4話 三日間だけ死者になる薬
「……死んだことに、するのですか?」
ミレーヌは、私の言葉をゆっくりと繰り返した。
その顔から、みるみる血の気が引いていく。
「ええ」
「ですが、奥様。それでは、本当に……」
「死ぬつもりはないわ」
私は、首を横に振った。
「生きたまま、この屋敷から消える方法を探したいの」
昨日、私はミレーヌに打ち明けた。
大公妃をやめたい。
誰にも知られず、この屋敷を出ていきたい。
彼女は、一緒に方法を考えると言ってくれた。
それから一晩、私は考え続けた。
離縁は難しい。
実家には戻れない。
身分を隠して逃げたとしても、帝国最強の大公が本気で捜索を命じれば、見つかるのは時間の問題だろう。
クロード様が私を愛していなくても、大公妃の失踪を放置するわけにはいかない。
それは夫婦の問題ではなく、大公家の威信に関わるからだ。
ならば、どうすればいいのか。
生きている私を探されるのなら。
探す必要のない人間になればいい。
そして今、ようやく思いついた方法を、ミレーヌに伝えたのだ。
「……ですが、奥様」
ミレーヌは、まだ納得できない様子だった。
「死を偽装するなど、簡単なことではございません。医師が診察すれば、すぐに見破られてしまいます」
「そうね」
「それに、万が一、閣下がお戻りになれば……」
そこで、彼女は言葉を切った。
私も、黙り込んだ。
クロード・ヴァレンティア。
帝国最強の剣士にして、氷の魔術を操る大公。
戦場では、その魔術だけで敵軍の進軍を止めたこともあるという。
人々は畏怖を込めて、あの方を『氷獄の大公』と呼ぶ。
そんな人を欺くのだ。
ただ眠ったふりをするだけでは、到底通用しないだろう。
「……だから、方法を探したいの」
私は、ミレーヌを見つめた。
「本当に死んだように見せる方法を」
ミレーヌは、しばらく黙っていた。
やがて、何かを思い出したように顔を上げた。
「……ひとつだけ、心当たりがございます」
「本当?」
「ですが、確かな話ではありません」
彼女は扉を振り返り、声を潜めた。
「昔、薬師のもとで働いていた知人から、奇妙な薬の話を聞いたことがあるのです」
私は、息を呑んだ。
「……どんな薬なの?」
「生きた人間を、一時的に死者と同じ状態にする薬です」
*
その薬は、古い薬学書に記されていたという。
名前は、『死者の眠り』。
服用すると、心臓の動きが極端に弱まり、呼吸もほとんど確認できなくなる。
身体は冷たくなり、魔力の反応さえ外からは感じ取れなくなるらしい。
まるで、本当に死んでしまったかのように。
「……そんな薬があるのね」
「今も存在するかどうかは、わかりません」
ミレーヌは、慎重に言葉を選んだ。
「それに、使用を禁じられた薬だと聞いております」
「……どうして?」
彼女は、私をまっすぐに見つめた。
「目覚める保証がないからです」
私は、指先を止めた。
「……保証が、ない?」
「はい。記録では、三日ほどで目覚めるとされています。ですが、そのまま本当に亡くなった方もいたそうです」
三日間。
その間、私は死者になる。
けれど、三日後に必ず目覚めるとは限らない。
私は、膝の上で手を握りしめた。
「……それでは、本当に死んでしまうかもしれないのね」
「はい」
ミレーヌの声が震えた。
「ですから、奥様。どうか、この方法だけは……」
私は、すぐには答えられなかった。
怖かった。
死んだことになるのと、本当に死んでしまうのとでは、まるで違う。
私が望んでいるのは、自由に生きることだ。
知らない町へ行き、好きな花を育て、朝になれば自分で選んだパンを食べる。
そんな、ささやかな毎日。
そのために命を落としてしまっては、何の意味もない。
「……ほかの方法も、探しましょう」
私は、静かに言った。
ミレーヌが、ほっとしたように息を吐く。
「はい」
「でも、その薬についても、もう少し詳しく調べてもらえる?」
彼女の表情が、再び曇った。
「……奥様」
「使うと決めたわけではないの。ただ、何も知らないまま諦めたくないのよ」
私は、彼女の手を取った。
「危険だとわかっているからこそ、慎重に考えたいの」
ミレーヌは、しばらく私を見つめていた。
やがて、小さくうなずいた。
「……承知いたしました」
*
それから三日間、私たちは表向き、何も変わらない日々を過ごした。
私はいつもどおり朝食を取り、帳簿を確認し、庭園を散歩した。
執事長は相変わらず私の意見を聞き流し、厨房からは苦い薬草茶が運ばれてきた。
誰も、私が何を考えているのか気づかなかった。
ミレーヌは、休憩時間を利用して知人に会いに行った。
