6話 セリア目を開けろ
クロード・ヴァレンティアが大公邸に帰還したのは、夜明けから間もない頃だった。
予定より三日早い帰還。
北方遠征を終えた彼は、軍の後処理を副官に任せ、わずかな護衛だけを連れて帝都へ戻ってきた。
夜通し馬を走らせたせいで、黒い軍装には街道の砂埃がついていた。
それでも、クロードの頭には昨夜、宿場で受け取った報告書のことが残っていた。
『大公妃殿下より、帰還後の面会を希望する旨のお申し出がございました』
セリアが、自分に会いたがっている。
結婚したばかりの頃は、食事や会話の機会を求められることもあった。だが、最近はほとんどなかった。
何か、伝えたいことでもあるのだろうか。
帰ったら聞こう。
そう考えながら、クロードは大公邸の正門をくぐった。
いつもなら、玄関前には使用人たちが整列している。
執事長が一礼し、その少し後ろで、セリアが静かに微笑む。
『お帰りなさいませ、クロード様』
何度も聞いた、妻の声。
特別に意識したことなどなかった。
今日も、同じように聞けると思っていた。
けれど。
玄関前に、セリアの姿はなかった。
*
使用人たちは、整列していなかった。
数人が玄関の近くに立ち尽くし、誰もが青ざめた顔をしている。
泣き腫らした目をしている者もいた。
クロードは馬を降りた。
「何があった」
誰も答えなかった。
その沈黙が、妙に長く感じられた。
「執事長はどこだ」
「……こちらに」
人垣の向こうから、老齢の執事長が歩み出た。
長年この屋敷を取り仕切り、どんな事態にも動じなかった男だった。
その顔が、ひどく強張っていた。
「旦那様。お帰りなさいませ」
「挨拶はいい。何があった」
執事長は口を開きかけ、閉じた。
その様子に、クロードの眉が寄る。
「誰かが死んだのか」
戦場から戻ったばかりの彼には、それが最も単純な説明に思えた。
執事長の肩が、びくりと震えた。
「……はい」
「誰だ」
返事がない。
「答えろ」
執事長は深く頭を垂れた。
「……奥様が」
クロードは、動かなかった。
「奥様が、今朝……お亡くなりになりました」
その言葉は、はっきりと聞こえた。
意味も理解できた。
それなのに、頭の中で何かが噛み合わなかった。
「……誰が?」
自分でも、間の抜けた問いだと思った。
執事長は、顔を上げなかった。
「セリア様でございます」
クロードは、彼を見つめた。
「……馬鹿な」
「旦那様……」
「私が出立したとき、あいつは玄関にいた」
言いながら、クロードは自分の声が妙に遠く聞こえるのを感じた。
確かに、そこにいたのだ。
ひと月以上前。
いつもと同じように頭を下げて。
いつもと同じように、静かな声で見送ってくれた。
その後、妻に何があったのか。
クロードは、何ひとつ知らなかった。
「セリアはどこだ」
「ご自室に……」
クロードは、執事長の横を通り過ぎた。
背後で誰かが呼び止めたが、振り返らなかった。
軍靴が大理石の床を打つ。
廊下を曲がり、階段を上がる。
彼は、妻が日中を過ごす私室へ向かっていた。
夫婦の寝室とは別に設けられた、セリアだけの部屋。
三年間、彼がその扉を開けたことは、数えるほどしかなかった。
それなのに、今は迷うことなく扉の前に立っていた。
クロードは、取っ手をつかんだ。
そして、扉を押し開けた。
*
部屋の中には、薬草の匂いが漂っていた。
主治医と二人の助手が、寝台のそばに立っている。
床には水の入った鉢と、使い終えた布が置かれていた。
侍女のミレーヌは、窓際で泣いていた。
誰もがクロードの姿を見て、息を呑んだ。
「旦那様……!」
主治医が慌てて頭を下げる。
「説明しろ」
「奥様は今朝、寝台で意識を失われているところを発見されました。すぐに診察いたしましたが、呼吸も心拍も確認できず……」
「原因は」
「現時点では断定できません。急性の心機能の異常も考えられますが、詳しいことは……」
「治療は」
「可能な限りの処置を施しました。ですが、治癒魔法にも反応がなく……」
クロードは、医師の言葉を最後まで聞かなかった。
寝台の上に、白い布をかけられた身体が横たわっていた。
その輪郭を見た瞬間、胸の奥が冷たくなった。
「……セリア」
返事はなかった。
彼は寝台のそばに立ち、白い布を引き下ろした。
淡い銀色の髪が、枕の上に広がっていた。
閉じられた瞼。
