8話 さようなら、大公妃セリア
人は、自分が死んだことになっている朝に、何をしているのだろう。
少なくとも私は、荷馬車の荷台で干し草に埋もれながら、くしゃみを我慢していた。
「……っ、くしゅん!」
我慢できなかった。
「お嬢さん、静かに頼みますよ」
御者台から、男の低い声が飛んできた。
「……ごめんなさい」
慌てて鼻を押さえる。
死んだことになっている人間が、くしゃみで見つかったら笑い話にもならない。
けれど、少しだけ可笑しかった。
三年間、大公妃として人前でくしゃみひとつするにも気を遣っていた私が、今は干し草まみれになっている。
しかも、帝国最強の魔術師である夫を騙して。
とんでもないことをしてしまった。
そう思った途端、笑いは消えた。
外套の下で、指先が震えている。
寒さのせいだけではなかった。
氷晶石の棺の中には、私と同じ姿をした形代が眠っている。
ミレーヌが用意してくれた、葬送用の魔導人形。
私の魔力をわずかに与えたことで、形代は私の姿を写し取った。
けれど、姿を似せられても、魔力の気配まで同じにはできない。
クロード様が棺を開け、詳しく調べれば、偽物だと気づくだろう。
補助鍵を使った痕跡も残っている。
いつまで欺けるのか、誰にもわからない。
だから、一刻も早く帝国を出なければならなかった。
私は、干し草の隙間から夜明け前の空を見上げた。
薄い雲の向こうが、わずかに白み始めている。
あの空の下に、ミレーヌがいる。
私は、外套の胸元を握りしめた。
*
数時間前。
屋敷を抜け出した私たちは、街道沿いの分かれ道で馬車を止めてもらった。
そこでミレーヌは、私の手を離した。
「私は、屋敷へ戻ります」
最初、何を言われたのかわからなかった。
「……戻る?」
「はい」
「駄目よ。あなたが疑われたら……」
「私まで姿を消せば、奥様の死を疑う者が出るかもしれません」
ミレーヌは、落ち着いた声で答えた。
「奥様がお亡くなりになった今、私が屋敷に残ることは不自然ではありません。しばらくは、弔いの支度や遺品の整理もございます」
「でも、棺を開けたことがわかったら?」
「そのときは、そのときです」
あまりにも静かな答えだった。
私は、思わず彼女の腕を掴んだ。
「そんなこと、簡単に言わないで」
ミレーヌは、困ったように笑った。
「……奥様」
「あなたまで、私のために人生を失う必要はないのよ」
「失いません」
彼女は、はっきりと言った。
「私は、自分で選んだのです」
その言葉に、息が詰まった。
「三年間、奥様のおそばにおりました。お優しい方だと、誰よりも知っております」
ミレーヌは、私の手を包み込んだ。
「それなのに、何もして差し上げられなかった」
「そんなこと……」
「いいえ。もっと早く、奥様に逃げる場所があるとお伝えすればよかったのです」
私は、首を振った。
「あなたがいてくれたから、私は三年間、あの屋敷で生きていられたのよ」
ミレーヌの瞳が揺れた。
私は、その手を握り返した。
「……ありがとう」
彼女は、しばらく黙っていた。
やがて、懐から小さな布袋を取り出した。
「こちらを」
「……何?」
「旅費です。道中、何があるかわかりませんから」
袋の中には、銀貨が入っていた。
「受け取れないわ。これは、あなたのお金でしょう?」
「では、貸したことにしてください」
ミレーヌは、少しだけ笑った。
「いつか花屋を開かれたら、利子の代わりに花を一輪いただきます」
「……一輪でいいの?」
「はい。奥様がご自分で育てた花を」
私は、涙をこらえながらうなずいた。
「必ず、届けるわ」
「楽しみにしております」
彼女は最後に、私の外套の襟を整えた。
いつものように。
大公邸で、外出する私を送り出してくれたときと同じ手つきだった。
「……セリア様」
その声に、私は顔を上げた。
「これが、最後でございます」
「……え?」
「もう、奥様とはお呼びしません」
ミレーヌは、微笑んだ。
