↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私が死んだ日、冷血大公の夫は国を焼き始めました――三年後、花屋になった私を見つけた暴君が絶対に離してくれません  作者: 茗子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/16

9話 氷の棺に眠る妻


 帝国最強の魔術師にも、できないことがあった。


 死んだ妻を、目覚めさせることだ。


「……もう一度だ」


 クロード・ヴァレンティアの声が、薄暗い地下霊廟に響いた。


 目の前には、氷晶石で作られた棺がある。


 透明な蓋の向こうで、銀髪の女が静かに眠っていた。


 セリア・ヴァレンティア。


 三年前に妻となり、数日前に命を落とした女。


 クロードは、その棺に右手をかざした。


 紫色の魔法陣が幾重にも展開する。


 帝国魔術学院の最高位術師でさえ、同時に維持できるのは三重が限界とされる治癒術式。


 それを、クロードは七重に重ねた。


 空気が震える。


 霊廟の壁に刻まれた古い祈祷文が、魔力に反応して淡く輝き始めた。


「……戻れ」


 低い声が、祈るように落ちた。


「セリア。戻ってこい」


 棺の内部に、柔らかな光が満ちる。


 白い頬を照らし、銀色の髪を揺らす。


 けれど。


 彼女の瞼は、開かなかった。


 指先ひとつ、動かない。


 クロードは、さらに魔力を注ぎ込もうとした。


「閣下!」


 背後から、年老いた魔術師が叫んだ。


「これ以上はおやめください! 氷晶石の封印に負荷がかかります!」


「黙れ」


「しかし、棺の保存術式まで損なわれては――」


「黙れと言った」


 床を走る紫色の光が、魔術師の足元で弾けた。


 男は息を呑み、それ以上口を開かなかった。


 クロードは、棺を見つめた。


 眠っているようにしか見えない。


 今にも目を開けて、いつものように控えめな笑みを浮かべそうだった。


 だから、諦められなかった。


 死んでいるなどと、認められなかった。


「……なぜだ」


 彼は、かすれた声で呟いた。


「これほどの魔力があって、なぜ、お前一人を救えない」


 答える者はいなかった。


 治癒術は、生きている者の身体を修復する魔法だ。


 失われた命を、無から作り直すことはできない。


 それは、魔術を学ぶ者なら誰もが知っている原則だった。


 クロード自身、かつてはその原則を疑ったことなどなかった。


 戦場で、幾千もの死を見てきた。


 助けられなかった兵士もいた。


 救えなかった村人もいた。


 それでも、彼は立ち止まらなかった。


 死者は戻らない。


 生き残った者には、果たすべき責務がある。


 そう信じていた。


 だが、今は違う。


 棺の中にいるのは、セリアだった。


 彼の妻だった。


 その事実だけで、世界の理がひどく理不尽なものに思えた。


     *


「閣下。奥様を、そろそろお休ませして差し上げては……」


 執事長が進言したのは、その日の午後だった。


 クロードは、書類から顔を上げなかった。


「何を言っている」


「葬儀の日程についてでございます。すでに各家から弔問の申し出が届いております。正式な埋葬を――」


「埋葬はしない」


 即答だった。


 執事長は、言葉を失った。


「……しかし、閣下」


「棺は私室へ移せ。保存術式を維持できる魔術師を、常時三名配置しろ」


「奥様のご遺体を、私室に……?」


 クロードは、ようやく顔を上げた。


 紫色の瞳に、感情らしいものは浮かんでいなかった。


「何か問題があるのか」


「い、いえ……」


「ならば手配しろ」


 執事長は深く頭を下げ、退出した。


 扉が閉まる。


 クロードは、机の上に置かれた一通の手紙を見つめた。


 セリアが残した、最後の手紙だった。


 丁寧な文字。


 整った文章。


 屋敷の管理に関する引き継ぎ事項。