その間、私は図書室で古い法律書や地図を調べた。
大公家から逃げる方法。
帝国の外へ出る道。
身分証明を持たない人間が、どこまで旅をできるのか。
調べれば調べるほど、難しいことばかりだった。
けれど、ひとつだけ希望があった。
隣国、ベルフェル。
ミレーヌの妹が暮らしている国だ。
私は、地図の上に指を置いた。
帝国との国境には、いくつかの交易路が通っている。
商人や旅人の往来も多い。
国境を越えてしまえば、少なくとも大公家の権限がそのまま通用するわけではない。
もちろん、それだけで安全とは言えない。
けれど、行き先のない私にとって、初めて見つけた小さな可能性だった。
その日の夕方。
私は、戻ってきたミレーヌに尋ねた。
「……以前、妹さんがベルフェルで宿を営んでいると言っていたわね」
「はい。エマと申します」
「『小鳥の宿』だったかしら」
「覚えていてくださったのですね」
ミレーヌは、少しだけ微笑んだ。
「ええ。とても可愛らしい名前だったから」
私は、地図を広げた。
「もし私が、別の名前でその宿を訪ねたら……泊めてもらえるかしら」
ミレーヌは、地図に目を落とした。
そして、しばらく考え込んだ。
「妹は、困っている人を放っておけない性格です。ですが……」
「わかっているわ。突然押しかけて、迷惑をかけるわけにはいかないもの」
「それに、事情を知れば、妹まで危険に巻き込んでしまうかもしれません」
私は、うなずいた。
私一人の自由のために、誰かの暮らしを壊すわけにはいかない。
「……まずは、受け入れてもらえるか確かめましょう」
「はい。私から手紙を書いてみます」
ミレーヌは、そう答えた。
けれど、すぐに付け加えた。
「ただし、奥様のお名前は書きません。手紙が誰かの目に触れる可能性もございますから」
「そうね。その方がいいわ」
私は、地図を見つめた。
ベルフェル。
まだ訪れたことのない国。
けれど、その名前を見ていると、不思議と胸が少し軽くなった。
*
三日目の夜。
ミレーヌが、小さな包みを持って私の部屋を訪れた。
扉を閉め、鍵をかける。
それから、机の上へ包みを置いた。
「……入手できたの?」
私が尋ねると、彼女はうなずいた。
けれど、その顔に安堵はなかった。
「知人を通じて、薬師に会うことができました」
「……そう」
「ですが、すぐには渡してもらえませんでした」
薬師は、最初、話を聞くことさえ拒んだという。
禁じられた薬を所持しているだけでも、重い罪に問われる可能性がある。
まして、それを誰かに渡したと知られれば、薬師としての仕事も、これまで築いてきた生活も失いかねない。
「……では、どうして?」
「事情を、少しだけお話ししました」
ミレーヌは、静かに答えた。
「誰かを害するためではなく、一人の女性が逃げるために必要なのだと」
それでも薬師は、簡単には応じなかった。
薬の危険性を繰り返し説明し、別の方法を探すよう勧めたという。
ミレーヌは、何度も頭を下げた。
最後には、自分が長年蓄えてきた貯金の大半を差し出した。
「……ミレーヌ!」
私は、思わず立ち上がった。
「そんなことを……!」
「奥様、どうかお座りください」
「でも、それはあなたのお金でしょう?」
「はい」
「私のために使う必要なんて……」
「私が決めたことです」
ミレーヌは、きっぱりと言った。
私は、言葉を失った。
「それに、薬師は代金だけで応じたわけではありません」
彼女は、続けた。
「薬の出所を決して明かさないこと。そして、二度と同じ薬を求めないこと。それが条件でした」
私は、包みを見つめた。
「……一度きりなのね」
「はい」
ミレーヌは、うなずいた。
「それから、薬師は最後まで使用を勧めませんでした」
彼女の声が、少しだけ震えた。
「……本当に、危険な薬なのです」
私は、ゆっくりと椅子に座った。
包みの中には、小さな黒い瓶があった。
飾り気のない、古い硝子瓶。
中には、透明に近い液体が入っている。
私は、そっと瓶を持ち上げた。
想像していたよりも、ずっと軽かった。
こんな小さなものが、人の生死を左右するなんて。
「……薬師は、ほかに何か言っていた?」
「はい」
ミレーヌは、真剣な顔で答えた。
「効き方には個人差があり、三日より早く目覚める場合もあれば、目覚めない場合もあるそうです」
「……そう」
「そして、眠っている間は、外から見れば本当に亡くなっているようにしか見えないと」
私は、瓶の中の液体を見つめた。
これを飲めば。
私は、死者になる。
三日間だけ。
あるいは、永遠に。
指先が、冷たくなった。
「……奥様」