血の気を失った頬。
薄く開いた唇。
あまりにも静かな顔だった。
眠っているだけだと言われれば、信じてしまいそうだった。
クロードは手袋を外した。
そして、セリアの頬に触れた。
冷たい。
指先が凍りつくほど、冷たかった。
「……セリア?」
彼女の名前を呼ぶ。
返事はない。
「おい」
肩に手をかけた。
「起きろ」
動かない。
「私が帰ったぞ」
いつもなら、彼が部屋に入れば、彼女は立ち上がった。
少し緊張した顔で微笑み、丁寧に頭を下げる。
『お帰りなさいませ、クロード様』
その声が、今は聞こえない。
「……セリア」
クロードは、彼女の手を握った。
指先まで冷えきっていた。
「目を開けろ」
声が低くなる。
「聞こえているのだろう」
返事はない。
「セリア、目を開けろ!」
クロードは、彼女の身体を抱き起こした。
次の瞬間、彼の手から紫色の光があふれ出した。
膨大な魔力が、セリアの身体を包み込む。
それは治癒魔法ではなかった。
クロードが得意とするのは氷の魔術であり、傷や病を癒やす術には長けていない。
だが、魔力を流し込めば、生きている者の体内を巡る魔力の反応を感じ取ることはできる。
ほんのわずかでも、命の兆しが残っているのなら。
それを見つけられるかもしれない。
クロードは、祈るような気持ちで魔力を注いだ。
だが。
何も、返ってこなかった。
セリアの身体には、生者特有の魔力の巡りが感じられない。
まるで、命そのものが完全に失われてしまったかのように。
「……なぜだ」
クロードは、さらに魔力を注いだ。
紫色の光が強まり、部屋の空気が震える。
けれど、彼女の身体は何も答えなかった。
彼は知らなかった。
セリアが飲んだ禁制の秘薬『死者の眠り』には、呼吸や鼓動だけでなく、体内の魔力の流れまでも極限まで抑え込む作用があることを。
命は、まだ失われていない。
ただ、その兆しが、誰にも見つけられないほど深く沈んでいるだけだった。
「旦那様……どうか、もう……!」
主治医の声が響いた。
「黙れ!」
怒声が部屋を震わせた。
窓硝子が細かく鳴り、棚の上の花瓶が揺れた。
誰も動けなかった。
クロードは、セリアの身体を抱きしめたまま、何度も魔力を流し込んだ。
彼は戦場で、数えきれないほどの命を奪ってきた。
敵の城門を砕き、軍勢を退け、どれほど深い傷を負っても立ち上がってきた。
帝国の誰もが、彼の力を恐れた。
それなのに。
たった一人の女が生きているかどうかさえ、確かめることができない。
「……頼む」
声が、かすれた。
「セリア……頼むから、目を開けてくれ」
彼女の額に、自分の額を押し当てた。
「私が帰ってきたんだ」
その言葉を、彼は三年間、一度も彼女に伝えなかった。
帰還したときも。
屋敷で顔を合わせたときも。
彼女が一人で食卓についていたときも。
いつでも言えると思っていた。
次に会ったときでいい。
時間ができたときでいい。
そうやって、先延ばしにしてきた。
だが、今。
彼女はもう、何も答えない。
*
どれほどの時間が過ぎただろう。
クロードは、ようやくセリアの身体を寝台に横たえた。
主治医たちは、誰も口を開かなかった。
ミレーヌだけが、窓際で静かに泣いていた。
クロードは、彼女を見た。
「……いつからだ」
ミレーヌが顔を上げる。
「何が、でございましょうか」
「セリアの具合が悪かったのは、いつからだ」
「……奥様は、以前からお疲れのご様子でした」
「なぜ報告しなかった」
ミレーヌの顔が、強張った。
彼女は何かを言いかけ、唇を閉じた。
その沈黙に、クロードは苛立った。
「聞いている」
「……申し訳ございません」
ミレーヌは深く頭を下げた。
「ですが、奥様は……」
そこで、言葉が途切れた。
クロードは、彼女を見つめた。
「何だ」
ミレーヌは、震える声で答えた。
「奥様は、何度も……旦那様にお会いしたいと、おっしゃっておりました」
クロードの眉が動いた。
「……何?」
「お食事をご一緒したいと。少しだけでも、お話がしたいと……」
ミレーヌの目から、涙がこぼれた。
「けれど、いつも……お忙しいからと……」
彼女は、それ以上言えなかった。
クロードは、何も答えなかった。
その言葉は、責める声ではなかった。
ただ、事実を告げているだけだった。
それが、かえって胸に刺さった。
会いたい。
