11話 花屋のリリアは今日も幸せ
私が死んでから、三年が経った。
そして今日も、私は元気に寝坊している。
「……うそっ!」
窓から差し込む朝日を見て、飛び起きた。
時計の針は、七時を少し回っている。
まずい。
非常にまずい。
今日は市場に、新しい薔薇の苗が届く日なのだ。
私は寝台から転がり落ちるように立ち上がり、慌てて着替えた。
栗色の髪をひとつに結び、洗面台で顔を洗う。
鏡の中には、寝癖のついた二十七歳の女がいた。
頬には、枕の跡までついている。
「……ひどい顔」
思わず笑ってしまった。
三年前なら、こんな姿で人前に出ることなど考えられなかった。
侍女に髪を整えてもらい、ドレスを選んでもらい、朝食の席に着くまでに一時間はかかっていたのだから。
今は違う。
髪は自分で結ぶ。
服も自分で選ぶ。
朝食だって、好きなものを食べる。
そして、寝坊をすれば自分で困る。
……それは、あまり嬉しくないけれど。
「よし!」
私は、鏡に向かって気合いを入れた。
「今日も頑張りましょう、リリア!」
そう。
私の名前は、リリア・ベル。
ベルフェル王国の小さな町で花屋を営む、ごく普通の女主人だ。
少なくとも、今は。
*
店の名前は、『小さな花冠』。
町の広場から一本入った通りにある、こぢんまりとした花屋だ。
白い壁に、深緑色の扉。
窓辺には季節の花を飾り、入口には手書きの看板を立てている。
看板の文字は、少し曲がっている。
自分で書いたからだ。
最初は、もっと綺麗に書き直そうと思った。
けれど、近所の子どもたちが「かわいい」と言ってくれたので、そのままにしている。
私は、店の鍵を開けた。
「おはよう、みんな」
誰もいない店内に、声をかける。
もちろん、返事はない。
けれど、花たちは朝の光を浴びて、気持ちよさそうに咲いていた。
窓辺の白いマーガレット。
棚に並べた小さな鉢植え。
店の奥で育てている、薄紫色のラベンダー。
どれも、私が選び、育ててきた花だ。
私は、じょうろに水を汲んだ。
「昨日は暑かったものね。喉が渇いたでしょう?」
土の乾き具合を確かめながら、ひと鉢ずつ水をあげていく。
水をやりすぎれば根が傷む。
日差しが強すぎれば葉が焼ける。
花を育てるには、相手の様子をよく見ることが大切だ。
それは、母が教えてくれたことだった。
『花はね、セリア。綺麗に咲かせようと無理をさせるより、その花が好きな場所を見つけてあげるのが一番なのよ』
私は、白い花の鉢を見つめた。
「……お母様」
小さく呟く。
「私、ちゃんと育てられるようになりましたよ」
返事はない。
けれど、朝の風が花弁を揺らした。
私は、微笑んだ。
*
「リリアー!」
店の外から、元気な声が聞こえた。
振り返ると、エマが籠を抱えて立っていた。
「おはよう!」
「おはよう、エマ」
「また寝坊したでしょう?」
「……どうしてわかるの?」
「髪!」
エマが、私の頭を指さした。
私は、慌てて髪を押さえた。
「えっ、まだ跳ねてる?」
「うん。見事に」
エマは、声を上げて笑った。
私も、つられて笑ってしまった。
三年前、私を『小鳥の宿』へ迎え入れてくれた彼女は、今では大切な友人だ。
最初の一年、私は彼女の宿で働かせてもらった。
部屋の掃除。
食器洗い。
朝食の準備。
どれも、初めてのことばかりだった。
皿を割ったこともある。
洗濯物を雨に濡らしたこともある。
パンを焦がして、宿中を煙だらけにしたことだってある。
それでも、エマは一度も私を追い出さなかった。
『失敗したら、次に気をつければいいのよ』
そう言って、笑ってくれた。
その言葉に、何度救われただろう。
「はい、これ」
エマが、籠を差し出した。
中には、焼きたての丸パンが三つ入っていた。
「今朝の焼きたて。ひとつはおまけ」
「わあ……!」
私は、思わず目を輝かせた。
「ありがとう!」
「ちゃんと朝ご飯を食べるのよ。昨日も昼まで何も食べてなかったでしょう?」
「……見てたの?」
「見てなくてもわかるわよ」
エマは、呆れたように笑った。
「花の世話になると、すぐ自分のことを忘れるんだから」
私は、パンをひとつ取り出した。
まだ温かい。
指で割ると、白い湯気が立ち上った。
ふわりと、小麦の甘い香りが広がる。
「……おいしそう」
「おいしいわよ。うちの自慢のパンなんだから」
私は、ひと口かじった。
外側は、ほんの少し香ばしい。
中は、ふわふわで柔らかい。
噛むたびに、小麦の甘みが広がる。
「……幸せ」
思わず呟いた。
エマが、笑った。
「パンひとつで大げさねえ」
「大げさじゃないわ」
私は、もうひと口食べた。
「本当に、幸せなの」
エマは、少しだけ優しい顔になった。
「……そう」
それ以上、何も聞かなかった。
彼女は、私の過去を知っている。
