四話
ルオファンに恋をしている。
そう気づいたのはいつだっただろうか。
母は円華楼で人気の娼婦だった。
明るくて優しくて少し天然。客だけではなく同僚からも慕われていたそうだ。
顔も知らない父はそんな母の客の一人だったそうだが、同時に恋仲でもあったという。身請けできるほどの金持ちではなかったが、たいそう仲が良く忍んで愛を育んでいる二人に、楼主も目を瞑っていたらしい。
リューリウが生まれる前に事故で死んでしまったが、ちゃんと愛され、望まれてリューリウが生まれたのだ、とよくレイランたちに聞かされた。
とはいえ、所詮は娼婦の娘。
侮蔑や憐みの目を向けられることは少なくなかったし、同年代の子どもたちは残酷にもそんな大人の真似をした。
その中で、ルオファンは唯一リューリウに対等に接してくれる人だった。
いつでもまっすぐな目を向けてくれて、温かい手のひらは迷うことなくリューリウの手を包んでくれる。
ルオファンの隣は、何より安心できる場所だった。
すっかりルオファンと過ごす日々があたりまえになっていたある日、何気ない会話の中でふと、ルオファンが言った。
「俺、皇帝になりたいんだ」
当時のリューリウは、「こうてい」というのがどんなものなのか、いまいち理解をしていなかった。
とにかく、この国で一番すごい人なのだ、という漠然としたイメージだけがあった。
そう、無知だったのだ。
ルオファンが一体何者なのかも知らず、ただルオファンは一番を目指したいんだなと思っていた。
だから、自分も国一番の踊り子になれば、「一番同士で素敵な二人組」として並び立てると考えた。
今思えば頭を抱えたくなる幸せ思考だが、当時のリューリウは本気で頑張ることを決めた。
舞だけではなく、いつも綺麗で輝いているかっこいい円華楼の姐たちに、楽器や所作も教えてもらうようになった。
越えられない身分の壁を知ったのは、十歳の時。
ルオファンが蒼黎国で最も高貴な血を持つ一族の一人だと気づいた時だ。
同時に、二人でいる時は特に口癖のようになっていた彼の野望が、どれほど困難なものかも知った。
「申し訳ありません。今までのご無礼をお許しください」
深々と頭を下げたリューリウに、ルオファンは目を丸くした。
「リウリウ? どうしたんだ急にかしこまって」
「もの知らずゆえに、ルオファン様が高貴なお方だと気づかず、今まで散々身の程をわきまえぬ言動をしてしまいました。心よりお詫び申し上げます」
(不敬罪確定かな……)
ルオファンなら笑って許してくれる気もするが、けじめはけじめだ。
リューリウは今までルオファンに対してやらかしたあれやこれやを思い出し、静かに反省した。
(これからは誰に対しても適度な距離を保とう……)
ルオファンが第五皇子だと知って、本当にひっくり返るほど驚いた。
今までただ友達として小突き合ったり軽口をたたいていた人がまさか雲の上のお方だったとは。冗談抜きで血の気も引いた。
頭を下げたまま、ルオファンの言葉を待っていたリューリウは、しばらくしても彼から何の反応もないことを不思議に思った。
リューリウの予想(期待)では、すぐに、
『はっはっは、ようやく俺の偉大さに気づいたか!』
なんてふんぞり返ると思っていたのに。
あまりにも無反応なのでチラッと視線を上げようとした時、頭上から怒気を孕んだ低音が響いた。
「おい」
瞬間、強い力で顎を掴まれ、引き上げられる。
(これはまさか、『これから』なんて許されない感じか……?)
