↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私が死んだ日、冷血大公の夫は国を焼き始めました――三年後、花屋になった私を見つけた暴君が絶対に離してくれません  作者: 茗子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/16

8話 さようなら、大公妃セリア


 人は、自分が死んだことになっている朝に、何をしているのだろう。


 少なくとも私は、荷馬車の荷台で干し草に埋もれながら、くしゃみを我慢していた。


「……っ、くしゅん!」


 我慢できなかった。


「お嬢さん、静かに頼みますよ」


 御者台から、男の低い声が飛んできた。


「……ごめんなさい」


 慌てて鼻を押さえる。


 死んだことになっている人間が、くしゃみで見つかったら笑い話にもならない。


 けれど、少しだけ可笑しかった。


 三年間、大公妃として人前でくしゃみひとつするにも気を遣っていた私が、今は干し草まみれになっている。


 しかも、帝国最強の魔術師である夫を騙して。


 とんでもないことをしてしまった。


 そう思った途端、笑いは消えた。


 外套の下で、指先が震えている。


 寒さのせいだけではなかった。


 氷晶石の棺の中には、私と同じ姿をした形代が眠っている。


 ミレーヌが用意してくれた、葬送用の魔導人形。


 私の魔力をわずかに与えたことで、形代は私の姿を写し取った。


 けれど、姿を似せられても、魔力の気配まで同じにはできない。


 クロード様が棺を開け、詳しく調べれば、偽物だと気づくだろう。


 補助鍵を使った痕跡も残っている。


 いつまで欺けるのか、誰にもわからない。


 だから、一刻も早く帝国を出なければならなかった。


 私は、干し草の隙間から夜明け前の空を見上げた。


 薄い雲の向こうが、わずかに白み始めている。


 あの空の下に、ミレーヌがいる。


 私は、外套の胸元を握りしめた。


 *


 数時間前。


 屋敷を抜け出した私たちは、街道沿いの分かれ道で馬車を止めてもらった。


 そこでミレーヌは、私の手を離した。


「私は、屋敷へ戻ります」


 最初、何を言われたのかわからなかった。


「……戻る?」


「はい」


「駄目よ。あなたが疑われたら……」


「私まで姿を消せば、奥様の死を疑う者が出るかもしれません」


 ミレーヌは、落ち着いた声で答えた。


「奥様がお亡くなりになった今、私が屋敷に残ることは不自然ではありません。しばらくは、弔いの支度や遺品の整理もございます」


「でも、棺を開けたことがわかったら?」


「そのときは、そのときです」


 あまりにも静かな答えだった。


 私は、思わず彼女の腕を掴んだ。


「そんなこと、簡単に言わないで」


 ミレーヌは、困ったように笑った。


「……奥様」


「あなたまで、私のために人生を失う必要はないのよ」


「失いません」


 彼女は、はっきりと言った。


「私は、自分で選んだのです」


 その言葉に、息が詰まった。


「三年間、奥様のおそばにおりました。お優しい方だと、誰よりも知っております」


 ミレーヌは、私の手を包み込んだ。


「それなのに、何もして差し上げられなかった」


「そんなこと……」


「いいえ。もっと早く、奥様に逃げる場所があるとお伝えすればよかったのです」


 私は、首を振った。


「あなたがいてくれたから、私は三年間、あの屋敷で生きていられたのよ」


 ミレーヌの瞳が揺れた。


 私は、その手を握り返した。


「……ありがとう」


 彼女は、しばらく黙っていた。


 やがて、懐から小さな布袋を取り出した。


「こちらを」


「……何?」


「旅費です。道中、何があるかわかりませんから」


 袋の中には、銀貨が入っていた。


「受け取れないわ。これは、あなたのお金でしょう?」


「では、貸したことにしてください」


 ミレーヌは、少しだけ笑った。


「いつか花屋を開かれたら、利子の代わりに花を一輪いただきます」


「……一輪でいいの?」


「はい。奥様がご自分で育てた花を」


 私は、涙をこらえながらうなずいた。


「必ず、届けるわ」


「楽しみにしております」


 彼女は最後に、私の外套の襟を整えた。


 いつものように。


 大公邸で、外出する私を送り出してくれたときと同じ手つきだった。


「……セリア様」


 その声に、私は顔を上げた。


「これが、最後でございます」


「……え?」


「もう、奥様とはお呼びしません」


 ミレーヌは、微笑んだ。


「どうか、これからはリリア様として、ご自分のために生きてください」


 胸の奥が、熱くなった。


 私は彼女を抱きしめた。


 ミレーヌも、強く抱き返してくれた。


「……どうか、お幸せに」


「あなたもよ、ミレーヌ」


 私たちは、ようやく身体を離した。


 ミレーヌが馬車を降りる。


 御者が手綱を引いた。


 車輪が、ゆっくりと動き始める。


 私は、荷台の隙間から彼女を見送った。


 最後に一度だけ、ミレーヌが振り返った。


 私は、手を振った。


 彼女も、小さく手を振り返してくれた。


 そして、その姿は夜明け前の薄闇に消えた。


 *


 荷馬車が宿場町に到着したのは、朝日が昇る頃だった。


 帝都から数時間。


 国境までは、まだ遠い。


 御者の男は、人通りの少ない裏通りで馬を止めた。


