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私が死んだ日、冷血大公の夫は国を焼き始めました――三年後、花屋になった私を見つけた暴君が絶対に離してくれません  作者: 茗子


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12話 帝国最強の男が世界を憎んだ日



 妻が死んで、三年が経った。


 帝国の貴族たちは、その三年間を『氷の粛清』と呼んでいる。


 民衆は、もっと簡単な名前をつけた。


 ――暴君の時代。


 そして、周辺諸国では、ある噂が囁かれていた。


 ヴァレンティア大公の前で、妻の話をしてはならない。


 白い花を踏んではならない。


 ましてや、彼の妻を侮辱するような言葉を口にしてはならない。


 なぜなら。


 その男は、たった一人の妻を失った悲しみで、国さえ焼きかねないからだ。


     *


 帝都の大公邸。


 かつて華やかな夜会が開かれていた大広間は、今や静まり返っていた。


 長い卓の両側には、帝国の高官たちが並んでいる。


 誰も、顔を上げようとしない。


 卓の最奥に座る男が、書類を一枚めくった。


 クロード・ヴァレンティア。


 黒髪。


 紫色の瞳。


 端正な顔立ちは、三年前とほとんど変わらない。


 ただ、その目だけが違っていた。


 かつては冷たいだけだった瞳に、今は底の見えない暗さが宿っている。


「……次」


 短い声が響いた。


 高官の一人が、慌てて立ち上がる。


「南部領の監査報告でございます」


「読め」


「は、はい。三年前、大公妃殿下が支援を希望された孤児院について、当時の地方官が予算を削減していた件ですが……」


 高官は、書類を握りしめた。


「調査の結果、予算削減は財政上の判断であり、私的な横領などは確認されませんでした」


 沈黙が落ちた。


 クロードは、ゆっくりと顔を上げた。


「……それで?」


「は?」


「子どもたちは、どうなった」


「……冬季の燃料が不足し、数名が病を患いましたが、幸い死者は出ておりません」


「幸い?」


 クロードが、その言葉を繰り返した。


 高官の顔色が変わった。


「い、いえ、その……」


「死ななければ、問題ないということか」


「決して、そのような意味では……」


 クロードは、書類を机に置いた。


「セリアは、予算の増額を求めていた」


「……はい」


「その願いを退けた理由は?」


「当時、ほかにも優先すべき公共事業があり……」


「優先すべき?」


 クロードの声が、低くなった。


「子どもたちの冬を越すための薪よりもか」


 高官は、答えられなかった。


 クロードは、静かに命じた。


「当時の責任者を拘束しろ」


「……閣下!」


 別の高官が、思わず立ち上がった。


「横領も不正も確認されておりません! 財政上の判断だけで処罰するのは、法に反します!」


 クロードは、その男を見た。


「……法?」


「はい。帝国法では、正当な行政判断に対して刑罰を科すことは……」


「では、法を改めろ」


 高官たちは、息を呑んだ。


「……閣下、それは……」


「私の妻が救おうとした者たちを、見捨てる判断が正当だというのなら」


 クロードは、ゆっくりと立ち上がった。


「その正当性を、私が否定する」


 窓硝子が、音もなく凍りついた。


 誰も、言葉を発しなかった。


 クロードには、法を一人で変える権限などない。


 それは、彼自身も知っている。


 けれど、彼の命令を拒める者が、今の帝国にどれほどいるだろう。


 高官たちは、ただ頭を垂れた。


     *


 最初の一年、クロードの粛清は称賛されていた。


 横領した役人。


 領民から不当に税を取り立てていた貴族。


 慈善院への寄付金を私物化していた者たち。


 彼らは次々に裁かれた。


 大公家の名を盾に好き勝手をしていた者も、例外ではなかった。


 民衆は喜んだ。


