14話 その仕草を、私は知っている
死んだ妻に似た女を見た。
そう思ったのは、ほんの一瞬だった。
ベルフェル王国の小さな町。石畳の通りを進む黒塗りの馬車の中で、クロード・ヴァレンティアは窓の外に目を向けていた。
帝国軍の進駐によって、町は異様な静けさに包まれている。
軒先に並ぶ商人たちは声を潜め、子どもたちは兵士の姿を見るなり母親の背後へ隠れた。
窓辺に置かれた鉢植えだけが、何事もないように風に揺れていた。
「閣下。押収品の件ですが」
向かいに座る副官が、書類を差し出した。
「問題の銀食器は、三年前に帝国内で売却された品である可能性が高いとのことです。現在、当時の取引記録を照合しております」
「……そうか」
「ベルフェル側は、商人の拘束解除を求めています」
「不正が確認できなければ解放しろ」
「はっ」
副官は、安堵したように頭を下げた。
クロードは、それ以上興味を示さなかった。
彼がこの町に来たのは、国境の混乱を収拾するためだ。
大公家の銀食器が不正に持ち出されたという疑惑から始まった調査は、過剰な検問と商人の拘束によって外交問題に発展した。ベルフェル側との協議の結果、帝国軍は限られた区域で、王国の役人立ち会いのもと調査を行うことになっている。
本来なら、クロード自身が赴く必要などなかった。
だが、彼の部下たちは、もはや独断で何かを決めようとしない。
間違えれば処罰される。
そう思わせたのは、ほかでもないクロード自身だった。
馬車が広場を曲がった。
そのとき。
通りの向こうで、白い花が風に舞った。
「あっ!」
小さな声がした。
深緑色の扉を持つ花屋の前で、若い女が木箱を抱えている。
突風に煽られ、箱から数本の花が落ちたらしい。
女は慌てて木箱を置き、石畳に散らばった花を拾い始めた。
栗色の髪。
質素な生成りの服。
腰には、使い込まれた前掛け。
どこにでもいそうな、町の女だった。
けれど、クロードは目を離せなかった。
女が、折れかけた花を拾い上げた。
左手で茎を支え、右手の指先で花弁の乱れを直す。
それから、ほんの少しだけ首を傾げた。
クロードの胸が、不意に痛んだ。
「……止めろ」
御者が手綱を引いた。
馬車が止まる。
「閣下?」
副官が顔を上げた。
クロードは答えず、窓の外を見つめた。
女は、花を拾い終えると、木箱を抱え直した。
通りかかった子どもに何かを言われ、笑っている。
明るい笑顔だった。
その表情に、クロードは覚えがなかった。
だが。
花を扱う、あの指先。
少し首を傾げる、あの仕草。
どこかで見たことがある。
そう思った。
「……あの店は」
クロードが尋ねると、副官は窓の外を確認した。
「花屋でございます。『小さな花冠』という店のようですが」
「店主は」
「申し訳ございません。そこまでは……」
「……そうか」
クロードは、背もたれに身を預けた。
「行け」
馬車が再び動き出す。
花屋は、すぐに建物の陰へ消えた。
それでも、女の姿だけが、奇妙にはっきりと脳裏に残っていた。
*
セリアは、花が好きだった。
それを知ったのは、妻が死んでからだ。
彼女が残した帳簿には、温室の修繕費用や庭師への相談記録が、細かな文字で書き込まれていた。
季節ごとに育てたい花の名前。
庭の日当たり。
土の種類。
どの花を、どこに植えればよいか。
そんなことまで、丁寧に調べていた。
けれど、彼女は一度も自分の温室を持てなかった。
大公邸の温室は、管理上の理由で使用を禁じられていたからだ。
クロードは、その事実を知らなかった。
いや。
知ろうとしなかった。
妻が何を望んでいるのか。
何を好きなのか。
何に喜び、何に傷つくのか。
三年間、何ひとつ尋ねなかった。
そのくせ、死んでからは毎日のように妻のことを考えている。
何という滑稽な男だろう。
クロードは、窓の外から目を逸らした。
先ほどの女は、セリアではない。
セリアは死んだ。
自分の腕の中で、冷たくなっていた。
あの細い身体を抱きしめ、何度も名を呼んだ。
どれほど魔力を注いでも、彼女の心臓は動かなかった。
今も、帝都の大公邸には氷晶石の棺がある。
厳重な保存魔法を施し、誰にも触れさせずに守り続けている。
棺の封印を解けば、内部の保存術式が失われるおそれがある。
そのため、クロードは三年間、一度も蓋を開けていなかった。
それでも、透明な氷晶石越しに見える妻の姿は、少しも変わっていない。
セリアは、そこにいる。
だから。
この町に、いるはずがない。
*
午後。
クロードは、町の役所でベルフェル側の使節と会談していた。
押収された銀食器の売買記録が見つかり、盗品であるという疑いは薄れつつあった。
