15話 ……セリア?
三年前、私は夫に一度だけ、お願いをしたことがある。
『クロード様。今度のお休みに、庭園を一緒に歩いていただけませんか』
あの方は、書類から顔を上げなかった。
『時間がない』
たった、それだけ。
私は笑って、『承知いたしました』と答えた。
本当は、もう少しだけ話したかった。
庭園の白い薔薇が咲いたこと。
温室に小鳥が巣を作ったこと。
今年は、春が早く来たこと。
そんな、何でもない話を。
けれど、あの方には時間がなかった。
私のために使う時間など、少しも。
だから、私は諦めた。
夫に何かを望むことを。
夫の帰りを待つことを。
そして最後には、夫の妻でいることを。
それから三年。
私は今、花屋の女主人として、平穏に暮らしている。
――そのはずだった。
*
「リリア。顔色が悪いわよ」
朝早く、『小さな花冠』を訪れたエマが、心配そうに私を覗き込んだ。
「……そう?」
「そうよ。昨日、ちゃんと眠れた?」
「……少しだけ」
嘘だった。
ほとんど眠れていない。
目を閉じるたびに、あの紫色の瞳が浮かんできた。
昨日、クロード様は私の店へ来た。
そして、私の名前を尋ねた。
どこから来たのか。
いつから、この町にいるのか。
そんなことまで。
偶然だと思いたかった。
けれど、あの方の視線を思い出すたびに、胸が苦しくなる。
まるで、何かを確かめようとしているようだった。
「……エマ」
「なあに?」
「今日の花束、代わりに届けてもらえないかしら」
エマは、すぐにうなずいた。
「もちろん。私が行くわ」
「……ありがとう」
「でも、リリア」
エマは、私の手を握った。
「あなた、本当に大丈夫?」
私は、少しだけ笑った。
「……大丈夫よ」
そう答えた瞬間、胸が痛んだ。
三年前も、私は何度も同じことを言っていた。
大丈夫。
平気です。
お気になさらないでください。
本当は、少しも大丈夫ではなかったのに。
私は、目を伏せた。
「……怖いの」
小さく呟いた。
「また、全部なくなってしまいそうで」
エマは、何も言わなかった。
ただ、私の手を強く握ってくれた。
*
昼前。
クロード・ヴァレンティアは、滞在先の執務室で報告を受けていた。
「花束の納品が完了いたしました」
副官が、書類を差し出す。
「町の花屋『小さな花冠』から、注文どおり十二組が届けられております」
クロードは、顔を上げた。
「……店主は」
「代理の女性が届けたとのことです」
「代理?」
「はい。『小鳥の宿』の女主人、エマという者でございます」
クロードは、しばらく黙っていた。
昨日、あの女は確かに言った。
『明朝、ご指定の会議室へお届けします』
それなのに、本人は来なかった。
ただの偶然かもしれない。
忙しかったのかもしれない。
体調が悪かったのかもしれない。
だが、胸の奥に生まれた疑念は、もう消えなかった。
「……花束を持ってこい」
「は?」
「ひとつでいい」
副官は、慌てて頭を下げた。
「承知いたしました」
しばらくして、白い花束が運ばれてきた。
クロードは、机の上に置かれた花を見つめた。
白い花。
淡い緑の葉。
派手ではないが、どこか温かみのある組み合わせ。
その花束には、小さな札が添えられていた。
『どうか、穏やかな一日になりますように』
丁寧な文字だった。
クロードの指先が、止まった。
その筆跡。
見覚えがあった。
いや。
見覚えがあるどころではない。
三年間、何度も読み返してきた手紙。
妻が残した、七通の手紙。
その文字に、あまりにも似ていた。
クロードは、札を手に取った。
指先が、震えた。
「……誰が書いた」
副官が、戸惑ったように答える。
「花屋の店主が、注文の品に添えたものかと……」
「……そうか」
クロードは、目を閉じた。
偶然。
そう片づけるには、あまりにも多すぎる。
花を扱う仕草。
柔らかな声。
三年前に移り住んだという経歴。
そして、この筆跡。
クロードは、静かに立ち上がった。
「……馬車を出せ」
「閣下?」
「花屋へ行く」
