4話 牝馬の尻はエロい
一般的な馬がどこまで競馬を理解しているかは定かではないが、少なくともノエルは全く理解していないようだった。今日も調教でバグったマウスカーソルみたいな挙動をしては、乗り役のお兄さんを困らせている。
「アンナちゃん!今日もちょーきょー頑張ったよ!」
「よしよし」
私は当然人間の記憶があるので、ムチで合図されたら前の馬をかわす、それくらいのことは容易いものだった。多分競争馬よりも、サーカスとかの方が稼げそうだ。YouTubeに出演するのもいい。ユーチュー馬ー、なんちゃって。
「アンナちゃん、なに1人でニヤニヤしてるの?」
「してない」
ノエルは訝しげに顔を覗き込んでくる。相変わらず近い。距離感がバグってる。
そういえばノエルの馬体は成長するにつれ白みがかってきた。どうやら葦毛の馬だったようだ。白が混じったグレーの馬体と、くりくりのお目目が可愛らしい。ノエルみたいなのをグッドルッキングホースというのだろう。
一方私はどこにでもいる鹿毛の馬体だ。いいもん、見た目より競争能力の方が大事だから。
ある日の調教のことだった。
「アンナ、今日はラメ子先輩と一緒に併走してもらうからな」今江調教師が言う。
「よろしく、アンナちゃん」
ラメ子?と呼ばれた栗毛の馬が挨拶がわりに鼻を近づけてくる。
「よろしくお願いします。ラメ子?先輩」
「……なんで『キャラメルリボン』って名前でラメ子なのかしらね。普通はリボンちゃんとか可愛く呼ぶべきじゃないかしら?アンナちゃんもそう思うわよね」
「そうですね」
ラメ子先輩は3歳で、すでに中央競馬で8度も走っているそうだ。勝利こそないものの、堅実に馬券内(3着以内のこと)に入っている。
先にラメ子先輩が走り出した。その馬一頭分後ろを、私が追走する。
しばらくして、気づく。
後ろから見る先輩の尻、なんだかえっちだ。
引き締まったヒップラインはまるでちょっとした彫刻のようで、芸術的なエロスを演出している。
私は牝馬なわけだし、精神も成人女性なわけだけど、なんかその尻から目が離せなくて、百メートル走ったあたりですでにわたしの頭は尻でいっぱいになっていた。
ケツケツケツケツケツケツケツケツケツケツ
そんなわけで、乗り役の陽菜のムチにも反応し忘れてしまった。
数回叩かれたであろうあたりでようやく反応する。
いっけなーい。遅刻遅刻〜
私は慌てて加速する。もはや加減なんて忘れてしまうくらい、全速力だった。
踏み込んだ脚が地面を深々と抉って、ウッドチップが舞い上がった。
「え?」
陽菜の間の抜けた声。気がつくと、ラメ子先輩が、遥か後方にいた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
私もよく分かっていなかった。
なんとなく、やりすぎたな、という感覚はある。ラメ子先輩の尻に見惚れて、ムチを無視して、我に返ったら全力疾走していた。経緯を振り返ると、褒められた話ではない。
「……アンナ」
陽菜の声がした。
いつもより、少しだけ低い。
私はゆっくり顔を向ける。
陽菜は固まっていた。目が大きく開いている。口が半開きだ。感情の処理が追いついていない顔、というやつだ。
「今の……」
言いかけて、止まる。
「とんでもない馬だ」
今江調教師の声だった。
振り向くと、調教師はストップウォッチを持ったまま、微動だにしていなかった。視線がストップウォッチに落ちている。上げない。上げようとしない。数字を確認してから判断する、という慎重な人間なのだろうと思っていたが、どうやら今は確認し終えた後らしかった。
ラメ子先輩が戻ってくる。
「あんた、なにしたの」
「すみません。ちょっと集中が途切れて」
「途切れた結果があれ?」
先輩は信じられないという顔をしていた。まあ、そうなるか。
二回目の併走が始まった。
今度はちゃんと前を見た。ラメ子先輩の尻は視界に入れないようにした。入れないようにしたのだが、正面から風景を見ていると、どうしても視野の端に入ってくる。人体の構造上の問題だ。いや馬体だが。
……見ない。
見ない見ない。
ムチが来た。
今度は、ちゃんと反応した。
脚を踏み込む。重心を前に乗せる。身体の使い方は、この数ヶ月で大分わかってきた。
ラメ子先輩の横に並ぶ。
並んで、そのまま、抜かない。
横に並んだまま、ゴールまで走った。
「……えらい」
陽菜が言った。
褒められた。
心臓がうるさい。
「今度はちゃんとコントロールして走った」陽菜は感嘆したように言う。
「賢いね、アンナ」
頬に手が来た。顔が熱くなる。汗(馬の汗は白い)が滲む。
もうだめだ。
思考が終わる。
「……素直な馬だ」
今江調教師が、短く言った。
「面白い」
それだけだった。でも、それで十分だった。あの人が「面白い」と言うとき、それはたぶん、本気で興味を持った、という意味だ。数ヶ月一緒にいて、それくらいは分かった。
私はゆっくりと息を吐いた。
——悪くない。
事故だったけど、悪くない。
結果がすべてだ。動機なんてどうでもいい。尻に見惚れて出た本気が、ちゃんと本気だったなら、それでいい。
「アンナ」
ノエルが近づいてくる。
「なに」
「さっき、ラメ子さんの後ろでずっと変な顔してた」
……見てたのか。
「気のせいだよ」
「気のせいじゃない。なんか、ぼーっとしてた」
「集中してた」
「してなかったじゃん。最初、ムチ無視してたじゃん」
正確な観察眼だ。役に立つ場面が全然ない。
「……まあ、結果オーライ」
「ラメ子さんのこと、好きなの?」
間があった。
「違う」
「ほんとに?」
「違うって言ってる」
ノエルはじっと私を見た。納得していない目だった。
やがて、ぴったりとくっついてくる。
逃げ場がない。
「……べつに」
小さく言った。
「どうせあたしがいちばん近くにいるし」
反論できなかった。
事実だったので。
私は小さく鼻を鳴らして、前を向いた。
陽菜がこちらを見て、また笑っていた。
心臓がうるさい。
隣が重い。
——まあ、悪くない一日だった。
しかし、私の噂は1日でトレセン中に広まり、無事に、「牝馬の尻を見ると興奮してしまう変態牝馬」として有名になってしまうのであった。