 帝国最強の大公が、腐敗した貴族たちを正してくれる。


 そう信じた。


 けれど、二年目。


 裁きの基準が変わり始めた。


 不正を働いたかどうかではない。


 セリアの願いを叶えたかどうか。


 それが、判断の中心になっていった。


 彼女が支援を求めた慈善院。


 彼女が訪問した孤児院。


 彼女が修繕を望んだ温室。


 そのすべてに、過剰な予算が投入された。


 反対した者は、職を失った。


 慎重な検討を求めた者も、処分された。


 やがて、役人たちは自分で判断することをやめた。


 何かを決めれば、大公の怒りを買うかもしれない。


 ならば、決めなければいい。


 責任を負わず、命令だけを待てばいい。


 そうして、帝国の行政は少しずつ滞り始めた。


 そして三年目。


 誰も、クロードに意見を言わなくなった。


 彼の命令に従うこと。


 それだけが、帝国で生き残るための方法になっていた。


     *


「……閣下」


 会議が終わったあと、老将軍がクロードの前に立った。


 かつて北方の戦場で、彼と肩を並べて戦った男だった。


「少し、お時間をいただけますかな」


「何だ」


 クロードは、書類から目を上げなかった。


 老将軍は、静かに言った。


「……もう、おやめください」


 クロードの手が止まった。


「何をだ」


「この粛清です」


 沈黙。


 老将軍は、続けた。


「最初は、正しい裁きでした。腐敗した貴族を罰し、苦しむ民を救った。それは、誰もが認めています」


 彼は、深く息を吸った。


「ですが、今は違います」


 クロードは、何も言わなかった。


「閣下の怒りを恐れ、役人たちは判断を避けるようになりました。必要な予算も決まらず、地方の行政は滞っています」


「……それで?」


「このままでは、救えるはずの民まで苦しみます」


 クロードは、ゆっくりと顔を上げた。


「……セリアが生きていれば、苦しまなかった」


 老将軍は、目を閉じた。


「……奥様のことは、私も心からお悔やみ申し上げます」


「ならば、黙っていろ」


「いいえ」


 老将軍は、首を振った。


「黙っていては、ならないのです」


 クロードの瞳が、細くなった。


「……何が言いたい」


「奥様は、本当にこのようなことを望まれたのでしょうか」


 その瞬間。


 部屋の空気が、凍りついた。


 老将軍の足元に、薄い霜が広がる。


 けれど、彼は逃げなかった。


「奥様は、孤児院の子どもたちを救おうとなさったのでしょう」


 静かな声だった。


「花を育て、使用人たちを気遣い、誰かの幸せを願う方だったと聞いております」


 クロードは、拳を握った。


「……黙れ」


「その奥様が、今の帝国をご覧になったら……」


「黙れ!」


 轟音が響いた。


 壁の燭台が砕け、窓硝子が一斉に割れた。


 紫色の魔力が、クロードの身体から噴き上がる。


 老将軍は、片膝をついた。


 それでも、顔を上げた。


「……閣下」


 クロードは、荒い息を吐いた。


「……出ていけ」


 低い声だった。


「二度と、私の前でセリアの名を口にするな」


 老将軍は、ゆっくりと立ち上がった。


 そして、深く頭を下げた。


「……承知いたしました」


 扉が閉まる。


 クロードは、しばらく動かなかった。


 砕けた硝子が、床に散らばっている。


 その中に、自分の姿が映っていた。


 黒髪。


 紫色の瞳。


 冷たい顔。


 ……化け物のようだ。


 ふと、そんな言葉が浮かんだ。


 クロードは、目を閉じた。


 老将軍の問いが、耳の奥に残っていた。


 セリアは、本当にこのようなことを望んだのか。


 答えは、わかっていた。


 わかっているからこそ、聞きたくなかった。


     *


 夜。


 彼は、いつものように私室へ戻った。


 そこには、氷晶石の棺が置かれている。


 銀髪の妻が、静かに眠っていた。


 三年間。


 彼女の姿は、何ひとつ変わっていない。