*
その頃、私は店の奥で、鉢植えの手入れをしていた。
今日は、店を早めに閉めようと思っていた。
帝国軍が町にいる間は、できるだけ人目を避けたい。
そう考えていた。
けれど、花たちは待ってくれない。
水をやり、枯れた葉を取り除き、土の様子を確かめる。
いつもどおりの作業。
それだけで、少しだけ心が落ち着いた。
「……よし」
私は、小さな鉢を窓辺に置いた。
白い花が、一輪咲いている。
その花を見つめながら、ふと笑った。
「……あなたは、いいわね」
誰に気兼ねすることもなく、好きな場所で咲いていられる。
私は、そっと花弁に触れた。
そのとき。
店の外から、馬車の音が聞こえた。
ガラガラと、石畳を車輪が転がる。
私は、顔を上げた。
黒い馬車。
銀色の装飾。
ヴァレンティア大公家の紋章。
心臓が、跳ねた。
「……嘘」
馬車が、店の前で止まった。
私は、反射的に身を隠そうとした。
けれど、遅かった。
扉が開く。
黒い軍靴が、石畳を踏む。
そして。
クロード様が、降りてきた。
*
クロードは、馬車から降りると、花屋を見つめた。
深緑色の扉。
白い壁。
窓辺に並ぶ鉢植え。
昨日と同じ光景だった。
けれど、今日は違う。
彼は、確かめに来たのだ。
あの女が、誰なのか。
クロードは、店へ向かった。
副官が、慌てて後を追う。
「閣下。私が先に――」
「必要ない」
短く答え、扉に手をかけた。
鈴が鳴った。
チリン。
小さな音だった。
その音を聞いた瞬間、クロードの胸が痛んだ。
なぜか、ひどく懐かしい。
彼は、店内へ足を踏み入れた。
花の香りが、鼻をくすぐる。
白い花。
黄色い花。
淡い紫色の花。
小さな鉢植え。
そして、作業台の向こうに。
栗色の髪の女が、立っていた。
「……いらっしゃいませ」
女は、顔を上げた。
その瞬間。
クロードの呼吸が、止まった。
昨日は、気づかなかった。
いや。
気づこうとしなかったのかもしれない。
髪の色が違う。
服装も違う。
表情も違う。
けれど。
その瞳。
その唇。
そして、こちらを見た瞬間に浮かんだ、わずかな怯え。
クロードは、知っていた。
三年間。
自分が何度も見過ごしてきた、妻の表情だった。
「……お前」
声が、かすれた。
女は、何も言わなかった。
ただ、作業台の端を握りしめている。
クロードは、一歩踏み出した。
「……名前を」
「……リリア、です」
女が答えた。
「昨日も、申し上げました」
その声。
クロードの胸が、激しく鳴った。
違う。
違うはずだ。
セリアは死んだ。
自分の腕の中で。
何度も名を呼んだ。
何度も魔力を注いだ。
それでも、目を開けなかった。
なのに。
目の前の女は、息をしている。
胸が上下している。
指先が震えている。
生きている。
クロードは、ゆっくりと手を伸ばした。
「……セリア?」
その名を口にした瞬間。
女の顔から、血の気が引いた。
*
私は、息ができなくなった。
セリア。
三年間、誰にも呼ばれなかった名前。
もう、捨てたはずの名前。
それを。
クロード様が、呼んだ。
「……違います」
声が、震えた。
「私は、リリア・ベルです」
クロード様は、何も言わなかった。
ただ、私を見つめていた。
その紫色の瞳に、信じられないものを見たような光が宿っている。
「……セリア」
もう一度。
今度は、はっきりと。
私は、首を振った。
「……人違いです」
逃げなければ。
そう思った。
けれど、足が動かない。
クロード様が、一歩近づく。
私は、反射的に後ずさった。
「……来ないでください」
その言葉に、クロード様の足が止まった。
初めて見る表情だった。
驚き。
困惑。
そして、何かを失うことへの恐怖。
私は、唇を噛んだ。
「……お願いです」
声が、震えた。
「……帰ってください」
クロード様は、ゆっくりと首を振った。
「……セリア」
その声が、あまりにも切実で。
私は、胸が痛くなった。
けれど。
今さら。
今さら、そんな声で呼ばないで。
*
クロードは、女の顔を見つめていた。
