1話 三年間夫は私を見なかった
結婚三周年の朝、私は夫のために用意した朝食が冷めていくのを、ひとりで眺めていた。
窓から差し込む朝日が、銀のカトラリーを淡く輝かせている。
焼きたてのパン。季節の果物。香草を添えた卵料理。そして、クロード様がお好きだと聞いて、料理人に何度も味を調整してもらった温かなスープ。
どれも、彼のために用意したものだった。
けれど、向かいの席は空いたままだ。
「……奥様」
背後に控えていた侍女が、ためらいがちに声をかけた。
「旦那様は、今朝もこちらにはいらっしゃらないそうです」
「そう」
私は小さくうなずいた。
「お忙しいのね」
「はい。朝食は執務室で済ませ、そのまま騎士団の視察へ向かわれるとのことです」
「わかったわ。教えてくれてありがとう」
侍女は何か言いたそうに唇を動かしたが、結局、深く頭を下げるだけだった。
彼女が気の毒に思ってくれていることくらい、わかっていた。
この屋敷で、私を哀れむ人はいても、私の立場を変えられる人はいない。
私は冷めたスープに目を落とした。
今日くらいは、一緒に食事ができるかもしれない。
そう思っていた自分が、少しだけ恥ずかしかった。
私、セリア・ヴァレンティアは、没落貴族の娘だ。
実家が抱えた莫大な借金。その肩代わりを条件に、私は三年前、帝国最強と謳われる大公クロード・ヴァレンティアに嫁いだ。
漆黒の髪に、冷ややかな紫の瞳。
戦場では敵を容赦なく打ち倒し、政敵には一切の妥協を許さない。
人々は彼を畏れ、陰では『氷獄の大公』、あるいは『冷血大公』と呼んでいた。
そんな彼との結婚に、私が何を期待していたのか。
今となっては、もう思い出すのも難しい。
最初から、愛される結婚ではないとわかっていた。
それでも、夫婦になったのだから。
時間をかければ、いつか少しずつ心を通わせられるのではないか。
そう信じていた。
彼が何を好むのか、侍従に尋ねて回った。
執務で疲れていると聞けば、好みの茶葉を取り寄せた。
誕生日には、彼の瞳と同じ紫色の花を選んだ。
手紙も書いた。
今日の天気のこと。庭に咲いた花のこと。食事がお口に合ったかという、ほんの些細なこと。
返事は、一度もなかった。
それでも私は、返事がないことに慣れようとした。
忙しい方なのだから。
不器用な方なのだから。
私に関心がないのではなく、ただ、気持ちを表すのが苦手なだけなのかもしれない。
そうやって、彼をかばう言葉を探すたびに、自分の心を納得させてきた。
けれど。
月に数度、夫婦として同じ寝室で過ごす夜でさえ、クロード様は私にほとんど言葉をかけなかった。
同じベッドに横たわっていても、彼との間には、決して越えられない距離があった。
私が熱を出して寝込んだときも、彼は見舞いに来なかった。
翌朝、侍女から「旦那様は通常どおり執務をなさっています」と聞いたとき、私は熱に浮かされた頭で、ああ、そうなのね、と答えた。
泣きはしなかった。
泣けば、少しは楽になれたのだろうか。
もう、よくわからない。
「お料理は、お下げしてもよろしいでしょうか」
侍女の声に、私は顔を上げた。
いつの間にか、スープの表面から湯気は消えていた。
「ええ。お願いね」
「奥様は、何か召し上がられますか?」
「大丈夫。少ししたら、自室でいただくわ」
私は微笑んだ。
侍女を困らせたくなかった。
誰かに気を遣わせることさえ、今の私には疲れることだった。
席を立ち、ダイニングを出る。
長い廊下には、磨き上げられた大理石の床が続いていた。壁には歴代のヴァレンティア家当主の肖像画が並び、窓辺には季節の花が飾られている。
美しく、立派で、何ひとつ不自由のない大公邸。
けれど、ここには私の好きなものがひとつもなかった。
