上げにしているが、目標がなくなったわけではない。勝つ。強くなる。そして——。
「……どうしたの?」
ノエルが顔を覗き込んでくる。
「いや、なんでもない」
「変な顔してる」
「変な顔って……こんな顔?」
「あははっ!」
私は由緒正しき馬の変顔をやった。
どんな顔か知りたければ、『ゴールドシップ 変顔』とでも検索してくれればいい。
「アンナちゃん、面白いね。だいすき」
近い。
鼻先が触れそうな距離で見てくる。瞳に私が映っている。
私は軽く顔を背けた。
「……まあ、とにかく。これから忙しくなるってこと」
「忙しいのやだー」
「だろうね」
ノエルは甘えん坊だ。分かっていたことだが、環境が変わると少し心配ではある。
……まあ、どうにかなるか。
こいつは案外、しぶとい。根拠はないが、そういう気がする。
そんなことを考えているうちに、トラックは目的地に到着した。
扉が開いて、新しい匂いが入ってくる。
土と、藁と、少しの汗の混ざった匂い。管理された空間の匂い。放牧地の開けた匂いとは全然違う。もっと密度がある。もっと、何かが積み上がっている。
ここが——厩舎か。
柵の中へと導かれる。
周囲には、すでに何頭かの馬がいた。どれも筋肉の付き方が違う。放牧地で一緒だった馬たちより、明らかに密度が高い。無駄が削られている感じがした。
視線が交差する。
値踏みされている感じ。品定めと、警戒と、少しの好奇心が混ざった視線。
……いいだろう。
受けて立つ。
「お、来たか」
低い声がした。
人間だ。
視線を向けると、一人の男が立っていた。年齢は四十代くらいだろうか。落ち着いた雰囲気で、無駄な動きがない。視線が静かだった。何かを観察しているが、それを表情に出さない種類の人間だ。
この人が——調教師か。
「いい馬だな」
男は私を見て、そう言った。
短い言葉だった。でも、お世辞の質感がなかった。
「今江厩舎へようこそ、だな」
どうやらここが、私たちの所属になるらしい。
今江調教師。名前は覚えておこう。
「この子が例の?」
別の声がした。
私はそちらを見る。
瞬間、心臓が跳ねた。
見覚えがある。
いや、忘れるわけがない。忘れたことは一度もない。あのとき柵の向こうから中に入ってきて、私の頬に手を当てた少女。
——陽菜だ。
立橋陽菜。
前より少しだけ大人びて見えた。顎のラインが、少し引き締まっている。でも雰囲気は変わっていない。清潔で、柔らかくて、芯がある。そのすべてが同時にある。
視線が合う。
数秒。
陽菜の表情が、ぱっと明るくなった。
「やっぱり! あのときの子だよね?」
駆け寄ってくる。
迷いがない。距離が一気に縮まる。嬉しいという感情が、身体の動きに直接出ている人だと分かった。
「久しぶり」
当たり前のように、タメ口だった。
そして。
手が伸びてくる。
頬に触れる。
撫でる。
優しい力で、確かめるように、何度も。
「大きくなったね」
その一言で。
——全部持っていかれた。
いや、落ち着け。
私は馬だ。冷静になれ。ここで変な反応をするわけにはいかない。初対面じゃないとはいえ、私たちの間には厩舎関係者と担当馬という、きちんとした——
「相変わらず綺麗」
追撃が来た。
ダメだ。
無理だ。
思考がまとまらない。心臓がうるさい。呼吸が浅い。
……これ、あれだ。
完全に再発してる。
一目惚れ(二回目)。というか、一度も冷めていないものが再燃したのだから厳密には違うかもしれないが、とにかくそういうことだ。
「この子、いいですよ」
陽菜が今江調教師に向かって言う。
手はまだ私の頬にある。それが嬉しいとか悲しいとかいう話を今は考えない。
「バランスいいし、反応も素直。絶対走ります」
「ふむ」
今江調教師は短く頷いた。
「まあ、俺もそう思ってる」
視線が私に戻る。
「この厩舎はな、派手じゃない。G1もまだだ」
淡々とした口調だった。事実を述べるだけの、感情の乗らない言い方。自嘲でも謙遜でもなく、ただそういうことだ、という話し方。
「だが、だからこそ狙う価値がある」
少しだけ、声が低くなる。
「陽菜に、G1を勝たせたい」
その言葉は、静かだった。
でも、重かった。
軽い願望じゃない。積み上げてきたものがある声だ。何年も、どこかに置き続けてきたものを、ただ口に出しただけ、という感じの言い方。
陽菜は少しだけ目を瞬かせた。
それから笑った。
「いきなりプレッシャーかけないでくださいよ」
軽い調子。
でも、ほんの少しだけ、目の奥に影があった。笑っているのに、どこかが笑っていない。
「でも、勝ちたいとは思ってます」
続けて言う。
「G1」
その二文字だけ、少しだけ真っ直ぐだった。
他の言葉とは、質が違った。
私は、それを見ていた。
聞いていた。
さっきまでの浮ついた感情とは別のものが、胸の奥に静かに落ちてくる。
——なるほど。
そういう話か。
ただ可愛いだけじゃない。ただ撫でられて心拍数が上がるだけの話じゃない。
この人は、勝ちたいと思っている。
でも、まだ勝てていない。
あと一歩、届いていない。
届こうとしている途中にいる。
だから——。
「この子、あたし乗っていいですか?」
陽菜が言った。
即答だった。迷いがない。理屈より先に出てきた言葉みたいだった。
「いいぞ」
今江調教師も即答した。
「アンナルミナス号の主戦は陽菜だ」
「やった」
小さくガッツポーズ。
子供みたいな仕草だった。さっきまでの真剣な顔と同じ人間から出てきたとは思えない。
そのまま、また私の方を見る。
「よろしくね、アンナ」
笑う。
まっすぐな笑顔だった。
裏がない。計算がない。ただ、嬉しいから笑っているという顔。
私は、しばらく何も考えなかった。
考えられなかった。
ただ、その顔を見ていた。
そして、ゆっくりと理解する。
——ああ。
これ、決まったな。
ハーレムだの何だの、そういう話じゃない。優先順位が違う。まずやるべきことは一つだ。
私は、静かに息を吐いた。
鼻先が少しだけ揺れる。
陽菜はそれを見て、嬉しそうに目を細めた。
「いい返事」
違う。これは返事じゃない。誓いだ。
——この人を、勝たせる。
G1ジョッキーにする。
そのために走る。そのために強くなる。
私は前を向いた。
隣で、ノエルが体を寄せてきた。
「ねえ」
「なに?」
「さっきから、あの人ばっか見てる」
声が低かった。
いつもより少しだけ、圧がある。
「気のせい」
「気のせいじゃない」
ぴったりとくっついてくる。逃げ場がない。
私は軽く鼻を鳴らした。どう答えても正解がない状況だ。
……やれやれ。
こっちの問題も、なかなか根深そうだ。
私は小さく息を吐いた。
それでも、視線は前に向けたままだった。




