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私が死んだ日、冷血大公の夫は国を焼き始めました――三年後、花屋になった私を見つけた暴君が絶対に離してくれません  作者: 茗子


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5話 最後の手紙は業務報告


人がひとり、この世から消えるためには、どれほどの荷物を片づけなければならないのだろう。


私は衣装棚の扉を開け、ずらりと並んだドレスを眺めていた。


絹、レース、宝石を縫い込んだ刺繍。


どれも、私ひとりでは到底買えないような高価なものばかりだ。


けれど、これから向かう場所に、そのどれも必要なかった。


「こちらも、お持ちにならないのですか?」


ミレーヌが、淡い青色のドレスを手に取った。


結婚した翌年、クロード様から贈られたものだった。


正確には、夫の名義で届けられたものだ。


箱には宝石商の署名入りのカードが添えられていたけれど、クロード様の筆跡はどこにもなかった。


「ええ。置いていくわ」


「……お気に召していたと思っておりました」


「綺麗だもの。今でも好きよ」


私は、その柔らかな生地を指先で撫でた。


「でも、これを着て行ける場所がなかったの」


ミレーヌは、何も言わなかった。


私はドレスを衣装棚へ戻した。


持っていくのは、質素な服を二着。


小さな革袋に収まる程度の路銀。


それから、幼い頃に母がくれた、古い銀の指ぬき。


誕生日にミレーヌから贈られた白い花の花びらも、押し花にして薄い紙に包んである。


大公妃として与えられた宝石には、ひとつも手をつけなかった。


それらは私のもののようでいて、結局はヴァレンティア家のものだったから。


身につければ、私が誰なのかを知らせる目印にしかならない。


「……荷物は、これだけね」


私は小さな革袋を閉じた。


たったそれだけで、三年間の暮らしが収まってしまった。


少し、おかしかった。


けれど、笑おうとすると、胸の奥が痛んだ。


机の引き出しには、夫に宛てて書いた古い手紙の箱がある。


返事の来なかった手紙。


書き上げても、渡せなかった手紙。


それらは、持っていかないことにした。


もう、返事を待つ必要はないのだから。


*


クロード様が帰還される前日。


大公邸は、朝から慌ただしかった。


北方遠征が予定より三日早く終わり、閣下は明日の朝には到着される。


その知らせが届いたのは、今朝のことだった。


玄関ホールの大理石は磨き直され、廊下には新しい花が飾られている。


厨房では帰還を祝う晩餐の準備が進み、執事長の指示が屋敷中に響いていた。


私は二階の回廊から、その様子を眺めていた。


誰もが忙しそうだった。


誰もが、明日を待っていた。


私だけが、明日も大公妃として生きるつもりはなかった。


「奥様」


背後から、執事長が声をかけてきた。


「帰還後の晩餐につきまして、最終のご確認をお願いできますでしょうか」


「ええ」


私は差し出された書類を受け取った。


料理の献立。


使用人の配置。


出迎えの手順。


私は一枚ずつ目を通し、必要な箇所に署名した。


最後のページには、主賓としてクロード様の名が記されていた。


その隣に、私の名前もあった。


セリア・ヴァレンティア。


大公妃。


私は、その文字をしばらく見つめた。


「……奥様?」


「いいえ。何でもないわ」


私は、微笑んで書類を返した。


「準備をありがとう。皆にも、無理をしないよう伝えてちょうだい」


「承知いたしました」


執事長は一礼し、足早に去っていった。


その背中を見送りながら、私は思った。


明日になれば、私の席は空になる。


晩餐も、おそらく中止になるだろう。


けれど、しばらくすれば屋敷は再び動き出す。


帳簿は誰かが引き継ぎ、庭園は季節に合わせて手入れされ、食卓には毎朝、決まった料理が並ぶ。


私がいなくても、この屋敷は続いていく。


それが少し寂しくて。


けれど同時に、ほっとしていた。


*


午後。


私は書き物机に向かい、真っ白な便箋を引き寄せた。


ペン先にインクを含ませる。


『クロード様へ』


たったそれだけを書くのに、少し時間がかかった。


三年間、私は何度も夫に手紙を書いた。


庭に咲いた花のこと。


新しく取り寄せた茶葉のこと。


雨が続いているので、お身体を冷やさないようにということ。