話したい。
一緒に食事をしたい。
そんな願いを、彼女が抱いていたことすら、知らなかった。
いや。
知らなかったのではない。
知ろうとしなかったのだ。
*
ふと、机の上に一通の手紙が置かれていることに気づいた。
白い封筒。
赤い封蝋。
宛名には、見慣れた文字でこう記されていた。
『クロード様へ』
クロードは手紙を手に取った。
指先が震えている。
封を切ると、几帳面に整えられた文字が目に入った。
それは、妻からの最後の手紙だった。
彼は、一瞬ためらった。
何が書かれているのだろう。
なぜ私を見てくれなかったのか。
なぜ一度も、愛していると言ってくれなかったのか。
どれほど寂しかったか。
どれほど苦しかったか。
彼女なら、そう書いていてもおかしくない。
むしろ、そう書かれていたほうがよかった。
自分を責めてくれるのなら、まだ彼女の心の中に自分という存在が残っているように思えたからだ。
けれど、手紙に記されていたのは、彼の想像とはまるで違う言葉だった。
『クロード様。
北方遠征、お疲れさまでございました。
私物の整理につきましては、侍女のミレーヌにお願いしております。
大公妃としての公務に関する引き継ぎ資料は、書斎の机上にまとめてあります。
なお、慈善院では冬季の燃料が不足しているとの報告を受けております。可能であれば、追加のご支援をご検討ください。
これまで三年間、何不自由ない暮らしを与えてくださったこと、深く感謝申し上げます。
大公閣下のご健勝と、ヴァレンティア家のますますの繁栄を、心よりお祈り申し上げます。
セリア』
クロードは、動かなかった。
一度、読み終えた。
それでも、手紙から目を離せなかった。
もう一度、最初から読む。
何かを見落としている気がした。
文章の裏に、隠された意味があるのではないか。
最後に、小さな一文でも添えられているのではないか。
封筒の中を確かめ、便箋を裏返し、光に透かした。
何もなかった。
あるのは、丁寧な礼儀と、事務的な引き継ぎだけ。
愛している、という言葉はない。
寂しかった、という言葉もない。
あなたを許さない、という言葉さえない。
「……どうしてだ」
声が漏れた。
彼女は、なぜ自分を責めないのだろう。
なぜ、何も言わないのだろう。
なぜ、まるで他人に宛てた業務報告のような手紙を残したのだろう。
クロードは、便箋を握りしめた。
彼女は、何も言わなかったのではない。
言わなくなったのかもしれない。
何度も伝えようとして。
何度も諦めて。
そして最後には、何も求めなくなったのかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥に、鋭い痛みが走った。
「……セリア」
呼びかけても、返事はなかった。
クロードは、ゆっくりと床に膝をついた。
握りしめた便箋に、雫が落ちた。
もう一滴。
文字が、滲んでいく。
戦場で傷を負っても、仲間を失っても、彼は泣かなかった。
泣く必要などないと思っていた。
失ったものは取り戻せない。
ならば、前に進むしかない。
そうやって、すべてを切り捨ててきた。
だが、今だけは。
今だけは、前に進むことなどできなかった。
「……すまない」
声が震えた。
「すまない、セリア……」
彼は、彼女の手を取った。
冷たい指を、自分の両手で包み込む。
「頼む……一度でいい」
顔を伏せた。
「私を、恨んでくれ……」
その言葉に、彼女は答えなかった。
彼女の手は、握り返してくれない。
彼女の瞳が、自分を映すこともない。
どれほど名前を呼んでも。
どれほど謝っても。
彼女は、目を開けなかった。
*
昼を過ぎた頃。
屋敷の正門に、一台の黒い馬車が到着した。
葬儀職人を乗せた馬車だった。
ミレーヌは、その知らせを聞いた瞬間、胸が締めつけられるような思いがした。
来てくれた。
約束どおりに。
これで、奥様を運び出せるかもしれない。
彼女は、急いで玄関へ向かった。
けれど、その途中で、執事長に呼び止められた。
「ミレーヌ」
「……はい」
「葬儀職人には、お帰りいただくことになった」
ミレーヌは、足を止めた。
「……え?」
「旦那様のご命令だ。奥様の埋葬は、当面のあいだ延期される」
頭の中が、真っ白になった。
「……延期、ですか」
「ああ。奥様のお身体は、氷晶石の棺に納めることになった。準備が整うまで、誰にも触れさせるなとのことだ」