「ここまでです」


「ありがとうございました」


 荷台から降り、頭を下げる。


 男は、少し困ったような顔をした。


「旅先でそんなに丁寧に頭を下げていたら、かえって目立ちますよ」


「……そうですね」


「それから、その髪」


 外套の隙間から、銀色の髪がひと房こぼれていた。


「早く何とかしたほうがいい」


「はい。わかっています」


 男は、それ以上何も尋ねなかった。


 馬車が走り去る。


 私は、ひとりになった。


 石畳の道。


 朝の支度を始める商店。


 水桶を運ぶ女性。


 パン屋の煙突から立ち上る白い煙。


 どこにでもある、小さな町だった。


 けれど、私には初めて訪れた世界のように思えた。


 誰も私を大公妃とは呼ばない。


 誰も頭を下げない。


 すれ違う人々は、私のことなど気にも留めない。


 それが、こんなにも心地よいなんて。


 ふと、焼きたてのパンの匂いが漂ってきた。


 途端に、お腹が鳴った。


「……ふふ」


 思わず笑ってしまう。


 三日間、何も食べていなかった。


 棺の中で死にかけたというのに、身体はもう朝食を欲しがっている。


 生きている。


 その当たり前のことが、たまらなく嬉しかった。


 私は、匂いのする方へ一歩踏み出した。


 その瞬間、視界が揺れた。


「……っ」


 慌てて壁に手をつく。


 膝から力が抜けた。


 胸が苦しく、指先が冷たい。


 仮死薬の影響が、まだ身体に残っているのだ。


 三日間、呼吸も鼓動も極限まで抑えられていた。


 目覚めたからといって、すぐに元どおりになるわけではない。


 私は、近くの石段に腰を下ろした。


 しばらく目を閉じ、ゆっくりと息を整える。


 すると、誰かが声をかけてきた。


「お嬢さん、大丈夫かい?」


 顔を上げると、籠を抱えた年配の女性が立っていた。


「……はい。少し、疲れてしまって」


「顔色が悪いねえ。何か食べたのかい?」


 私は、首を横に振った。


「それはいけないよ。そこのパン屋、もう開いてるから。温かいものでも食べておいで」


 女性は、そう言って歩いていった。


 私は、その背中を見つめた。


 見知らぬ人が、私の体調を気にかけてくれた。


 ただ、それだけのことだった。


 けれど、大公邸では、具合が悪くても公務に差し支えないかを先に尋ねられた。


 今の女性は、私が何者なのかも知らない。


 それなのに。


「……ありがとうございます」


 もう聞こえないとわかっていながら、私は小さく呟いた。


 *


 パン屋では、小さな丸パンをひとつ買った。


 まだ温かかった。


 紙袋を開くと、香ばしい匂いが立ち上る。


 私は、店の外の腰掛けに座り、ひと口かじった。


「……おいしい」


 思わず、声が漏れた。


 外側は少し硬く、中はふんわりとしている。


 バターも、蜂蜜もついていない。


 大公邸の食卓に並んでいたパンに比べれば、ずっと質素なものだ。


 それでも、驚くほどおいしかった。


 私は、もうひと口かじった。


 誰も、食事の作法を気にしない。


 誰も、食べる速さを注意しない。


 食べたいものを、自分で選んで、自分のお金で買った。


 それだけのことが、嬉しかった。


 パンを半分ほど食べたところで、私は手を止めた。


 胃が、少し重くなっていた。


 無理はしないほうがいい。


 残りを紙袋に戻し、水を飲む。


 ミレーヌが見ていたら、きっと褒めてくれるだろう。


 そう思って、少し笑った。


 *


 町の外れに、小さな染物屋があった。


 ミレーヌが教えてくれた店だ。


 私は周囲を確かめてから、扉を叩いた。


 しばらくすると、年配の女性が顔を出した。


「こんな朝早くに、どうしたんだい?」


「髪を、染めていただきたいのです」


 女性は、私の顔を見てから、フードの奥にある銀色の髪へ目を向けた。


「……ずいぶん綺麗な髪だね」


「ありがとうございます」


「それを染めるのかい?」


「……はい」


「もったいないねえ」


 女性は、心底惜しそうにため息をついた。


 私は少し迷ってから、答えた。


「新しい人生を、始めたいんです」


 女性は、しばらく私を見つめていた。


 けれど、理由を尋ねることはなかった。


「そうかい」


 それだけ言って、扉を開けてくれた。


「入りな。ちょうど手が空いているよ」


 *


 鏡の前に座ると、女性は私の髪を丁寧に梳かし始めた。


「どんな色がいい?」


 私は、鏡の中の自分を見つめた。


 銀色の髪。


 大公妃として社交界に出るたび、褒められた髪だった。


 もっとも、クロード様が褒めてくださったことは、一度もない。


 ……いえ。


 もう、あの方がどう思うかなんて、考えなくていい。


「栗色にしてください」


「栗色?」


「はい。できるだけ、目立たない色に」


「わかったよ」


 女性はうなずき、染料の準備を始めた。


 やがて、銀色の髪に染料が塗られていく。


 ひと房ずつ。


 ゆっくりと。


 見慣れた色が、隠れていく。


 不思議だった。


 あれほど捨てたかった大公妃という立場なのに、髪の色が変わっていくのを見ていると、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 この髪は、母に似ていると言われたことがある。