どれも、返事を強く求めるような内容ではなかった。


忙しい方だから。


お邪魔になってはいけないから。


そう言い聞かせながら、私はいつも短い手紙を書いた。


そして、返事を待った。


一度も届かなかったけれど。


今度こそ、最後の手紙だ。


何を書こう。


そう考えた途端、胸の奥から、いくつもの言葉が浮かんできた。


寂しかった。


一度でいいから、一緒に食事をしたかった。


私の誕生日を覚えていてほしかった。


名前を呼んでほしかった。


妻として、愛されたかった。


たった一言、そう書くだけでもよかったのかもしれない。


けれど。


私は、ペンを動かした。


『クロード様。


北方遠征、お疲れさまでございました。


私物の整理につきましては、侍女のミレーヌにお願いしております。


大公妃としての公務に関する引き継ぎ資料は、書斎の机上にまとめてあります。


なお、慈善院では冬季の燃料が不足しているとの報告を受けております。可能であれば、追加のご支援をご検討ください。


これまで三年間、何不自由ない暮らしを与えてくださったこと、深く感謝申し上げます。


大公閣下のご健勝と、ヴァレンティア家のますますの繁栄を、心よりお祈り申し上げます。


セリア』


最後の一文を書き終え、私はペンを置いた。


しばらく、便箋を見つめた。


そこに並んでいるのは、礼儀正しく、簡潔で、何の感情も感じさせない言葉ばかりだった。


まるで、長年勤めた使用人が退職の際に残す報告書のようだ。


私は、小さく笑った。


夫婦として三年間を過ごした相手に宛てた、最後の手紙。


それなのに、伝えたいことが何ひとつ書かれていない。


いいえ。


違うのだろう。


伝えたいことがなかったのではない。


伝えたいと思うことさえ、もう諦めてしまったのだ。


何を書いたところで、彼が私の気持ちを知ろうとするとは思えなかった。


だから、これでいい。


私たちの三年間には、これくらいの言葉がふさわしい。


便箋を丁寧に折りたたみ、封筒に収める。


最後に封蝋を垂らし、ヴァレンティア家の紋章を押した。


赤い蝋が固まるのを見届けてから、私は手紙を机の中央に置いた。


これで、終わり。


*


夕刻。


ミレーヌが、私の部屋を訪ねてきた。


彼女は扉を閉めると、廊下に人の気配がないことを確かめた。


「……奥様。最後の確認をしても、よろしいでしょうか」


「ええ」


私は椅子を勧めた。


ミレーヌは腰を下ろさず、私の前に立ったまま話し始めた。


「エマからの返事が届いております。『小鳥の宿』では、お部屋を空けて待ってくれています」


「……そう」


隣国ベルフェル。


まだ一度も訪れたことのない国。


そこには、ミレーヌの妹エマが営む小さな宿がある。


事情のある女性が、住み込みで働ける場所を探している。


ミレーヌは、そう説明してくれたらしい。


エマには、商業ギルドの伝書魔法を使って連絡を取ったという。


通常の手紙より費用はかかるけれど、隣国との連絡にも数日とかからないらしい。


エマは詳しい事情を尋ねず、受け入れてくれると返事をくれた。


「本当に、ありがたいわね」


「はい」


「いつか、きちんとお礼をしなくては」


ミレーヌは、少しだけ微笑んだ。


けれど、その表情はすぐに曇った。


「……奥様。もうひとつ、確認しなければならないことがございます」


「何かしら」


「明日の昼過ぎ、葬儀職人が屋敷へ来る手はずになっております」


私は、うなずいた。


その男は、以前ミレーヌの家族の葬儀に関わったことがあるという。


まだ若かったミレーヌが、親族の葬儀を取り仕切らなければならなくなったとき、費用の相談にも乗り、最後まで親身になってくれた人だった。


今回、ミレーヌは彼に、普通ではない依頼をしている。


ある女性を、表向きは亡くなった者として屋敷の外へ運び出したい。


詳しい事情は話せないが、関われば重大な罪に問われる危険がある。


そう伝えたうえで、協力を頼んだのだ。


男はすぐには承諾しなかったという。


当然だと思う。


私が彼の立場でも、同じようにためらっただろう。


それでも、ミレーヌが何度も頭を下げると、最後には条件付きで引き受けてくれた。


屋敷の正式な許可なく、遺体を運び出すことはできない。


葬儀の準備を任され、遺体の移送が認められた場合に限り、協力する。


それが、彼の返事だった。


「ただ、もうひとつだけ、教えていただいたことがございます」