ミレーヌは、言葉を失った。
氷晶石。
帝国でも、ごく限られた貴族しか手に入れられない希少な魔石。
強い冷却と保存の魔法を宿し、内部に納めたものを長期間、そのままの状態で保つことができる。
その棺に入れられれば、奥様の身体は外へ運び出せなくなる。
それどころか。
三日後、奥様が目を覚ましたとき。
棺が閉ざされたままだったら。
ミレーヌの指先が、冷たくなった。
「……執事長様」
震える声で、尋ねた。
「棺は……開けられるのでしょうか」
執事長は、不思議そうに彼女を見た。
「もちろん、必要があれば開けられるだろう。保存術式の点検や移送に備えた管理機構もあると聞いている。だが、旦那様の許可なく触れることは禁じられている」
「……そう、ですか」
ミレーヌは、深く頭を下げた。
これ以上、尋ねてはいけない。
不審に思われてしまう。
そうわかっていた。
けれど、胸の奥で、恐怖が膨らんでいく。
奥様は、三日後に目を覚ますはずだ。
そのとき、誰もそばにいなければ。
誰も棺を開けられなければ。
彼女は、ようやく取り戻しかけた命を、もう一度失ってしまうかもしれない。
ミレーヌは、唇を噛んだ。
泣いている場合ではなかった。
まだ、終わっていない。
奥様は、生きている。
そう信じているのは、この屋敷で自分だけなのだ。
*
夕刻。
クロードは、妻の私室にいた。
窓辺には、白い花が一輪飾られていた。
茎が少し曲がった、小さな花だった。
彼は、その花を見つめた。
セリアは、花が好きだった。
それくらいは、知っていた。
だが、どんな花が好きなのか。
どんな色を好むのか。
庭園のどこを気に入っていたのか。
何ひとつ、思い出せなかった。
机の上には、彼女が残した手紙が置かれていた。
クロードは、それをもう一度手に取った。
何度読んでも、文章は変わらない。
礼儀正しく、静かで、何も求めていない。
まるで、最初から自分など必要としていなかったかのように。
「……セリア」
彼は、寝台のそばに腰を下ろした。
白い布の下で、妻は眠っている。
もう、目を覚ますことはない。
そう告げられても、まだ信じられなかった。
「……お前は、何が欲しかったんだ」
声が、静かな部屋に落ちた。
返事はない。
「花か。宝石か。それとも……」
言葉が途切れた。
昨夜、宿場で受け取った報告書を思い出す。
『大公妃殿下より、帰還後の面会を希望する旨のお申し出がございました』
彼女は、会いたいと言っていた。
何かを贈ってほしいとは、一度も言っていなかった。
ただ、話がしたいと。
それだけだった。
クロードは、目を閉じた。
「……そんなことすら、私は」
できなかった。
三年間も。
彼は、妻の手を取った。
冷たい指先を、そっと握る。
「……今度こそ、そばにいる」
その言葉が、どれほど遅すぎたものなのか。
彼自身が、誰よりもわかっていた。
けれど、手を離すことができなかった。
やがて、扉の向こうから執事長の声がした。
「旦那様。氷晶石の棺の準備が整いました」
クロードは、ゆっくりと顔を上げた。
「……運べ」
短く命じた。
そして、妻の手を握りしめたまま、続けた。
「誰にも、連れ出させるな」
その声には、冷たい決意が宿っていた。
彼は、まだ知らなかった。
その命令が、妻の命を再び危険にさらすことになるのだと。
*
その夜。
ミレーヌは、誰もいない廊下で、ひとり立ち尽くしていた。
奥様の部屋の前には、二人の護衛が立っている。
扉の向こうには、氷晶石の棺。
そして、その中には。
三日後に目を覚ますはずの、セリアがいる。
ミレーヌは、震える手を握りしめた。
あと、二日。
たった二日しかない。
その間に、どうにかして棺を開けなければならない。
どうにかして、奥様を連れ出さなければならない。
けれど、帝国最強の大公が、その扉の向こうにいる。
誰にも触れさせるなと命じた、あの方が。
ミレーヌは、唇を噛んだ。
そして、心の中で、何度も繰り返した。
奥様。
どうか、待っていてください。
必ず、お迎えにまいります。
その祈りが届くかどうかは、まだ誰にもわからなかった。
*
――その朝、帝国最強の大公は、妻を失った。
そして、初めて知った。
もう二度と、セリアに「お帰りなさい」と言ってもらえないのだと。