 幼い頃、母は私の髪を梳かしながら、よく笑っていた。


『セリアの髪は、お月様みたいね』


 優しい声だった。


 私は、そっと目を閉じた。


 お母様。


 ごめんなさい。


 あなたが褒めてくれた髪を、私は隠してしまいます。


 けれど、嫌いになったわけではないのです。


 ただ、この髪のままでは、自由になれないから。


 もう一度、自分の人生を生きたいから。


 どうか、許してください。


 *


「……できたよ」


 女性の声で、目を開けた。


 鏡の中には、栗色の髪をした女性が座っていた。


 思わず、息を呑む。


 見知らぬ女性だった。


 けれど、その瞳も、頬も、確かに私のものだった。


「うん。よく似合ってる」


 女性が満足そうに笑う。


「……ありがとうございます」


「それで、お嬢さん。名前は?」


 突然の問いに、私は固まった。


 名前。


 そうだ。


 名前も、変えなければならない。


 セリア・ヴァレンティア。


 その名前は、もう使えない。


 ミレーヌが用意してくれた身分証には、新しい名前が記されている。


 何度も目を通したはずなのに、誰かに名乗るのは初めてだった。


「……リリア」


 口にした瞬間、不思議と胸が軽くなった。


「リリア・ベルです」


「リリア。いい名前だね」


 私は、鏡の中の自分を見つめた。


 リリア。


 花の名前を思わせる、柔らかな響き。


 ミレーヌと相談して決めた、新しい名前。


 それが今、初めて自分のものになった気がした。


「……はい」


 私は、鏡の中の女性に微笑みかけた。


「私も、気に入っています」


 *


 その日の午後、私は宿場町を出た。


 今度は、商人たちが乗り合う馬車に乗った。


 荷物は、小さな鞄ひとつ。


 中には着替えと、少しの現金。


 それから、母の形見の銀の指ぬき。


 大公妃として身につけていた宝石は、すべて屋敷に置いてきた。


 あれは、私のものではない。


 私が持ってきたのは、私自身のものだけだった。


 馬車には、旅商人の夫婦と、小さな男の子が乗っていた。


 男の子は、向かいの席から私をじっと見つめている。


「お姉ちゃん、どこ行くの?」


 突然尋ねられ、私は少し驚いた。


「ベルフェルよ」


「ベルフェル?」


「ええ。お花が綺麗な国だって聞いたの」


 男の子の目が輝いた。


「ぼくも、お花好き!」


「そうなの?」


「うん! お母さんに黄色い花をあげたことある!」


 隣に座る女性が、照れたように笑った。


「道端の花を摘んできただけなんですよ」


「でも、嬉しかったでしょう?」


 私が尋ねると、女性は優しくうなずいた。


「ええ。とても」


 男の子は、得意げに胸を張った。


 私は、思わず笑った。


 花を贈る。


 ただ、それだけのこと。


 けれど、誰かが喜んでくれる。


 その光景が、ひどく眩しかった。


 窓の外では、野の花が風に揺れている。


 いつか、私も花を売って暮らしたい。


 誰かが大切な人に贈る一輪を、一緒に選べたら。


 それは、どんなに素敵なことだろう。


 *


 国境に近い宿場町へ着いたのは、翌日の昼過ぎだった。


 私は、そこで一晩休むことにした。


 身体が、まだ長い移動に耐えられなかったからだ。


 宿の小さな部屋で、ミレーヌが用意してくれた身分証を取り出す。


 リリア・ベル。


 地方の小さな町で生まれ、仕事を探してベルフェルへ向かう平民の女性。


 もちろん、本当の身分ではない。


 ミレーヌは、エマさんのつてで、ベルフェルの商業組合に関係する者へ相談したと言っていた。


 事情があって故郷を離れ、仕事を探している女性がいる。


 そう説明して、旅に必要な書類を整えてもらったのだという。