「……何かしら」


「古い礼拝堂には、かつて葬送に使われていた裏の通路が残っているそうです」


私は、思わず顔を上げた。


「そこから外へ出られるの?」


「可能性はございます。ですが、今も使えるかどうかは、わかりません」


ミレーヌは、唇を噛んだ。


「だからこそ、奥様。確実な方法が見つかるまで、お待ちいただきたいのです」


「……つまり、礼拝堂へ移されたあとも、必ず運び出せるとは限らないのね」


「はい」


ミレーヌは、目を伏せた。


「ですから、奥様。私は、今夜の実行をお勧めできません」


私は、彼女を見つめた。


「……そうね」


それは、私も考えていたことだった。


最初に計画を立てたとき、クロード様の帰還までは、まだ数日の猶予があった。


医師の診察を受け、礼拝堂へ運ばれ、葬儀の手続きが始まる。


その間に、ミレーヌが私の身体を運び出す。


少なくとも、夫が不在のあいだなら、屋敷の慣例に従って進められる可能性があった。


けれど、今朝届いた帰還の知らせで、状況は変わってしまった。


明日の朝には、クロード様が戻ってくる。


私の死を知れば、あの方自身が葬儀について指示を出すかもしれない。


帝国最強の魔術師である夫に、仮死の状態を見破られる可能性だってある。


「……延期しましょうか」


私が言うと、ミレーヌは顔を上げた。


「奥様……」


「あなたと約束したもの。危険が大きすぎると判断したら、中止するって」


ミレーヌの目に、安堵の色が浮かんだ。


けれど、それは長く続かなかった。


「ただ……」


彼女は、言いにくそうに続けた。


「閣下がお戻りになれば、屋敷の警備は通常の体制に戻ります。今よりも人の出入りが厳しく管理されるでしょう」


「ええ」


「それに、奥様のご様子を不審に思われれば、私にも事情をお尋ねになるかもしれません」


私は、ミレーヌを見つめた。


確かに、そうだった。


計画を延期しても、準備を進めた事実が消えるわけではない。


薬を手に入れたこと。


葬儀職人に依頼したこと。


隣国にいるエマへ連絡を取ったこと。


もし、どこかから話が漏れれば、ミレーヌも無事では済まないだろう。


私ひとりが逃げられなくなるだけではない。


私を助けようとした人たちまで、罪に問われるかもしれないのだ。


「……ミレーヌ」


「はい」


「あなたは、私を助けたことを後悔していない?」


ミレーヌは、驚いたように顔を上げた。


「一度も、ございません」


その答えに、迷いはなかった。


「ですが、奥様を失うことだけは……後悔してもしきれません」


私は、彼女の手を取った。


「ありがとう」


その手は、私よりもずっと温かかった。


私は、窓の外を見た。


夕陽が庭園を赤く染めている。


ここで計画を中止すれば、少なくとも今夜、命を危険にさらすことはない。


それは、確かなことだった。


けれど、次の機会が訪れる保証もなかった。


夫が戻れば、私はまた大公妃としての暮らしに戻る。


何事もなかったように、朝食を取り、公務をこなし、帰りを待つ。


その日々が、いつまで続くのか。


私は、もう知りたくなかった。


「……今夜にするわ」


口にした瞬間、胸が痛んだ。


無理だと思ったら中止すると、私自身が約束したのに。


それでも、次の機会が訪れるとは思えなかった。


私が告げると、ミレーヌの指が震えた。


「奥様……」


「約束を破ることになるわね。ごめんなさい」


私は、彼女の目を見つめた。


「でも、もうひとつだけ約束して」


「……何でしょうか」


「途中で少しでも無理だと思ったら、計画を止めて。葬儀職人の方にも、危険を冒してまで私を運び出さないよう伝えてちょうだい」


「ですが、それでは奥様が……」


「ええ。目覚めたあと、逃げられないかもしれないわ」


私は、静かに答えた。


「それでも、あなたたちまで失いたくないの」


ミレーヌの唇が震えた。


「……私は、奥様のおそばにいたいのです」


「ありがとう」


私は、彼女の手を握り返した。


「でも、あなたにはあなたの人生があるわ」


その言葉を口にしたとき、ふと気づいた。


私は、ずっと自分の人生を誰かに預けていた。


父に。


大公家に。


そして、クロード様に。


けれど、ミレーヌには同じことをしてほしくなかった。


彼女が私を助けると決めたように。


私も、自分の意思で選ばなければならない。


*


夜が更けた。