「帝国側の正式な許可番号が確認できました」
ベルフェルの役人が、書類を差し出す。
「少なくとも、今回拘束された商人が不正に入手したという証拠はありません」
クロードは書類を確認した。
「……拘束を解け」
帝国側の役人が、慌てて顔を上げる。
「しかし、閣下。大公家の品が国外へ流出した経緯については、まだ――」
「それは帝国内の管理責任だ」
クロードは、書類を閉じた。
「商人を拘束する理由にはならない」
「……承知いたしました」
会談は、予定より早く終わった。
副官が、ほっとした様子で言った。
「これで国境の混乱も収まるでしょう」
「そうだな」
「明日には帝都へお戻りになれます」
クロードは、答えなかった。
明日。
帝都へ戻る。
そうすれば、またあの部屋で過ごすことになる。
氷の棺。
白い花。
返事のない妻。
三年間、繰り返してきた夜。
その光景を思い浮かべたとき、なぜか今朝の花屋の女が脳裏をよぎった。
クロードは、眉を寄せた。
「……町を見て回る」
「は?」
「調査に関わった商店を確認する」
「でしたら、護衛を――」
「必要な人数だけでいい」
そう言って、立ち上がった。
*
一方、花屋『小さな花冠』では。
「……どうして、うちなのかしら」
リリア・ベルが、注文書を前に頭を抱えていた。
帝国軍の滞在施設へ飾る花束。
白を基調としたものを十二組。
町の役人から依頼された注文だった。
昨日はエマが体調不良を理由に断ってくれた。
けれど、今朝になって別の役人が訪れ、町内の花屋では数が揃わないからと、改めて依頼されたのだ。
断ることはできた。
ただ、何度も断れば、かえって不審に思われるかもしれない。
納品先も、大公本人の部屋ではなく、役人たちが使う会議室だという。
花束を渡すだけなら。
きっと、大丈夫。
そう考えて、引き受けた。
「……大丈夫。私はリリア・ベル」
小さく呟く。
「ただの花屋。何もおかしなことはないわ」
けれど、手は震えていた。
リリアは深呼吸をして、作業台に向かった。
白い花を選び、葉を整える。
花束を組む作業は、好きだった。
一本ずつ向きを変え、全体の形を確かめる。
花を扱っている間だけは、不安を忘れられる。
「リリアさん!」
入口から、元気な声がした。
近所のパン屋の娘、ルナだった。
「お花、いっぱい!」
「ええ。今日は大きな注文なの」
「お手伝いする!」
「ありがとう。でも、今日は見ているだけにしてね」
ルナは、作業台の前にちょこんと座った。
リリアは、花束をひとつ完成させた。
「どうかしら?」
「きれい!」
「本当?」
「うん! お姫様のお花みたい!」
リリアは、思わず苦笑した。
「……お姫様、ね」
「リリアさん、お姫様になりたい?」
「ううん」
答えは、すぐに出た。
「私は、花屋さんがいいわ」
「どうして?」
「毎日、好きなお花を触れるもの」
ルナは、しばらく考えた。
そして、にっこり笑った。
「じゃあ、私も花屋さんになる!」
「まあ。パン屋さんはいいの?」
「パンも売る!」
「ふふ。それは素敵ね」
リリアは笑った。
そのとき、作業台の端から花が一本落ちた。
「あら」
拾い上げると、茎が少し曲がっている。
リリアは、そっと指先で支えた。
「大丈夫。まだ、綺麗に咲けるわ」
花瓶に挿し直すと、白い花が小さく揺れた。
ルナが、嬉しそうに笑う。
「よかったね、お花!」
「ええ。よかったわね」
リリアも微笑んだ。
その光景を。
店の外から、一人の男が見ていた。
*
クロードは、足を止めていた。
深緑色の扉。
白い壁。
窓辺に並ぶ、小さな鉢植え。
『小さな花冠』
朝に見かけた店だった。
開け放たれた扉の向こうに、栗色の髪の女がいる。
彼女は、幼い少女と楽しそうに話していた。
笑い声が聞こえる。
その声に、クロードの胸がざわついた。
知らない女だ。
そう思った。
けれど。
女が花を拾い上げた。
左手で茎を支え、右手で花弁を整える。
そして、少し首を傾げる。
クロードは、息を止めた。
その仕草を、知っている。
遠い記憶が蘇った。
結婚して間もない頃。
セリアが、執務室へ書類を届けに来たことがあった。
机の上には、誰かが飾った花瓶が置かれていた。
花が少し傾いていたのだろう。
セリアは、書類を置く前に、そっと花の向きを直した。
左手で茎を支え。
右手の指先で花弁を整え。
少しだけ、首を傾げた。
そのとき、クロードは書類から顔も上げずに言った。
『余計なことはしなくていい』
セリアは、すぐに手を引っ込めた。
『……申し訳ございません』
それだけだった。
当時のクロードにとっては、記憶に留めるほどの出来事でもなかった。
だが、今。
その仕草が、目の前で繰り返されている。