 そして、最後の一文。


『大公閣下のご健勝と、ヴァレンティア家のますますの繁栄を、心よりお祈り申し上げます』


 クロードは、その文字を指でなぞった。


 三年間、夫婦だった。


 それなのに、妻が最後に残したのは、夫への言葉ではなかった。


 まるで、仕事を辞める者が上司へ宛てた挨拶だった。


 恨み言すら、ない。


 彼を責める言葉も、寂しかったという訴えも。


 何もなかった。


 それが、どうしようもなく恐ろしかった。


 セリアは、いつから自分に何も期待しなくなったのだろう。


 いつから、夫として見なくなったのだろう。


 クロードは、手紙を折りたたんだ。


 そして、誰もいない執務室で呟いた。


「……一言くらい、言えばよかっただろう」


 声が、わずかに震えた。


「寂しいと。会いたいと。何でも……」


 そこまで言って、口を閉じた。


 思い出したのだ。


 以前、侍女が言っていた。


 奥様は、閣下と一度でいいから食事をしたがっていた、と。


 何度も話しかけようとしていた、と。


 言わなかったのではない。


 自分が、聞かなかったのだ。


 クロードは、手紙を握りしめた。


 便箋に皺が寄る。


 慌てて力を緩めた。


 もう、彼女が残したものを傷つけたくなかった。


     *


 氷晶石の棺が私室へ運び込まれたのは、その日の夕刻だった。


棺は封印を解かぬまま、保存術式ごと慎重に運び込まれた。


 広い寝室の窓際。


 かつて、セリアのために用意されたことのない場所に、透明な棺が置かれた。


 窓から差し込む夕陽が、銀色の髪を赤く染めている。


 クロードは、しばらく動かなかった。


 彼女は、生前、この部屋に入ったことがあっただろうか。


 思い返しても、記憶がない。


 大公夫妻の寝室は、結婚当初から別々だった。


 それは、クロード自身が命じたことだ。


『私の仕事を妨げるな。私室への立ち入りは、許可を得た者だけにしろ』


 あのときは、当然のことだと思っていた。


 北方の軍務。


 帝国の政務。


 大公家の領地経営。


 重要な案件は、昼夜を問わず彼のもとへ届く。


 妻に構っている暇などない。


 そう考えていた。


 だが、今。


 彼は、自分の部屋に置かれた棺を見つめていた。


 生きているうちに招き入れなかった妻を、死んでからようやく迎え入れたのだ。


「……馬鹿げている」


 クロードは、低く呟いた。


 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。


     *


 その夜、クロードは初めて妻と夕食を共にした。


 もちろん、セリアは何も食べなかった。


 棺のそばに小さな食卓を運ばせ、料理を二人分用意させただけだ。


「……お前は、何が好きだった」


 クロードは、皿を見つめながら呟いた。


 焼いた肉。


 温野菜。


 濃い赤葡萄酒。


 すべて、自分の好物だった。


 妻の好物は、ひとつもわからない。


 彼は、呼び鈴を鳴らした。


 すぐに給仕係が現れた。


「セリアの好きな料理を持ってこい」


 給仕係は、困惑した。


「……奥様の、お好きな料理でございますか」


「そうだ」


「恐れながら……」


 若い給仕係は、視線を落とした。


「奥様は、いつも厨房の献立に従っておられましたので……」


「好みくらい、あるだろう」


「申し訳ございません。存じ上げません」


 クロードは、眉を寄せた。


「では、料理長を呼べ」


 ほどなくして、料理長がやってきた。


 しかし、答えは同じだった。


「奥様から、特別なご注文をいただいたことはございません」


「三年間、一度もか」


「……はい」


 クロードは、しばらく黙っていた。


 料理長は、恐る恐る続けた。


「ただ……奥様は、朝の薬草茶をあまり召し上がらなかったようでございます」


「薬草茶?」


「はい。先代の奥様の頃から続く、朝食の定番でして」


