3話 私が消えても誰も困らない
大公妃という身分には、ひとつだけ便利なところがある。
誰からも必要とされていなくても、毎朝、立派な朝食が運ばれてくることだ。
「本日の朝食でございます」
銀の蓋が持ち上げられる。
焼きたてのパン、白身魚の香草焼き、季節の果物。それから、私が一度も好んで飲んだことのない、苦い薬草茶。
「ありがとう。でも、今朝は温かい牛乳をお願いできるかしら」
給仕の侍女は、一瞬だけ眉を動かした。
「厨房では、すでに朝食の準備を終えておりますので」
「そう。では、結構よ」
「失礼いたします」
侍女は頭を下げ、静かに退室した。
私は、湯気の消えかけた薬草茶を見つめた。
三年間、毎朝同じものが出てくる。
何度か別の飲み物を頼んだこともあったけれど、いつの間にか、頼むこと自体をやめてしまった。
大公家の厨房では、大公妃の好みよりも、先代から続く献立表のほうが尊重されるらしい。
もっとも、この屋敷で主人と認められているのはクロード様だけで、私ではないのだろう。
私はパンを小さくちぎった。
誕生日から、三日が過ぎていた。
あの日、ミレーヌがくれた白い花は、寝室の窓辺に飾ってある。
毎朝、水を替えているおかげで、まだ綺麗に咲いていた。
夫からは、何の連絡もない。
それを寂しいと思わなくなったことが、少しだけ寂しかった。
*
「奥様、今月の慈善院への寄付金について、ご確認をお願いいたします」
朝食を終えると、執事長が書類を持ってきた。
私は、差し出された帳簿に目を通した。
「……昨年より、随分と減っているのね」
「今年度は北方遠征に伴う支出が増えておりますので」
「でも、慈善院では冬の燃料が不足していると聞いているわ。せめて昨年と同じ額を――」
「閣下のご承認が必要です」
言い終わる前に、返事が来た。
私は、顔を上げた。
「では、承認をお願いできるかしら」
「閣下はご多忙です。この程度の案件でお手を煩わせるわけにはまいりません」
「けれど、昨年と同じ額なのよ?」
「今年は今年でございます」
執事長は、丁寧に頭を下げた。
言葉遣いだけは、どこまでも丁寧だった。
ただ、私の意見を聞くつもりがないだけだ。
「……わかりました。私の個人費から補填することは?」
「大公家の会計を通さない寄付は、先方との関係上、望ましくありません」
「そう」
私は、帳簿を閉じた。
執事長は満足したように一礼し、書類を持って去っていった。
扉が閉まる。
私は、椅子の背にもたれた。
大公妃として慈善院を訪問することは許される。
子どもたちに微笑み、院長の話を聞き、寄付金を届けることも。
けれど、その金額を決める権限はない。
必要なものを買うこともできない。
それでも、慈善院で問題が起これば、世間は私を責めるのだろう。
大公妃は何をしていたのか、と。
不思議な身分だ。
責任だけは、立派に与えられている。
*
午後、私は庭園へ出た。
秋の風が、薔薇の枝を揺らしていた。
花壇の端には、まだ蕾をつけた白い薔薇がある。
私は、その前にしゃがみ込んだ。
「……もう少しで咲きそうね」
指先で、葉の先についた水滴を払う。
実家にいた頃は、庭仕事が好きだった。
立派な庭園などなかったけれど、母と一緒に小さな花壇を世話していた。
春には種をまき、夏には水を運び、秋には枯れた枝を切る。
泥だらけになっても、誰にも叱られなかった。
花が咲けば、それだけで一日が嬉しかった。
「奥様」
背後から声がした。
振り返ると、庭師の男が立っていた。
「そちらは、まだ手入れの途中でございます」
「あら、ごめんなさい。邪魔をしたかしら」
「いえ。ただ、土にお触れになりますと、お召し物が汚れますので」
「少しくらいなら構わないわ」
「……大公妃殿下に、庭仕事をさせたと知られては困ります」
男は、困ったように笑った。
私は、伸ばしかけた手を引っ込めた。
「そうね。ごめんなさい」
庭師は頭を下げ、作業に戻った。
私は、立ち上がった。
この屋敷では、花を眺めることはできても、育てることはできない。
自分の好きな飲み物も選べず、寄付金ひとつ自由に決められず、土に触れることさえ遠慮しなければならない。
それなのに、誰もが言う。
大公妃殿下は、お幸せでいらっしゃいますね、と。
私は、庭園の向こうに見える高い塀を眺めた。
あの外では、人々が普通に暮らしている。
自分で朝食を選び、働き、買い物をして、誰かと笑い合う。
その当たり前のことが、ひどく羨ましかった。
*
その日の夕方、私はクロード様に手紙を書いた。
夫が北方へ出征してから、ひと月ほどが経っている。