それでも、私が話したくないことは尋ねない。
その距離感が、ありがたかった。
*
花屋を開いたのは、一年前の春だった。
宿で働きながら貯めたお金と、町の商人組合から借りた小さな開業資金。
それだけで始めた店だ。
最初は、花が売れなかった。
市場で仕入れた花を、何本も枯らしてしまった。
花束を作れば形が崩れ、鉢植えを並べれば棚が倒れた。
それでも、少しずつ覚えていった。
花の扱い方。
季節ごとの仕入れ。
お客様の好み。
そして、商売の難しさ。
今では、毎朝店を開けるのが楽しみだった。
「リリアさん!」
元気な声が聞こえた。
店の入口に、小さな女の子が立っていた。
赤い髪を三つ編みにした、近所のパン屋の娘、ルナだ。
「いらっしゃい、ルナちゃん」
「お母さんに、お花をあげたいの!」
「まあ。今日は何かのお祝い?」
「ううん!」
ルナは、胸を張った。
「いつも、おいしいパンを焼いてくれるから!」
私は、思わず笑った。
「それは素敵ね」
ルナは、小さな手を開いた。
掌には、銅貨が三枚。
「これで買える?」
私は、銅貨を見つめた。
立派な花束を作るには、少し足りない。
けれど。
「もちろんよ」
私は、棚から小さな花を選んだ。
黄色い花を二輪。
白い花を一輪。
それから、細い緑の葉を添える。
紙で包み、麻紐で結ぶ。
小さな、小さな花束。
「はい、どうぞ」
ルナの目が、輝いた。
「わあ!」
「お母さん、喜んでくれるといいわね」
「うん!」
ルナは、花束を大切そうに抱えた。
「ありがとう、リリアさん!」
そして、元気よく走っていった。
私は、その背中を見送った。
胸の奥が、温かかった。
花を贈る理由は、特別な日だけではない。
ありがとう。
おめでとう。
元気を出して。
そんな小さな気持ちを、花に託すことができる。
私は、その仕事が好きだった。
*
昼過ぎ、店が少し落ち着いた頃。
私は、奥の作業台で花束を作っていた。
明日、結婚式を挙げる若い夫婦からの注文だ。
白い花を中心に、淡い桃色の花を添える。
派手すぎず、優しい雰囲気にしたいという希望だった。
「……これくらいかしら」
私は、花束を持ち上げた。
白い花弁が、柔らかく重なっている。
綺麗だった。
そのとき、ふと。
三年前のことを思い出した。
私も、結婚式では白い花を持っていた。
大きな大聖堂。
豪華な衣装。
大勢の貴族たち。
そして、隣に立つ黒髪の男。
クロード・ヴァレンティア。
帝国最強の大公。
私の、かつての夫。
私は、花束を見つめた。
あの頃の私は、幸せになれると信じていた。
夫婦になれば、いつか心を通わせられる。
最初は冷たくても、少しずつ距離を縮められる。
そう思っていた。
けれど、三年間。
何も変わらなかった。
私は、静かに息を吐いた。
もう、恨んではいない。
少なくとも、毎日思い出すことはなくなった。
ただ、時々。
こうして、ふと記憶が蘇ることがある。
そのたびに、少しだけ胸が痛む。
でも。
それだけだ。
私は、もうあの屋敷にはいない。
今は、自分の好きな花に囲まれている。
明日、結婚する二人のために、花束を作っている。
それが、嬉しかった。
「……幸せになってね」
私は、花束に向かって小さく呟いた。
誰かの結婚を、心から祝える自分でいられることが、少し誇らしかった。
*
夕方になると、町の広場が賑やかになった。
仕事を終えた人々が、買い物をしている。
子どもたちが走り回り、店先では商人たちが声を張り上げていた。
私は、店の前に小さな椅子を出した。
今日の売上を帳簿につける。
花束が四つ。
鉢植えが二つ。
小さな花が、何本か。
大儲けではない。
けれど、家賃を払い、食費を賄い、次の仕入れをするには十分だった。
「……よし」
私は、帳簿を閉じた。
自分で働いて得たお金。
自分で選んだ仕事。
自分で決めた暮らし。
大公妃だった頃には、考えられなかったことだ。
あの頃、私は何不自由ない生活をしていると言われていた。
豪華な食事。
美しいドレス。
広い屋敷。
けれど、自由はなかった。
今は違う。
贅沢なものは、ほとんど持っていない。
けれど、私の人生は、私のものだ。
私は、夕暮れの空を見上げた。
赤い屋根の向こうに、柔らかな光が広がっている。
風が、栗色の髪を揺らした。
「……いい一日だったわ」
小さく呟いた。
*
店を閉めようとした頃、エマが再び顔を出した。
「リリア!」
「どうしたの?」
「今夜、宿でみんなと夕食を食べるんだけど、来ない?」
私は、少し考えた。
今日は、明日の花束を仕上げておきたい。
けれど。
「……行く!」
即答した。
エマが、笑った。
「よかった。今日は鶏肉の煮込みよ」
「本当?」
「ええ。あなたの好きな、じゃがいもをたっぷり入れたやつ」
私は、目を輝かせた。