屋敷の灯りが、ひとつ、またひとつと消えていく。


私は、窓辺に立っていた。


庭園の向こうには、黒々とした森が広がっている。


そのさらに向こうに、帝都の街並みがある。


そして、もっと遠くに。


私の知らない世界がある。


私は、そっと窓を開けた。


冷たい夜風が、頬を撫でた。


自由とは、どんなものなのだろう。


誰にも許可を求めずに歩くこと。


自分の好きな花を育てること。


朝起きたとき、今日が楽しみだと思えること。


そんな、当たり前のことなのかもしれない。


私は、窓辺の白い花を見た。


ミレーヌが庭園から持ってきてくれた、新しい花。


茎が少し曲がっていたけれど、まだ美しく咲いていた。


誕生日にもらった花は、もう押し花になっている。


私は、そっと花びらに触れた。


茎が曲がっていても、花はまだ咲いている。


私も、もう一度咲けるだろうか。


そう思いながら、机の引き出しから小さな黒い瓶を取り出した。


そのとき、扉が控えめに叩かれた。


「……奥様。ミレーヌです」


「どうぞ」


彼女が、静かに入ってきた。


私の手にある瓶を見ると、表情を強張らせた。


「……まだ、間に合います」


私は、彼女を見つめた。


「ええ。わかっているわ」


「本当に、今夜でよろしいのですか」


私は、すぐには答えなかった。


心臓が、ひどく速く打っている。


手のひらには汗が滲み、指先は冷たくなっていた。


この薬を飲めば、私は死者になる。


三日間だけ。


あるいは、永遠に。


もし目覚めなかったら。


もし、誰にも気づかれないまま、本当に死んでしまったら。


その恐怖は、消えなかった。


けれど。


このまま何十年も、誰かに許可を求めながら生きていく未来を思うと、胸が苦しくなった。


私は、もう一度だけ窓辺を見た。


白い花が、月明かりの中で静かに咲いている。


茎が曲がっていても。


誰にも見られていなくても。


花は、自分の力で咲いていた。


「……ミレーヌ」


「はい」


「もし、私が目覚めたら」


私は、彼女を見つめた。


「最初に、何をしようかしら」


ミレーヌは、涙をこらえながら微笑んだ。


「……温かい牛乳を、お淹れします」


私は、思わず笑った。


「蜂蜜を入れて?」


「はい。たっぷりと」


「それから?」


「朝食を召し上がっていただきます。奥様のお好きなものを、何でも」


「……そうね」


私は、目を閉じた。


温かい牛乳。


焼きたてのパン。


小さな窓から差し込む朝の光。


そんなものが、今は何よりも欲しかった。


「……私、新しい名前を考えたの」


私は、そっと告げた。


ミレーヌが、驚いたように目を瞬かせる。


「新しい、お名前ですか?」


「ええ。セリア・ヴァレンティアではなくなったら、必要でしょう?」


私は、小さく微笑んだ。


「リリア・ベル」


口に出してみると、不思議な響きがした。


リリア。


幼い頃から好きだった、百合の花を思わせる名前。


ベルは、これから向かうベルフェルの国名から取った。


まだ何者でもない私が、最初に自分で選んだ名前だった。


「……素敵なお名前です」


ミレーヌが、涙を拭いながら言った。


「そう?」


「はい。とても、奥様らしいと思います」


私は、少しだけ笑った。


「これからは、奥様ではなく、リリアと呼んでくれる?」


ミレーヌは、何度か唇を動かした。


けれど、なかなか声が出なかった。


やがて、小さく息を吸う。


「……リリア様」


私は、首を振った。


「様も、いらないわ」


「……リリア」


「ええ」


その名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が、ふっと温かくなった。


私は、誰かの妻でなくてもいい。


大公妃でなくてもいい。


ただの私として、生きていける。


そう思えた。


「……三日後に、また会いましょう」


私は、ミレーヌに微笑んだ。


彼女の頬を、涙が伝った。


「……はい」


震える声が返ってきた。


「必ず、お迎えにまいります」


私は、瓶の栓を開けた。


かすかに、薬草の香りがした。


最後に、もう一度だけ考えた。


本当に、これでいいのだろうか。


私の人生は、これほど危険な賭けをしなければ取り戻せないものなのだろうか。


答えは、出なかった。


ただ、わかっていることがひとつだけあった。


私は、生きたかった。


