1話 転生!?
最初に感じたのは、硬い衝撃だった。
視界が白く弾けて、次の瞬間には何もなかった。音も、重さも、痛みも、全部途切れて、ただ「終わった」という理解だけが残った。
——ああ、死んだな。
妙にあっさりとした感想だけが、固いアスファルトに残った。
トラックに轢かれたのだから、もう少しドラマチックでもよさそうなものだが、実際はそんなものらしい。思考は途中で切れて、気づけば次の場面にいる。映画のカットが飛ぶみたいに、あっけなく。そんな感じで、平凡な二十代OLの一生は幕を閉じた。残業続きで、恋愛もろくにできなくて、唯一の楽しみが競馬の中継を眺めて、推し馬の走りを見ながら酒を飲むことだった、あの一生が。
そして。私は、目を覚ました。
最初に違和感を覚えたのは、身体だった。
重い。いや、重いというより——強い。
骨の芯から力が充填されているような感覚だった。金剛力士像のような雄々しさ。立っているだけで、地面を圧している気がする。
地面を踏みしめる感触が、やけに明瞭だった。革靴の底越しではなく、もっと直接的な、剥き出しの接地感。筋肉が張りついているみたいに、四肢に力が満ちている。意識するより先に体が働いていて、それが少し怖いくらいに気持ちよかった。
指を動かそうとして、そこでようやく気づく。
——指が、ない。
代わりにあるのは、硬い蹄だった。軽く地面を叩いてみる。間の抜けた音が響いた。
顔を動かす。視界が横に広い。鼻先が長い。耳が、やたらとよく動く。意志と無関係に、あちこちの音に反応して角度を変える。風の音。遠くの鳥の声。草が揺れる気配。
そして降ってきた、一つ確かな理解。
「……馬か」
声に出したつもりだったが、実際に出たのは短い息の音だけだった。ブモー。
思ったよりも低い音だった。腹の底から出てくる音。それでも、確信はあった。これはどう見ても、馬だ。四本足で、草の匂いがして、視界が広くて、脚が四本で——やはり馬だ。
だが、問題はそこではない。
人間が馬に転生したら普通はどう思うだろうか。畜生道に落ちるという言葉もあるくらいだから、悲嘆にくれるのが筋だろう。人間に戻りたいとか、なぜ私がとか、天を仰いで嘆くとか。
私は違った。
むしろ——最高じゃないか。
胸の奥が高鳴る。血肉が湧き踊る。
馬。競走馬。強ければ価値がある世界。倫理も法律も曖昧で、力がそのまま評価になる場所。
そして何より。種馬という、無法な概念が存在する。
勝てばいい。強ければいい。結果を出せば、牝馬は向こうから寄ってくる。どれだけモテても文句を言われない。むしろ望まれる。人間の世界では届かなかった、ある意味での最高到達点。
人間の頃にはなかった、圧倒的シンプルな実力主義ルール。
私は、思わず笑った。笑った、というか、鼻息が少し強くなった。ブヒ、みたいな音がした。馬の笑い方は難しい。
——勝ったな。
異世界転生。しかもこのスペック。
四肢に満ちる力。無駄のない身体。蹄の硬さ、脚の長さ、肺の大きさが皮膚越しに分かる。骨格が違う。密度が違う。これはどう考えても好馬体だ。前世で散々眺めてきたから、なんとなく分かる。
ならばやることは一つ。
活躍して、モテる。
シンプルにして完璧な計画だった。
トップクラスの競走馬になり、名を上げ、引退後は種馬としてハーレムを築く。牝馬に囲まれ、悠々自適な余生。風は草原を吹き、名声は後世に残り、子孫は全国のターフを走る。
非の打ちどころがない。
完璧だ。
完璧すぎる。
——と、思っていたのだが。
「いい馬体ですねぇ」
知らない声がした。人間の声だった。
私は顔を向ける。柵の向こうに、男が立っていた。作業着姿で、いかにも牧場関係者といった風貌だ。年齢は五十前後か。
男は私を眺めながら、感心したように何度も頷く。
「バランスもいいし、脚も綺麗だ。こりゃ走りますよ」
ふむ。分かるか。
さすがプロだな。
私は自慢げに胸を張った。張ったつもりだったが、実際にどう見えているかは定かではない。胸を張るというのが馬にとってどういう姿勢なのか、まだよく把握できていない。
男は続けた。
「いやあ、あまりに出来がいいから、本当に牝馬か確認しちゃいましたよ」
……ん?
今、何かおかしな単語が混ざらなかったか。
「牝馬ですからねえ。これで牡だったら、将来種馬として楽しみだったんですけど」
……。
…………。
私は、固まった。
風が吹いていた。草の匂いがした。どこかで鳥が鳴いた。世界は普通に動いていたが、私の中だけが止まっていた。
頭の中で、ゆっくりと単語が反芻される。
牝馬。
牝馬?