 頬の色も。


 閉じられた瞼も。


 細い指先も。


 まるで、時が止まったようだった。


 棺の封印は、三年前から一度も解かれていない。


 クロードは、棺のそばに腰を下ろした。


「……セリア」


 静かに呼びかける。


「今日も、少し騒がしくなった」


 返事はない。


「お前が支援していた孤児院のことで、役人たちが言い争っていた」


 彼は、かすかに笑った。


「……馬鹿な連中だ」


 沈黙。


「お前が望んだことを、叶えるだけでいいのに」


 クロードは、透明な蓋に手を置いた。


 冷たい感触が、掌に伝わる。


「……私は、間違っているのか」


 初めて、そんな問いが口をついた。


 けれど、答えはない。


「お前なら、どうした」


 沈黙。


「……何と言った」


 クロードは、目を閉じた。


 妻の声を、思い出そうとした。


 柔らかく、控えめな声。


 いつも、少し遠慮がちだった。


 けれど。


 どんな言葉を話していたのか、うまく思い出せなかった。


 三年間、ほとんど会話をしていなかったのだから。


 クロードは、額を押さえた。


「……すまない」


 その言葉だけが、何度も零れた。


 彼は、妻のためにすべてを正そうとしていた。


 彼女が受けた不当な扱いを。


 叶えられなかった願いを。


 奪われた時間を。


 けれど、何を正しても、セリアは目を覚まさない。


 誰を罰しても、彼女は笑わない。


 だから、また次の過ちを探す。


 そうしなければ、もう何もできなかった。


     *


 翌朝。


 帝国の国境付近で、小さな事件が起きた。


 隣国ベルフェルの商人が、帝国の検問所で拘束されたのだ。


 理由は、所持していた荷物の中に、ヴァレンティア大公家の紋章が入った古い銀食器があったためだった。


 商人は、古物商から正当に購入したものだと主張した。


 けれど、検問所の兵士たちは聞き入れなかった。


 大公家の品を不正に持ち出したのではないか。


 その疑いだけで、男は拘束された。


 報告を受けたクロードは、短く命じた。


「……調べろ」


 それだけだった。


 だが、その一言が、国境一帯を騒がせることになる。


 兵士たちは、大公の怒りを恐れ、周辺の商人たちまで取り調べ始めた。


 荷馬車が止められた。


 商品が押収された。


 通行許可証の確認が、何度も繰り返された。


 国境を越える商人たちは、次々に足止めされた。


 その中には、ベルフェル王国の正式な通行許可を持つ商隊もいた。


 王国側の国境警備隊が抗議したが、帝国の兵士たちは応じなかった。


 やがて、ベルフェル王国から正式な抗議が届いた。


 拘束した商人を解放すること。


 押収した商品を返還すること。


 そして、正当な理由のない検問を中止すること。


 クロードは、その書簡を一読した。


「……くだらん」


 彼は、机に放り投げた。


「大公家の品が不正に流出している可能性がある。調査を続けろ」


 側近が、恐る恐る尋ねた。


「……閣下。ベルフェル側が、交易路の封鎖を示唆しておりますが……」


「構わん」


「しかし、交易が止まれば、両国の民に影響が……」


 クロードは、顔を上げた。


「……何が言いたい」


 側近は、口を閉じた。


「私が命じたのは、調査だ」


 クロードは、静かに言った。


「それを妨げる者がいるなら、排除しろ」


 その言葉は、すぐに国境の軍司令部へ伝えられた。


 そして、命令は少しずつ意味を変えていった。


 調査を妨げる者を排除せよ。


 交易路を封鎖する者を排除せよ。


 帝国の権威に逆らう者を排除せよ。


 国境警備を任されていた大公家の兵士たちは、独断で警備区域を広げた。


 ベルフェル側も兵を増やした。


 両軍の間で小競り合いが起き、負傷者が出た。


 王国は、帝国軍による越境行為だとして再び抗議した。


 帝国側は、兵士への妨害行為だと反論した。


 互いに譲らぬまま、交易路は閉鎖された。