痛みに耐えてされるがままに顔を上げたリューリウは、間近にあるルオファンの顔を見て、固まった。
ルオファンの表情は、怒りに満ちていた。
こめかみには血管が浮き出て、見たことがないほど鋭い視線でリューリウを睨んでいる。
しかし、リューリウが言葉を失ったのはそこではなかった。
彼女を見る瞳が、潤んでいた。
眉根を寄せ、くちびるをわななかせている。
ひどく、悲しそうに見えた。
「ルオ……ファン……?」
思わずいつものように名前を呼ぶと、彼はリューリウの顔から手を離した。
そして、今度はそっと背中に手を回し、彼女の肩に額を預けてくる。
顔は見えなかったが、すん、と鼻をすする音が聞こえた。
「…………ない」
「え?」
「リウリウには……リウリウにだけは、距離を感じたくない」
つぶやくような小さな声。
リューリウはまたもや硬直した。
どうすればいいかわからず、とりあえずルオファンの背に手を回して優しくあやすようにポンポンとたたいてやる。
すると、ルオファンの手にもまた少し力がこもった。
「あたし、今まで通りでいいの?」
リューリウの問いかけに、ルオファンがうなずく。
「ルオファンは皇族でしょ。あたしはただの娼婦の娘だよ。それでもいいの?」
そう聞くと、ルオファンの手がさらに強くリューリウを抱きしめる。
ルオファンの匂いが鼻腔をくすぐった。
「あとで不敬罪で罰したりしないでね」
「するわけないだろ」
食い気味の返答に笑いが漏れる。
(ルオファンと、近くてもいいんだ……)
きっと、友情以上にルオファンが好きだと自覚したのはこの時だ。
頭では従順に身分をわきまえようと思っていても、本当はすごく寂しかった。
だから、ルオファンがこんな風に必死に距離を拒んでくれたことが、心底嬉しかった。
ルオファンとずっと対等でありたい。
身分の壁は越えれなくても、皇帝になるために茨の道を進むルオファンと、胸を張って向き合いたい。
そう決意を新たにして、リューリウは改めて踊り子の道を突き進んでいった。
リューリウが十三歳になった年、その日は突然やってきた。
いつものように花街にやってきたルオファンは、いつもと違って従者を一人連れていた。
ルオファンが「しばらく二人にしてくれ」と従者に手を振る。
従者は少しの間リューリウを見つめた後、言われた通りどこかに去った。でも、きっと近くに待機しているのだろう。
いつものように長く話す時間はないというのが、リューリウにもわかった。
ルオファンとリューリウは、並んで大木の下に腰を下ろす。
「しばらく会えなくなる」
ルオファンが言った。
当時、巷では隣国・華煖との外交についてきな臭い噂が流れ始めた時期だった。
円華楼にやってくる客も度々話題にしていたのでリューリウもなんとなく知っていた。
だから、そう言われる予感がしていたのかもしれない。
特に大きなショックはなかった。
そっか、と返すリューリウにルオファンがチラリと目を向ける。
しばらく沈黙が続いた。
いくら民衆が戦争の兆しを察知していても、噂は噂。
皇族であるルオファンが何の立場もないリューリウに詳しい話をすることはできない。
お互いにわかっているから、ただ並んで、変わらない日常を過ごす人々の姿を眺めていた。
「……ねえ、もし戦争が起こったら、ルオファンも戦に出るの?」
沈黙を破ったのはリューリウだ。
いかにも、純粋な疑問ですという顔でルオファンを見る。
ルオファンはその顔をしばらく見つめた後、ふむ、と考え込むふりをする。
「そうだな、俺ももう十六になったから、戦争が起きたら出陣しなくてはならないな」
「そっか、ルオファンはもう大人だもんね」
蒼黎国では男女共に十六歳で成人を迎える。
成人した男はやむをえない理由がない限り徴兵されるのが原則だ。
女は夫が留守の間、家と子どもを守る。
戦女神の伝説もあって、長い間武国・蒼黎はそのように歴史を紡いできた。
「出陣するからには、戦女神に認められるほどの武勲を挙げてやるから、ちゃんと見とけよ!」
「あは、緊張で大ポカやらかしてある意味注目浴びるのがオチじゃないの?」
「最悪すぎるだろ……」
若干想像できてしまったのか頭を抱えるルオファンを笑いながら、リューリウは「そういえば」と続ける。
「戦女神の鼓舞って実際どんななのかな。あたし、舞踊の方でしか見たことないから見てみたいな」
蒼黎国建国伝説は、蒼黎国の舞台の鉄板演目である。
円華楼でも定期的に公演され、大人気の演目だ。
特に円華楼の舞踊劇で戦女神を演じるというのは、踊り子として最も名誉なことだと言えよう。
しかし、伝説ではなく伝統として今も生きる戦女神は当然劇とは違う。
舞台の戦女神は何度も見てきたが、戦場に立つ戦女神は見たことがないので、後学のため見てみたい。
「それなら、出陣式を見に行くしかないな。戦女神はそこで民を鼓舞するんだ。誰でも見学は可能だったはず」
「ああ、お客さんも子ども時に見たことがあるって言ってたの、それだったかも」
そんな話をして、ふと二人の目が合う。
「……ま、戦争なんて起こらない方がいいんだけどな」
「本当にそれはそう」
しばし見つめ合った後、どちらからともなく吹き出した。
リューリウを映すルオファンの瞳に宿る熱に気づいたのは、もうずっと前のことだ。
ひとしきり笑って、リューリウは立ち上がった。
「それじゃ、あたしはそろそろ稽古に戻ろうかな。ルオファンはしばらく会えないんだよね?」
「ああ」
服についた汚れを払いながら聞くと、ルオファンがうなずく。
リューリウはその顔をじっと目に焼き付けた。
「……じゃあ、身体には気を付けてね」
「……わかった。ありがとう」
身を翻して、ルオファンの元を去る。
本当に近くで待機していたのか。
歩き始めて数歩で彼の従者とすれ違ったが、気づかないふりをした。
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