13話 平穏な町に黒い軍旗が立つ
私の店の前に、帝国軍の黒い軍旗が立った。
三年前、私は死んだ。
正確には、死んだことにした。
名前を変え、髪を染め、国境を越えて、ようやく手に入れた自由。
それが今、一枚の黒い旗によって脅かされようとしていた。
「……どうして」
私は、店の入口に立ち尽くしていた。
通りの向こうでは、帝国軍の兵士たちが行進している。
黒い鎧。
銀色の剣を刻んだ軍旗。
そして、見覚えのある紋章。
ヴァレンティア大公家。
かつて、私が暮らしていた家の紋章だった。
胸の奥が、冷たくなる。
あの方が、ここにいるのだろうか。
私は、無意識に一歩後ずさった。
足元には、先ほど落とした白い花束が転がっている。
拾わなければ。
そう思うのに、身体が動かなかった。
*
「リリア!」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、エマがこちらへ駆け寄ってきた。
顔色が悪い。
「大丈夫?」
「……ええ」
私は、無理に微笑んだ。
「少し、驚いただけ」
エマは、私の顔をじっと見た。
そして、小さく首を振った。
「……嘘ね」
私は、何も言えなかった。
エマは、そっと私の手を握った。
「帝国の人たちが怖いのね」
私は、唇を噛んだ。
エマには、私が帝国から逃れてきたことを話している。
けれど、かつて大公妃だったことも、死を偽装したことも、打ち明けていない。
それでも彼女は、私の様子から何かを察したらしかった。
「……昔、知っていた人がいるかもしれないの」
私は、ようやく答えた。
エマは、それ以上尋ねなかった。
代わりに、私の手を強く握った。
「大丈夫。今は私が一緒にいるわ」
その言葉に、少しだけ呼吸が楽になった。
けれど、遠くから兵士の声が響いた。
「帝国とベルフェル王国の共同調査に伴い、この通りの通行を一時制限する! 住民は係官の指示に従うように!」
私は、息を呑んだ。
共同調査。
つまり、帝国軍は正式な手続きを経て、この町へ入ってきたということだろうか。
エマが、私の手を引いた。
「とにかく、お店に入りましょう」
私は、うなずいた。
*
帝国軍が町へ入った理由は、国境で起きた交易品の不正流出事件の調査だという。
大公家の紋章が刻まれた銀食器が、ベルフェルの商人から見つかった。
その出所を調べるため、帝国側がベルフェル王国に調査協力を求めたらしい。
もっとも、町の役人から聞こえてきた話では、事情はそれほど単純ではなかった。
国境での小競り合いが続き、交易路が閉鎖されたことで、ベルフェル側の商人たちにも大きな損害が出ていた。
王国は事態を収拾するため、帝国の調査官と少数の護衛兵に限り、町への立ち入りを認めたのだという。
ただし、調査にはベルフェル側の役人が同行し、帝国軍が独断で住民を拘束することは認められていない。
それが、両国の取り決めだった。
ところが。
実際に町へ入ってきた兵士の数は、当初の話よりもずっと多かった。
町の外れには帝国軍の部隊が待機し、調査団の護衛を名目に、一部の兵士が市街地にも配置されている。
ベルフェルの役人たちは、帝国側の指揮官と何度も言い争っていた。
それでも、兵士たちは撤収しない。
帝国軍の強引な行動に抗議すれば、ようやく再開しかけた交易が、また止まってしまうかもしれない。
町の人々は、そんな噂を交わしていた。
私は、店の扉を閉めた。
鍵をかける。
それから、窓のカーテンを引いた。
薄暗くなった店内に、花の香りだけが残った。
「……どうしよう」
三年前、私は逃げた。
誰にも見つからないように。
誰にも知られないように。
セリア・ヴァレンティアという名前を、氷の棺の中に置いてきた。
あのときは、二度と帝国の人間と関わることはないと思っていた。
なのに今、その帝国の軍旗が、私の店のすぐそばではためいている。
*
「リリア、落ち着いて聞いて」
エマは、店の奥の椅子に私を座らせた。
そして、温かいお茶を差し出してくれた。