「セリアが望んだのか」


「……いえ」


 クロードは、ゆっくりと目を閉じた。


 三年間。


 妻は、好まない飲み物を毎朝出されていた。


 誰も、変えようとしなかった。


 そして、自分も知らなかった。


「……下がれ」


 料理長が退出する。


 クロードは、棺へ目を向けた。


「……セリア」


 静かに呼ぶ。


「お前は、何が好きだった」


 返事はない。


「何を食べたかった」


 答えはない。


「……何を、したかった」


 クロードは、そこで言葉を失った。


 何も知らない。


 妻の好きな料理も。


 好きな色も。


 好きな季節も。


 何をすれば笑うのかさえ。


 三年間も同じ屋敷で暮らしていたのに、何ひとつ知らなかった。


 彼は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。


 棺のそばへ歩み寄る。


 透明な蓋に、手を置いた。


「……起きろ、セリア」


 かすれた声が落ちた。


「今度は、ちゃんと聞く」


 返事はなかった。


「何が好きなのか。何が嫌いなのか。どこへ行きたいのか」


 彼は、蓋に額を寄せた。


「……全部、聞くから」


 それでも、セリアは目を開けなかった。


     *


 翌朝から、帝国中の魔術師が大公邸へ呼び集められた。


 治癒魔術の権威。


 古代魔術の研究者。


 生命魔術を専門とする学者。


 果ては、帝国教会の高位神官まで。


 クロードは、彼らに同じことを尋ねた。


「死者を蘇らせる方法はあるか」


 答えは、どれも同じだった。


「……不可能です」


「現存する魔術体系では……」


「魂が肉体を離れた以上、再び呼び戻す術は……」


 そのたびに、クロードの表情は冷たくなった。


「ならば、現存しない術式を探せ」


 魔術師たちは、顔を見合わせた。


「古代の記録を調べろ。失われた魔法を復元しろ。必要な金は、いくらでも出す」


「閣下……」


「時間が足りないなら、人員を増やせ」


 年老いた神官が、静かに口を開いた。


「大公閣下。死は、誰にも避けられぬものです」


 クロードは、神官を見た。


「……何が言いたい」


「奥様の魂が安らかであるよう、祈ることもまた、残された者の務めかと」


 しばらく、沈黙が落ちた。


 やがて、クロードは低い声で言った。


「祈れば、セリアは戻るのか」


「……いいえ」


「ならば、私に祈れと言うな」


 神官は、口を閉じた。


 クロードは、集まった者たちを見渡した。


「私は、慰めを求めているのではない」


 その声には、感情がなかった。


「方法を求めている」


 誰も、何も言えなかった。


 その日から、大公家の財庫が開かれた。


 古代魔術の文献が、各地から買い集められた。


 長く封印されていた研究記録が、魔術学院の地下書庫から運び出された。


 そして、誰もが口にすることをためらう、禁忌の蘇生術についても調査が始まった。


     *


 数日後。


 クロードは、セリアが生前使っていた部屋へ足を踏み入れた。


 彼女の死後、誰にも触れさせていない部屋だった。


 白いカーテン。


 小さな机。


 窓辺の花瓶。


 そして、棚に並んだ数冊の本。


 驚くほど、物が少なかった。


 大公妃の部屋とは思えないほど、質素だった。


 クロードは、机に近づいた。


 そこには、丁寧に整理された帳簿が置かれていた。


 慈善院への寄付。


 領地の孤児院への支援。


 使用人の冬服の購入費。


 大公家の備品管理。


 どれも、細かく記録されている。


 クロードは、帳簿をめくった。


 余白に、小さな文字があった。


『今年は燃料費が高騰しているため、慈善院の薪代を増額したい』


 その下には、別の筆跡で短く記されていた。


『閣下の承認を要するため、保留』


 次の頁にも。