これまでにも何通か手紙を送ったけれど、返事はなかった。
それでも、今回はどうしても伝えたいことがあった。
『クロード様
ご遠征中のところ、私事でお手を煩わせることをお許しください。
帰還後に、一度だけお時間をいただけないでしょうか。
大公家の公務についても、今後の私たちのことについても、お話ししたいことがございます。
長い時間はいただきません。
どうか、ご検討ください。
セリア』
書き終えてから、私は何度も読み返した。
責める言葉はない。
寂しいとも、会いたいとも書かなかった。
ただ、話がしたい。
それだけだ。
封をして、執事長に預けた。
「至急ではございませんね?」
「……ええ。でも、できればお返事をいただきたいの」
「承知いたしました」
執事長は、いつもどおり丁寧に頭を下げた。
その手紙が、夫のもとへ届いたのかどうか。
私には、確かめる術がなかった。
*
返事を待つあいだ、私は別の方法も調べてみることにした。
離縁。
その二文字を、私は初めて自分のために紙へ書いた。
帝国法では、貴族の婚姻を解消するには、原則として双方の同意が必要になる。
例外として認められるのは、重大な犯罪、婚姻契約の違反、あるいは裁判所が認定する深刻な不法行為など。
夫が妻に関心を示さないこと。
誕生日を忘れること。
三年間、ほとんど言葉を交わさないこと。
そうしたものは、離縁を認める十分な理由にはならないらしい。
私は、法律書を閉じた。
「……そうよね」
思わず、笑ってしまった。
クロード様は、私に暴力を振るったことなどない。
生活費を惜しんだこともない。
大公妃としての地位を傷つけたこともない。
むしろ、世間から見れば、申し分のない夫なのだろう。
私の実家が抱えていた借金も、婚姻の際にすべて返済してくださった。
父は、今でもクロード様に感謝している。
もし離縁を申し出れば、きっとこう言うだろう。
『あれほど恵まれた結婚を、何が不満なのだ』
そして、私自身にも、自由になるための財産はなかった。
身につけている宝石も、豪華なドレスも、大公家のものだ。
私の名義で管理されている金銭でさえ、実際に動かすには家令の承認が必要になる。
この屋敷を出たとして、どこへ行けばいいのだろう。
実家へ戻れば、父は夫に連絡する。
知人を頼れば、相手に迷惑がかかる。
宿に泊まろうにも、大公妃の名前を使えば、すぐに居場所が知られてしまう。
私は、窓の外を見た。
自由になりたい。
ただ、それだけなのに。
どうして、こんなにも難しいのだろう。
*
手紙を出してから五日後。
執事長が、夫からの返答を持ってきた。
「閣下の陣営より、お返事が届いております」
私は、思わず立ち上がった。
「……クロード様から?」
「はい」
胸の奥に、かすかな期待が生まれた。
けれど、執事長が差し出したのは、夫の筆跡の手紙ではなかった。
軍務官の署名が入った、事務的な連絡書だった。
『大公閣下は現在、北方戦線の指揮に専念されております。
大公妃殿下よりお申し出の面会につきましては、帰還後、必要に応じて調整いたします。
なお、緊急性のない家政上の案件は、従来どおり家令へお申し付けください』
私は、最後まで読んだ。
そして、もう一度、最初から読み返した。
私が書いたのは、家政上の相談ではなかった。
夫婦として話がしたいと、お願いしたのだ。
けれど、その願いは、どこかで事務的な案件に変わってしまったらしい。
「……閣下は、お忙しいのでしょうね」
「はい。北方の情勢は予断を許しませんので」
「そうね」
私は、連絡書を折りたたんだ。
「ありがとう。もう、下がっていいわ」
執事長が退室したあと、私はしばらく立ったままでいた。
涙は出なかった。
怒りも、不思議と湧かなかった。
ただ、胸の中で何かが静かに閉じていくような気がした。
私は、もう一度だけ夫に向き合おうとした。
それが、誰の手で遮られたのかはわからない。
けれど、結果は同じだった。
私の言葉は、夫に届かなかった。
*
「奥様、お茶をお持ちしました」
ミレーヌが入ってきたのは、日が暮れかけた頃だった。
彼女は私の顔を見るなり、足を止めた。
「……何か、ございましたか?」
「どうして?」
「少し、お顔色が……」
私は、笑った。
「何でもないわ」
ミレーヌは、それ以上尋ねなかった。
代わりに、銀の盆を机に置いた。
湯気の立つカップから、甘い香りが漂ってくる。
「あら。これ……」
「温めた牛乳に、少しだけ蜂蜜を入れました」
「厨房は、用意してくれたの?」
「いいえ。私が作りました」
ミレーヌは、少しだけ得意そうに笑った。
「奥様は、朝の薬草茶がお苦手でしょう?」