「どうか、これからはリリア様として、ご自分のために生きてください」
胸の奥が、熱くなった。
私は彼女を抱きしめた。
ミレーヌも、強く抱き返してくれた。
「……どうか、お幸せに」
「あなたもよ、ミレーヌ」
私たちは、ようやく身体を離した。
ミレーヌが馬車を降りる。
御者が手綱を引いた。
車輪が、ゆっくりと動き始める。
私は、荷台の隙間から彼女を見送った。
最後に一度だけ、ミレーヌが振り返った。
私は、手を振った。
彼女も、小さく手を振り返してくれた。
そして、その姿は夜明け前の薄闇に消えた。
*
荷馬車が宿場町に到着したのは、朝日が昇る頃だった。
帝都から数時間。
国境までは、まだ遠い。
御者の男は、人通りの少ない裏通りで馬を止めた。
「ここまでです」
「ありがとうございました」
荷台から降り、頭を下げる。
男は、少し困ったような顔をした。
「旅先でそんなに丁寧に頭を下げていたら、かえって目立ちますよ」
「……そうですね」
「それから、その髪」
外套の隙間から、銀色の髪がひと房こぼれていた。
「早く何とかしたほうがいい」
「はい。わかっています」
男は、それ以上何も尋ねなかった。
馬車が走り去る。
私は、ひとりになった。
石畳の道。
朝の支度を始める商店。
水桶を運ぶ女性。
パン屋の煙突から立ち上る白い煙。
どこにでもある、小さな町だった。
けれど、私には初めて訪れた世界のように思えた。
誰も私を大公妃とは呼ばない。
誰も頭を下げない。
すれ違う人々は、私のことなど気にも留めない。
それが、こんなにも心地よいなんて。
ふと、焼きたてのパンの匂いが漂ってきた。
途端に、お腹が鳴った。
「……ふふ」
思わず笑ってしまう。
三日間、何も食べていなかった。
棺の中で死にかけたというのに、身体はもう朝食を欲しがっている。
生きている。
その当たり前のことが、たまらなく嬉しかった。
私は、匂いのする方へ一歩踏み出した。
その瞬間、視界が揺れた。
「……っ」
慌てて壁に手をつく。
膝から力が抜けた。
胸が苦しく、指先が冷たい。
仮死薬の影響が、まだ身体に残っているのだ。
三日間、呼吸も鼓動も極限まで抑えられていた。
目覚めたからといって、すぐに元どおりになるわけではない。
私は、近くの石段に腰を下ろした。
しばらく目を閉じ、ゆっくりと息を整える。
すると、誰かが声をかけてきた。
「お嬢さん、大丈夫かい?」
顔を上げると、籠を抱えた年配の女性が立っていた。
「……はい。少し、疲れてしまって」
「顔色が悪いねえ。何か食べたのかい?」
私は、首を横に振った。
「それはいけないよ。そこのパン屋、もう開いてるから。温かいものでも食べておいで」
女性は、そう言って歩いていった。
私は、その背中を見つめた。
見知らぬ人が、私の体調を気にかけてくれた。
ただ、それだけのことだった。
けれど、大公邸では、具合が悪くても公務に差し支えないかを先に尋ねられた。
今の女性は、私が何者なのかも知らない。
それなのに。
「……ありがとうございます」
もう聞こえないとわかっていながら、私は小さく呟いた。
*
パン屋では、小さな丸パンをひとつ買った。
まだ温かかった。
紙袋を開くと、香ばしい匂いが立ち上る。
私は、店の外の腰掛けに座り、ひと口かじった。
「……おいしい」
思わず、声が漏れた。
外側は少し硬く、中はふんわりとしている。
バターも、蜂蜜もついていない。
大公邸の食卓に並んでいたパンに比べれば、ずっと質素なものだ。
それでも、驚くほどおいしかった。
私は、もうひと口かじった。
誰も、食事の作法を気にしない。
誰も、食べる速さを注意しない。
食べたいものを、自分で選んで、自分のお金で買った。
それだけのことが、嬉しかった。
パンを半分ほど食べたところで、私は手を止めた。
胃が、少し重くなっていた。
無理はしないほうがいい。
残りを紙袋に戻し、水を飲む。
ミレーヌが見ていたら、きっと褒めてくれるだろう。