『厨房の下働きの者が病気の母を抱えている。見舞金の支給を検討』


『規定外の支出につき、保留』


 さらに、その次にも。


『庭園の古い温室を修繕できれば、冬にも花を育てられる』


『優先度低。次年度再検討』


 クロードは、頁をめくる手を止めた。


 温室。


 花。


 彼は、ゆっくりと窓辺を見た。


 そこには、白い花が一輪だけ飾られていた。


 花弁の先が、わずかに茶色くなっている。


 もう、枯れかけていた。


「……花が、好きだったのか」


 誰に尋ねるでもなく、呟いた。


 答えはなかった。


 彼は、花瓶を持ち上げた。


 水は、まだ澄んでいる。


 最後まで、誰かが世話をしていたのだろう。


 クロードは、しばらく花を見つめた。


 そして、近くにいた侍女に尋ねた。


「これは、誰が贈った」


 侍女は、緊張した面持ちで答えた。


「……ミレーヌでございます」


「ミレーヌ?」


「奥様付きの侍女でございます」


「なぜ、贈った」


 侍女は、少しだけためらった。


「……奥様の、お誕生日でしたので」


 クロードの指が、止まった。


「……誕生日?」


「はい」


 彼は、花を見つめた。


 セリアの誕生日。


 いつだった。


 記憶をたどる。


 婚姻の書類には、確かに記載されていたはずだ。


 けれど。


 思い出せなかった。


「……何日だ」


 侍女が、日付を告げた。


 クロードは、目を見開いた。


 その日は、北方の砦で軍議を開いていた。


 敵軍の補給路について議論し、夜遅くまで報告書を読んでいた。


 覚えている。


 その日の天候も。


 敵軍の兵数も。


 会議に出席した将校の名前も。


 すべて、覚えている。


 なのに。


 妻の誕生日だけは、知らなかった。


「……その日、私は何か贈ったか」


 侍女は、答えなかった。


「答えろ」


「……恐れながら、閣下からのお届け物は、ございませんでした」


 クロードは、花瓶を握りしめた。


 薄い硝子が、かすかに軋んだ。


 彼は、慌てて力を緩めた。


 壊してはならない。


 この花は、セリアが最後に大切にしていたものかもしれないのだから。


「……下がれ」


 侍女が退出したあと、クロードは花瓶を机へ戻した。


 そして、椅子に腰を下ろした。


 三年間。


 三度の誕生日。


 自分は、一度でも祝ったことがあっただろうか。


 答えは、わかっていた。


 彼は、何もしていなかった。


     *


 その夜、クロードは白い花を一輪、棺のそばに置いた。


 新しく用意させた花ではない。


 セリアの部屋に飾られていた、あの花だった。


 花瓶ごと運ばせたのだ。


 彼は、棺の前に椅子を置いた。


「……誕生日だったそうだな」


 静かに話しかける。


「知らなかった」


 返事はない。


「いや……知らなかったのではない。知ろうとしなかった」


 クロードは、目を伏せた。


「すまなかった」


 初めて口にする謝罪だった。


 けれど、それを聞くべき相手は、もういない。


 彼は、棺の中の妻を見つめた。


「……セリア」


 白い頬。


 閉じられた瞼。


 静かに横たわる身体。


 生前と変わらない姿。


 その姿を保つために、氷晶石の封印は絶えず魔力を消費していた。


 魔術師たちは、保存術式を乱さないよう、棺の内部へ直接干渉することを避けている。


 クロードも、それを許していた。


 万が一にも、妻の身体を傷つけたくなかったからだ。


 彼は、透明な蓋に手を置いた。


「……明日、また別の魔術師が来る」


 返事はない。


「南方の古い修道院に、死者の魂を呼び戻す術式が残されているそうだ」


 彼は、少しだけ笑った。


「眉唾ものだと思うか?」


 沈黙。


「……そうだな。お前なら、きっと笑うだろう」


 そこで、クロードは言葉を止めた。


 本当に、笑っただろうか。


 彼は、妻の笑い方すらよく知らなかった。