クロード様の妻としてではなく。


大公妃としてでもなく。


ただ、私として。


私は、ゆっくりと瓶を傾けた。


冷たい液体が、喉を通っていく。


苦味は、ほとんどなかった。


飲み終えた瓶を、ミレーヌに渡す。


彼女はそれを受け取り、用意していた布に包んだ。


瓶は、この部屋に残さず、誰にも見つからないよう処分する手はずになっていた。


「……奥様」


彼女の声が、遠く聞こえた。


私は、寝台に横たわった。


胸の奥が、少しずつ冷えていく。


指先の感覚が薄れていく。


まぶたが、重い。


私は、ミレーヌの手を探した。


温かい手が、私の手を包んでくれる。


「……怖いわ」


思わず、呟いた。


「はい」


ミレーヌは、泣きながら答えた。


「……私も、怖いです」


私は、かすかに笑った。


誰かと同じ気持ちでいられることが、こんなにも心強いなんて。


知らなかった。


視界が、ゆっくりと暗くなる。


窓辺の白い花が、ぼやけていく。


最後に思い浮かんだのは、夫の顔ではなかった。


まだ見たことのない、小さな花屋。


朝の光が差し込む窓。


花の香りに包まれた、静かな暮らし。


そして。


自分の名前を、自分の声で名乗る未来だった。


リリア・ベル。


どうか。


その名前で、もう一度、目を覚ませますように。


私は、静かに目を閉じた。


*


同じ頃。


帝国北部から帝都へ続く街道を、一騎の馬が駆けていた。


黒い軍装に身を包んだ男が、手綱を握っている。


クロード・ヴァレンティア。


帝国最強と謳われる大公は、北方遠征を予定より三日早く終え、帝都への帰路についていた。


反乱軍の鎮圧が予想以上に早く終わったのだ。


屋敷には、明日の午前中に到着すると伝えてある。


だが、遠征軍の後続部隊を待たずに先行したことで、帰路は予定よりさらに短縮されていた。


夜通し馬を走らせれば、夜明けには大公邸へ到着できる。


馬を休ませるため、街道沿いの宿場に立ち寄ったときのことだった。


「閣下。大公邸からの報告書でございます」


副官が、数通の書類を差し出した。


クロードは、それらを受け取った。


領地の収支。


慈善院への寄付。


屋敷の修繕費用。


どれも、いつもどおりの報告だった。


その中に、妻の名を見つけた。


『大公妃殿下より、帰還後の面会を希望する旨のお申し出がございました』


クロードは、わずかに眉を動かした。


「……セリアが?」


「はい。先日、書簡が届いております。お急ぎのご用件ではないとの判断で、帰還後にお取り次ぎするよう手配いたしました」


クロードは、書類に目を落とした。


妻が、自分に会いたいと言っている。


珍しいことではなかった。


結婚したばかりの頃は、何度かそのような申し出があった。


けれど、最近はほとんどなかったはずだ。


「……わかった」


クロードは、短く答えた。


「帰還後に時間を取る」


「承知いたしました」


副官が一礼して去っていく。


クロードは、報告書を閉じた。


そういえば、妻の顔を最後に見たのは、ひと月以上前だった。


出立の日。


玄関ホールで、彼女はいつものように頭を下げていた。


『どうか、お気をつけて』


淡い銀色の髪。


静かな声。


何か言いたげに見えたのは、気のせいだっただろうか。


クロードは、記憶を辿ろうとした。


けれど、あの日は出立の準備に追われていた。


妻がどんな表情をしていたのか、はっきりと思い出せない。


帰ったら、話そう。


何か用件があるのなら、聞けばいい。


それくらいの時間は、取れるだろう。


クロードは、そう考えた。


そして、再び馬に跨った。


夜明けまでには、帝都へ着く。


そうすれば、いつものように妻が出迎えるはずだった。


『お帰りなさいませ、クロード様』


彼女は、いつもそう言った。


クロードは、その声を特別に意識したことがなかった。


明日も、同じように聞けると思っていたから。


彼は知らなかった。


妻が、どれほど長いあいだ、その言葉のあとに返事を待っていたのかを。


そして、ちょうどその頃。


彼がようやく妻の話を聞こうと決めた夜に、セリア・ヴァレンティアの鼓動が、死者と見分けがつかないほど微かになっていたことを。


――その夜、大公妃セリアは死んだ。




少なくとも、誰もがそう信じることになる。


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