ミレーヌが、私の前に膝をついた。
「今なら、まだ引き返せます」
私は、彼女を見つめた。
「……ミレーヌ」
「どうか、もう一度お考えください」
その目から、涙がこぼれた。
「私は、奥様に生きていてほしいのです」
胸が、締めつけられた。
私は、そっと彼女の手を握った。
「……ありがとう」
そして、静かに言った。
「私も、生きたいわ」
だからこそ、怖かった。
目覚めないかもしれない。
目覚めても、逃げられないかもしれない。
誰かに見つかり、計画が失敗するかもしれない。
それでも。
この瓶を前にして、私はようやく理解した。
私が選ぼうとしているのは、自由への近道などではない。
命を懸けた、たった一度の賭けなのだ。
「……まだ、飲まないわ」
私が言うと、ミレーヌは目を見開いた。
「奥様……?」
「準備が整うまでは、絶対に」
私は、瓶を見つめた。
「それに、あなたと約束しておきたいことがあるの」
「……約束、ですか?」
「ええ」
私は、彼女の手を握り直した。
「少しでも計画に無理があると思ったら、中止して」
ミレーヌが、息を呑んだ。
「私が何と言っても、よ」
「……ですが」
「あなたに、私を助けるために死んでほしくないの」
私は、静かに続けた。
「それに、私自身も、無駄に命を捨てたいわけではないから」
ミレーヌは、しばらく黙っていた。
そして、涙を拭いながらうなずいた。
「……お約束します」
私は、ようやく小さく微笑んだ。
*
薬が手に入ったからといって、すぐに実行できるわけではなかった。
むしろ、本当の問題はここからだった。
仮に、私が死んだと判断されたとしても。
その身体が大公家の管理下に置かれたままでは、三日後に目覚めても逃げられない。
葬儀の準備が始まれば、屋敷には多くの人間が出入りするだろう。
医師。
聖職者。
葬儀を取り仕切る者たち。
その誰かが、薬の異常に気づく可能性もある。
何より、クロード様が帰還すれば、状況はさらに難しくなる。
あの方は、強大な氷の魔術を扱う。
もし私の死を疑えば、通常の医師とは異なる方法で調べようとするかもしれない。
そうなったとき、この薬が本当に通用する保証はなかった。
「……私の身体を、どうやって屋敷の外へ運び出すか」
私は、机の上に紙を広げた。
「そこを考えなければならないわね」
ミレーヌは、うなずいた。
「葬儀までの間に動くのは、難しいと思います」
「……そうね」
私は、紙の上に屋敷の見取り図を描いた。
自室。
廊下。
裏階段。
使用人用の出入口。
庭園。
外壁。
普段なら気にも留めない場所が、今はすべて障害に見えた。
「……奥様」
ミレーヌが、静かに口を開いた。
「ひとつ、お願いがございます」
「なあに?」
「計画のすべてを、今すぐ決めようとなさらないでください」
私は、顔を上げた。
「……どうして?」
「焦れば、見落としが生まれます」
ミレーヌは、真剣な顔で続けた。
「それに、旦那様がいつお戻りになるかも、まだわかりません」
私は、うなずいた。
クロード様は、現在、北方戦線の指揮を執っている。
遠征がいつ終わるのか、私には知らされていなかった。
いつものことだった。
あの方の予定を、妻である私が知らない。
以前なら、それが悲しかった。
けれど今は。
知らないことが、恐ろしかった。
「……帰還の日程を、確かめられる?」
私が尋ねると、ミレーヌは少し考えた。
「軍務に関わることですので、正確な日程は難しいかもしれません。ですが、屋敷の準備が始まれば、何かわかると思います」
「……お願いできる?」
「はい」
私は、紙を畳んだ。
まだ、実行する日は決められない。
身体を運び出す方法も、確実ではない。
ベルフェルへ向かう道も、調べなければならない。
けれど。
何を準備すべきかは、少しずつ見えてきた。
私は、黒い瓶を小箱に収めた。
鍵をかけ、引き出しの奥へしまう。
その小さな音が、やけに大きく響いた。
*
夜。
私は、一人で自室にいた。
暖炉の火が、静かに燃えている。
机の上には、書きかけの手紙。
そして、窓辺には、一輪の白い花があった。
誕生日にミレーヌが贈ってくれた花は、数日前にとうとう枯れてしまった。
捨てるのが惜しくて、私は花びらを数枚だけ、古い本の間に挟んである。
今、窓辺に飾っているのは、ミレーヌが庭園から持ってきてくれた新しい白い花だった。
けれど、その花も、茎の途中が少し曲がっている。
私は、そっと花瓶を持ち上げた。
「……まだ、咲けるわ」
口にした瞬間、不思議な感覚が胸をよぎった。
その言葉を、ずっと昔にも口にしたことがあるような。