 やがて、国境には兵が集まり始めた。


     *


 数週間後。


 ベルフェル王国の国境沿いに、帝国軍の黒い軍旗が掲げられた。


 ヴァレンティア大公家の紋章。


 黒い布地に、銀色の剣。


 それは、帝国最強の軍勢が動き始めたことを意味していた。


 帝国の宮廷でも、この事態は問題になっていた。


 隣国との戦争は、皇帝の裁可なく始められるものではない。


 だが、国境で衝突が起きた以上、帝国側の兵を引き揚げるにも政治的な判断が必要だった。


 皇帝は、クロードに事態の収拾を命じた。


 大公家の軍を率いて現地へ赴き、国境の秩序を回復せよ。


 ただし、ベルフェル王国への侵攻は認めない。


 そう、明確に釘を刺した。


 クロードは、その勅命を受け取った。


 そして、短く答えた。


「……承知した」


 側近たちは、胸を撫で下ろした。


 大公が自ら赴けば、現地の兵士たちも勝手な行動を控えるだろう。


 そう考えたのだ。


 けれど、誰も気づかなかった。


 クロードが、勅命の最後の一文を読み返そうともしなかったことに。


     *


 出征前夜。


 クロードは、私室の棺の前に立っていた。


 白い花を一輪、棺のそばに置く。


「……セリア」


 静かな声だった。


「少し、出かけてくる」


 返事はない。


「国境で、面倒なことが起きている」


 彼は、棺の蓋に手を置いた。


「すぐに戻る」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。


 三年前。


 自分は、何度も同じことを言った。


 すぐに戻る。


 仕事が終わったら。


 落ち着いたら。


 そのうち。


 けれど、戻らなかった。


 妻が生きているうちには。


 クロードは、目を閉じた。


「……今度こそ、約束を守る」


 そして、静かに続けた。


「お前を、一人にはしない」


 彼は、棺から手を離した。


 黒い外套を羽織る。


 扉へ向かう。


 その背中を、誰も引き止めなかった。


 氷の棺の中で、妻は眠り続けている。


 クロードは、知らない。


 彼が向かおうとしている隣国で、その妻が生きていることを。


 銀色の髪を栗色に染め、リリア・ベルという名前で、小さな花屋を営んでいることを。


 そして。


 その町へ、帝国軍の黒い軍旗が近づこうとしていることを。


     *


 ベルフェル王国。


 国境に近い、小さな町。


 朝の光が、石畳を照らしていた。


 花屋『小さな花冠』の前で、栗色の髪の女性が看板を出している。


「……よし!」


 リリアは、満足そうに微笑んだ。


 今日も、いい天気だ。


 市場で仕入れた花は、新鮮だった。


 焼きたてのパンも買えた。


 午後には、常連客が花束を受け取りに来る予定だ。


 何でもない、穏やかな一日。


 リリアは、空を見上げた。


「……今日も、いい日になりそう」


 そのとき。


 遠くから、鐘の音が響いた。


 いつもの教会の鐘とは、少し違う。


 短く、何度も鳴り続けている。


 リリアは、首を傾げた。


「……何かしら?」


 通りの向こうから、男が走ってきた。


 顔を青ざめさせ、息を切らしている。


「……帝国軍だ!」


 男が、叫んだ。


「帝国軍が、国境を越えたぞ!」


 リリアの手から、小さな花束が落ちた。


 白い花弁が、石畳に散らばる。


 そして。


 町の外れ、遠くの丘の向こうに、黒い軍旗が見えた。


 銀色の剣を刻んだ、見覚えのある紋章。


 リリアは、息を呑んだ。


「……嘘……」


 三年間、忘れようとしてきた名前が、胸の奥で蘇る。


 クロード・ヴァレンティア。


 かつての夫。


 帝国最強の大公。


 そして今。


 狂鬼の暴君と呼ばれる男。


 その男が、彼女の暮らす町へ近づいていた。




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