 胸の奥に、鈍い痛みが走った。


「……教えてくれ」


 彼は、棺に額を寄せた。


「お前は、どんなときに笑っていた」


 答えはない。


「何が、嬉しかった」


 答えはない。


「……私と結婚して、一度でも幸せだったか」


 長い沈黙が落ちた。


 クロードは、目を閉じた。


 その問いの答えを、聞くのが怖かった。


 もし、セリアが目を覚ましたとして。


 もし、彼女が自分を見て、悲しそうな顔をしたら。


 もし、もう一緒にいたくないと言われたら。


 それでも、自分は彼女を手放せるだろうか。


 クロードは、ゆっくりと目を開けた。


 棺の中のセリアは、何も言わない。


 彼を拒絶することもない。


 責めることもない。


 ただ、静かに眠っている。


 それが、今の彼にとって唯一の慰めであり、何より残酷な罰だった。


     *


 夜が更けても、クロードは眠らなかった。


 机の上には、各地から届いた魔術書が積み上がっている。


 彼は、その一冊を開いた。


 古い文字で書かれた、禁忌の術式。


 死者の肉体を器として、魂を呼び戻す方法について記されていた。


 成功例はない。


 術式の大半は欠落している。


 それでも、クロードは頁をめくった。


 ひとつでも可能性があるなら。


 たとえ、それがどれほど小さくても。


 諦めるつもりはなかった。


 そのとき、扉が控えめに叩かれた。


「……閣下」


 執事長の声だった。


「何だ」


「奥様のご遺品の整理について、ご報告がございます」


 クロードの手が止まった。


「……遺品?」


「はい。奥様のお部屋に残された書類や、私物についてでございます」


「勝手に処分するな」


「もちろんでございます。ただ……」


 執事長は、言いにくそうに言葉を選んだ。


「奥様が生前、閣下へお送りになった書簡が、いくつか保管されておりまして」


 クロードは、顔を上げた。


「……書簡?」


「はい」


「私宛ての?」


「……左様でございます」


 クロードは、ゆっくりと立ち上がった。


「なぜ、今になって報告する」


 執事長の顔色が変わった。


「そ、それは……」


「私は、そのような手紙を受け取った覚えがない」


 沈黙が落ちた。


 クロードは、執事長を見つめた。


「……どこにある」


「……執事室の、保管棚に」


「すべて持ってこい」


 低い声だった。


 けれど、その場の空気が一瞬で凍りついた。


「一通残らずだ」


 執事長は、深く頭を下げた。


「……承知いたしました」


 扉が閉まる。


 クロードは、しばらく動かなかった。


 セリアからの手紙。


 自分に宛てられた言葉。


 受け取った覚えのないものが、いくつもあるという。


 彼は、ゆっくりと棺へ目を向けた。


「……セリア」


 妻は、眠っている。


 何も知らない顔で。


 いや。


 知らなかったのは、自分のほうだ。


 彼女が何を望み、何を訴え、どれほど長い時間を一人で過ごしていたのか。


 そのすべてを。


 クロードは、透明な蓋に手を置いた。


「……お前は、私に何を伝えようとしていた」


 答えは、まだない。


 だが、まもなく届く手紙の中に、その一部が残されているのかもしれなかった。


 クロードは、扉を見つめた。


 胸の奥で、何かが静かに軋み始めていた。


 それは、悲しみだけではなかった。


 後悔。


 怒り。


 そして、自分自身に向けるべき感情を、まだ正しく扱えない男の、危うい衝動だった。


 この夜を境に、大公邸の空気は変わっていく。


 妻を失った男は、やがて知ることになる。


 自分の知らないところで、妻がどれほど孤独だったのか。


 そして。


 その孤独を作り出したのが、ほかならぬ自分自身だったということを。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。