冷たい水。
小さな白い花。
誰かの、泣きそうな顔。
けれど、思い出そうとすると、景色はすぐに霞んでしまった。
「……変なの」
私は、小さく笑った。
花瓶の水を替え、窓辺へ戻す。
白い花は、まだ咲いていた。
私は、その花を見つめながら、机へ向かった。
引き出しを開ける。
そこには、小さな箱があった。
何通もの手紙を収めた箱。
クロード様に書いたものの、返事が来なかった手紙。
あるいは、書き上げても渡せなかった手紙。
私は、そっと蓋を開けた。
いちばん上には、結婚して間もない頃に書いた手紙があった。
『クロード様。
今朝、庭園に小さな白い花が咲いているのを見つけました。
とても綺麗だったので、あなたにもお見せしたかったのです』
私は、そこまで読んで、手を止めた。
あの頃の私は、何でもない出来事を夫に伝えたかった。
花が咲いたこと。
新しいお菓子を食べたこと。
庭園で小鳥を見つけたこと。
そんな小さな話を、聞いてほしかった。
けれど、いつからだろう。
手紙を書くたびに、言葉を選ぶようになった。
忙しいあの方の邪魔にならないように。
つまらない話だと思われないように。
返事を求めていると、気づかれないように。
そして、いつしか。
何を書けばいいのか、わからなくなった。
私は、手紙を箱へ戻した。
蓋を閉じる。
その箱を、どうするかはまだ決めていなかった。
持って逃げるには、かさばりすぎる。
燃やしてしまうには、少しだけ惜しい。
かといって、誰かに見せたいものでもなかった。
私は、しばらく箱を見つめた。
そして、引き出しへ戻した。
今は、まだ。
決めなくていい。
私は、窓辺の白い花を見た。
暖炉の火が揺れるたび、花の影も小さく揺れていた。
この屋敷を出たら。
私は、花を育てたい。
誰かのためではなく、自分のために。
小さな庭でもいい。
窓辺の鉢植えでもいい。
毎朝、水をあげて。
蕾が開くのを楽しみに待つ。
そんな暮らしがしたかった。
私は、そっと目を閉じた。
まだ、何も成功していない。
危険な薬が手に入っただけ。
計画には、越えなければならない壁がいくつもある。
それでも。
初めて、明日のために考えることができていた。
どうすれば、ここを出られるだろう。
どこへ行こう。
どんな名前で暮らそう。
何をして、生きていこう。
そんなことを考えている自分が、少しだけ嬉しかった。
*
同じ頃。
帝国北方。
雪に覆われた前線の砦で、一人の男が報告書に目を通していた。
クロード・ヴァレンティア。
帝国最強の大公にして、北方遠征軍の総指揮官。
黒い髪。
紫色の瞳。
そして、氷のように冷たい表情。
彼の前には、戦況を記した地図が広げられていた。
「……敵軍の撤退を確認しました」
副官が報告する。
「北方戦線は、ほぼ制圧を完了しております」
「……そうか」
クロードは、短く答えた。
副官は、続けた。
「予定より早く、帝都へ帰還できる見込みです」
クロードは、地図から目を上げた。
「……何日ほど早まる」
「三日ほどかと」
クロードは、少しだけ考えた。
そして、静かに命じた。
「……帰還の準備を進めろ」
「承知いたしました」
副官は、深く頭を下げた。
クロードは、机の端に置かれた書類へ視線を落とした。
大公邸から届いた、定期報告。
領地の収支。
使用人の配置。
屋敷の修繕状況。
その中に、妻についての簡単な記述があった。
『大公妃殿下、変わりなくお過ごしです』
クロードは、その一文を見つめた。
変わりなく。
いつもと同じ言葉。
問題はない。
そう報告されている。
ならば、それでいい。
彼は、そう考えた。
妻が毎日、何を思っているのか。
どんな顔で朝を迎えているのか。
自分の帰りを待っているのか。
それとも、もう待つことさえ諦めているのか。
そんなことは、考えなかった。
いや。
考えようとしなかった。
クロードは、報告書を閉じた。
「……帝都への帰還予定を、屋敷へ伝えておけ」
「はっ」
副官が、部屋を出ていく。
クロードは、窓の外へ目を向けた。
雪が降っていた。
白い雪が、音もなく地面を覆っていく。
彼は、ふと。
屋敷の庭園に咲いていた、小さな白い花を思い出した。
なぜ、そんなものを思い出したのか。
自分でも、わからなかった。
クロードは、すぐに視線を地図へ戻した。
あと数日で、帝都へ帰る。
それだけのことだった。
妻が、何を考えているのかも知らずに。
彼は、帰還の日程を三日早めた。
そして、その知らせが大公邸へ届く頃には。
セリアはすでに、後戻りのできない計画へと、一歩を踏み出そうとしていた。