「絶対に行くわ!」
「ふふ。じゃあ、待ってるわね」
エマが去っていく。
私は、店の扉に鍵をかけた。
そして、ふと立ち止まった。
好きなものを、好きだと言える。
行きたい場所へ、行きたいと言える。
誰かと食事をしたいと、遠慮せずに言える。
それが、こんなにも幸せなことだったなんて。
三年前の私は、知らなかった。
私は、胸に手を当てた。
心臓が、静かに動いている。
あの日、墓の中で目を覚ましたとき。
私は、ただ生き延びたいと思った。
けれど、今は違う。
私は、明日も生きたい。
明後日も。
来年も。
もっと、ずっと先まで。
花を育てて、笑って、時々失敗して。
そんな毎日を、続けていきたい。
*
夜。
私は、『小鳥の宿』で夕食を楽しんだ。
大きな鍋で煮込まれた鶏肉。
柔らかいじゃがいも。
香ばしいパン。
食卓には、エマと宿の常連客たちが集まっていた。
誰かが冗談を言い、誰かが笑う。
子どもがパンを落とし、大人たちが慌てて拾う。
そんな、何でもない光景。
私は、笑いながら食事をした。
ふと、エマが尋ねた。
「リリア、明日は何をするの?」
「朝は市場へ行くわ。それから、結婚式の花束を届けて……午後は新しい苗を植えようと思ってるの」
「忙しいわねえ」
「でも、楽しいの」
私は、笑った。
「毎日、やりたいことがあるって、幸せね」
エマは、優しく微笑んだ。
「……そうね」
私は、温かいスープをひと口飲んだ。
胸の奥まで、じんわりと温まる。
そのとき、宿の入口が開いた。
旅装の男が、入ってきた。
遠方から来た商人らしい。
男は、空いている席に腰を下ろすと、疲れたように息を吐いた。
「いやあ、帝国の方は大変なことになってるな」
私は、スプーンを止めた。
帝国。
その言葉を聞くのは、久しぶりだった。
エマが、何気ない調子で尋ねた。
「何かあったんですか?」
「何かどころじゃない。あのヴァレンティア大公が、また貴族を何人も処分したらしい」
私は、静かに目を伏せた。
クロード様。
久しぶりに、その名前が胸をよぎった。
商人は、声を潜めた。
「奥方を亡くしてから、すっかり人が変わったって話だ」
私は、息を呑んだ。
奥方。
それは、私のことだ。
「……そう、なんですか」
思わず、声が漏れた。
商人は、こちらを見た。
「ああ。昔は冷たいだけの男だったが、今じゃ誰も逆らえない暴君だってさ」
私は、何も言えなかった。
三年前。
私が死んだことにして逃げたとき。
クロード様は、きっと何も変わらず暮らしていくと思っていた。
私がいなくても、困らない。
そう信じていた。
けれど。
商人の話が本当なら、あの方は変わってしまったらしい。
私は、膝の上で手を握った。
どうして。
そんな疑問が、胸に浮かんだ。
けれど、答えは出なかった。
私は、もう大公妃ではない。
あの方の妻でもない。
今の私は、リリア・ベル。
ベルフェルの小さな花屋だ。
エマが、そっと私の手に触れた。
私は、顔を上げた。
彼女は、何も言わずに微笑んだ。
私は、小さくうなずいた。
「……大丈夫」
そして、もう一度スープを口に運んだ。
温かかった。
私は、ここにいる。
生きている。
それだけは、確かだった。
*
その夜、私は自分の部屋へ戻った。
窓を開けると、涼しい風が吹き込んできた。
遠くの空に、星が瞬いている。
私は、窓辺に置いた小さな鉢植えを見つめた。
白い花が、一輪咲いていた。
三年前。
私は、白い花を見ながら、この屋敷を出たいと願った。
そして今。
私は、白い花を育てながら、明日が来ることを楽しみにしている。
私は、そっと花弁に触れた。
「……おやすみ」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
けれど、胸の奥は静かだった。
遠い帝国で、何が起きているのか。
クロード様が、どんな日々を過ごしているのか。
私には、わからない。
ただ、ひとつだけ。
私は、もう戻らない。
あの屋敷へも。
あの孤独な日々へも。
私は、自分の人生を選んだのだから。
窓を閉める。
明日は、早起きしよう。
市場で、新しい花を買うのだ。
それから、結婚式の花束を届けて。
午後には、庭の苗を植え替えよう。
やりたいことが、たくさんある。
私は、寝台に潜り込んだ。
そして、微笑んだ。
「……明日も、きっといい日になるわ」
その夜。
遠い帝国では、一人の男が氷の棺に語りかけていた。
けれど、私は知らなかった。
私の知らないところで、あの男がどれほど壊れてしまったのか。
そして。
私の平穏な日々が、永遠には続かないことも。
私は、ただ幸せだった。
花の香りに包まれて。
誰にも命じられず。
誰の帰りも待たず。
自分で選んだ、小さな部屋で。
私は、穏やかな眠りについた。




