2話 幼馴染!?
競走馬には、必ず訪れる瞬間がある。
悲しい瞬間だ。
たぶん、人間でいうところの「当たり前の成長」にあたるのだろうが、当事者にとってはそんな綺麗な言葉では片付かない。成長とか旅立ちとか、そういう清潔な語彙では。
それは——離乳。
母親から引き離される時期だ。
生後四ヶ月から六ヶ月くらい。まだ身体も小さくて、世界のほとんどが母親でできているような頃に、それは突然やってくる。
説明も、納得もない。
ただ、離される。
そして、鳴く。
それがこの世界の”普通”らしい。
……まあ。
私には、あまり関係のない話だった。
そりゃそうだ。精神はどう考えても成人だし、今さら「お母さんと離れたくないよ〜」なんて感情は湧いてこない。むしろ自立の促進として歓迎するくらいだ。
それに、客観的に振り返ると、この数ヶ月はなかなかの適応力だったと思う。四足歩行にも慣れたし、草もそれなりに食べられるようになった。最初は舌の使い方が分からなくて難儀したが、今は普通に咀嚼できる。鼻が受け取る情報量が多すぎて最初の一週間は軽く混乱したが、それも慣れた。
我ながら引く。この適応力。前世で発揮できていれば、転職も恋愛ももう少し上手くやれていた気がする。
だから、周りがざわつき始めたときも、私はわりと冷静だった。
放牧地の空気が、少し変わる。
人の出入りが増えて、柵の向こうで何か準備している。声は聞こえないが、動きに緊張感がある。慣れた段取りで、急いでいる。
そして、その日が来た。
母親たちと仔馬たちが、順番に引き離されていく。
柵の向こうへ。
戻ってこない場所へ。
「ヒヒィンッ!」
「ヒンッ、ヒンッ……!」
あちこちで鳴き声が上がる。
高くて、細くて、頼りない声。一つではない。重なって、響いて、空気全体を揺らす。放牧地の端から端まで、声が満ちていく。
私は少しだけ耳を動かした。
……うん、まあ、そうなるよな。
仕方ない。これはそういうイベントだ。通過儀礼みたいなものだし、いずれ慣れる。
感情移入する必要はない。私には関係のない話だ。
私は淡々と状況を眺めていた。
——はずだったのだが。
「ピィ……ピィ……」
妙に小さい声が、耳に残った。
さっきまでの大きな鳴き声とは違う。主張しようとして、できていないみたいな声だった。か細くて、震えていて、今にも消えそうな音。
私はそちらに顔を向けた。
少し離れた場所に、一頭の仔馬がいた。
体を小さく丸めるようにして、立っている。いや、立っているというより、なんとか踏ん張っている感じだ。力を入れているのに、どこかが全部抜けているような、そういう立ち方。
耳は伏せ気味で、視線は落ちている。
ときどき、小さく鳴く。
「ピィ……」
そのたびに、身体が少しだけ震える。
返事を待っているわけではなさそうだった。ただ声が出てしまうのだ、と分かった。止めようとして、止められていない。
……。
いや、待て。
これは、ちょっと。
思っていたより、くるな。
理屈では分かっている。これは普通のことだ。みんな通る道だし、時間が経てば落ち着く。牧場の人間だって何十頭も見てきたはずで、それでも続けているということは、ちゃんと落ち着くということだ。
でも。
目の前でそれを見ると、話は別だった。
——いや、別じゃない。
別じゃないはずだ。
私は、少しだけ迷った。
関わる理由はない。私だって別に面倒見のいいタイプじゃないし、わざわざ他人——いや他馬に首を突っ込む必要もない。
私には関係ない。
……ないのだが。
「ピィ……」
また、鳴いた。
今度はさっきより少しだけ長い。伸びた分だけ、心細さがはっきりした。
その声が、妙に引っかかった。
胸の、どこかに。
ため息の代わりに、鼻息が出る。
私は一歩、踏み出した。
もう一歩。
ゆっくりと、その仔馬の方へ近づく。
近づきながら、自分でも理由がよく分からなかった。合理的な判断じゃない。面倒見のいい性格でもない。ただ、あの声が引っかかって、足が動いた。それだけのことだ。
相手は最初、気づいていなかった。
けれど、私の影がかかる距離になって、ようやく顔を上げた。
目が合う。
大きな瞳だった。
不安と、警戒と、少しの期待が混ざったような色をしていた。何かを求めながら、求めていいのか分からずにいる、そういう顔。
私は少しだけ首を傾ける。
どうするのが正解だ。
人間なら、声をかける。大丈夫だよ、とか、そばにいるよ、とか。そういう言葉が、機能する。
でも、私は今、馬だ。
言葉は通じない。
じゃあ、どうする。
——決まっている。
ゆっくりと、距離を詰める。
相手が逃げないことを確認しながら。一歩ごとに、様子を見ながら。足音を、できるだけ静かに。
そして、横に並ぶ。
それだけだ。
特別なことはしない。何かを与えようとも、慰めようとも思っていない。ただ、そこにいる。それだけのことを、ただやる。
しばらく沈黙が続いた。
風が草を揺らす音だけが、静かに流れる。他の仔馬たちの鳴き声は、少し遠くなっていた。
「……ピィ」
隣で、小さく声がした。
でも、さっきとは違う。震えていない。短い。どこか、ただそこにある、という感じの声だった。
私はちらりと横目で見る。
仔馬は、まだ完全には落ち着いていなかったが、さっきよりも姿勢が安定していた。
耳も、ほんの少しだけ上がっている。
——まあ、こんなものか。
私は内心で肩をすくめた。
完璧に安心させるなんて無理だし、私にそんな義理もない。急に並んだ見知らぬ馬が、どれくらいの慰めになるのかも分からない。
でも、少し楽になったなら、それでいい。
そう思って、そろそろ離れようか、と思った、そのとき。
ぐい、と。
身体に何かが触れた。
横を見る。
さっきの仔馬が、こちらに体を寄せていた。
ぴったりと。
隙間がないくらいに。
「……え」
思わず声が漏れる。もちろん、実際にはただの息だが。
仔馬はそのまま動かない。動かないどころか、少しだけ力を込めてくる。毛並みの柔らかさが、脇腹に直接伝わっ
てくる。
完全に、くっついている。
……いや、近くない?