 ただし、私の本当の身分は伝えていない。


 書類が正規の手続きに沿ったものでも、記された経歴は本当ではない。


 詳しく調べられれば、矛盾が見つかる可能性はある。


 私は、身分証を両手で持った。


 リリア・ベル。


 まだ、名前を名乗るたびに緊張する。


 けれど、もう引き返せない。


 私は、書類を鞄にしまった。


 明日、国境を越える。


 *


 翌朝。


 私は、国境の検問所へ向かった。


 帝国から隣国へ出るには、身分証の確認を受けなければならない。


 私は、鞄の中の書類を何度も確かめた。


 大丈夫。


 何度も自分に言い聞かせる。


 それでも、心臓は落ち着いてくれなかった。


 馬車が止まった。


「身分証を確認する!」


 兵士の声が響く。


 乗客たちは順番に書類を差し出していった。


 旅商人の夫婦が通される。


 男の子も、母親に手を引かれて進んでいく。


 そして、私の番になった。


「名前は?」


 兵士が無愛想に尋ねる。


「……リリア・ベルです」


 兵士は身分証を受け取り、記載された内容に目を通した。


「目的地は?」


「ベルフェル王国です」


「何をしに?」


「仕事を探しに参りました」


 兵士は、ふと顔を上げた。


 私をじっと見る。


「……あんた」


 心臓が跳ねた。


「はい」


「帝都から来たのか」


「……途中の宿場町から乗りました」


「そうか」


 兵士は再び書類に目を落とした。


 長い沈黙だった。


 背中に冷たい汗が伝う。


 もし、見破られたら。


 もし、クロード様の名が出たら。


 その先を考えたくなかった。


 やがて、兵士が身分証を差し出した。


「……通れ」


 一瞬、言葉の意味がわからなかった。


「……ありがとうございます」


 私は書類を受け取り、馬車へ戻った。


 ほどなくして、車輪が動き始める。


 検問所が遠ざかっていく。


 帝国の旗が、後ろへ流れていく。


 私は、窓の外を見つめた。


 国境を越えた。


 本当に、越えたのだ。


 帝国を。


 クロード様のいる国を。


 私は、膝の上で握りしめていた手を、ゆっくりと開いた。


 掌には、爪の跡が残っていた。


 *


 国境を越えてから、さらに数日。


 私は、ようやくベルフェルの小さな町へ到着した。


 赤い屋根。


 白い壁。


 緑の丘。


 そして、道沿いに咲く色とりどりの花。


「……綺麗」


 思わず、声が漏れた。


 窓から吹き込む風に、花の香りが混じっている。


 私は、目を閉じた。


 ここには、私を大公妃と呼ぶ人はいない。


 クロード様の妻だと知る人もいない。


 誰も、私に完璧な振る舞いを求めない。


 私は、ただのリリア。


 その名前で生きていける。


 それだけで、胸がいっぱいになった。


 *


 夕暮れの頃、私は町の中心にある広場へ着いた。


 石畳の道を歩き、広場を抜ける。


 角を曲がると、小さな看板が見えた。


『小鳥の宿』


 木製の看板には、小鳥が二羽、寄り添うように描かれている。


 窓辺には、赤い花が飾られていた。


 私は、立ち止まった。


 ここまで来られた。


 そう思った途端、急に足が重くなった。


 緊張が解けたのかもしれない。


 それでも、私は扉へ近づき、そっと叩いた。


「はーい!」


 明るい声が響いた。


 扉が開く。


 現れたのは、ミレーヌによく似た、若い女性だった。


「いらっしゃいませ! お泊まりですか?」


「……はい」


「お名前は?」


 私は、少しだけ微笑んだ。


「リリア・ベルです」


「リリアさんですね。私はエマ。この宿をやっています」


 ミレーヌの妹。