私は、カップを見つめた。
三年間。
毎朝、同じ薬草茶を飲んでいた。
誰も気づいていないと思っていた。
けれど、たった一人。
私の好みを、覚えていてくれた人がいた。
「……ありがとう」
カップを持ち上げる。
温かい。
ひと口飲むと、蜂蜜の優しい甘さが広がった。
その瞬間、なぜか涙がこぼれた。
「奥様……!」
ミレーヌが慌てて駆け寄ってくる。
私は、首を振った。
「違うの。悲しいわけじゃないのよ」
そう言いながら、涙を拭った。
「ただ……嬉しくて」
ミレーヌは、何も言わなかった。
ただ、私のそばに立っていてくれた。
私は、カップを両手で包んだ。
「ねえ、ミレーヌ」
「はい」
「あなたは、この屋敷の外で暮らしたことがある?」
「もちろんございます。こちらへ奉公に上がる前は、母と妹と暮らしておりました」
「そう……」
「妹は今、隣国のベルフェルで働いております」
私は、顔を上げた。
「ベルフェル?」
「はい。小さな宿屋を営んでおります。『小鳥の宿』というのですが……名前だけは可愛らしいでしょう?」
ミレーヌが、くすりと笑った。
「忙しいけれど、気楽な暮らしだと手紙に書いてありました。朝は市場へ出かけて、夜はお客様と一緒に夕食を食べるそうです」
「……素敵ね」
「ええ。私も、一度遊びに行ってみたいと思っております」
市場へ出かける。
自分の食べたいものを買う。
誰かと食卓を囲む。
それだけの話が、まるで遠い国のおとぎ話のように聞こえた。
「ミレーヌ」
「はい」
「もし、あなたが今の仕事を辞めたら、どうする?」
「そうですね……妹の宿を手伝うかもしれません」
「すぐに?」
「はい。荷物をまとめて、馬車に乗れば」
私は、思わず笑った。
「簡単に言うのね」
「簡単ではありませんよ。旅費も必要ですし、妹に受け入れてもらえるかも確認しなくては。でも、行くと決めれば、準備はできます」
行くと決めれば。
その言葉が、胸に残った。
私には、その決定すら許されない。
私は大公妃だから。
ヴァレンティア家の妻だから。
誰かの許可がなければ、屋敷の門ひとつ自由に出られない。
「……羨ましいわ」
小さく呟くと、ミレーヌが私を見た。
「奥様?」
私は、笑ってごまかそうとした。
けれど、できなかった。
「私ね、時々考えるの」
窓の外では、夕暮れの光が庭園を赤く染めていた。
「もし、私が大公妃でなかったら、何をしていたかしらって」
「……奥様」
「きっと、花を育てていたと思うわ。小さなお店を開いて、朝は花に水をあげて、お客様に好きな花を選んでもらうの」
話しているうちに、胸が少し軽くなった。
「お金持ちでなくてもいいの。大きな家も、綺麗なドレスもいらない。ただ、自分で選んだものに囲まれて暮らしたい」
ミレーヌは、黙って聞いていた。
「おかしいでしょう? 大公妃なのに、そんなことを夢見るなんて」
「……おかしくありません」
彼女は、はっきりと言った。
「少しも、おかしくありません」
私は、驚いて顔を上げた。
ミレーヌの目は、真剣だった。
「奥様は、何かを望んではいけない方ではございません」
その言葉に、息が詰まった。
何かを望んではいけない。
私は、いつからそう思うようになったのだろう。
*
その夜、私は寝室の窓を開けた。
冷たい風が、頬を撫でる。
窓辺には、誕生日にもらった白い花が飾られていた。
花弁の先が、少しだけ茶色くなり始めている。
私は、そっと触れた。
あと何日、咲いていられるだろう。
水を替えても、陽に当てても、切り花がいつか枯れることは変えられない。
けれど。
根を張れる場所があれば、どうだろう。
自分に合った土と、陽の光があれば。
いつか、また新しい花を咲かせられるかもしれない。
私は、窓の外を見た。
高い塀の向こうに、帝都の灯りが見える。
そのひとつひとつに、誰かの暮らしがある。
笑い声があり、食卓があり、明日の予定がある。
私にも、そんな暮らしが欲しかった。
大公妃としてではなく。
クロード様の妻としてでもなく。
ただ、セリアという一人の人間として。
私は、机へ向かった。
白い紙を一枚取り出す。
そして、ゆっくりと書いた。
『この屋敷を出る』
文字を見つめる。
それから、その下に続けた。
『二度と戻らない』
手が震えた。
怖くないわけではなかった。
見つかれば、連れ戻されるだろう。
夫の許可なく姿を消せば、実家にも迷惑がかかるかもしれない。
何より、私は外の世界で一人で暮らした経験がない。
失敗すれば、すべてを失う。
それでも。
このまま何十年も、誰かの都合に合わせて生きることのほうが、ずっと怖かった。