私が選んだ花でさえ、いつの間にか侍従の好みに合わせたものへと変えられていた。
ここでは、私の好みも、私の気持ちも、必要とされていない。
そう考えながら廊下を進んでいると、向こうから数人の騎士を従えた男性が歩いてくるのが見えた。
漆黒の軍服。
長身の身体。
冷たい紫の瞳。
クロード様だった。
私は反射的に足を止めた。
「クロード様……」
彼の前でドレスの裾をつまみ、淑女の礼をとる。
ほんの一瞬、期待してしまった。
今日は結婚記念日です、と伝えれば、思い出してくださるかもしれない。
朝食には間に合わなくても、せめて一言くらい、何か言ってくださるかもしれない。
私たちは三年間、夫婦だったのだから。
彼が、私を見た。
そう思ったのは、ほんの一瞬だった。
クロード様は私の前で足を止めることもなく、表情ひとつ変えずに通り過ぎていった。
まるで、廊下に置かれた花瓶でも避けるように。
彼の外套が、私のドレスの裾をかすめた。
軍靴の音が遠ざかっていく。
従者たちも、誰ひとり私に声をかけなかった。
私は礼をとった姿勢のまま、しばらく動けなかった。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
廊下の先に、もう彼の姿はなかった。
「……そう、よね」
誰に聞かせるでもなく、私はつぶやいた。
結婚記念日だからといって、彼が何かを変えてくれるはずもない。
最初から、わかっていたことだ。
なのに、どうして。
胸の奥が、こんなにも痛むのだろう。
自室に戻ると、私は鏡の前に立った。
鏡の中には、淡い銀色の髪を持つ女が映っていた。
かつてはもっと生き生きと輝いていたはずの瞳。
今は、疲れのせいか、ひどくくすんで見える。
頬は痩せ、唇には血の気がない。
いつから、こんな顔をするようになったのだろう。
私は鏡に手を伸ばしかけ、途中でやめた。
触れたところで、何も変わらない。
この三年間、私はずっと、何かが変わるのを待っていた。
いつか夫が私の名前を呼んでくれること。
いつか一緒に食事をしてくれること。
いつか、私の書いた手紙を読んで、短くてもいいから返事をくれること。
そんな、ささやかな願いばかりだった。
けれど、三年が過ぎても、何ひとつ叶わなかった。
私はもう、彼に愛されるために努力することに疲れてしまった。
愛されたいと願うたびに、自分の価値まで疑うようになってしまったから。
私が悪いのだろうか。
もっと美しくあれば。
もっと賢くあれば。
もっと彼の望む妻になれたなら。
そう考えることにも、もう疲れた。
私は、私のままでいたかった。
誰かに振り向いてもらうためではなく。
誰かに必要とされるためでもなく。
ただ、自分の気持ちを押し殺さずに生きてみたかった。
窓の外では、庭師が花壇の手入れをしていた。
色とりどりの花が、朝の光を浴びて揺れている。
その中に、白い小さな花がひとつ咲いていた。
誰に見られなくても。
誰に褒められなくても。
ただ、そこに咲いている花。
私はしばらく、その花を眺めていた。
そして、鏡の中の自分に向かって、小さく告げた。
「……もう、いいわ」
クロード様を憎みたいわけではなかった。
仕返しをしたいわけでもない。
ただ、もう期待したくなかった。
彼が私を見てくれる日を待ちながら、少しずつ自分を失っていくのは、もう嫌だった。
私は夫の妻である前に、ひとりの人間なのだから。
その夜、私は初めて、これからの人生を彼のいない場所で考えた。
そして、まだ誰にも告げていない小さな決意を、胸の奥にしまった。
この屋敷を出よう。
クロード・ヴァレンティアの妻であることをやめて、セリアとして生きるために。
たとえ、そのために、私が死んだことにしなければならないとしても。