そう思って、少し笑った。
*
町の外れに、小さな染物屋があった。
ミレーヌが教えてくれた店だ。
私は周囲を確かめてから、扉を叩いた。
しばらくすると、年配の女性が顔を出した。
「こんな朝早くに、どうしたんだい?」
「髪を、染めていただきたいのです」
女性は、私の顔を見てから、フードの奥にある銀色の髪へ目を向けた。
「……ずいぶん綺麗な髪だね」
「ありがとうございます」
「それを染めるのかい?」
「……はい」
「もったいないねえ」
女性は、心底惜しそうにため息をついた。
私は少し迷ってから、答えた。
「新しい人生を、始めたいんです」
女性は、しばらく私を見つめていた。
けれど、理由を尋ねることはなかった。
「そうかい」
それだけ言って、扉を開けてくれた。
「入りな。ちょうど手が空いているよ」
*
鏡の前に座ると、女性は私の髪を丁寧に梳かし始めた。
「どんな色がいい?」
私は、鏡の中の自分を見つめた。
銀色の髪。
大公妃として社交界に出るたび、褒められた髪だった。
もっとも、クロード様が褒めてくださったことは、一度もない。
……いえ。
もう、あの方がどう思うかなんて、考えなくていい。
「栗色にしてください」
「栗色?」
「はい。できるだけ、目立たない色に」
「わかったよ」
女性はうなずき、染料の準備を始めた。
やがて、銀色の髪に染料が塗られていく。
ひと房ずつ。
ゆっくりと。
見慣れた色が、隠れていく。
不思議だった。
あれほど捨てたかった大公妃という立場なのに、髪の色が変わっていくのを見ていると、胸の奥が少しだけ痛んだ。
この髪は、母に似ていると言われたことがある。
幼い頃、母は私の髪を梳かしながら、よく笑っていた。
『セリアの髪は、お月様みたいね』
優しい声だった。
私は、そっと目を閉じた。
お母様。
ごめんなさい。
あなたが褒めてくれた髪を、私は隠してしまいます。
けれど、嫌いになったわけではないのです。
ただ、この髪のままでは、自由になれないから。
もう一度、自分の人生を生きたいから。
どうか、許してください。
*
「……できたよ」
女性の声で、目を開けた。
鏡の中には、栗色の髪をした女性が座っていた。
思わず、息を呑む。
見知らぬ女性だった。
けれど、その瞳も、頬も、確かに私のものだった。
「うん。よく似合ってる」
女性が満足そうに笑う。
「……ありがとうございます」
「それで、お嬢さん。名前は?」
突然の問いに、私は固まった。
名前。
そうだ。
名前も、変えなければならない。
セリア・ヴァレンティア。
その名前は、もう使えない。
ミレーヌが用意してくれた身分証には、新しい名前が記されている。
何度も目を通したはずなのに、誰かに名乗るのは初めてだった。
「……リリア」
口にした瞬間、不思議と胸が軽くなった。
「リリア・ベルです」
「リリア。いい名前だね」
私は、鏡の中の自分を見つめた。
リリア。
花の名前を思わせる、柔らかな響き。
ミレーヌと相談して決めた、新しい名前。
それが今、初めて自分のものになった気がした。
「……はい」
私は、鏡の中の女性に微笑みかけた。
「私も、気に入っています」
*
その日の午後、私は宿場町を出た。
今度は、商人たちが乗り合う馬車に乗った。
荷物は、小さな鞄ひとつ。
中には着替えと、少しの現金。
それから、母の形見の銀の指ぬき。
大公妃として身につけていた宝石は、すべて屋敷に置いてきた。
あれは、私のものではない。
私が持ってきたのは、私自身のものだけだった。
馬車には、旅商人の夫婦と、小さな男の子が乗っていた。
男の子は、向かいの席から私をじっと見つめている。
「お姉ちゃん、どこ行くの?」
突然尋ねられ、私は少し驚いた。
「ベルフェルよ」
「ベルフェル?」
「ええ。お花が綺麗な国だって聞いたの」
男の子の目が輝いた。
「ぼくも、お花好き!」
「そうなの?」
「うん! お母さんに黄色い花をあげたことある!」