「帝国軍が来たのは、あなたを探すためじゃないわ」
「……ええ」
「だから、今すぐ何かが起こると決まったわけじゃない」
私は、湯気の立つカップを見つめた。
頭では、理解している。
クロード様は、私が生きていることを知らない。
あの方にとって、セリア・ヴァレンティアは三年前に死んだ女だ。
私を探す理由など、ないはずだった。
けれど。
「……もし、見つかったら」
思わず、声が漏れた。
エマは、黙って私を見つめた。
「昔の私を知っている人に、もし見つかったら……」
私は、カップを両手で包み込んだ。
「せっかく手に入れた暮らしが、なくなってしまうかもしれない」
エマは、私の隣に腰を下ろした。
「リリア。無理に話さなくていいけれど、何かあったら必ず言ってね」
「……ありがとう」
三年前のクロード様なら、私を見ても気づかなかったかもしれない。
同じ屋敷で暮らしていても、ほとんど顔を合わせなかったのだから。
けれど、今は違う。
妻の死をきっかけに変わってしまったという、あの方。
もし本当に、この町に来ているのなら。
私は、どうすればいいのだろう。
*
昼過ぎ。
店の扉が叩かれた。
コン、コン。
私は、びくりと肩を震わせた。
エマが、すぐに立ち上がる。
「私が出るわ」
彼女は、扉へ向かった。
私は、息を止めた。
カーテンの隙間から、黒い鎧が見えた。
帝国兵だ。
「……こちらは、花屋ですか?」
低い男の声がした。
エマが、落ち着いた声で答える。
「ええ。今日は臨時休業なんです」
「少し、お願いがあるのですが」
私は、椅子の上で身体を固くした。
お願い。
何を。
兵士は、続けた。
「ヴァレンティア大公閣下の滞在先に飾る花を、手配したいのです」
私は、目を見開いた。
花。
クロード様の、滞在先。
どうして、よりによって私の店なの。
エマが、少しだけ声を詰まらせた。
「……ほかのお店では、駄目なのでしょうか」
「町の役人から、こちらの花屋を紹介されました。評判がよいと聞いております」
私は、膝の上で手を握った。
かつて、大公邸の庭に花を植えたいと願ったことがある。
白い花が好きだった。
母が育てていた花を、あの屋敷でも咲かせたかった。
けれど、その願いは叶わなかった。
温室の修繕を願い出ても、返事はなかった。
花を飾ったところで、クロード様が目を留めることもなかった。
それなのに。
今になって、あの方のために花を用意してほしいだなんて。
私は、胸の奥が締めつけられるのを感じた。
「……店主が体調を崩しておりまして」
エマが答えた。
「申し訳ありませんが、今日はお受けできません」
「そうですか」
兵士は、残念そうに息を吐いた。
「では、ほかを当たります」
足音が、遠ざかっていく。
エマが、扉を閉めた。
私は、ようやく息を吐いた。
「……ありがとう」
エマは、私の隣に戻ってきた。
「本当に、気をつけないといけないわね」
私は、うなずいた。
クロード様が、この町に来る。
少なくとも、兵士たちはそう考えている。
その事実が、少しずつ現実になっていった。
*
夕方。
町の広場では、帝国軍の兵士たちが警備に立っていた。
町の外れには、黒い天幕が並んでいる。
武器を積んだ荷馬車。
見張りの兵士。
町の人々は、落ち着かない様子で行き交っていた。
私は、店の二階の窓から、その光景を見つめていた。
昨日まで、広場では子どもたちが遊んでいた。
パン屋の前には行列ができ、花屋には常連客が訪れていた。
それが今は、軍旗と兵士の姿ばかりが目につく。
私は、窓枠に手を置いた。
「……逃げたほうが、いいのかしら」
今なら、まだ間に合うかもしれない。
夜のうちに荷物をまとめて、町を出る。
別の場所へ行って、また名前を変える。
そうすれば、きっと。
けれど。
私は、部屋の中を見回した。
小さな寝台。
自分で選んだカーテン。
窓辺の鉢植え。
棚に並んだ、花の育て方の本。
そして、階下には、私の店がある。
三年間かけて、ようやく手に入れた暮らし。
それを、また捨てるの?