 彼女が目の前にいる。


 それだけで、胸が熱くなった。


「……ミレーヌさんから、こちらを教えていただきました」


 エマの表情が、わずかに変わった。


 けれど、すぐに優しい笑顔に戻る。


「……そうですか」


 彼女は、扉を大きく開けてくれた。


「ようこそ、小鳥の宿へ」


 私は、ゆっくりと中へ入った。


 暖炉の火が、ぱちぱちと音を立てている。


 焼きたてのパンの匂い。


 使い込まれた木の床。


 小さな食堂。


 どれも、豪華ではなかった。


 けれど、屋敷にはなかった温もりが、そこにはあった。


「お腹、空いていませんか?」


 エマが尋ねる。


 私は、思わず笑ってしまった。


「……とても」


「それなら、ちょうど夕食の準備ができていますよ」


「……いただいても、いいんですか?」


 エマは、不思議そうに瞬きをした。


「もちろんです。うちは宿屋ですから」


 そう言って、くすくす笑った。


 私も、つられて笑った。


 誰かと一緒に食べる夕食。


 温かい料理。


 そして、食べたいときに食べていいという、当たり前のこと。


 そんな小さな幸せが、今の私には何より贅沢に思えた。


 *


 その夜、私は小さな部屋で一人になった。


 窓の外には、静かな町並みが広がっている。


 遠くで、教会の鐘が鳴った。


 私は、鞄を開けた。


 中から、母の形見の銀の指ぬきを取り出す。


 何度も磨かれた、小さな指ぬき。


 掌に乗せると、冷たい銀が少しずつ体温になじんでいった。


「……お母様」


 小さく呟く。


「私、ここまで来られました」


 声にした途端、涙がこぼれた。


 自分でも、驚いた。


 悲しいわけではなかった。


 むしろ、嬉しかった。


 怖かった。


 何度も、引き返そうと思った。


 それでも、ここまで来た。


 私は、指ぬきを胸元に抱きしめた。


 お母様。


 私は、もう大公妃ではありません。


 あなたがつけてくれた名前も、今は使えません。


 けれど、どうか心配しないで。


 私は、ちゃんと生きています。


 そして、これからも生きていきます。


 涙を拭い、窓を開けた。


 夜風が、栗色の髪を揺らす。


 遠くの空には、星が瞬いていた。


 もう、誰かの帰りを待たなくていい。


 誰かの顔色をうかがわなくていい。


 自分の好きなものを選んでいい。


 自分の人生を、生きていい。


 私は、窓辺に立ったまま、そっと微笑んだ。


「……さようなら、大公妃セリア」


 その名前は、もう私のものではない。


 氷晶石の棺の中で、静かに眠っている。


 帝国最強の大公の妻として。


 愛されることを願い続けた、ひとりの女性として。


 けれど。


 私は、生きている。


 これからは、リリア・ベルとして。


 花を育てて、笑って、誰かと食卓を囲んで。


 そんな、当たり前の幸せを手に入れたい。


 明日になったら、町を歩いてみよう。


 市場へ行って、花を買おう。


 それから、仕事を探そう。


 いつか、小さな花屋を開けたらいい。


 朝、店先に花を並べて。


 通りかかった人に挨拶をして。


 誰かが大切な人へ贈る花を、一緒に選ぶ。


 そんな未来を思い描くと、自然と頬が緩んだ。


 私は、そっと目を閉じた。


 さようなら、クロード様。


 どうか、あなたも幸せに。


 私は、もう戻りません。


 そして。


 あなたが、私を探しに来ることもありませんように。


 窓の外で、風が花を揺らした。


 その夜。


 私は、生まれて初めて、明日が来ることを心から楽しみにして眠った。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。