クロードは、一歩踏み出した。
「……閣下?」
副官が、戸惑ったように呼びかけた。
クロードは、答えなかった。
女は、花束を持ち上げて形を確かめている。
その横顔。
伏せた睫毛。
唇の形。
よく見れば、セリアに似ていた。
いや。
似ているというだけでは、説明できない何かがあった。
クロードの胸が、激しく鳴り始めた。
「……あの女は」
かすれた声だった。
副官が、すぐに町の役人を呼び止めた。
「こちらの花屋の店主について、知っているか」
「はい。リリア・ベルという女性です」
クロードの目が、細くなった。
「……リリア?」
「三年ほど前に、この町へ移り住んできた者でございます。最初は隣の宿で働いておりましたが、昨年から花屋を営んでおります」
三年前。
その言葉に、クロードの心臓が跳ねた。
セリアが死んだ年。
偶然だ。
そう考えるべきだった。
この世界には、三年前に移住した女など、いくらでもいる。
栗色の髪の女も。
花が好きな女も。
似た仕草をする女も。
それなのに。
クロードは、視線を逸らせなかった。
*
リリアは、店の外に人の気配を感じていた。
黒い軍服。
低い声。
そして。
忘れたくても忘れられなかった、あの気配。
クロード様。
まさか。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
入口の向こう。
黒い外套を纏った男が、立っていた。
三年前と同じ、黒髪。
紫色の瞳。
整った顔立ち。
けれど、その表情は以前よりもずっと険しかった。
頬は少し痩せ、目元には疲労の影が落ちている。
何より、あの方の周囲には、息が詰まるような冷たい空気が漂っていた。
私は、反射的に視線を落とした。
駄目。
見つめてはいけない。
私は、リリア・ベル。
この町の花屋。
セリア・ヴァレンティアではない。
「……店主」
副官らしき男が、声をかけてきた。
「こちらに、軍の滞在施設用の花束を注文していると聞いたが」
私は、必死に平静を装った。
「……はい。承っております」
「準備はできているか」
「明朝までには、すべて揃います」
「そうか」
副官が、作業台の花束を確認した。
「見事なものだ。閣下、いかがでしょう」
私は、息を止めた。
クロード様の視線が、私に向けられている。
顔を上げられない。
どうか。
どうか、そのまま通り過ぎてください。
けれど。
「……お前」
低い声がした。
私は、身体を強張らせた。
「……はい」
「名は」
心臓が、跳ね上がった。
副官が答えようとしたが、クロード様は手で制した。
「本人に聞いている」
私は、唇を噛んだ。
逃げてはいけない。
今、逃げれば怪しまれる。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
「……リリア、です」
声が震えそうになる。
「リリア・ベルと申します」
クロード様は、何も言わなかった。
紫色の瞳が、私を見つめている。
その視線が、怖かった。
三年前。
私は、あの方に見てほしかった。
一度でいいから。
私の顔を見て、名前を呼んでほしかった。
けれど、今。
私は、心の底から願っていた。
お願い。
私を見ないで。
私の名前を呼ばないで。
私は、もうあなたの妻ではないのだから。
*
クロードは、女の顔を見つめていた。
リリア・ベル。
そう名乗った女。
栗色の髪。
柔らかな声。
花を扱う指先。
そして、あの仕草。
セリアに似ている。
あまりにも。
けれど、セリアは死んだ。
それは、揺るがない事実のはずだった。
クロードは、女の左手に目を向けた。
指輪は、ない。
当然だ。
目の前の女は、ただの花屋なのだから。
それでも、彼は尋ねずにはいられなかった。
「……この町には、いつからいる」
リリアの肩が、わずかに震えた。
「……三年ほど前からです」
「どこから来た」
沈黙。
リリアは、指先を握りしめた。
「……遠い町からです」
「町の名は」
「……申し訳ございません。あまり、故郷のことは話したくなくて」
副官が、慌てて口を挟んだ。
「閣下。こちらの女性は今回の調査とは無関係です。身元については町の役所で確認できますので――」
クロードは、答えなかった。
ただ、女を見つめていた。
何かが、違う。
何かが、引っかかる。
それが何なのか、わからない。
そのとき。
店の奥から、小さな女の子が顔を出した。
「リリアさん!」
ルナだった。
「お花、できた?」
リリアは、はっとしたように振り返った。
そして、柔らかく微笑んだ。
「ええ。もう少しよ」
その笑顔を見た瞬間。
クロードの胸が、締めつけられた。
セリアは。
