2話 誕生日の花は一輪だけ
結婚三周年の記念日から、ひと月が過ぎた。
今日は、私の二十四歳の誕生日だった。
けれど、大公邸の朝は、いつもと何ひとつ変わらなかった。
廊下ですれ違う使用人たちは、私に形ばかりの礼をして通り過ぎていく。誰も足を止めず、誰も祝いの言葉を口にしない。
もっとも、それを寂しいと思うことさえ、最近は少なくなっていた。
クロード様は記念日の三日後、北方遠征へ向かわれた。
出発の朝、私は玄関ホールで見送りをした。あれから、ひと月近くになる。
「どうか、お気をつけて」
そう声をかけたけれど、返事はなかった。
彼は従者たちに短く指示を出すと、私の前を通り過ぎ、そのまま馬にまたがった。
遠ざかっていく黒い外套を見つめながら、私は不思議なことに気づいた。
以前ほど、胸が痛まなかった。
悲しくないわけではない。
ただ、悲しむことにも疲れてしまったのだ。
期待して、裏切られて、それでも彼をかばう理由を探す。
そんなことを繰り返しているうちに、心のどこかが静かに麻痺してしまったらしい。
それが少しだけ、怖かった。
*
朝食を終えて自室へ戻ると、控えめなノックの音がした。
「セリア様。ミレーヌです」
「どうぞ」
扉を開けて入ってきたのは、私付きの侍女ミレーヌだった。
彼女は銀のトレイを抱えている。
温かな紅茶と、小さな焼き菓子。
そして、その脇には、一輪の白い花が添えられていた。
「お誕生日、おめでとうございます。セリア様」
私は、思わず顔を上げた。
「……覚えていてくれたの?」
「もちろんです」
ミレーヌは微笑んだ。
「本当はもっと立派なものをご用意したかったのですが、私のお給金では、これが精いっぱいで」
「そんなこと……!」
思わず声が大きくなって、私は慌てて口をつぐんだ。
ミレーヌが驚いたように目を丸くする。
「……ごめんなさい。嬉しくて」
私はトレイに目を落とした。
白い花は、華やかな薔薇でも、香り高い百合でもなかった。
小さくて、素朴で、花屋の店先ではきっと目立たないような花。
けれど、朝の光を受けた花びらは、驚くほど綺麗だった。
「ありがとう、ミレーヌ」
そっと花を手に取る。
「とても、綺麗ね」
「セリア様は、白い花がお好きでしょう?」
私は、指先を止めた。
「……知っていたの?」
「はい。庭園でも、いつも白い花を眺めていらっしゃいますから」
たった、それだけのことだった。
私がどんな花を好むのか。
どんなときに足を止めるのか。
何を見て微笑むのか。
ミレーヌは、覚えていてくれた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
「……ありがとう」
もう一度言うと、今度は声が少し震えた。
ミレーヌは何も言わず、私が花を飾るための小さな花瓶を取りに行ってくれた。
私は、白い花を胸元に寄せた。
ふと、結婚して初めて迎えた誕生日を思い出した。
*
あの頃の私は、朝から落ち着かなかった。
クロード様は、私の誕生日を覚えているだろうか。
もし覚えていてくださるなら、夕食くらいはご一緒できるかもしれない。
そんな期待を胸に、いつもより丁寧に髪を結い、新しいドレスを着た。
料理人には、夫の好物を用意してもらった。
花も飾った。
けれど、夕食の時間になっても、クロード様は現れなかった。
執事長に尋ねると、返ってきたのは短い言葉だけだった。
『閣下はお忙しいので』
私は、待った。
料理が冷めても。
蝋燭が短くなっても。
窓の外が、すっかり暗くなっても。
やがて、使用人たちが困った顔をし始めたので、私は笑って席を立った。
『ごめんなさい。もう下げてちょうだい』
その夜、クロード様は帰ってこなかった。
二度目の誕生日には、もう晩餐の支度を頼まなかった。
代わりに、ミレーヌへ一輪の花を買ってきてもらった。
誰も祝ってくれないのなら、せめて自分だけは覚えていようと思ったのだ。
私が生まれた日を。
私が、ここにいることを。
それが、あの頃の私にできる、ささやかな抵抗だった。
なのに今年は。
その花を頼むことさえ、忘れていた。
*
「……セリア様?」
ミレーヌの声に、私は我に返った。
彼女が花瓶を持って戻ってきていた。
「お水を入れてまいりました。こちらに飾りましょうか」
「ええ。お願い」
ミレーヌは、窓辺の小さなテーブルに花瓶を置いた。
白い花が、朝の光を受けて揺れる。
私は、その花をしばらく見つめた。
「……私ね、ミレーヌ」
「はい」
「今年は、自分の誕生日を祝うことさえ考えなくなっていたの」
ミレーヌの表情が曇った。
「お忙しかったからではありませんか?」
「いいえ」
私は、静かに首を振った。
「きっと、どうでもよくなってしまっていたのね」
自分の誕生日も。
好きだった花も。
食べたいものも。
行ってみたい場所も。
いつの間にか、何も考えなくなっていた。
この屋敷に来てから、私はずっと、クロード様のことばかり考えていた。
どうすれば、あの人の負担にならずに済むだろう。
どうすれば、嫌われずに済むだろう。
どうすれば、少しでも振り向いてもらえるだろう。
そんなことばかりを考えているうちに、自分が何を望んでいたのか、わからなくなってしまった。
「……セリア様」
ミレーヌが、ためらいがちに口を開いた。
「差し出がましいことを申し上げても、よろしいでしょうか」
「もちろんよ」
「旦那様は……決して、奥様を憎んでいらっしゃるわけではないと思うのです」
私は、顔を上げた。
ミレーヌは、困ったように指を組んでいた。