私は、唇を噛んだ。
逃げることは、悪いことではない。
三年前、私は逃げたからこそ、生きられた。
けれど、今度は少し違う。
私は、この町が好きだった。
ここで出会った人たちが好きだった。
この店が、大切だった。
簡単には、手放したくなかった。
窓辺の薔薇の苗に、目を向ける。
まだ、小さな蕾がついているだけだ。
あと少しで、咲くかもしれない。
私は、その花が咲くところを見たかった。
*
夜になって、エマが夕食を持ってきてくれた。
温かいスープと、焼きたてのパン。
私は、礼を言って受け取った。
「……ねえ、エマ」
「なあに?」
「もし、私がこの町を出るって言ったら……」
エマは、私を見つめた。
「……また、助けてくれる?」
彼女は、少しも迷わなかった。
「もちろん」
私は、目を見開いた。
「……でも、私……」
「リリア」
エマは、私の手を握った。
「あなたがどこへ行っても、私はあなたの味方よ」
胸の奥が、熱くなった。
「……ありがとう」
エマは、優しく微笑んだ。
「でもね」
彼女は、少しだけ真剣な顔になった。
「あなたが本当はここにいたいなら、無理に逃げなくてもいいと思う」
私は、顔を上げた。
「……ここに、いたい」
声に出した瞬間、涙が滲んだ。
「私、この町が好きなの」
エマは、うなずいた。
「知ってる」
「花屋も、好き」
「うん」
「みんなと一緒に、ご飯を食べるのも……」
言葉が、詰まった。
エマは、そっと私を抱きしめた。
「……大丈夫」
私は、彼女の肩に顔を埋めた。
「……怖いの」
初めて、素直に言えた。
「また、全部なくなってしまいそうで……」
エマは、何も言わずに背中を撫でてくれた。
私は、しばらくその温かさに甘えていた。
*
その夜、私はなかなか眠れなかった。
窓の外では、兵士たちの足音が響いている。
遠くで、馬が鳴いた。
私は、寝台の上で膝を抱えた。
クロード様。
あなたは、どうしてここへ来るのですか。
私を探しているわけではない。
それは、わかっている。
けれど。
もし、偶然に出会ってしまったら。
あなたは、私に気づくのでしょうか。
三年前、私が何度も声をかけても、振り向いてくださらなかったあなたが。
今さら、私を見つけるのでしょうか。
私は、目を閉じた。
考えても、答えは出なかった。
ただ、胸の奥が苦しかった。
*
翌朝。
町の広場には、昨日よりも多くの兵士が集まっていた。
私は、窓の隙間から外を覗いた。
黒い軍旗が、風にはためいている。
その向こうに、一台の馬車が見えた。
黒塗りの車体。
銀色の装飾。
そして、ヴァレンティア大公家の紋章。
私は、息を呑んだ。
あの馬車。
三年前、何度も見送った馬車だった。
クロード様が、軍務へ向かうとき。
私は、いつも玄関で頭を下げていた。
『お気をつけて、行ってらっしゃいませ』
そう言っても、返事がないことがほとんどだった。
馬車の扉が、開いた。
私は、反射的にカーテンの陰へ身を隠した。
心臓が、激しく鳴っている。
見てはいけない。
そう思った。
けれど、どうしても気になってしまった。
私は、ほんの少しだけ、カーテンを開いた。
黒い外套。
長い脚。
軍靴。
そして、夜のような黒髪。
男が、馬車から降りた。
クロード・ヴァレンティア。
三年ぶりに見る、かつての夫。
私は、息を止めた。
遠くからでも、わかった。
あの方は、変わっていた。
顔立ちは、ほとんど同じ。
けれど、纏う空気が違う。
かつては冷たかっただけの男が、今は周囲の人々を震え上がらせるほどの威圧感を放っていた。
兵士たちは、一斉に頭を下げる。
町の役人たちも、顔を青ざめさせていた。
クロード様は、誰にも笑いかけなかった。
ただ、静かに周囲を見渡している。
私は、カーテンを握りしめた。
お願い。
こちらを見ないで。
私に、気づかないで。
私は、もうあなたの妻ではないのだから。
そのとき。
クロード様が、ふと顔を上げた。
紫色の瞳が、通りの向こうへ向けられる。
私は、反射的に身を引いた。
心臓が、痛いほど鳴っていた。
見られた?
いいえ。
そんなはずはない。
距離がある。
髪の色も違う。
それに、私は窓の陰にいた。
気づくはずがない。
私は、必死に自分へ言い聞かせた。
けれど。
その日、私は知らなかった。
帝国最強の男が、町の小さな花屋に目を留めたことを。