牝馬って、あれだよね。
メス、だよね。
つまり。
種馬じゃない。
ハーレムの中心になる側じゃない。
むしろ——
その、対象?
「……は?」
息が漏れた。
いや、ちょっと待て。おかしいだろ。そんなことあるか? この流れで? 転生して、最高の身体を手に入れて、さあこれからってところで?
競走馬に転生する系の小説って、相場は牡馬だって決まってるだろうがよ!
牝馬?
牝馬って言ったか? 今、確かにそう言ったか?
男は私の混乱など知る由もなく、のんきに牧場の空を見上げていた。晴れてやがる。腹が立つくらいの晴れた空だった。
「まあ、牝馬でも十分ですよ。レースで活躍すれば繁殖にも上がれますし」
いやそういう問題じゃない。
私は、地面を軽く蹴った。鈍い音が響く。思ったより大きな音が出た。
違う。違うじゃん。話と違うじゃん。私の計画はどうなる。ハーレムは。種馬としての輝かしい未来は。牡馬として君臨するはずの人生設計は。
すべてが、音を立てて崩れていく。
……いや、待て。
落ち着け。
深呼吸。馬だからどういう呼吸が正しいのか分からないが、とにかく一度思考を整える。鼻から吸って。腹に溜めて。吐く。ブォーと音が出た。
牝馬であることは、事実らしい。
だが、それが何だ。
ハーレムの形が変わるだけだ。
発想を転換しろ。
モテればいいのだ。本質はそこだ。私は「モテたい」という欲求から出発した。ならば手段が変わっただけで目標は揺るがない。
牝馬として圧倒的にモテればいい。美しく、強く、他の馬を惹きつける存在になればいい。かのウオッカ様みたいに、牝馬に慕われる馬になればいい。
問題ない。
むしろ難易度が上がって燃える。
よし、いける。
そう結論づけたところで、別の気配が近づいてきた。
軽い足音だった。砂を踏む柔らかなリズム。男の重たい靴音とは違う、もっとテンポのある、弾むような歩き方。
「お父さん、その子?」
声がした。
さっきの男よりも少し高くて、よく通る声だった。遠慮がなくて、でも無神経でもなくて、ただ素直に興味を持っているのが伝わってくる声。
私は、反射的にそちらを見る。
——その瞬間。
思考が止まった。
柵の向こうに、女の人が立っていた。
長い黒髪が、風に揺れている。光を受けて、ところどころが透けるように明るくなる。整った顔立ちだった。派手ではない。華やかというより、清潔だ。余計なものが何もない。それなのに目を引く。引き寄せられる。どこか静かで、それでいて明るい。そのどちらかではなく、両方が同時にある。
ぱっちりとした二重まぶたが、こちらをまっすぐ見ていた。
瞳が深い。
「うん、今年の子。なかなかいいだろ」
男がそう言う声が、遠くなった。
少女はゆっくりと近づいてきた。柵を開けて、中に入ってくる。迷わない足取りだった。
距離が、縮まる。
私は動けなかった。
いや、動くという発想が消えていた。思考の表層から、ハーレムも牝馬問題も計画変更もすっかり流れ落ちて、ただ見ていた。見惚れていた。立ったまま、見惚れていた。
女の人は私の前で足を止める。
少しだけ屈んで、視線を合わせてくる。
近い。
思っていたよりもずっと近い。
呼吸の音が聞こえるくらいに。瞳の色が、ちゃんと見えるくらいに。
「……綺麗」
ぽつりと、呟いた。
それが私に向けられた言葉だと理解するまで、少し時間がかかった。
君の方が綺麗だよ。
彼女の手が伸びてくる。
頬に触れた。
柔らかい感触だった。温かい。人間の手のひらの温度が、こんなに分かるのかと少し驚いた。撫でられる。ゆっくりと、確かめるように。急がない手だった。
「いい子だね」
その一言で。
——全部どうでもよくなった。
牝馬だとか、ハーレムだとか、計画だとか。そういうものが、遠くなった。空気が変わったみたいに。景色が変わったみたいに。
心臓がやけに速い。どこか遠くで、聞こえているみたいだ。
呼吸が浅くなる。
視界の中心にいるのは、この少女だけだった。
——ああ。
これ。
知ってる。
人間の頃に、何度か経験した感覚だ。本当に数えるほどしかなかったけれど、忘れようがない。胸が塞がれるみたいで、でも苦しくない、あの感じ。
名前がある。
確か。
そう。
一目惚れだ。
私は、完全に理解した。
四本脚の馬が、人間の少女に、一目惚れした。
この状況を客観的に把握した瞬間だけ、少し冷静になれた。変だな、とは思った。ただそれだけだった。彼女の手がまだ頬に触れていて、温かくて、それで全部どうでもよくなった。
——計画、変えるか。
ハーレムは、まあ、その。
後でいい。
当面の目標は一つだ。
この子に好かれる方が先だ。