「閣下は、昔からあまり感情を表に出されない方だと聞いております。きっと、どう接してよいのか、おわかりにならないだけで……」
彼女は、私を慰めようとしているのだろう。
その気持ちは、痛いほどわかった。
だから、私は微笑んだ。
「そうね。きっと、そうなのかもしれないわ」
ミレーヌが、ほっとしたように息を吐く。
けれど、私は続けた。
「でもね、ミレーヌ」
「はい」
「憎まれていないからといって、傷つかないわけではないのよ」
ミレーヌの表情が、静かに変わった。
「クロード様は、私を罵ったことも、手を上げたこともないわ。だから、私はずっと、幸せなほうなのだと思おうとしていたの」
それが、どれほどおかしな考えだったのか。
今なら、少しだけわかる。
誰かに傷つけられたとき、もっとひどい目に遭っている人がいるからと、自分の痛みを小さく見積もる。
私はいつから、そんなふうに考えるようになったのだろう。
「でも、三年間、ずっとひとりだった」
言葉にした途端、胸の奥がきゅっと痛んだ。
「同じ屋敷に暮らしていても、夫婦であっても、私のことを知ろうとしてくださることはなかった。私が何を好きで、何が嫌いで、何を悲しいと思うのか……クロード様は、何ひとつご存じないわ」
「奥様……」
「私がいなくなっても、きっと困らないでしょうね」
ミレーヌが息を呑んだ。
私は、慌てて笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「……ごめんなさい。誕生日なのに、暗い話をしてしまったわね」
「いいえ」
ミレーヌは、首を振った。
「どうか、謝らないでください」
そして、少しだけためらってから、私の前に膝をついた。
「セリア様。私は、奥様がここにいてくださって、嬉しいです」
私は、目を瞬かせた。
「ミレーヌ……?」
「奥様は、私が失敗したときも、決して責めませんでした。母が病に倒れたときには、お休みを取れるよう取り計らってくださいました。私の話を、いつも最後まで聞いてくださいました」
ミレーヌの声が、少し震えた。
「だから……どうか、ご自分が誰にも必要とされていないなんて、おっしゃらないでください」
私は、何も言えなかった。
そんなふうに思ってくれていたなんて、知らなかった。
私は、ただ。
自分がしてもらえなかったことを、ほかの誰かにはしたくなかっただけなのに。
ミレーヌは、そっと私の手を取った。
「お誕生日、おめでとうございます。セリア様」
その言葉を聞いた瞬間。
ぽたり、と。
私の手の甲に、涙が落ちた。
「あ……」
驚いて目元に触れると、指先が濡れた。
泣くつもりなんて、なかった。
もう、涙なんて出ないと思っていた。
けれど、止まらなかった。
「……ごめんなさい」
「謝らないでください」
「私……」
声が、震える。
「本当は、今日くらい……」
そこで、言葉が詰まった。
誕生日を祝ってほしかった。
おめでとうと、言ってほしかった。
生まれてきてよかったと、思いたかった。
ただ、それだけだったのに。
私は顔を覆った。
ミレーヌは何も言わず、ただ、そばにいてくれた。
*
しばらくして涙が落ち着くと、ミレーヌが新しい紅茶を淹れてくれた。
温かな香りが、部屋に広がる。
私は、窓辺の白い花を見つめた。
「……ねえ、ミレーヌ」
「はい」
「もし、私が大公妃でなかったら、どんな暮らしをしていたと思う?」
ミレーヌは、少し驚いたようだった。
「……そうですね」
彼女は考え込んだ。
「セリア様は、お花がお好きですから……お花屋さんなど、いかがでしょう?」
「お花屋さん?」
「はい。小さなお店で、毎朝ご自分で花を並べて。お客様とお話ししながら、花束を作るんです」
私は、思わず笑った。
「素敵ね」
「きっと、セリア様にお似合いです」
私は、目を閉じた。
小さな店。
窓辺に並ぶ花。
朝の光。
焼きたてのパンの香り。
誰かのために花束を作り、その人が笑ってくれる。
そんな暮らしを、想像した。
不思議だった。
豪華な大公邸で暮らしている今よりも、ずっと心が軽くなった。
「……いいわね」
私は、小さく呟いた。
「そんな暮らしが、できたら」
ミレーヌは、微笑んだ。
「きっと、できますよ」
その言葉に、私は首を振りかけた。
大公妃が、花屋になるなんて。
そんなこと、できるはずがない。
そう言おうとして。
ふと、思った。
どうして、できないのだろう。
私は、いつから、自分の人生を選ぶことを諦めていたのだろう。
大公妃という立場。
夫の名誉。
実家の事情。
守らなければならないものは、たくさんある。
けれど。
その中に、私自身はいるのだろうか。
私は、ゆっくりと目を開けた。
「……夢を見るだけなら、誰にも怒られないものね」
冗談めかして言うと、ミレーヌは少し困ったように笑った。
「夢で終わらせなくても、よいと思います」
私は、返事をしなかった。
ただ、窓辺に飾られた白い花を見つめた。
もし、本当にそんな暮らしができたなら。
そのとき、私はどんな顔で笑っているのだろう。
白い花が、秋の柔らかな光を受けて揺れている。
誰に見られなくても。
誰に褒められなくても。
ただ、自分のために咲いている花。
私は、そっと花びらに触れた。
今日、私は二十四歳になった。
そして、初めて思った。
来年の誕生日は、ここではない場所で迎えたい。
誰かに祝ってもらうためではなく。
自分自身が、生まれてきてよかったと思える場所で。
その願いが、どれほど難しいことなのか。
このときの私は、まだ知らなかった。
けれど、確かに。
私の心の中で、何かが変わり始めていた。