否定された。
人違いだと。
帰ってほしいと。
けれど。
その反応こそが、答えだった。
セリアという名を聞いた瞬間、女は明らかに動揺した。
そして。
自分を見つめるその瞳には、恐怖があった。
クロードは、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
なぜ。
なぜ、そんな目で見る。
自分は、ただ。
もう一度、会いたかっただけなのに。
クロードは、手を伸ばした。
女が、逃げようとする。
その瞬間。
彼は、反射的に彼女の手首を掴んだ。
「……っ!」
細い手首。
温かい。
脈が、打っている。
クロードの瞳が、見開かれた。
生きている。
本当に。
彼は、震える指先で、彼女の手首を確かめた。
とくん。
とくん。
確かな鼓動。
幻ではない。
魔法でもない。
目の前にいる女は、生きている。
クロードの喉から、かすれた息が漏れた。
「……生きて……」
言葉が、続かなかった。
彼は、彼女の手首を握ったまま、立ち尽くした。
三年間。
何度も夢に見た。
妻が目を開ける夢。
名前を呼んでくれる夢。
もう一度、微笑んでくれる夢。
けれど、目が覚めれば、そこには氷の棺しかなかった。
それなのに。
今。
彼女が、ここにいる。
クロードは、ゆっくりと顔を上げた。
「……セリア」
声が、震えていた。
「……本当に、お前なのか」
私は、答えられなかった。
ただ、手首を掴まれたまま、立ち尽くしていた。
クロード様の指先が、震えている。
その瞳には、涙が滲んでいた。
私は、息を呑んだ。
この人が。
泣くの?
三年間、私に一度も優しい言葉をかけなかった人が。
私の誕生日さえ、覚えていなかった人が。
今、私を見て。
泣いている。
クロード様は、震える声で呟いた。
「……生きていた」
その声には、信じられないほどの喜びが滲んでいた。
「……お前が、生きていた」
そして。
次の瞬間。
彼の表情が、変わった。
喜びの奥に、恐怖が浮かぶ。
まるで、今にも私が消えてしまうと思っているかのように。
クロード様は、私の手首を握る力を強めた。
「……どこにいた」
低い声だった。
「……三年間、どこにいた」
私は、唇を噛んだ。
答えられない。
答えたくない。
クロード様は、さらに一歩近づいた。
「……なぜ、帰ってこなかった」
その言葉に。
胸の奥で、何かが音を立てて壊れた。
なぜ。
帰ってこなかった?
私は、ゆっくりと顔を上げた。
三年間。
私は、あの屋敷で待ち続けた。
あなたが帰ってくるのを。
私を見てくれるのを。
私の名前を呼んでくれるのを。
けれど。
あなたは、一度も振り向かなかった。
それなのに。
今さら。
なぜ、帰ってこなかったのかと。
私は、震える唇を開いた。
「……クロード様」
その名を呼んだ瞬間。
彼の瞳が、大きく見開かれた。
もう、否定できなかった。
私は、セリア・ヴァレンティア。
三年前に死んだことになっている、大公妃。
そして。
目の前の男から、逃げた女。
クロード様は、私の手首を握ったまま、かすれた声で呟いた。
「……セリア」
その声には、喜びと絶望が混ざっていた。
「……お前は、どうして……」
私は、目を閉じた。
もう、逃げられない。
少なくとも、今この瞬間は。
けれど。
私は、もう三年前の私ではない。
夫の顔色を窺い、何も言えずに俯いていた女ではない。
私は、ゆっくりと目を開けた。
そして、彼を見つめた。
「……お話ししなければならないことがあります」
クロード様の指先が、わずかに震えた。
私は、静かに続けた。
「……三年前、私が死んだ理由を」
店の外では、春の風が吹いていた。
白い花が、窓辺で揺れている。
その香りに包まれながら。
三年間、死者として眠り続けていたはずの妻と。
三年間、死んだ妻を愛し続けてきた夫は。
ようやく、向き合った。
けれど。
それは、失われた愛を取り戻すための再会ではなかった。
妻が、夫に別れを告げるための再会だった。