隣に座る女性が、照れたように笑った。
「道端の花を摘んできただけなんですよ」
「でも、嬉しかったでしょう?」
私が尋ねると、女性は優しくうなずいた。
「ええ。とても」
男の子は、得意げに胸を張った。
私は、思わず笑った。
花を贈る。
ただ、それだけのこと。
けれど、誰かが喜んでくれる。
その光景が、ひどく眩しかった。
窓の外では、野の花が風に揺れている。
いつか、私も花を売って暮らしたい。
誰かが大切な人に贈る一輪を、一緒に選べたら。
それは、どんなに素敵なことだろう。
*
国境に近い宿場町へ着いたのは、翌日の昼過ぎだった。
私は、そこで一晩休むことにした。
身体が、まだ長い移動に耐えられなかったからだ。
宿の小さな部屋で、ミレーヌが用意してくれた身分証を取り出す。
リリア・ベル。
地方の小さな町で生まれ、仕事を探してベルフェルへ向かう平民の女性。
もちろん、本当の身分ではない。
ミレーヌは、エマさんのつてで、ベルフェルの商業組合に関係する者へ相談したと言っていた。
事情があって故郷を離れ、仕事を探している女性がいる。
そう説明して、旅に必要な書類を整えてもらったのだという。
ただし、私の本当の身分は伝えていない。
書類が正規の手続きに沿ったものでも、記された経歴は本当ではない。
詳しく調べられれば、矛盾が見つかる可能性はある。
私は、身分証を両手で持った。
リリア・ベル。
まだ、名前を名乗るたびに緊張する。
けれど、もう引き返せない。
私は、書類を鞄にしまった。
明日、国境を越える。
*
翌朝。
私は、国境の検問所へ向かった。
帝国から隣国へ出るには、身分証の確認を受けなければならない。
私は、鞄の中の書類を何度も確かめた。
大丈夫。
何度も自分に言い聞かせる。
それでも、心臓は落ち着いてくれなかった。
馬車が止まった。
「身分証を確認する!」
兵士の声が響く。
乗客たちは順番に書類を差し出していった。
旅商人の夫婦が通される。
男の子も、母親に手を引かれて進んでいく。
そして、私の番になった。
「名前は?」
兵士が無愛想に尋ねる。
「……リリア・ベルです」
兵士は身分証を受け取り、記載された内容に目を通した。
「目的地は?」
「ベルフェル王国です」
「何をしに?」
「仕事を探しに参りました」
兵士は、ふと顔を上げた。
私をじっと見る。
「……あんた」
心臓が跳ねた。
「はい」
「帝都から来たのか」
「……途中の宿場町から乗りました」
「そうか」
兵士は再び書類に目を落とした。
長い沈黙だった。
背中に冷たい汗が伝う。
もし、見破られたら。
もし、クロード様の名が出たら。
その先を考えたくなかった。
やがて、兵士が身分証を差し出した。
「……通れ」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
「……ありがとうございます」
私は書類を受け取り、馬車へ戻った。
ほどなくして、車輪が動き始める。
検問所が遠ざかっていく。
帝国の旗が、後ろへ流れていく。
私は、窓の外を見つめた。
国境を越えた。
本当に、越えたのだ。
帝国を。
クロード様のいる国を。
私は、膝の上で握りしめていた手を、ゆっくりと開いた。
掌には、爪の跡が残っていた。
*
国境を越えてから、さらに数日。
私は、ようやくベルフェルの小さな町へ到着した。
赤い屋根。
白い壁。
緑の丘。
そして、道沿いに咲く色とりどりの花。
「……綺麗」
思わず、声が漏れた。
窓から吹き込む風に、花の香りが混じっている。
私は、目を閉じた。
ここには、私を大公妃と呼ぶ人はいない。
クロード様の妻だと知る人もいない。
誰も、私に完璧な振る舞いを求めない。
私は、ただのリリア。
その名前で生きていける。
それだけで、胸がいっぱいになった。
*
夕暮れの頃、私は町の中心にある広場へ着いた。
石畳の道を歩き、広場を抜ける。
角を曲がると、小さな看板が見えた。