近いよ。
距離感おかしくない?
私は一瞬だけ後ずさりしかけて、やめた。
まあ、いいか。
嫌ではない。
むしろ、体温が伝わってきて——少しだけ落ち着く。
理由はよく分からないが。前世でも、人の体温が傍にあると安心した覚えがある。それと同じようなことかもしれない。多分、セロトニンみたいなものが出てる。
「……名前はなんていうの?」
当然、返事はない。
分かっている。分かっているが、なんとなく聞いてしまった。言葉にすることで、少し間が持てると思ったのかもしれない。
すると。
「……ノエル、よ」
声がした。
私は固まった。
今のは、明らかに”言葉”だった。
音として聞こえた、というより——意味として、直接入ってきた感覚。日本語でも英語でもなく、でも完全に理解できる何か。
私はゆっくりと周囲を見回す。
人はいない。牧場の人たちは、少し離れた場所で作業している。声をかけてきた様子もない。
この距離で、私に向けて言葉を投げてくる人間は、いない。
じゃあ。
私は、隣を見る。
仔馬——いや、ノエルと名乗ったそれは、じっとこちらを見ていた。
目が合う。
数秒、沈黙。
「……今、喋った?」
思わず聞く。ブモー、という音が出たはずだが、私の中ではちゃんとした疑問文だった。
「喋ってるわよ」
あっさり返ってきた。
私はもう一度、固まった。
え、何これ。
そんな仕様あった?
馬同士は会話可能とか、そういうの——聞いてない。どこにも書いてなかった。転生前に誰かに説明されたわけでもないが、だとしても、普通そういうものは最初から分かるものじゃないのか。
「あなたも、分かるでしょ?」
ノエルが言う。
確かに、分かる。
分かってしまう。
意味も、ニュアンスも、感情のふちも、ちゃんと理解できる。さっきのか細い「ピィ」の意味も、今となっては何となく分かる気がする。
どうやら私は、“馬の言葉”を理解できるらしい。
……いや、便利だけど。
「……まあ、うん。分かるけど」
「そう」
ノエルはそれだけ言って、また少し体を寄せてきた。
さっきより自然な動きだった。迷いがない。まるでそこが自分の場所みたいな、当たり前の動き方。
「さっき、ありがとう」
ぽつりと、呟く。
声はまだ小さいが、震えはだいぶ収まっている。
「別に」
「うん。でも、助かった」
そう言って、ノエルは目を細めた。
ほんの少しだけ、安心したような表情。さっきの不安と警戒が混ざった顔とは、全然違う顔だった。
……まあ。
悪くない。
私は小さく鼻を鳴らした。
「これからも、一緒にいていい?」
ノエルが言う。
間髪入れず、さらに距離を詰めてくる。
もうほぼ密着だ。
いや、だから近いって。
さっきから一貫して近い。この子、距離感の概念はあるのか。
でも。
「……いいよ」
結局、そう答えていた。
ノエルは嬉しそうに、もう一度小さく鳴いた。短くて、澄んでいた。さっきの震えた声と同じ喉から出ているとは思えないくらい、落ち着いた音だった。
その日から。
私の隣には、いつもノエルがいるようになった。
一緒に放牧地を走る。草を食べる。ときどき、特に理由もなくじゃれ合う。ノエルが急に頭を押しつけてくることもあるし、私が走り出すと必ず追いかけてくる。競っているのか甘えているのか、本人にもよく分からないんじゃないかと思う。
身体は、気づかないうちに鍛えられていった。
走ることが日常になって、筋肉の使い方が少しずつ分かってくる。脚の運び方、重心の乗せ方、曲がるときの体の傾け方。誰かに教わるわけじゃない。走っているうちに、自然と身体が覚えていく。
競走馬としての基礎体力。
そういうものが、少しずつ積み上がっていくのを感じた。
そして。
ノエルは、もう鳴かなかった。
あの日みたいに、不安そうな声を出すことはなくなった。
代わりに、何があっても私の隣にいる。走るときも、食べるときも、ぼうっとしているときも。離れるという発想が最初からないみたいに、自然にそこにいる。
……というか。
近い。
常に近い。
でも不思議なことに、不快ではなかった。体温が伝わってくることに、いつの間にか慣れていた。隣に重みがあることに、慣れていた。
それが当たり前になるくらいには。
——まあ、それでいいのかもしれない。
少なくとも、あの震えていた仔馬はいない。
今ここにいるのは。
やたらと距離の近い、幼馴染だ。
私は軽く息を吐いて、前を向いた。
風が草を揺らしている。空は晴れていた。遠くに山が見える。前世では見上げることしかしなかった景色を、今は地面と同じ目線で見ている。
隣から、体温が伝わってくる。
少しだけ、重い。
でも。
嫌ではなかった。