私は、紙を折りたたんだ。
そして、引き出しの奥にしまった。
まだ、方法はわからない。
離縁も難しい。
逃げたとしても、名前を知られている限り、見つかってしまうだろう。
大公妃という身分は、私を守る鎧であると同時に、私を閉じ込める檻でもあった。
その檻を開ける鍵は、私の手にはない。
ならば。
鍵のない扉から出る方法を、探すしかない。
*
翌朝、私はいつもどおり起きた。
侍女に髪を結ってもらい、朝食を取り、帳簿に目を通した。
誰も、私の変化に気づかなかった。
執事長は相変わらず、私の意見を聞き流した。
厨房からは、苦い薬草茶が運ばれてきた。
庭師は、私が花壇に近づくと、丁寧に頭を下げて作業を中断した。
何ひとつ、変わらない。
それが、かえって私の決意を固くした。
私が笑っていても、泣いていても。
何かを望んでも、諦めても。
この屋敷は、同じように動いていく。
きっと、私がいなくなっても。
帳簿は誰かが引き継ぐ。
慈善院への訪問も、別の人間が代わりを務める。
朝食の席には、相変わらず銀の食器が並ぶのだろう。
クロード様も、きっと困らない。
私がいなくても、あの方の仕事は続いていく。
そう考えて、胸が少しだけ痛んだ。
けれど、不思議と涙は出なかった。
私はもう、夫に必要とされることを望んでいないのだ。
それよりも。
自分の人生を、自分に返してあげたかった。
「奥様」
ミレーヌが、朝の支度を終えて声をかけた。
「本日は、何かご予定がございますか?」
私は、鏡の中の自分を見つめた。
銀色の髪。
大公妃にふさわしい、上品なドレス。
完璧に整えられた姿。
けれど、その顔は、ひどく疲れて見えた。
「……ええ」
私は、ゆっくりと立ち上がった。
「あなたに、相談したいことがあるの」
ミレーヌが、首を傾げた。
「私に、でございますか?」
「そう」
私は、彼女をまっすぐ見つめた。
「少し、長い話になると思うわ」
そして、初めて口にした。
「ミレーヌ。私、この屋敷を出たいの」
彼女の目が、大きく見開かれた。
「……奥様?」
「誰にも知られずに。二度と、戻らないつもりで」
言葉にすると、胸の奥で何かがほどけた。
私は、もう一度、はっきりと言った。
「大公妃を、やめたいの」
ミレーヌは、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに扉へ歩み寄り、廊下に誰もいないことを確かめた。
鍵をかける。
そして、私の前へ戻ってきた。
「……奥様」
その声は、いつになく真剣だった。
「それは、離縁をお望みということでしょうか」
「できるなら、そうしたいわ。でも、クロード様の同意がなければ難しいでしょう」
「……はい」
「だから、別の方法を考えたいの」
ミレーヌは、私をじっと見つめた。
長い沈黙が落ちた。
やがて彼女は、小さく息を吸った。
「……ひとつだけ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何?」
「奥様は、本当に……もう、閣下をお待ちにならないのですね?」
私は、窓辺の白い花を見た。
三年間、待っていた。
帰ってくる日を。
振り向いてくれる日を。
私の名前を、ただ優しく呼んでくれる日を。
けれど、もう。
「……ええ」
私は、微笑んだ。
「もう、待たないわ」
ミレーヌは、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
そして、顔を上げた。
「でしたら、私も一緒に考えます」
私は、息を呑んだ。
「いいの? あなたまで、危険な目に遭うかもしれないのよ」
「存じております」
「大公家を敵に回すことになるかもしれない」
「それでもです」
ミレーヌは、私の手を取った。
温かい手だった。
「私は、奥様が笑っていらっしゃるところを、もう一度見たいのです」
その言葉に、目頭が熱くなった。
私は、彼女の手を握り返した。
まだ、何も決まっていない。
逃げる方法も。
行き先も。
名前を捨てる覚悟さえ、これから本当に試されるのだろう。
それでも、初めて未来が動き出した気がした。
誰かが私を迎えに来るのを待つのではない。
私自身が、ここから出ていくのだ。
私は、静かに息を吸った。
そして、ミレーヌに言った。
「……ありがとう。どうか、力を貸して」
窓辺では、白い花が朝の光を浴びていた。
私は、まだ知らなかった。
この小さな決意が、やがて帝国最強と呼ばれる男を狂わせることになるなんて。
ただ、このときの私は。
もう一度、自分の人生を生きたいと願っただけだった。