あんなふうに、笑う女だったのか。
自分の前では、いつも遠慮がちに微笑んでいた。
言葉を選び、顔色を窺い、何かを言いかけては飲み込んでいた。
けれど、目の前の女は違う。
子どもに向かって、自然に笑っている。
まるで、何も恐れていないかのように。
もし。
もし、セリアが生きていたなら。
自分のいない場所では、あんなふうに笑っていたのだろうか。
クロードは、拳を握った。
そんなことを考える資格が、自分にあるのか。
わからなかった。
*
「……閣下」
副官が、再び声をかけた。
「ベルフェル側の使節がお待ちです。そろそろ、お戻りいただかなくては」
クロードは、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと視線を外した。
「……わかった」
リリアは、思わず息を吐きそうになった。
けれど、まだ安心できない。
クロード様は、扉の前で足を止めた。
「……花束は」
「……はい?」
「明朝、届けるのか」
「……はい。ご指定の会議室へ」
「そうか」
短く答える。
それだけだった。
クロードは、踵を返した。
黒い外套が、通りの向こうへ遠ざかっていく。
副官たちも、その後に続いた。
私は、ようやく息を吐いた。
膝から、力が抜けた。
作業台に手をつく。
「……リリアさん?」
ルナが、不思議そうに顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「……何でもないわ」
私は、無理に笑った。
「ちょっと、緊張しちゃっただけ」
「怖い人だったね」
「……そうね」
私は、小さくうなずいた。
怖かった。
本当に。
けれど、それ以上に。
胸の奥に、どうしようもない悲しさが残っていた。
三年前。
あの方は、私の顔をほとんど見なかった。
私が何を言っても、聞いてくれなかった。
それなのに。
今になって、あんなふうに見つめるなんて。
どうして。
どうして、今なの。
私は、震える手で花束を持ち上げた。
白い花弁が、かすかに揺れていた。
*
その夜。
クロードは、滞在先の執務室で書類を読んでいた。
けれど、内容が頭に入らなかった。
何度も、同じ行を読み返す。
そのたびに、栗色の髪の女が浮かんでくる。
リリア・ベル。
三年前に、この町へ来た女。
花が好きで。
子どもに優しく。
そして、セリアと同じ仕草をする女。
クロードは、書類を閉じた。
「……くだらん」
小さく呟く。
死んだ人間が、生き返るはずはない。
ましてや、髪の色を変え、名前を変え、隣国で花屋を営んでいるなど。
そんなことが、あるはずがない。
それでも。
胸の奥で、何かが騒いでいた。
クロードは、机の引き出しを開けた。
中には、一枚の小さな肖像画があった。
セリアの肖像。
結婚した年に描かせたものだ。
銀色の髪。
淡い色の瞳。
控えめな微笑み。
彼は、肖像画を見つめた。
そして、目を閉じた。
花屋の女の顔が、浮かんだ。
二つの顔が、記憶の中で重なりかける。
クロードは、思わず立ち上がった。
椅子が、音を立てて倒れた。
「……馬鹿な」
自分に言い聞かせる。
「……そんなはずはない」
けれど。
もし。
万が一。
あの女が。
クロードは、拳を握りしめた。
胸の奥で、三年間押し殺してきた感情が、激しく暴れ始めていた。
希望。
恐怖。
そして、どうしようもない渇望。
彼は、窓の外を見た。
夜の町は、静まり返っている。
遠くに、小さな灯りが見えた。
花屋のある通りだった。
クロードは、低く呟いた。
「……リリア・ベル」
その名を、確かめるように繰り返す。
そして。
「……明日、もう一度会う」
誰に聞かせるでもなく、そう言った。
その声は、ひどく静かだった。
けれど、彼の指先は震えていた。
三年間。
氷の棺に眠る妻へ、何度も語りかけてきた。
返事のない夜を、数えきれないほど過ごした。
もし、もう一度。
あの声を聞けるのなら。
もし、もう一度。
あの瞳が、自分を見つめてくれるのなら。
クロードは、目を閉じた。
それが、どれほど残酷な願いなのか。
まだ、知らなかった。
なぜなら。
彼が再び会いたいと願う女は。
彼から逃げるために、死を選んだ女なのだから。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
三年間、必死に隠してきたリリアの平穏が、クロードの直感によって崩れようとしています。暴君の執念から、彼女は逃げ切れるのか……?
次回、運命の第15話は【本日9時】に更新予定です。
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