『小鳥の宿』
木製の看板には、小鳥が二羽、寄り添うように描かれている。
窓辺には、赤い花が飾られていた。
私は、立ち止まった。
ここまで来られた。
そう思った途端、急に足が重くなった。
緊張が解けたのかもしれない。
それでも、私は扉へ近づき、そっと叩いた。
「はーい!」
明るい声が響いた。
扉が開く。
現れたのは、ミレーヌによく似た、若い女性だった。
「いらっしゃいませ! お泊まりですか?」
「……はい」
「お名前は?」
私は、少しだけ微笑んだ。
「リリア・ベルです」
「リリアさんですね。私はエマ。この宿をやっています」
ミレーヌの妹。
彼女が目の前にいる。
それだけで、胸が熱くなった。
「……ミレーヌさんから、こちらを教えていただきました」
エマの表情が、わずかに変わった。
けれど、すぐに優しい笑顔に戻る。
「……そうですか」
彼女は、扉を大きく開けてくれた。
「ようこそ、小鳥の宿へ」
私は、ゆっくりと中へ入った。
暖炉の火が、ぱちぱちと音を立てている。
焼きたてのパンの匂い。
使い込まれた木の床。
小さな食堂。
どれも、豪華ではなかった。
けれど、屋敷にはなかった温もりが、そこにはあった。
「お腹、空いていませんか?」
エマが尋ねる。
私は、思わず笑ってしまった。
「……とても」
「それなら、ちょうど夕食の準備ができていますよ」
「……いただいても、いいんですか?」
エマは、不思議そうに瞬きをした。
「もちろんです。うちは宿屋ですから」
そう言って、くすくす笑った。
私も、つられて笑った。
誰かと一緒に食べる夕食。
温かい料理。
そして、食べたいときに食べていいという、当たり前のこと。
そんな小さな幸せが、今の私には何より贅沢に思えた。
*
その夜、私は小さな部屋で一人になった。
窓の外には、静かな町並みが広がっている。
遠くで、教会の鐘が鳴った。
私は、鞄を開けた。
中から、母の形見の銀の指ぬきを取り出す。
何度も磨かれた、小さな指ぬき。
掌に乗せると、冷たい銀が少しずつ体温になじんでいった。
「……お母様」
小さく呟く。
「私、ここまで来られました」
声にした途端、涙がこぼれた。
自分でも、驚いた。
悲しいわけではなかった。
むしろ、嬉しかった。
怖かった。
何度も、引き返そうと思った。
それでも、ここまで来た。
私は、指ぬきを胸元に抱きしめた。
お母様。
私は、もう大公妃ではありません。
あなたがつけてくれた名前も、今は使えません。
けれど、どうか心配しないで。
私は、ちゃんと生きています。
そして、これからも生きていきます。
涙を拭い、窓を開けた。
夜風が、栗色の髪を揺らす。
遠くの空には、星が瞬いていた。
もう、誰かの帰りを待たなくていい。
誰かの顔色をうかがわなくていい。
自分の好きなものを選んでいい。
自分の人生を、生きていい。
私は、窓辺に立ったまま、そっと微笑んだ。
「……さようなら、大公妃セリア」
その名前は、もう私のものではない。
氷晶石の棺の中で、静かに眠っている。
帝国最強の大公の妻として。
愛されることを願い続けた、ひとりの女性として。
けれど。
私は、生きている。
これからは、リリア・ベルとして。
花を育てて、笑って、誰かと食卓を囲んで。
そんな、当たり前の幸せを手に入れたい。
明日になったら、町を歩いてみよう。
市場へ行って、花を買おう。
それから、仕事を探そう。
いつか、小さな花屋を開けたらいい。
朝、店先に花を並べて。
通りかかった人に挨拶をして。
誰かが大切な人へ贈る花を、一緒に選ぶ。
そんな未来を思い描くと、自然と頬が緩んだ。
私は、そっと目を閉じた。
さようなら、クロード様。
どうか、あなたも幸せに。
私は、もう戻りません。
そして。
あなたが、私を探しに来ることもありませんように。
窓の外で、風が花を揺らした。
その夜。
私は、生まれて初めて、明日が来ることを心から楽しみにして眠った。




